0:舞台裏のプロローグ
気付けば、私は舞台の中心に立っていた。比喩表現的な意味合いではなく、実際に、己の両足で立ち尽くしていた。そしてこの舞台は、それほど大きなものではない。かと言って、狭苦しいとも言い難い、それなりの広さを所有している。具体的に例えるならば、そう、――学校の体育館の、壇上。式典の際には先生達が立って長々と話をし、文化祭ともなればどこかのクラスや演劇部が劇をして、吹奏楽部や軽音部が立てばライブステージに早代わりする、学生にとってそれなりに親しみがあるだろう場所。その程度の適度な広さの舞台の中心で、スポットライトに照らされながら私は立っている。五体満足の身体で立っている。舞台には付き物の観客席は見当たらないし、光がどこから当てられているのかも分からないまま、私は呆然と立ち尽くしていた。しっかりと床に足をつけて、静寂しかない舞台上に立ち続けている。
その事実に違和感を覚え、私は眉を顰めた。だって、何かがおかしい。自身の周囲に目を走らせたところで転がっている沢山のパイプ椅子が目に入り、それらが何脚あるのかを数えようとして、そんなの今はどうでもいいと切り捨てる。今の私に必要なのは、椅子の数を知る事ではない。現状を把握する事だ。直感的に悟っていた。視線をせわしなく動かし、一歩踏み出す為に足を動かす。歩ける。――鎖の音はしない。私は、自由に、歩ける!
奇妙な高揚感に包まれ、息を吸い込む。邪魔な椅子の山を押し退けて、私は舞台の上に何かないか探し始めた。実際は、何を探すべきかも分からないが、自由に動いて良いのならば、私は自身の意思と焦燥感に従って動くだけだ。深呼吸をして、私は舞台脇へと足を進めようとした。
「――おめでとう! おめでとう! おめでとう! お前は宝くじで一等が当たるよりかは高い確率で、素晴らしい権利を得ましたぁ!」
だが、笑い混じりの枯れた声が鼓膜を揺さぶったのと同時に、視界が黒一色に塗り潰された。暗闇がライトの光を掻き消したかのように、あっという間に何も見えなくなり、私は自分がどこに立っているのか分からなくなった恐怖で悲鳴を上げかける。けれども、直ぐに頭上から光が降り注ぎ、強過ぎない照明が足元を照らしてくれた。――そして気付いた、耳に届くざわめき。多数の他人の気配。先程の唐突で不可解な他者の声と暗闇に加えて、さっきまでは存在していなかった筈の多くの気配への警戒心を胸に、私はゆっくりと顔を上げて――固まった。
「全能で慈愛に満ちた『神』足るこの我が、お前と言う存在を素晴らしい世界へ送り届けてやる。――素晴らしいだろう? 嬉しいだろう? 何しろ我がお前に与える世界は、女と言う生物であるお前が生存競争に勝って子孫を遺しやすいように出来ている、お前にとって都合の良い『素晴らしい世界』なのだから!」
嘲笑うかのような口調に反して、年老いた世捨て人を思わせるしわがれた声からは、全く熱が感じられない。無感情な声色で私に話しかけた『そいつ』は、いつの間にか私の前に立っていた。印象の薄い顔は、一切動かぬまま声を生み出して、私を見下し嗤っている。唇を動かす事無く告げられた台詞は、暗闇が生まれた瞬間に聞こえたものと全く同じ不愉快な音質だった。
性別すら分からないそいつの顔を睨み付け、私は数歩後退して距離をとった。――つい先程『神』を自称したそいつは、口元だけが歪められた表情を顔に貼り付けたまま、ほんの少しも動かない。代わりに、少し離れた場所から雑音のようなざわめきが聞こえて来て、私は『神』もどきを警戒したまま、雑音の発生源を横目で見遣る。そして、私達が居る舞台の上部から漏れる光によってうっすらと浮かび上がった光景が、視界の端に映った。
――薄闇の中で、沢山の人がひしめいている。存在している。舞台を――私達を、多数の顔が観ている。それらはまるで、劇を観るべく集まった『観客』達のようだ。
しかし、こちらに注がれる視線とさざめきからは、熱狂も何も感じられない。『神』を名乗るおかしな人物の声と同じく、彼らからは異様なまでに関心と言うものを感じ取る事が出来なかった。その事実に気付き、数多の視線に晒された際に感じた恐怖はあっさりと私の身体から出て行った。
多くの『観客』よりも、この『神』の方が私にとって有害な、警戒すべき存在であると、己の直感が告げている。勘でしかないが、今この場で信じられるのは私自身の感覚のみだろうから、私は私を信じて『神』を睨み上げた。敵意を持って見詰めた相手の顔は、停止したまま。嗤いの為に吊り上った口角は、先程から寸分たりとも動かされていなかった。その代わり、瞬きもせずに見下ろして来る『神』の双眸は、あからさまな嘲笑で色付けされている。
「そう、その『素晴らしい世界』とは、つまりは『普通ではない世界』だ。――お前、『普通』の意味を知っているか? ははは、お前がそれを知っていてもいなくても、我は説明してやらん。『お前』はその意味合いを、それなりに知っている筈だからな。と言うか、先程からお前は何故そんな目で我を見て来るのだ? この状況に違和感を覚えて怯えているのか? 怖くて小便を漏らしそうなら、我が手ずからお前にオムツでもつけてやろうか? それとも、もう一度死んでみるか?」
「――五月蝿い、要らない、消えろ!」
