8:図書室の番人・後
学術書が並ぶ書架の前に到達して、私は安堵するように息を吐いた。視界の端にて私が本棚に戻した事典に親衛隊らしき集団が群がっているのを無視したまま、眉間に寄っていた皺を解していると、呼び出しの放送が掛かった。学年と組を聞き終わった時点で自分が呼ばれたのではないと理解したので、それから後は別に聞き取る必要はない。私はポケットの中のメモを取り出した。書いたものが殆ど絶版になっているマイナーな作家の本がある本棚の位置を再度確かめている最中、花言葉はパソコンやスマフォを使って検索サイトで調べれば良かったのではないかと今更気付いたが、正直それだけ興味が薄い事柄だったのだ。過ぎた事だし、気にしないで置こう。そう結論付けて、今度は西側の奥の奥にある書架を目指す。
不可解な変調のせいで若干不機嫌な表情になっている自覚があるまま歩いていたら、私の方に視線を向けた幾人かが身体を震えさせ、近くを通り過ぎた相手が恐怖と恍惚の混じった表情で背を向けた。――吸血鬼染みた、或いは吸血鬼のイメージそのものの『緋空樹』が気分を害した様子でいると、周囲はいつも以上に距離を空けて、目を背ける。幼い頃、父が怒っている姿を見た際に客観的な視点から実感したが、美形が怒ると非常に怖いのだ。つまり、今の私は怖がられている。まあ、怒っていなくても、子供や『黄木昴』みたいな人物には怖がられてしまったけれど。そんなに私は近寄りがたいのか。
息を吐いて、私は奥の本棚に辿り着いた。幾つも並ぶ書架に隠されたこの周辺は、テーブルと椅子が並び図書室の利用者の多くが居る閲覧スペースからは、様子を窺い知る事は難しい。確か、『ゲーム』の『イベント』では、図書室の奥のこの場所で『攻略対象』が『ヒロイン』に迫っていた。「声を潜めないと他の奴に聞こえるぞ」なんて意味合いの台詞を囁きながら『攻略対象』がする行為はセクハラとしか思えないものが多い、と言う『知識』を掘り起こして密かに呆れる。特に、図書委員の『攻略対象』に関するイベントの宝庫である図書室は、『ゲーム』内では本を読む場所と言うよりも逢引きスポットと化していたようだ。まあ、恋愛を楽しむ事が主題の『ゲーム』なのだから、学園のどの場所も逢引きの為の場所になっているのだが。私が好きなあの静かで美しい薔薇園も、『ゲーム』では『ヒロイン』と会う為の密会場所なのだ、以前蒼海が茶化した通り。同時に、夏に発生する『肝試しイベン』で訪れる心霊スポットでもある。
廃墟の教会はともかく、花々に囲まれた薔薇園が心霊スポット扱いされるのはいまだに不思議だ。そんな感想を抱きつつ、私は作品の殆どが絶版になっているマイナーな作家の小説を手に取った。――今年の春休みに里帰りした際、私の祖父がこの作家の作品を愛読していたらしいと父から聞いて、一度読んでみたいと思っていたのだ。祖父は、数十年前まではこの作家の全ての出版物の初版本を所有していたそうだが、当時の恩人である旧友にそれらを贈ってしまって以来、何故かこのマイナーな作家の本を手元に置く事も、探して読む事もせずにいると言う話だ。大昔に出版された末に絶版となったそれらは、今となっては入手するのが難しい。ネットオークションで探せばたまに見かける事もあるが、大抵他の人に競り落とされてしまって手に入れられていない。春頃には古本屋巡りもしていたが、見当たらなかった。学校の図書室や市の図書館で検索しても見付からなかった――先月までは。
