3:ボーイ・ミーツ・ガール
夕焼けに染まる薔薇園で見つめ合う一組の男女と言うシチュエーションは、言葉だけを聞けばラブロマンスのワンシーンを思わせるロマンチックな状況だろう。恋愛ドラマや少女漫画、そして『乙女ゲーム』なんかでそんな場面があれば、高確率でその二人は恋に落ちる。特に、今回みたいに片方が『攻略対象』になる程の美形ならば、余計に。……自分で言うのもナルシストみたいで落ち着かないが、私の外見は客観的に見てかなり良いと思う。しかし、私的には三日も経たずに見慣れて見飽きる程度の美形に過ぎない。
とにかく、そんな状況下でありながら、見つめ合う男女――私と見知らぬ女生徒の間に甘い空気が流れる様子が一切ないのは、黒髪の彼女が「って、……うげぇ、ヤッバイ!」と裏返り気味な声で叫んであたふたと慌て始めたからだろう。それ以前に、私としても知らない少女と薔薇園で出会ったからと言って、即座に甘ったるい台詞を吐くような事はしない。『ヒロイン』相手だと自分でもどうなってしまうか自信を持って言えないが。まあ、そんな事よりも、今は私が薔薇の精気を吸っていた姿を見られてしまっていたか否かを危惧する場面だ。
……彼女のこの狼狽っぷりからして、これはアウトだろうか。それならば、『吸血鬼』としての『力』を使って、彼女にはここでの出来事を『忘れてもらう』しかない。その力を使う為には吸血行為が必要だ。吸血鬼である事を隠す為に吸血鬼としての能力を使用すると言うのも妙な話だが、仕方がない。自身の警戒心のなさが招いた現状に対し、名前も知らない彼女への罪悪感が湧いたが、心の中でのみ謝る。
「……」
「あっ、いや、親衛隊はいないし見られてないからセーフ!? よし、心霊スポットで良かった! 多分誰にも見られて……ない、よね……?」
しかし、彼女へ向けて音もなく一歩踏み出したところで、彼女が『目の前の吸血鬼』ではなく、周囲の方を警戒するかのように視線を走らせているのを見て、疑問を抱く。――普通は、いかにもそれっぽい外見の男が吸血鬼っぽい行動をしているのを見たら、そいつを恐れて警戒するものではないのか。実際、過去にも何度かうっかり正体がバレた相手に怯えられた事がある。そして過去の彼らが恐れる相手は、当然ながら私だけだった。
「――よっしゃ、それなら親衛隊からのイジメフラグは多分セーフ! ……せ、セーフ、だよね……?」
独り言ばかり言っていたかと思ったら、終いには頭を抱えて唸り始めた彼女は、逃げ出す気配が欠片もない。こちらの油断を誘っている演技にしては、私の方を窺う素振りもないし、どこからどう見ても隙だらけだ。『吸血鬼』が近くに居ると知っている人間とは、到底思えない。それに、彼女がぶつぶつと呟き続けている内容からして、『吸血鬼』とは全く別のものを警戒しているように聞こえた。
そう、例えば――『攻略対象』と親しく接する『ヒロイン』への嫉妬が理由で行われる『親衛隊による制裁』と言う、『乙女ゲーム』にありがちな展開への警戒心を抱いているかのように。
「――一体、何を」
「あの、緋空……様! 私は別に緋空様とお近づきになりたくてここに来たとかそういうアレじゃなくて、その、えーっと、本当かどうか確かめに来ただけなんで!」
「……何を?」
「え? あ、それは勿論アレです、噂がマジかどうか! そんな訳で、私の事は見なかった事にして気にせずスルーでお願いします!」
「噂……?」
ひとまずは私の予想が事実か確かめようと口を開いたが、私の言葉は勢いよく喋り始めた彼女によって遮られた。見るからに冷や汗をだらだら流しつつ数歩後退した彼女の顔には、「誰かに見られる前にさっさと逃げたい」と言う言葉がありありと浮かんでいて、少しだけ同情する。しかし、彼女が本当の事を言っているとも限らないので、探る為にも彼女の黒い目としっかり視線を合わせて疑問を解消していった。そうしていく中で、私はとある『ゲームの知識』を思い出し始め、早口で喋る彼女の姿を改めて観察した。
――日本人らしい黒髪と黒目、正直記憶に残らないだろう凡庸な顔立ち、着崩れしていない制服の極々普通の着こなし。一言で言ってしまえば『地味』、そんな印象を抱く百合森学園の女生徒の姿は、真面目に考えると見覚えがあるかどうかすら分からなくなりそうなくらい、学園内に溢れている模範的な『普通の地味な女の子』だ。これで目元が影で隠れていれば、『モブの女生徒』の『立ち絵』にピッタリな容姿をしている。
それに付け加え、彼女が口にした『噂』と言う単語のおかげで、私は彼女の『正体』とでも言えそうなものに漸く気付く事が出来た。
――『緋空樹』の出現フラグを立てるのに必要な、『薔薇庭園の噂』と言う名のちょっとしたイベント。それは、『主人公』のクラスメイトであるミーハーな女生徒が友人達と「薔薇園で幽霊を見た」と騒ぐだけのイベントだ。そしてその会話を聞いていた『ヒロイン』は、近くに居た親友キャラから薔薇園について軽く説明を受けると同時に、変質者が出る可能性もあるから余り近付かないようにと釘を刺されてしまう。以上で終わりの、小イベントだ。
