10:朽ちた教会と探索者・後
「――ねえ、樹君。そこに何かあった?」
あたかも旧友に語りかけているかのような馴れ馴れしさを持って、歯の浮くような台詞も平気で紡げそうな甘いテノールが私の名を呼んだ。その声だけを聞いたとしたら、親しい相手に呼び掛けているのかと錯覚してしまうだろう。しかし、私と彼――蒼海は、別に友人でもなんでもない。だと言うのに、初対面の時と同じく気安過ぎる態度で、蒼海は私の方へと近付いて来た。彼が手にしている傘の色は、蒼海の目の色よりも明るく安っぽい青色だ。その青からぽたぽたと落ちる水滴も、蒼海の足音も、厚い絨毯が全て飲み込んだ。
王子様然とした上品で優しそうな顔立ちの『攻略対象』が、私の――告解の為の小部屋の傍にある、地下室への扉の前に立つ私の方へと向かって来ている事に焦燥を感じ、私は彼の方へと足を踏み出した。
「……蒼海生徒会長。どうして、ここに?」
「生徒会室で仕事中、ふと窓の外を眺めてみたら、黒い傘を差した誰かが裏庭の方に行く姿が見えてね。ひょっとしたら樹君じゃないかなって思ってやって来たんだけど、やっぱり君だったみたいだ。――来て良かったよ、また君と二人で話せて嬉しいな」
「私に用件があるのなら、担任を通して伝達すればよいでしょう」
「だって、人目がある場所だと、樹君が周りを気にして俺との話に集中してくれなさそうじゃないか。何しろ、君は意外と周囲を気にする子みたいだからね。……注目を浴びる事には慣れていそうなのに、不思議だな」
「……つまり、直接でなければ話せない内容の用事ですか」
「そうじゃなくって、君が困ってしまうだろうから、人前では話し掛けないように我慢しているだけだよ」
相変わらず私の下の名前を勝手に呼んで来る蒼海からの問い掛けを無視して質問で返せば、生徒会長を務める年上の男は足を停めて、何も持っていない方の手を顎にやりながら口を動かした。そうして会話を重ねるに従い、私は己の眉間に出来ているだろう皺がどんどん深くなっていくのが分かった。――本人だけは真面目に話しているつもりなのか、はぐらかそうとしているだけなのか。微妙に会話が噛み合っていない事に付け加え、緋空樹の事を理解した上で気を使って接しているとでも言いたげな態度の蒼海に、沸々と不快感が湧き上がった。その馴れ馴れしい態度が、恐らくは色李彩の情報を得る為の策らしいと推測はしているが、それでも恩着せがましい口調は気分の良いものではない。色んな意味で、この人にはこの場から退散して欲しいものだ。出来るだけ早く。
「……」
「……」
それ以上は特に話すべき事も思い付かず、私達の会話もどきは唐突に途切れた。微笑みを湛えたままの蒼海の視線が、私から懺悔室へと移動する。立ち位置的に、蒼海からは私の身体が障害物になって、地下室への扉は見えない筈だ。
――『蒼海千歳』が『監禁』のバッドエンドで利用する、廃教会の地下室。彼がその存在を知る事が出来たのは、実はシナリオの裏側で起きていた『攻略対象』との接触が理由なのではないか。偶然姿を見掛け、何となく興味を抱いて後を追うように訪れてみた廃墟にて懺悔室の傍に居た『緋空樹』を目撃し、不審に思った『蒼海千歳』が後から懺悔室周辺を調べた結果、あの扉に気付いたのではないか。そんな突拍子もない思い付きを頭の中から追い払うべく、私は蒼海へ向けて早く帰れと念波を送った。
「ああ、樹君が気にしていたのは、懺悔室か。――何か、『神様』に懺悔したい事でもあったの?」
「……あるように、見えますか」
「もしもあるのなら、俺がここで聞いてあげる。そういうのは、誰かに聞いてもらうのが一番だからね。別に神様相手じゃなくてもいいと思うよ」
「生徒会長に言いたい意見があるのなら、目安箱に投函しています」
「今なら口頭でも受け付け中だよ、樹君」
「サボらずに仕事して下さい」
「……今は休憩中だから、サボリじゃないよ」