今年度から学園に勤務するようになった司書教諭は古い本を好む人らしく、書庫で埃を被っていた様々な本の整理と補修、それらを貸し出し出来るように蔵書データベースに入力したりシールを貼ったりバーコードを付けたりする作業を積極的かつ尽力的に行い、自ら仕事量を増やしつつ図書室の本棚に並ぶ書物の数を増やしているようだった。先月、図書室に提示された推薦図書のコーナーに書庫にでもあったのだろう古びた本が多く並んでいるのを見て、ひょっとしたらと思い立ち蔵書検索用のパソコンにて作者名で検索してみたところ、たった一冊ではあったがヒットした。それ以前は、同じ文字を入力しても検索結果は0件だった記憶がある。毎日少しずつパソコンのホーム画面に表示される蔵書数の数が増加しているらしいとの話も耳にして、私は時々図書室を訪れてはマイナー作家の名前を入力して検索するようになった。
今日、新たに貸し出し可能になっていた文庫本を棚から取り出し、裏表紙に書かれたあらすじに目を通す。祖父がファンだった作家の作品は、古めかしく硬い文体で書かれていて読み辛い上に猟奇的・差別的な表現も多く、更に作品が書かれた当時流行っていた文化や風潮を知らないと話を理解するのも難しいが、内容はどれも面白い。祖父が初版本をプレゼントした相手も、きっと楽しんで読んでくれただろう。そう思いながらカウンターへ向かおうとして、私の後ろを誰かが通り過ぎた気配を感じて目を向けた。そこに居たのが女生徒だったので、私を観賞するべく近付いて来たのだろうかと思いかけたが、彼女は私に気付くどころか気付く素振りすら見せないまま、こちらから少し離れた本棚の前に立って、並ぶ本のタイトルを一つずつ確認していた。どうやら、何か探しているらしい。自意識過剰な勘違いをしかけた自分に呆れながら、私は何となくその少女の様子を見ていた。
――栗色の髪をショートにした黒目の彼女は、『ヒロイン』の『親友キャラ』兼『情報屋』である、2年C組の『栗平理央』だろう。先日、中庭で色李彩と一緒に居た彼女が、『ライバルキャラとの出会いイベント』に出くわす様子を見た覚えがある。利発そうな印象のある栗平は、平均よりも身長が高めだった気がするが、遺伝子の力なのか185cm近くある私から見れば、頭一つ分小さい女の子だ。そんな彼女が、小さく唸ったかと思えば本棚の上部に収められた本を目指して手を伸ばし、つま先立ちになったのを見掛け、「このシチュエーションは図書委員の『攻略対象』の『ゲームイベント』に酷似している」と言う『意識』の声を聞いた気がした。
図書委員に属する、読書嫌いな貸し出し当番の『攻略対象』と『ヒロイン』の『ゲーム』での出会いは、少女漫画の王道を思い出させるこの状況にそっくりなものなのだ。つまり、「女の子が本棚から本を取ろうとするものの、身長が足りず背伸びしても手が届かないのを、横から現われた男の子が替わりに取ってあげたり、持ち上げて手伝ってあげる」と言う状況。それだけ聞けば「それ以前に、届かないなら脚立でも持ってくればいいんじゃないか」と助言したくなるものだが、実際に女の子が爪先立ちで一生懸命頑張っているのを見てしまうと、手を貸してあげたくなってしまうようだ。
――これが男心か。周辺に自分達しかいない事を確かめつつ内心で呟いて、私は彼女が取ろうとしているらしい本に手を伸ばした。突如横から伸びて来た手に驚いたのか、息を飲むような声が彼女の方から聞こえた。そして、そのまま棚から取り出した本を、彼女へと差し出す。私の存在と私の正体に気付いたらしい栗平は、目を白黒させながらその本と私の顔を交互に見詰めて来た。
「――取ろうとしていたのは、これで合っているか」
「えっ、あっ、はい、……あ、うん、えっと。こ、これであってます、ありがとうございましたっ!」
