1:隠しキャラは吸血鬼
あやふやな輪郭を描いていた無意識が、閉じられていた目蓋を上げて『私』自身の形を作り上げ引き上げられていくかのような感覚があった。――要するに、私は眠りから目覚めた。まだぼんやりとしている頭を左右に軽く振って、自身の周囲に満ちている優美な花の香りを鼻腔から吸い込む。春を彩る桜の時期が過ぎ、私が居る裏庭の薔薇園に植えられた花々は、競うように美しく咲き始めていた。まだ固く閉じた蕾の状態のものも多いが、近いうちにそれらも綻び花開くだろう。
校舎から少々距離のある裏庭の薔薇園は、昼休みの最中だと言うのに私以外の人影は見当たらない。それは、わざわざこんなところへ足を運ぶよりも、校舎に近くて日当たりの良い中庭へ向かう方が良いと判断する生徒が多いからだろう。そしてそれ以上に、この場所が曰く付きの心霊スポットである事が、薄暗い薔薇の庭園に人気がない理由だと思う。――私が通う百合森学園の敷地の隅で取り壊される日を待つ、廃墟と化した教会。この薔薇園の隣にあるそれが建てられたのは、50年以上昔の事らしい。
元々ここはカトリック系の女子校であったが、経営者の都合だか何だかで20年程前に近隣の男子校と統合・共学化された結果、進学校である百合森学園が設立された。11年前に校舎も近代的な外見へと改装され、古めかしさの残る女子校の数少ない名残は、肝試しの舞台に相応しい外見の廃墟と化して、敷地の端っこで風化する日を待っている。
――女子校だった頃の名残である廃教会に隣接している、霊園の跡地を利用して建てられたこの薔薇園。学園に雇われた庭師や契約している花屋が花の世話をする以外の立ち入りが滅多にないここには、花に取り憑いた幽霊が出るだとか、地に埋まる死体を養分にして薔薇が咲いているだとか、胡散臭い噂が幾つもあるらしい。こんなにも美しく落ち着く場所だと言うのに、勿体無い話だ。
まあ、そう言った噂が蔓延っているのは、吸血鬼兼隠しキャラである私が、薔薇の精気を吸う姿を誰かしらに目撃されたかもしれないと言う点も、一役買ってしまっているかもしれないが。
そう、私――緋空樹は、『吸血鬼』であると同時に『隠しキャラ』でもあるのだ。正確に言えば、『吸血鬼』そのものではなく『吸血鬼の血を引いている人間』なのだが。
どの道、我ながら実にファンタジーな存在だと思う。父方の祖父が純血の吸血鬼とやらに属するらしく、私は吸血鬼のクォーターと言う訳だ。
人あらざるものの孫、混血児。大袈裟な言い方をすれば、そう評されるだろうが、その実態は人間とそれほど変わらない。ただ、普通の人間よりも怪我の治りが早く、病気にかかりにくい丈夫な身体を有している。アルビノのような白銀の髪と赤目、青白い肌のせいで誤解されやすいが、病弱さとは無縁な健康優良児が私だった。身体能力は普通の人間よりも優れているが、部活動に精を出している運動部のレギュラー陣とスポーツで勝負をした場合はいい試合が出来るかもしれないと思える程度の、常識的な範疇で「運動神経がよい」だけだ。ニンニクも十字架も日光も平気だが、銀の武器で心臓を刺されたならば普通の人間と同じように死ぬだろう。血を吸えば霧への変化や他者の魅了などの『吸血鬼』らしい能力を一時的に使用出来るらしいが、吸血衝動は、今は薄い。――幼い頃は度々吸血への欲求に駆られたものだが、人間の血を吸い続ければ私の中の吸血鬼としての本能が刺激され、本物の『吸血鬼』へと近付き覚醒する可能性があるとやらで、父から強く諌められ、人間を襲わぬように耐え続けていた。我慢し過ぎるのも良くないからと時々母が血を少しだけ与えてくれたけれども、誰かの血を飲まずとも、薔薇から精気を吸い取る事で吸血衝動を抑える事が出来ると教えてくれた父は私以上に吸血鬼の血が濃いので、きっと私よりもずっと大変だっただろう。人間離れした美貌と保たれたままの若々しさを除けば普通の人間のようにしか見えない父と、人を愛し人間社会に溶け込む祖父の協力もあって、実家の庭やこの薔薇園で薔薇の精気を吸ったり、時折吸血衝動に駆られる点以外は、ただの健康的な人間として全うな人生を送っている。
――いや、『ただの健康的な人間』とは言い切れないか。何しろ、私は『攻略対象』、それも『隠しキャラ』なのだから。
何の、と問われたならば、乙女ゲームの、と答えるしかない。馬鹿げた話ではあるが、私の頭にいつの間にやら備わっていた『知識』によれば、そうなる。――この百合森学園は、女性をターゲットにした恋愛ゲームの舞台に酷似していて、そのゲームの中の『隠しキャラ』こそが私なのだと、『そのゲームをプレイした事のある私の意識』が、告げている。まるで、『前世』か何かの記憶があるかのような感覚で、その『知識』と『意識』は常に私の傍にあった。