『プレイヤー』にとっては寧ろ「誰かが居るから行ってみろ」と言わんばかりのこのイベントをこなす事で、『ヒロイン』が足を運べる場所に『裏庭の薔薇園』が追加され、『隠しキャラ』と会う事が出来るようになる仕様だ。『ゲーム』では、だけども。
そして、その噂を提供してくれる『ミーハーな脇役の少女』――つまり、『一度は薔薇園に足を運び、恐らくは緋空樹を目撃して幽霊と見間違える役柄』が、私の前で顔色を悪くしているこの少女なのだろう。親友キャラでもない彼女は、……山田だったか、山本だったか。何かしら色に関係する漢字が名前に入っているメインキャラ達と比べると手抜きじゃないかと言いたくなる名字だった、筈だ。そして、下の名前は出て来ない。ちなみに、彼女らしき『ミーハーなクラスメイト』は、『ヒロイン』が転校して来た最初の週に、教室や食堂にて何度か『攻略対象』に関する会話をして、『ヒロイン』に彼らへの興味を持たせる役も担っている。だが、それ以上の出番は殆どない。
とりあえず、私が『幽霊』ではなく緋空樹だと気付いてしまってはいるものの、恐らくはそのイベントに出て来た『ヒロインのクラスメイト』である可能性が高い彼女は、もしその通りだとしたら私の正体をうっかり見てしまった訳ではないのだろう。彼女が目撃したのは、単なる緋空樹だ。そもそも、彼女には最初、背中を向けていた。それならば、私が何をしていたかも見られていない、と思う。楽観視し過ぎるのは良くないが、仮に彼女が「緋空樹は吸血鬼だ」などと言う噂を流そうとしたところで「確かに緋空様ってそれっぽいよね、キャー!」と言った感じの反応しか親衛隊達もしそうにないと今更気付き始めたので、余り気にしなくても大丈夫な気がして来た。それっぽい外見で良かった。これで見た目がマッチョとかだったら、逆に噂の信憑性が増していた気がする。
「あ、噂って言うのはですね、うん、大した事ないんでお気になさらず! それじゃあ、私はこの辺で――」
「ああ、それって『薔薇園には幽霊が出る』って言う、あの噂かな?」
「え、あ、はいそれです――って、うへぇえっ!? せ、せいとかいちょっ!?」
……密かに胸を撫で下ろしている間に、第三者が山田さんもしくは山本さんの背後に立っている事に気付き、身体がびくりと反応し掛けた。けれども、声を掛けられて私以上に大袈裟に驚く彼女の叫び声の方に驚愕する羽目になり、声に出さずに汗を掻く。ここで私まで叫んでいたら、緋空樹のイメージが崩れる。それはちょっと惜しい気がしたので、まるで初めから三人目の存在に気付いていたかのような表情を顔に貼り付け、私は無言でその人物を見詰めた。そうすれば、蒼い双眸と一瞬だけ視線が絡み、その人物から笑みを向けられる。
「――ごめんね、驚かせちゃったかな? ほら、落ち着いて。深呼吸、深呼吸」
「あ、ああ、いえ、すみませんすみません私用事があるので消えますお邪魔しました!」
「え、……ええっ?」
どうしてその人物がここに居るのか、私が疑問に思っている間に、焦燥に塗れた声を出して黒髪の少女が走り出し、声を掛ける暇もなく彼女は薔薇園から逃げ出した。
――風のように走り去った彼女を呆気にとられたまま見送った後に残っているのは、薔薇園と私と、もう一人。
「わっ、随分と足が速いな。もう見えなくなった。……うん、何だか変わった子だったね」
「……ですね」
消えた彼女の残像へ顔を向けていると、優しげな声が返答を求めるかのような色を込めて発せられた。――この場でその声に反応を示す事が可能なのは、私だけだ。つまりは私に向けて発したのだろうその言葉に、短く同意を返す。すると、くすくすと笑う声が聞こえた。
「――樹君。もしかして、さっきの子は君のお友達なのかな?」
「違います」
「そうなんだ。……ああ、こんな人気のない場所で逢引してるぐらいだから、『友達』なんかじゃなくって、もっと親しい間柄の方がしっくり来るよね」
「面白くもない冗談ですね、生徒会長」
初対面の彼が、馴れ馴れしく私の名を呼びつつ音にした問いに、顔色一つ変えずに即答する。年上である事を知っている相手に対し、一応は敬語で返しているが、彼の言葉を聞いているうちにだんだんと敬語なんてものを使いたくなくなって来て、私はわずかに苛立ち始めた。
「やだなぁ。俺と君の仲じゃないか、本当の事を教えてよ、……ねぇ、樹君?」
学園の王子様として名高い、人望厚き生徒会長――『蒼海千歳』の日本人らしからぬ碧眼が、こちらを捉えるかのように楽しげに細められて嗤っている姿が視界に入り、私は舌打ちをしたくなった。
――大体どうして、ここで『緋空樹』と『蒼海千歳』が顔を合わせているんだ?