6:休日ショッピング
6月を迎えてから一週間以上経過した今日、テレビの天気予報のコーナーでは、九州や四国が梅雨入りしたと傘を持った女性がにこやかに告げていた。市内の降水確率は午前午後共に30パーセント。百合森学園があるこの周辺の地域が梅雨入りしたと発表される日も近いだろう。春うららかな日和の頃とは異なる曇りの日が増えて来て、徒歩で登下校している生徒達は折り畳み傘を鞄の中に用意し始めるかもしれない。丁度入梅の時期に衣替えの移行期間が終わり、雨に降られて肌寒さを感じる頃に完全に夏服に移行してしまうのは、少しタイミングが悪いのではないかと昨年から密かに思っていた。生徒会が今年度から設置したと言う職員室前の目安箱に、移行期間をもう少し延ばして欲しいと言う意見を投書してしまうかとも思ったが、『攻略対象』が目安箱を利用しているところを見られたら、親衛隊や新聞部辺りに何を書いたのか詮索されてしまう気がしたので止めた。自意識過剰だとは思うが、私のような『攻略対象』にとっては有り得てしまう話なのだ。学園内限定の芸能人のような周囲からの扱いは、今更どうにもなりそうにない。
それは恐らく、私以外の『攻略対象』にとっても同じ事だろう。だからこそ、『ゲームの攻略対象』達は、己を対等の相手として見てくれる『ヒロイン』に心惹かれるのかもしれない。そして彼女への好意や関心は、異性同士と言う関係によって容易に恋愛感情へと変貌する。それが『乙女ゲーム』らしさなのか、或いは恋愛らしさなのか、誰かに恋情を抱いた事のない私には判別が付かない。
漫然と他愛もない思考に耽りながら、私は人ごみでごった返す横断歩道を渡った。すれ違った女性達が振り返り、熱視線を向けて来る気配がする。こちらに注目している人々の中には男性も少なくない割合で居たが、彼らの視線には嫉妬や羨望の感情が込められている気がした。所謂逆ナンとやらをして来た三人組の女性達をあしらい、私に声を掛けようとしているらしい集団から早足で距離を取って逃亡する。私服で歩いていると実年齢よりも上に見られるからか、社会人らしき年上の女性から声を掛けられる事が多いのだ。学園の女生徒達と比べて、親衛隊などのしがらみがない上に社会に出て自分に自信のある生き方をしている彼女達は行動力と度胸があるみたいで、実際に声を掛けて来る。過去に一度、逆援助交際に巻き込まれ掛けた事すらあった。あの時ばかりは、流石に女性が恐ろしく思えたものだ。余り思い出したくない過去を振り切って、私は目の前の建物を見上げる。
――休日の今日、私は市内のショッピングモールを訪れていた。一人で。
日曜の大型ショッピングモールは、多くの客で賑わっていた。ドーム型のモールの中央フロア、吹き抜けになっている空間には、空中散歩気分を味わえる1階から5階まで直通の長いエスカレーターを囲むようにして、エスカレーターとエレベーターが立体的に配置されている。有名な建築デザイナーがデザインした事が売りであるこの商業複合施設は、開放感溢れる機能美とメッセージ性の高い芸術性が融合した一つのモダンアート作品と言っても過言ではない、などと言う評価を受けているそうだが、利用客の一人としては迷いやすい構造を改善して欲しいところだ。海外の世界遺産をモデルにしたとも言われているそうだが、こうして見上げてみても私には何を元にしたのか全く分からない。現代アートは、抽象的で難しい。
ひとまず、最初の目的地である、好きなブランドショップの店舗へと足を運んだ。丁度、春夏物の一部15パーセントオフのセールをしているそうなので、夏物の新作を見るついでに良さそうな品があれば買うつもりだった。商品を見ていたら頬を染めた女性店員から執拗に試着を勧められたが、よくある事だ。熱心に仕事をしているのだと思えばそれ程気にならない。男性店員が接客をしている時の方が比較的ゆっくり買い物出来るが、流石に店員のシフトまで把握は出来ないから男性店員が居る時を狙って来店する事は不可能だろう。男性狙いで来店、と言う脳に浮かんだ文字列の微妙さに精神的なダメージを喰らいながら、次はモールの3階にある書店へと足を向ける。CDやDVD・BDなどの販売とレンタルに加え、ゲームソフトやカードゲーム、ホビーの売買もしている複合書店は、老若男女の客が訪れる場所だ。見たかった映画のレンタルが開始されたので、それが目当てだったりする。ついでに、雑誌でも立ち読みしていこう。お気に入りの作家の新刊の発売日は明日だが、もしかすると既に店頭に置いてあるかもしれない。