その様子を見て、間違った本を差し出してしまったかもしれないと思い確認を取れば、栗平は僅かに頬を赤く染めながらも、驚きと緊張と警戒の方がずっと強い表情で頷いて本を受け取ると、他の誰かに聞かれないように小声で礼を言いながら頭を下げた。日本人らしいきっちりしたお辞儀を見て、日曜日にショッピングモールで顔を合わせた黄金メイのような礼儀正しさを感じた。頭を下げたまま、周りに誰かいないかと視線を向けているらしき彼女と親衛隊持ちの『攻略対象』である私がこれ以上一緒に居ると、彼女に迷惑を掛けてしまいそうだ。無言で距離を空け、何事もなかったかのような顔でカウンターへ向けて迂回しながら歩き出し、絶版の文庫本を借りるべく貸し出し当番の座っている方角へ足を向け、その道筋の途中で立ち止まって視界に入った橙色を凝視した。
――何故か、図書室に入った時に見掛けた黒髪の女生徒ではなく、『攻略対象』である『橙音清正』がカウンター席に突っ伏して居眠りしている。何故か。
本当に、何故だ。橙音が当番なのは木曜日で、今日は水曜日の筈だ。それに、図書室に来た時は、彼の姿はどこにもなかった。しかし、私の視野の中には、目にも鮮やかな橙色の髪を持つ男子生徒が居座っている。この学園で橙色の頭をしているのは、橙音清正以外にはいない。ならば、カウンターで眠り呆けているあの人物は、橙音なのだろう。――夕焼けをそのまま閉じ込めた宝石みたいに輝く彼の瞳は、今は見えない。何故ならば、彼は顔を伏せて寝ているからだ。貸し出し当番が仕事の為に座る筈の席で。
――そういえば、先程見た花言葉の本に、オレンジ色の薔薇の花言葉も載っていた気がする。一体、何だったかな。意味のない現実逃避に数秒の時間を奪われている間に、図書室の人口密度が高まって来ている気がした。抑えきれない騒々しさが生まれようとしている。私は、諦めて彼の眠るカウンターに近付く事にした。……居眠りしている『攻略対象』に堂々と話し掛けても批判されないのは、同じく『攻略対象』に分類される人間なのだろう。この場で言うならば、緋空樹だ。
「……本を借りたい」
文庫本で橙色のつむじを軽くはたき、声を掛けた。親衛隊持ちの二人が接触した事で、周囲からは図書室に居るとは思えない歓声が上げる。段々と大きくなっていく黄色い声のざわめきをシャットダウンし、私は手を伸ばして橙音の肩を揺さぶった。少し揺らしただけでは駄目だったので、続けて強めの力で揺さぶり、もう一度声を掛ける。
「……なに、うるさい……揺らすなよ……」
「それが嫌ならさっさと起きて、貸し出しの手続きをしてくれ」
「あー……はいはい……てか、だから代理、めんどくさいって言ったのに……明日やらなくていいっぽいけど……。……手続きやってあげるから、そっちの学年と組と名前、言って」
「――2年B組、緋空樹」
寝起きだからか掠れ気味の声を響かせて、橙音はのろのろと頭を上げた。『緋空樹』と同じくミステリアスキャラと言われているらしいこの『攻略対象』は、眠たそうに私を見上げた。顔に机の跡が付いているのも気付いていないらしい、長い睫毛に覆われた夕暮れ時の色は、不機嫌そうに瞬いている。無表情のままぶつぶつと何か言い続けている彼に、電算処理用のバーコードが貼られた面を上にして、本を差し出す。いつ見掛けてもローテンションな彼が、野良猫や『ヒロイン』と一緒になって裏庭近くの木の根元で寝ている姿を5月頃に見掛けたが、あの時以外に私が橙音の穏やかな表情を見た事はない。その時枕代わりにされていた色李彩に対してのみ、不機嫌そうに見える無表情がデフォルトの橙音も、安らかな顔が出来るようだ。『ゲームの橙音清正』は「祖母が死んで以来、不眠症気味になったせいで、常に睡眠不足」と言う設定を持つ『攻略対象』だったみたいだが、この世界の彼はどうなのだろうか。私が密かに抱く疑問を解消するのは、きっと色李彩だ。『攻略対象』それぞれが持つ悩みや不安や秘密は、いずれは『ヒロイン』と共に乗り越え、前へ進む為の道標へと変化する。……少なくとも、『ゲーム』ではそうだった。
「……」
「……」
「……」
「……どうかしたのか?」
