7:図書室の番人・前
授業中、ふと窓から空を見上げれば、そこには灰色の雲が広がっていた。湿気を帯びた空気は、雨が降る前兆だろうか。何となく懐かしい気持ちになる匂いが鼻先を掠める。――昨日の夕方に見たローカルの天気予報番組で、雨の降り始めや降った後に感じる独特のにおいの原因は『ペトリコール』や『ジオスミン』と言う名前の物質なのだとお天気キャスターが解説していた。だが私としては、古代の哲学者がその匂いを『虹の匂い』と評した、と言う補足の話の方が興味深く感じられた。雨、つまり水には匂いがないからあの匂いは虹からしているのだ、と考えられていたらしい。七つの色を束ねた虹に匂いがあると考えるなんて、昔の人は大層なロマンチストだと思う。科学が発達した今となっては、その説はあっさりと否定されてしまうだろう。しかし、詩的な響きを持つその考え方は、嫌いではない。あの匂い自体どちらかと言えば好きな方なので、私は昨日知ったばかりの雑学を気に入っていた。
「――緋空。俺の授業中に余所見とは、いい度胸だな」
「……すみません」
「ったく、……お前と言い、うちのクラスの色李と言い、どいつもこいつもボーっとし過ぎだろ。せめて数学以外の授業でボケッとしとけ、そんでもって適度に灸を据えられやがれ」
いつの間にか私の席の直ぐ傍まで来ていた『攻略対象』の教師――翠乃先生に声を掛けられ、今は数学の授業中であった事を思い出す。新緑を思わせる双眸に雨よりも冷たく見下ろされ、頭を少し下げて謝ると、先生は呆れたように溜息を吐き出して呟いた。その呟きに知っている名前が含まれていた事に驚きつつ、授業を再開させた先生の説明に耳を傾ける。夜の歓楽街が似合いそうな教師っぽくない外見に反して、翠乃先生はとても真摯に授業に取り組む良い先生だ。
翠乃先生の声が教室に響く中、黒板に書かれた公式をノートに書き写していく。前の方の席に座っていたクラスメイトが、先生に当てられて黒板の前に立った。彼が問題を解くべくチョークで黒板を引っ掻く音と、皆がそれぞれバラバラに教科書やノートを捲ったりノートに書き込んだりしている音と、黒板の上にある時計の針が動く規則正しい音。そして、雨が窓にぶつかっている小さな音が鼓膜を揺らした。『虹の匂い』が強まって来たなと私が思っていると、少しだけ開いていた窓を翠乃先生が静かに閉めた。締め切られた教室には、夏服を着たクラスメイト達がぎっしりと詰まっている。百合森学園のある地域一帯が梅雨入りしてから、今日で五日が経過していた。じめじめとした空気は冷たいが、初夏の気配を色濃く帯びている。――満開の薔薇達が、雨の恵みを花弁や葉で受け止める光景は美しいけれど、屋根のある部分や温室のスペースが少ない裏庭の薔薇園は、雨の日を過ごすのには不向きだった。梅雨の間は、去年と同じく、薔薇園ではなく図書室で過ごす日が多くなりそうだ。精気を得る時以外に、私が雨の日の庭園を訪れる事はないだろう。
放課後のチャイムが鳴り響く頃には雨足が随分と強まり、遠くで雷が鳴っていた。切れ間なく雨雲が広がり暗くなった空を見ていると、もう夜になったと錯覚してしまいそうだ。濃い灰色の空からは、尽きる事なく雨が降り注いでいる。今頃、薔薇園と廃教会は絶好の心霊スポットと化しているだろう。こんな日に足を向ければ、人気のない場所は全て薄気味悪い心霊スポットに見えてしまいそうだ。肌寒さを感じながら廊下を歩く。体育館の使用権争いに敗れたらしい幾つかの運動部が、校舎の中で筋肉トレーニングに励んでいる姿が見えた。どことなく、普段よりも陰気な雰囲気が放課後の校舎を包み込んでいる。廊下に広がりながら傘がどうこうと話している上級生のグループを無言で見詰めて道を開けてもらい、私は図書館へと足を伸ばしていた。
今日は一週間の真ん中、水曜日だ。明日は『攻略対象』が貸し出し当番の日なので、今日は明日読む分の本も借りてしまおう。そう考えながら、特別教室棟の最上階にある図書室の扉を開け、中に入った。カウンターに目をやれば、『攻略対象』ではなく、大人しそうな黒髪の女生徒が座っていた。司書教諭は恐らく、カウンターの奥の図書準備室か書庫にでも篭って仕事をしているのだろう。頑張って欲しい。雨が降っているからか人口密度が高い気がする室内を、足音を立てないように進んで行く。鼻腔に残ったままの雨の匂いを、乾いた紙と埃の匂いが上書きしていった。
――立ち並ぶ書架に収蔵された書物の比較的新しい紙の匂いと、年月を重ねた古書の匂い。そして、外の雨音と空調設備の動く音の陰で目立たぬようにと息を潜めている人間の呼吸音が交わって、他の場所とは異なる空気が流れる、学校の中でも独特な空間。それこそが、図書室だ。完璧な静寂ではなく、ここを利用する者が出来る限り大きな音を出さないようにと気を付けて声を潜め、或いは口を閉ざして動作に気を払った結果出来上がる人工的で不完全な静寂は、薄い緊張感と奇妙な連帯感を孕んでいる。時折大きめの声を上げた生徒達には、私を含めた他の生徒からの咎める視線が向けられて、直ぐに彼らの気配が萎んでいく。図書室の利用者の多くは、本が好きと言う共通点があるからか、一種の仲間意識のようなものがある気がする。……橙色の髪を持つ美形の同級生が姿を現す木曜日は、抑え切れない騒々しさが図書室に満ちてしまうけど。