機嫌よく予定を組み立てながら、私は吹き抜けをエスカレーターで移動した。視覚的な面から開放感の演出を狙ったエスカレーターは側面などが透明で、内部の骨組みが分かる涼しげなものになっている。高所恐怖症の人にとっては、乗っていて頼りなく見えてしまいそうだが、私は機械的でクールな印象が強いこのエスカレーターが結構好きだ。機械の中身を見る事が出来ると言うのは、少年心のようなものをくすぐる。或いは、車や特撮ロボットに惹かれる男心を揺さぶられるのだろうか。考えている間に3階に到達し、私は書店に向かって人ごみの中を歩き出した。家族連れや老夫婦や若いカップル、中高生らしきグループと言った様々な年代の人々が、色とりどりの服に身を包んで闊歩する光景は、同年代の人間が同じ服装で存在する学校よりも遥かに開放的ではあるけれども、目に入る色が豊富過ぎて少し眩暈がしそうだ。慣れた色彩と異なる学園の外の風景は、寮で暮らす私には刺激が多いのかも知れない。自然な色合いの花々が咲き乱れる庭園よりも激しい色の本流は、見ていて面白くはあるのだが。
「――あら、あの子達、すっごく可愛いわね」
「兄弟かな? でも、髪の色がバラバラだよね」
もう直ぐ書店へ到達しそうな時に聞こえて来た会話に何となく興味を引かれて、私はその会話の主であろう妙齢の女性二人に意識を向けた。親子のようにも見えるその二人組の他にも、似たような内容の声が幾つか自身の周辺から聞こえて来て、余計に興味が湧く。そして、こちらに背を向けている彼女達の視線の先を追った。
「――えっとね、あのね、ママとは、まほーしょうじょのみんながでてくるショーをみにきたんだよ! きょうのあさも、みんながわるいかいぶつたおしてるの、おうちのテレビでみた! それでね、そのまえに、おいしいものたべようって、アイスたべるはずだったの。でもママがまいごになっちゃって、あたし、さがしてあげないといけないから、とってもたいへんなの!」
「そっか、それじゃあそのアイス屋さんの周りでお母さんを捜してみようか。多分、フードコートのお店だよね! ……えーっと、それでいいですよね、彩先輩?」
――そこに居たのは、自分達が注目を浴びている事に気付いていない様子の、三つの小柄な人影だった。
一人は小学校低学年くらいの黒髪の幼い女の子で、ライムグリーンのワンピースを着ている。その女の子の右手を握って話し掛けているのは、大きな琥珀色の目を細めて人懐っこく笑っている、男にしては可愛らしい容姿をした淡い金髪の少年――どこからどう見ても、1年E組所属の『攻略対象』である『黄木昴』だった。そして、女の子の左側で母親の如き優しい笑みを浮かべているガーリーな服装の茶髪の少女は、紛れもなく『ヒロイン』の色李彩だ。
幼さの残る美少年と美少女と可愛い女の子の組み合わせは、傍から見ていると仲の良い兄弟のようで、とても微笑ましい。閉鎖的な学園内とは違って、嫉妬よりも好意の含まれた視線が数多く彼女達へと向けられているのは、学外の人達からは彼らの関係性がどのようなものか分からないからだろうか。そんな事を思いながら、『ゲームをプレイした私の意識』が浮上して、「これはデート中にランダムで発生する『迷子イベント』かな」と呟いた。それに刺激されるようにして、『ゲームの知識』と彼らの様子を比べ、この状況に当て嵌まる『知識』を掘り当てる。
――これは、『ゲーム』にて人の多い施設でのデートイベント中にランダムで発生する事のある、『迷子イベント』だろうか。内容としては、『攻略対象』との休日デート中に出会った迷子の女の子を、お母さんと再会させてあげると言う微笑ましいイベントだ。『攻略対象』によって女の子への対応が異なったりするので見比べるのが面白い、らしい。
別に『ゲーム』や『イベント』でなくても、現実で迷子の世話をする事は有り得ると思うけれども、――聞こえて来た会話の内容が、『知識』の中にある『迷子イベント』のものと一字一句違わず全く同じだった事実に、少し鳥肌が立った。言葉も、喋り方も、全てが余りにも『そのまま』過ぎた。今までは遠目で見掛けたりする程度だったから、色李彩と『攻略対象』の会話を実際に間近でちゃんと聞いたのは、今回が初めてだ。だから、『知識』そのままの会話が繰り広げられている事を今知った。まるでこの世界が『ゲーム』そのものであると錯覚しそうな感覚は、目的地へ向かうべく勢いよく踏み出した黄木がたたらを踏んで転び掛け、咄嗟に女の子と繋いでいた手を離して一人で転んでしまうと言う、『ゲーム』での展開とは異なる目の前の現実を目撃した事であっさりと霧散した。……そもそも、現実が『ゲーム』とそっくりな事に恐怖を感じるのは、今更過ぎる。『知識』がある為に『ゲームの世界』と現実を混合しそうになったりもするが、『知識の中の緋空樹』と私自身の違いを充分把握している時点で、私には『この世界』が『ゲーム』でないと結論づけられるじゃないか。