しかし、当然のように念波が届いた様子もなく、蒼海は懺悔室を暫く観察していたかと思えば、どうでもいい話題を振って来た。親しい友人か、悪友を相手にしているかのようなフレンドリー過ぎる蒼海の言動と雰囲気に引き擦り込まれそうになりつつも、彼の視線に含まれている気がする冷ややかな棘が、私と蒼海の間に壁を作り続けてくれる。底冷えする瑠璃が嵌め込まれた柔和な美貌は、本来はこんな廃墟に似つかわしくはない存在だ。彼は、もっと明るい表舞台が似合う人物に見える。それなのに、この場所に違和感なく溶け込んでいる蒼海は、私の言葉に肩を竦めると背を向けた。それから、本来は祭壇があったのだろう半円形の突出部へと優雅な足取りで歩き始めた。その後ろ姿を、私は立ち止まったまま見詰めていたが、このまま蒼海が懺悔室から興味を失って離れてくれる流れになる方が良いと判断し、その背中を不本意ながら追う事にする。
――元々は、外からの光を浴びて色鮮やかで神聖な姿を信者達の前に見せていたのだろう、ステンドグラスに描かれた聖人と天使達の足元で、漸く蒼海は立ち止まった。手入れされぬままに年月を重ね、罅割れも修理されず、悪戯好きの人間によって一部を砕かれたり落書きされたりして、廃墟に積もる白々しく陰鬱な空気を増長させている硝子の塊を見上げていたかと思えば、蒼海が突然振り返った。
「――神様と言えば。俺が前に言ったアレについては調べてくれたのかな?」
「……青い薔薇の花言葉は、『不可能』、『有り得ない』、『奇跡』、『夢叶う』、そして『神の祝福』。――これで満足ですか」
「ああ、ちゃんと調べてくれていたんだ。偉い、偉い」
「……これらの花言葉に、何の意味が?」
「花言葉を知った時にとても良い意味だなって思ったから、君にも知っていて欲しかっただけだよ」
蒼海の言葉を聞き、初めて彼と会った時の去り際の会話を思い出した私は、一昨日調べたばかりの情報を口にした。私の答えに満足げに微笑むその顔は、皆に慕われる生徒会長らしい温かみがある。しかし、そんなものよりも、私は青薔薇の花言葉を列挙した事で蘇った舌の上の嫌悪感に、瞼を伏せた。閉ざされた視界は聴力を研ぎ澄ませると言うが、別段そんな事はなく、私の耳には普通に自分達の会話しか届かない。
「それに、……樹君にぴったりだと思ったから」
――蒼い目を持つこの『攻略対象』が相手だと、他の人と話している時よりも、心なしか口数が増えてしまう気がする。しかし、それは蒼海との会話が弾んでいるからではない。寧ろ、蒼海と話していると、試され、からかわれ、反応を観察される実験動物になったと錯覚しそうな感覚と不快感が込み上がって来て、どうにか話を切り上げられないかと足掻きたくなるのだ。そしてその衝動は、前回薔薇園で会った時よりも、今の方がずっと強く感じる。
そんな私の心境を知っているのかいないのか、蒼海は女の子相手ならば一発で落とせそうな甘ったるい声色で、私にどうでもいい台詞を吐いた。苛立ちと共に目を開ければ、好青年風の男が相変わらず微笑んでいる。向けられた視線からは熱なんて欠片も感じ取れないし、こちらへの関心は含まれていない。言動に似合わない淡白な双眸に宿る青色を見て、私は何かを思い出しかけた。けれども、妄想めいた『前世の私の意識』がその上から覆い被さり蓋をして、閉じられる。『少女』の声が私の声と混ざり合い、「思い出したくない」とヒステリックに叫んだ。――それは本当に、『少女の意識』なのか。本当は私自身の願望の声ではないのか。軽い混乱に沈黙を保っていると、現実からくすくすと笑う声が聞こえて来た。目を逸らしても、視界の端で黒髪の男が嗤っている姿が見えてしまう。遠目で見掛けた事のある、色李彩と一緒に居る時の王子様らしい笑みと比べると、私と話している時の蒼海の笑顔は不自然な感じで、正直気持ち悪い。
「ふふっ、……もしかして、照れちゃった?」
「……」
「あ、違ったか。残念」
「……生徒会長。仕事の途中なら、生徒会室に戻った方がいいと思います」
「ああ、それなら大丈夫、今日の分は――」
「――蒼海、捜したぞ」