過去に何度か体験した光景を思い浮かべ、私は吐き出しそうになった溜息を飲み干した。それから、まずは蔵書検索用のパソコンがある一角へと、停まっていた歩みを再開させる。途中、近くを通った生徒に二度見や三度見をされたりしたが、スルーだ。まずはとあるマイナーな作家の名前を入れて検索し、検索結果に内心歓喜しながら読みたい本の貸し出し状況を確認してからその本が収められた本棚の場所を、パソコンの傍に置いてある自由に使用可能なメモ帳から一枚拝借してメモする。それから、思い出したように、検索欄に「花言葉」と打ち込んでエンターキーを押した。ずらずらと並ぶ検索結果を一瞥し、それらの書名を幾つかクリックしてどこにあるのかを確認し終えたら画面をホームに戻し、立ち上がる。私がパソコンから離れるのを見計らったようにして、数人の生徒が私の使っていたパソコンの前へと集まって行ったのを尻目に、ひとまず南の窓側の傍にある本棚を目指す。背中に視線が刺さっている気配を感じながら、私は本棚の前に立った。そして、視線を這わせて目的の本を探し、手を伸ばす。
『――それじゃあ、青い薔薇の花言葉は何か、君は知ってる?』
『確か、とても良い意味があった気がするよ。――よかったら、調べてごらん』
――脳裏に浮かび上がったのは、5月に薔薇園で出会った蒼海千歳が別れ際に告げた言葉。初対面だったと言うのに馴れ馴れしい態度の生徒会長の、笑顔の中で浮いていた一対の青。その青色の色素を持つ薔薇の花言葉を、私は知らない。そもそも私は花言葉自体、詳しくないのだ。母の日の贈り物の定番であるカーネーションの花言葉も、憩いの場としてよく過ごしている薔薇園の薔薇の花言葉も、分からない。男子高校生なんてそんなものだ。寧ろ、青薔薇の花言葉を知っているらしき蒼海の方が、ちょっと変わっているのだと思う。……いや、花言葉を好みそうなロマンチストな乙女がターゲットの『乙女ゲーム』の『攻略対象』としては、彼の方が正しいのかもしれない。流石は学園の王子様だ。女の子の憧れる異性と言うのは、そういった知識も抜かりなく蓄えて、贈る花束の花言葉にも気を使っていそうだ。細かいところまで気を抜かず、気障な事もスマートに行えそうだからこそ、彼は『王子様』と呼ばれる人気があるのだろうな。個人的には、苦手意識を抱き始めている人ではあるが。
想像上の生徒会長に感心しながら、花言葉について書かれた手元の本を捲る。――少しは気になっていたものの、気が向いた時に調べれば良いだろうと考えている間に、蒼海と会ってから一ヶ月近くの時間が経過してしまっていた。今月の初めに一度、図書室を訪れて調べようとしていたが、敵意を露に絡んで来た桃辺悠樹とのやり取りで調べる気を削がれ、結局今日まで花言葉の話なんてすっかり忘れてしまっていた。「思い付いた時にでも調べよう」程度の気持ちでいたのもあって、あの時の青薔薇が枯れて茶色くなった今頃になって私は薔薇の花言葉を調べている。巻末の索引でハ行を探し、薔薇の項目が載っているページを確認する。そうして、あっさりと目的のページは見付かった。
「元々は『不可能』、『有り得ない』で、今は『奇跡』、『夢叶う』に、……『神の祝福』か」
薔薇に関する様々な花言葉が解説付きで並んでいるそのページから、青薔薇に関する記述に目を走らせ、口内で呟いた。――花の色だけではなく、棘や葉などの部位、本数や色数の組み合わせ、更には枯れているかどうかや花の開き具合で異なる花言葉を持つ薔薇の項目は、他の花と比べて大きく取り扱われていた。その中に埋もれるようにして書かれている青薔薇の花言葉を指先でなぞり、私は不可解な不快感を舌の上で持て余す。
――解説によれば、元々の花言葉通り『不可能』とされていた青薔薇の品種改良に成功して不可能を可能にした事で、青薔薇には『奇跡』をはじめとする良い意味の花言葉が宛がわれたそうだ。「とても良い意味があった」と口にしていた蒼海は、後者に当て嵌まる花言葉を思い浮かべていたのだろう。実際、『奇跡』や『夢叶う』と言う花言葉は、普通に良い意味だ。それに、『神の祝福』も。
しかし、それらの文字列を見た途端、奇妙な不快感が湧き上がっていた。『私』が、――『前世の私』を内層した私が、青薔薇に関するどれかの言葉を嫌がっているような気がしたのだ。恐らくは女であった事と、『ゲーム』のプレイヤーであっただろう事以外は分からない『前世の意識』に引き摺られて、私は嫌悪と共に本を閉じた。花言葉の本を元の位置に戻し、早足で移動する。
――そうしなければ、何かに足止めされそうな気がした。