やっぱり、『ゲーム』とこの世界は違うのだ。過去の時点で出した事のある結論に安堵しながら、私は複合書店のレンタルコーナーへ行く為に踵を返した。――そうしようとした瞬間、ほんの一瞬だけ、起き上がって苦笑していた黄木と目が合った。琥珀色の彼の瞳は、私の存在を認めた途端にカッと見開かれたかと思えば、怯えるように空中で目線を彷徨わせて、それまで色李彩と迷子の女の子へ向けていた照れの混じった笑顔を引き攣らせた。そんな黄木の様子を疑問に思いつつ、取り繕うように明るい表情で連れの二人に話し掛けて歩き出した彼の背中を見送ってから、足を動かす。
……そういえば、昔、彼らと同じように迷子の子供に声を掛けようとしたら、怯えられて逃げられた事があったな。凄みのある美貌、と言えば格好良く聞こえるかもしれないが、要するに子供に怖がられるような顔なのだろう、私は。人見知りしない設定だった気がするものの子供っぽい性格の黄木にも、この容姿のせいで怯えられてしまったのだろう。子供や子供っぽい相手にそんな態度を取られるのは、かなり傷付く。美形って、案外損なのかも知れない。私でこうなら、祖父や父はもっと大変だっただろうに。内心で落ち込みながらも、私はレンタルコーナーに到着した。
レンタルショップに並ぶ新作のシールが貼られた作品は、旧作と比べて借りられる期間が短い上に値段が高い。それでも新作を借りたがる人は多いだろう。かく言う私もその中の一人だった。
映画が公開された時期が丁度試験と重なった上に、女生徒からのストーキング被害への対処で映画館へ行く事が出来ずに見逃してしまったが、映画自体の評判が微妙だったのでDVDやBRを購入する程ではなく、それでもどんなものかは気になっていたのでレンタルが始まる日を待っていたのだ。早速カウンター付近の新作が並ぶ一角へ足を向け、目当ての作品に右手を伸ばす。伸ばした手が生温かいものに触れ、咄嗟に引っ込めると、横から鈴の鳴るような声で「ごめんなさい」と謝られた。――同じ商品に手を伸ばし、その手が重なると言う昔の少女漫画みたいな展開が起こってしまったらしい。女性らしき手と声の持ち主へ「すみません」と声を掛けながら顔を横へ向ければ、そこに見えたのは鮮やかな金色とつむじだった。
「――ひ、緋空様!? まあ、そんな、わたくしときたら緋空様になんて無礼な事を! 大変失礼致しました!」
「……そこまで謝らなくてもいい、変な目で見られる」
明るい金髪をツインテールにした、私服の美少女――『ライバルキャラ』の『黄金メイ』が、こちらを見上げて私の名を叫んだかと思えば、彼女は慌てて頭を下げた。たかが手が重なってしまった程度でそこまでされると、困ってしまう。周囲の目が心なしか痛い。
親衛隊の隊長として君臨し、『百合森学園の女王』と言う二つ名を持つ黄金メイは、金髪碧眼、フランス人形のような美しい容姿の美少女だ。自信に溢れた態度と鋭い吊り目は、その外見を壊す事なく上流階級の淑女めいた雰囲気を引き立てている。お嬢様みたいな喋り方と仕草が特徴の彼女は、彼女が崇拝する『攻略対象』以外の人間――特に女生徒に対しては女王の如き態度を取る事が多いが、根が真面目なのか認めた人間に対しては一定の敬意を示した対応の仕方をする女の子だ。それが理由かどうかしらないが、彼女との『友情エンド』は別名『ツンデレエンド』と呼ばれており、意外と人気が高かった気がする。そのエンドでは、努力家で天然な面も強調され、まるで男性向け恋愛ゲームのヒロインのような彼女の姿を見る事が出来るそうだ。
そして、『ヒロイン』の『ライバルキャラ』である黄金メイは、攻略の邪魔をするだけではなく、各『攻略対象』のフラれる系バッドエンドに出て来て、攻略対象を掻っ攫う役目も担っている。好感度が足りないまま『攻略対象』に告白すると、自動的にこのエンドへ行ってしまうのだ。ただし、『隠しキャラ』だけは例外である。逆に、好感度は足りているものの選択肢やフラグ管理を間違えると、『攻略対象』が暴走してヒロインを監禁したり、暴力をふるったり、薬漬けにしたりするバッドエンドへ到達してしまう。脳内の『乙女ゲーム』で起こりえる恐ろしい展開に戦慄しつつ、私は慌てる黄金メイを宥めた。