色々とおかしな話ではあるが、私が既に『吸血鬼』と言う、傍から見れば創作物の世界の住人染みた存在なのだ。そういう事もあるかもしれないと、私は受け入れてしまっていた。それに、肉体は産まれた時から『男』なのに、何故か己が『女』のように感じられる事もあった。それは、性同一性障害とは、恐らく異なる。私は、『緋空樹』は確かに男であると認識している。その上で、「以前は女だったような気がする」だけなのだ。他者へ説明し難い、何とも奇妙な感覚だが、そうとしか言いようがない。――きっと、私は前世で女だったのだろう。そして、何の因果かその時にプレイしていたゲームにそっくりな世界に生まれ変わったのだ。
輪廻転生なんて、吸血鬼並みにファンタジーな話のように感じるが、吸血鬼が実在してしまっていると知った今、私には「有り得ない」と言い切る事は出来ない。何しろ私の祖父は、紛れもなく『吸血鬼』で、私にはその血が流れているのだから。
この世がゲームの世界だなんてのも、本当に奇怪な話だが、観念するしかない。そもそも例えそれが事実であろうがそうでなかろうが、私が生きている世界である事に変わりなければ、大して変わりはしない。ゲームの世界だろうと私は緋空樹として生きるのみ。そしてその生き様が『知識』の中の『緋空樹』とどの程度同じかは、好奇心を満たす程度の関心で済ませてしまって、真面目に気にし過ぎない方が精神衛生上良い気がする。
――私の頭の中にある『知識』が教えてくれる『ゲームキャラとしての緋空樹』は、初めから攻略可能な『攻略対象』の6人全員のグッドエンドと、親友キャラ及びライバルキャラとの友情エンド、そして『攻略対象』全員の好感度を同時に上げなければならない高難易度の逆ハーレムエンドを見た上で、ゲームが始まる5月中に起こる『薔薇庭園の噂』イベントをこなす事で漸く出現フラグが立つ、会うだけでも周回必須の『隠しキャラ』だ。或いは、『おまけキャラ』かもしれない。しかし、他の攻略対象が普通の人間である中、一人だけ人外キャラなのは何故だろうか。ついでに、恋人になれるグッドエンドと、友達のままの通常エンド、振られたり相手が暴走したりする幾つかのバッドエンドがある通常の攻略対象達と異なり、『ゲームの緋空樹』にはグッドエンドとバッドエンドの二つしかエンドがない。しかも、バッドエンドは吸血衝動に負けた『ゲームの緋空樹』が、『主人公』である『色李彩』の血を吸い尽くして殺してしまい、ミイラのようになった彼女の亡骸を抱きながらモブの吸血鬼ハンターに殺されると言うある意味心中エンドなのだ。他のキャラのバッドエンドにも、攻略対象が暴走して監禁や暴力などに走る過激なものがあるが、ヒロインの死亡描写がはっきりされるのはこのエンドだけらしい。勿論、私はそんな未来を迎えるつもりも予定もない。そして、仮にこの先私が『ヒロイン』に心奪われたとしても、グッドエンドを迎える事もない気がする。
その理由は、己の中に流れる吸血鬼の血を憎んで苦悩している『ゲームの緋空樹』に対して『ヒロイン』が終盤のイベントで告げる言葉を、私は幼い頃から知っていたからだ。
「あなたには、人を愛せるひとの血が流れているんだね」――これが、自身の正体を『ヒロイン』へと明かした『ゲームの緋空樹』が一時的に学園から姿を消した後、祖母の墓参りへ向かった『ゲームの緋空樹』を見付けた『ヒロイン』が微笑みと共に口にした言葉だ。記憶の中にある祖母と似た笑みで告げられたその台詞によって、『ゲームの緋空樹』は漸く己の存在を受け入れ、自身と向かい合う事が出来るようになる。この重要なイベントでの『ヒロイン』の言葉を、私は『知識』として知っていた。その言葉のおかげで、私は前向きに健やかな成長を遂げたと思う。
そんな訳で、『知識の中のヒロインの言葉』に感謝はしているものの、もしも先週隣のクラスへと編入してきた『色李彩』が私と親しくなったとしても、ゲームのシナリオ通りの展開にはならないと思う。……だって既に、私は『彼女』に救われてしまっている。私を助けてくれる言葉を、とっくの昔に得てしまっていた。
だから、もし彼女と関わりを持つようになったら、その時はどんな風に接するのが良いのだろうかが分からず、私は長年密かに悩んでいた。
――まあ、それ以前に。今の私が生きているこの世界に、『ゲームヒロイン』は実在するのだろうかと考え始めていた私の疑問に答えるかのように、『色李彩』が隣のクラスに編入して来てから一週間が経つが、彼女の顔すら見ていない私と彼女の間に何かしらのフラグが立つ気配そのものがないのだが。
意識して避けている訳でもないのに、リアルではそんなものらしい。流石は私、17年間彼女が出来た事のない男なだけはあると、下らない事を考えながら昼食代わりの薔薇の精気を吸い終える。そろそろ、次の授業の準備をする為に教室に戻る時間だ。