蒼海にさっさと帰るように促していると、第三者の凛とした声が廃墟に響き渡った。声がした方――蒼海によってずっと開け放たれたままだった扉の方へ身体を向ければ、そこには暗闇を照らす炎そのものの色を纏った『攻略対象』が、憮然とした表情でこちらを睨んでいるのが見えた。
――色李彩が百合森学園へとやって来て以来、私が何らかの形で出会って来た『通常攻略対象』の、最後の6人目。赤い髪と赤い目をした先輩である『紅松誠人』は、無愛想な顔のままもう一度蒼海の名を呼んだ。その呼び掛けに反応するように、私の近くに居た蒼海が溜息を吐く。神経を逆なでする、その4歩ほど前で留めた言動を私に浴びせていた生徒会長は、廃墟の入り口で仁王立ちしている人物へと穏やかな横顔を向けた。
「風紀委員長の君が俺を捜しに来るなんて、珍しいな。来るとしたら、途中まで仕事を手伝ってくれていた色李さんの方だと思っていたよ」
「色李の……、後輩の頼みだから、仕方なく来たんだ。あいつは校舎の方を捜しに行った」
「そうか。――こんな雨の降る中、手間をかけさせてしまったみたいで悪かったね、紅松。彼女にも心配を掛けちゃったかな、後で謝らないと」
「俺はあいつへ借りを返したかっただけだ」
顔見知り同士の適度な距離感を保った会話を交わしながら、蒼海は紅松の方へと近付いて行く。――燃え上がる原色に近い色を持つ風紀委員長の先輩は、長身の部類に入る私よりも更に背が高く、190cm近い大柄な人物である。おまけに服の上からでも分かる筋肉質な体躯で、とても男らしい風貌の『攻略対象』だ。ストイックなイメージが強い彼は、ちゃんと委員会に入っているのに何故か周囲からは一匹狼キャラとして認識されているらしい。きっと、クールな態度に加えて単独行動が多いが故の評価なのだろう。精悍な顔立ちの紅松は勿論女生徒からの人気が高いが、それだけではなく男生徒にもファンが多いらしい。男には、男らしい漢に憧れる習性があるのだ。
――そんな紅松誠人と『ヒロイン』の『ゲーム』での出会いは、『ヒロイン』が親衛隊に呼び出されて制裁と言う名のイジメを喰らいそうになったところに、偶然見回りをしていた彼が助けに入ると言う内容である。現実ではどんな出会いをしたのか、私には分からないけれども。とりあえず、先程『借り』がどうこう言っていたので、多分『ゲームイベント』の『偶然落ちて来た荷物から、ヒロインが身を挺して紅松を庇うイベント』に似た出来事でも起きたのだろう。そういえば、5月の何時頃かは忘れたが、彼と色李が保健室で睨み合っているのを見かけた気がする。あれは『色李彩』が軽い怪我をしていたのにそれを秘密にしていて、でも結局彼にバレてしまうと言う内容の『治療イベント』だった可能性が高いと、今更ながら思い付いた。
それと、彼らの会話を聞く限りでは色李彩が生徒会の仕事の手伝いをしているらしき雰囲気を感じるが、『ゲーム』でも蒼海千歳の好感度が高ければ6月の中旬辺りから生徒会の雑用をこなすように頼まれる『イベント』があった筈なので、別段不自然な事ではない。
この場の『攻略対象』達に関する『知識』を引き出しながら、私もそろそろ寮へ帰るべく蒼海の後を追った。蒼海は、さっきまで少しだけ見せていた懺悔室への興味がいつの間にか失せたように見える。……そもそもあの扉が開くかどうか、それ以前に本当に地下室に繋がるものであるかすら確かめられていないので、今度また調べてみよう。
「……ここは建物が傷んでいて、危険だ。無駄に立ち入るのは止せ」
「気を付けるよ」
「俺は先に戻る。――女を一人でうろつかせるのも気分が悪いからな、あいつに声を掛けておく」
教会の出口で言葉を交わす二人の傍へ近付くと、そんな会話が聞こえて来た。そして、紅松は結局、私には一瞥もくれずに雨の中去って行った。興味のない相手に対してはとことん無関心な性格である紅松らしいその態度は、『ゲーム』のイメージそのままで、何だか安心する。――今までに何らかの接触があった他の『攻略対象』達は、半分以上がどこかしらおかしな態度だったので、翠乃先生や紅松みたいに『知識』通りの人物像の『攻略対象』を見ると、安堵出来る。