「ああ、重ね重ね申し訳ありません、緋空様。――ええと、緋空様もその作品をお借りになられるおつもりでしたの?」
「……まだ中身の残っているものが幾つかあるから、借りたい作品が被っていても平気だ。心配いらない」
10つ以上並んでいる同じ作品のパッケージの中身は、六つが空で、四つはまだ中身があって借りられる状態だ。私は二つのパッケージを手に取り、ソフトの入ったレスペックケースをそれらから取り出して、片方を黄金へと差し出した。私の動作を暫く見詰めていた彼女は、頬を染めてそれを両手で受け取り、嬉しそうに何度もお礼を口にした。一年生の頃にクラスメイトだった彼女とは、何度か話した事があるが、彼女は何だかんだで悪い子じゃない。『ゲーム』では嫉妬から『ヒロイン』の邪魔をしたりもするが、その一方でバッドエンドでは『ヒロイン』から『攻略対象』を奪えてしまう程の魅力を持つ少女であり、同時にそれが出来るぐらいの『攻略対象』との交友関係を築ける人物なのだ。――バッドエンド限定とは言え『攻略対象』を奪って恋仲になれる程には、彼らと仲良くなっている方が自然な立ち位置の彼女は、私が渡した物を嬉しそうに笑って眺めている。『ヒロイン』が選ぶ『攻略対象』が誰なのかがエンディングを迎えるクリスマスまでは不明なので、『ライバルキャラ』である黄金もまた特定の『攻略対象』の親衛隊ではなく、全ての親衛隊を束ねる隊長として君臨しているのだが、現実の世界での彼女の本命は誰なのだろうか。やはり、メインヒーローの生徒会長辺りかもしれないと考えていると、彼女の背後に長身の人影が近付いて来たのが見えた。
「おい、黄金。これが俺のオススメだ――って、なんで緋空まで居るんだ?」
「まあ、ありがとうございます、翠乃先生!」
ホストみたいな服装と雰囲気をまとった、茶髪に緑色の目を持つ眼鏡の男性が、私達へ話し掛けた。――色利彩が所属する2年C組の担任を受け持つ数学教師であるこの『翠乃周太郎』は、女性受けしそうな甘い顔立ちの『攻略対象』だ。私と黄金が一年生だった当時の担任であり、今は私の隣のクラスを担当している三十路を超えた彼は、『攻略対象』の中で唯一の成人男性である。そんな彼から、何かしらの作品のレスペックケースを受け取った黄金は、先程と同様に赤面して微笑んでいる。……状況は分からないが、もしかすると私はお邪魔虫なのだろうか。それならばさっさと立ち去ってしまおうと足を動かし掛けたが、翠乃先生に名前を呼ばれてその場に立ち止まる。
「あー、緋空、ミョーな誤解して面倒な噂流すなよ? ……俺と黄金が借りようとしたDVDがたまたま一緒だったのが理由でさっき偶然会ったんだが、一個しかなかったそれを黄金が俺に譲ってくれたから、その詫びとして俺のオススメを持って来ただけだ。教え子とデートしてる、だなんてウソを学園側に報告されたら厄介だから止めとけよ」
「ええ、わたくしが昔の恋愛映画を借りようとしたら、先程の緋空様との時みたいになってしまって……、その、わたくしはその作品を急いで見たいと言う訳ではありませんでしたし、お譲り致しました」
「……分かりました」
黄金に対しては優しく甘い笑顔を向けるが、私に対しては面倒臭そうな調子で喋るこの数学教師は、女子に甘く男子には若干冷たいと評判の人物だ。態度の差が分かり易過ぎて、逆に反感が少ない。それに私のような男生徒には冷めたところがあるものの、結局は面倒見が良くて生徒には平等に甘い翠乃先生は、女子だけでなく男子からも比較的人気がある。何より、授業が丁寧で分かりやすい点が、私がこの先生を割りと好いている理由だ。長期休暇に大量の課題を出すところを除いて、翠乃先生は普通に人気のある先生である。仮に『攻略対象』でなかったとしても、人気者だったに違いない。
それにしても、本当に彼らが休日デートをしていたとしてもその事を言い触らすつもりはないので、そんなに心配しなくてもいいのに。
「――それでは、私はこれで」
まだ何か話している二人に声を掛け、私はケースをカウンターに持って行った。後は、雑誌でも立ち読みしてから、食品売り場でイチゴジャムと牛乳を買って帰ろう。