感傷に浸っている合間に、図書館に集まった野次馬が更に増えていた。親衛隊が中心なのだろう生徒達の情報網は凄いな。楽器を持ったまま入室して来たのは、多分吹奏楽部の生徒だろう。観賞用の見世物にされた気分で橙音が手続きを終えるのを待っていたが、貸し出し業務と整理の簡易化の為に導入されたバーコードを機械に通してパソコンに何かを打ち込んだかと思えば、日焼けして色落ちしたその本をひっくり返し、口を噤んだままじろじろと観察していた。
――貸し出しに必要な処理は、もう終わっているだろうに。それとも、何か不都合でも生じたのか。もしたら、実は誰かが先に貸出予約していたとかで、その事実に途中で気付いたのかもしれない。蔵書検索用のパソコンでは、貸出可の状態だったが、データベースの更新が遅れていた可能性もある。もしそうならば、すぐに読めないのは勿体ないが、先客が返却したらすぐに借りられるように、私も予約手続きをしよう。
そんな風に予定を立てていると、橙音が目を細めてこちらを見詰めている事に気付いた。全体的に線の細い中性的な美形である彼の切れ長の目付きは、一見すると鋭利な刃物を思わせる凄みを感じる冷たいものだが、女子達にとっては涼やかで格好良いらしい。この前の木曜日、クラスメイトが騒いでいた。
「――これ、あんた、読むのか」
「……そのつもりだが」
「データ見たら、この作家の本……いくつか借りてる」
「だろうな」
「……読んでて、面白い?」
表情の欠けた顔のままの橙音の問いに答えれば、私の貸し出し履歴を見たらしい発言をされた。図書委員ならば、普通にその事を知っているだろう。橙音が当番の曜日は避けていたので、彼は私がこの作家の出版物をよく借りている事を知らなかったようだが。ひとまず、橙音の質問に頷いて、私はいまだ彼の手の中にある本を受け取るべく手を出した。――しかし、私の手は空っぽのままだ。
「……確か、おばあちゃん、この作家のファン……でも、僕には難しくて読めなかったっけ……」
どう反応すべきか迷っていると、俯いた橙音が小声で何かしらぼそぼそと呟き、立ち上がったかと思えばカウンター付近の壁に貼られていたカレンダーの端っこを破いた。『攻略対象』による突然の奇行に驚愕しつつ内心ドン引きしていると、橙音は破いたカレンダーの切れ端の裏側にポールペンで何かしら書き殴り、私が借りる予定の本の中にそれを挟んで差し出して来た。ミステリアスキャラを通り越して不思議キャラのイメージを橙音に対し抱いていれば、文庫本を受け取った私へと瑞々しい橙色の視線が注がれる。首を傾げたい気持ちを留めて見詰め返せば、その鮮烈な太陽の色に浮かぶ灰汁の強さがわずかに緩んだ気がした。
「……僕のメールアドレス、そこに書いたから。だから、感想……今までのもぜんぶ書いて、僕に送って。その作家の、ぜんぶ」
表情のなさに似合わない、どこかしら楽しそうな声で告げられた言葉を聞いて、渡された本のページをパラパラと捲る。真ん中辺のページに、先程橙音が差し込んだカレンダーの切れ端が挟まっていた。その裏側の白い部分には、見知らぬメールアドレスが書かれていた。
「僕、待ってるから。……よろしくね」
「……分かった」
『知識』のせいで、橙音清正の両親が所謂『ヤクザ』だとか言われている類の人で、しかも百合森学園の建つこの周辺一帯を裏から支配している大きな組織の幹部であると言う情報を得てしまっている私には、橙音のお願いを断れそうになかった。『吸血鬼』でも、ヤクザは怖い。私が仕方なく了承すれば、橙音は私から興味を失ったように顔を背け、大きな欠伸をした。そして、彼は再びカウンターに突っ伏し、寝息を立て始めてしまった。……まだ寝るつもりなのか。これでは、当番の意味がない。やっぱり、色んな意味で橙音が当番の日は、図書室に来たくないものだ。私は溜息を吐いて、下校する事にした。