息を吐き出しながら傘を開き、開けっ放しの扉を潜って外に出る。蒼海も同じように教会を出て、私の横に立った。背後では扉が軋みながら閉じる音がする。雨は、わずかに雨足が弱まっていた。私よりも少し背の低い生徒会長の顔は、青い傘に阻まれてちゃんと見えないし、見るつもりもない。靴の裏に張り付いた埃は、雨に濡れて余計に靴底にくっ付いてしまっている。
――寮に入る前に、汚れを落とさないといけないな。そんな事を考えていると、雨音に混じって優しげな声が聞こえて来た。
「ねえ、樹君。ちょっと不思議だとは思わない? ――紅松は、どうして俺の居場所が分かったのかな」
声も口調も穏やかで、『乙女ゲーム』の『攻略対象』に相応しい甘さを孕んでいる。それなのに、何か別の悪質なものが含まれているのではないかと邪推してしまうのは、妙に馴れ馴れし過ぎる態度のせいだろう。ひょっとしたら、人目がない場合は同性全般に対しそんな態度をとっているのかもしれないとも思っていたが、紅松と接している様子からは、纏わり付くような馴れ馴れしさが感じられなかった。学園内で見掛ける事のある『学園の王子様』らしい姿で、彼は風紀委員長と話していた。――単純に、紅松は色李を巡る恋のライバルとして見なし、彼に対しては猫被っていると言う予想も出来るし、何かしらの情報を得られるかもしれない私に対する馴れ馴れしい態度の方が演技に近いものである可能性もあるが。考え過ぎると疲れそうだ。蒼海は厄介な気配がぷんぷんする。
「――知りません。本人に訊いて下さい」
「ふふふっ、……そうだね、そうだよね。本人に尋ねてみるよ。答えを聞いたら、君にも教えてあげる」
「必要ないです」
「遠慮しないで欲しいな。他人行儀にならないで、もっと仲良くしようよ」
「必要ない」
楽しそうに笑う気配がして、私は呆れと苛立ちを抱きながら早足で歩き始めた。背後からは、ストーカーのように蒼海が付いて来ているらしき音が聞こえる。……単に、途中までの道程が同じと言うだけで、本当に彼が私のストーカーをしている訳ではない。脳内に浮かんだ例えに、自分自身でツッコミを入れながら、私は雨の中を歩いて帰宅する。
――5月に『ヒロイン』の色李彩が2年C組に転校して来て以来、それまでは一人を除いて接点のなかった『攻略対象』達と顔を合わせたり、因縁を付けられたり、怯えられたりして来た。それより前は、翠乃先生以外とはまともに会話すらした事がなかったのに、急に『攻略対象』同士の接点が発生し始めた気がする。春先まではそれ程意識していなかった『攻略対象』達への関心も、以前よりかは増している。
それは、やはり『ゲームのような世界』に、『ヒロイン』そのものの色李が現われて、彼女の『物語』が始まった影響だろうか。『隠しキャラ』故にか接点が生まれない私には、彼女の恋愛事情がどうなっているのか全く分からないし関わる事もなさそうだが、出来れば『色李彩』には幸せな結末を迎えて欲しい。少なくとも、悲しいエンディングは迎えて欲しくない。
『知識』の上でしか存在しない、タイトルも知らない『乙女ゲーム』と『現実』を重ねるなんてナンセンスだが、それでも『知識』の中のものと似た存在と舞台があるのなら、どうしても混同してしまう。しかし、『緋空樹』が、その中心に存在する『ヒロイン』に意識されていないのなら、私は今まで通りぼっち生活を続けつつ、彼女達を遠目で見ているだけで終わるだろう。――色李彩も知らない裏側にある、『攻略対象』同士の日常を、垣間見たりしながら。その度に、『知識』を引き出す機会が増える予感がするが、だからと言って私の日常は大して変わらない――筈だ。友達の一人くらいは出来るかもしれないが。
雨の降る音に紛れて湧いた思い付きみたいな思考に耽りながら、私は蒼海が校舎へ戻る姿も見ずに寮の自室へ帰った。とりあえず、蒼海とはこの先接点を持ちたくないな。