抑えきれない腹立たしさと怒りに駆られ、下種のような言動をする存在を殴り飛ばしてやろうと足を踏み出した――つもりが、私の身体は動いていなかった。動かなかった。どうして動かないのか。焦りも加わった脳味噌に浮かんだ罵倒を、『神』へと乱暴に投げ付ける。その結果、口だけは動く事に気付いた。一方で身体は金縛りにでもあったかのように、一切動かない。舞台の上に立ったまま。転がっているだけのパイプ椅子と同じ置物のように、私の身体は動きを止めた。何故だ。どうして。歩かせろ。動かしたい。胸の中に生まれた焦燥が、嘲笑う『神』への怒りを覆っていく。気分が沈んでいく。きっと、今の私の顔は真っ青に染まっているだろう。ロープや鎖で縛り付けられ閉じ込められている訳でもないのに動かせない身体への恐怖で、空よりも深い青い顔になっている自覚がある。
「ああ、話がズレたか? だが、偉大なる我の言葉なら何でも嬉しいだろう。――さて、お前が転生する事になる素晴らしい世界の話だったなぁ。これは、お前にとって重要な事だから、しっかり聞いておくがいい。何しろ、お前が我の用意してやった『その世界』で生きる事は、既に決定事項なのだから!」
「……消えろ、消えろ、消えろ、消えろ消えろああああうるさあああぁぁ――ウグッ!?」
「簡潔に、尚且つお前に分かりやすく言えば、『そこ』は『ゲームの世界』だ。お前が何度も何度もプレイした、どうやらお前にとってお気に入りらしいこの『恋愛ゲーム』の世界だ」
不愉快な『神』の独り言が、勝手に私の耳の奥へと入り込んで来る。鬱陶しい。段々と蘇り始めた苛立ちから、無意識に口元だけを動かして音を生み出し、『神』の言葉がこちらへ届くのを邪魔しようとしたけれど、『神』が伸ばした手に口を塞がれ、物理的に声を出す事を止めさせられた。
――私の口を覆うのは、手だ。大きい手だ。骨っぽい手だ。女の子の丸みのない手だ。男の手だ。その事実に気付き、私はこれまでにない恐怖を感じた。必死にあげようとした叫びは、男の手の平に邪魔されて、情けない呻き声にしかならない。助けは呼べない。身体は動かない。怖い。怖い。嫌だ。早く助けて誰でもいいから早く、頭の中で助けを求め続けている間に、視界が滲んでしまった。そうしている間も聞こえ続ける『神』の声は、男のものらしいと今更ながら脳が認識した。少し前までは性別もあやふやだった特徴のない『神』の顔が、男の顔に見えて来る。気持ち悪い。
「この『お前が好きなゲーム』が属する『乙女ゲーム』とか言うジャンルの世界は、恋愛気分を味わうための舞台らしいな。そう、どんな世界観だろうがどんな情勢だろうがバケモノがいようが世界が滅びの危機に瀕していようがそれらは全て『ヒロイン』達の恋愛ゲームを盛り上げる為の要素! 盛り上げる装飾! ゴールはラブラブゴールイン、愛さえあれば世界だって救われる! お前は、そんな相互の愛情に溢れた世界が好きなんだろう? そんな美しい世界に憧れたからお前はこのゲームをコンプリートプレイした記憶がある筈だ。そして、だからこそ優しくて慈悲深い我は、お前をその『素晴らしい世界』の住民にしてやるつもりだ。――はは、何の心配もいらないぞ、『そこ』は選択肢さえ間違えなければ悲しい『イベント』は発生しない、哀れなお前にとって優しく素晴らしい世界だ! まあ、素晴らしさのレベルで言えば我の方が格段に上だがな! ははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
気付けば、絶望感に苛まれながら『神』の哄笑に包まれていた。嫌悪感しか抱けない男の手に覆われた口から、悲鳴を出してしまいたい。身体は震えているかも知れないが、動かせないなら意味がない。眼球だけが私の意志に従ってくれる。涙で濡れた視界の中で、『神』が私の口を塞いでいるのとは逆の手で何かを持っていたけれど、そんなの私にとってどうでもいい事だ。無意味な『神』の言葉を勝手に脳に届けてくる耳も要らない。私はただ、私が欲しいのは、私は。
「なんだ、なんだ? 何故今更になって、お前は世界が終わったかのような顔をしているんだ? お前が生きていたお前の世界は、既に幕が下ろされているぞ? 何せ、主観のお前が死ねば、お前にとっての世界は終わらざるを得んからな。お前が新たな命として次の世界に生まれるまで、お前の世界は終わったままだ。つまり世界がとっくの昔に終わっている今、そんな顔をするのは遅い。遅過ぎる。ふふっ、喜劇のようで笑えるなぁあっはっはっはっは!」
私を笑い続ける男の『神』が、手に持っていた何かしらをどこかに投げた。けれども、物が落下する音は聞こえなかった。それを疑問とする前に、『神』の両手が私の顔を掴んだ。『神』を自称する男の笑顔が、私の顔に必要以上に接近し、私の目を覗き込んできやがった。気持ち悪い。怖い。嫌いだ。離れろ、消えろ!
「――物はついでだ、特別に『特典』も付けてやろう! 喜べ、お前は素晴らしい我のおかげで『素晴らしい特典』付きの『素晴らしい世界』での生活を手に入れる事が出来るのだ! いやはや、我の慈愛は留まる事を知らないな! 素晴らしい!」
「消えて」
「ほぉら、お前が望む『特典』を言ってみろ。――元のお前では到底得られない美貌でも、単なるお前には似つかわしくない非凡な出生でも、馬鹿馬鹿しい程に特別な能力でも、可愛らしい生きたマスコットのプレゼントでも、学園にテロリストが乱入する未来でも、何でも構わんぞ。どうせ、お前如きでは、何を与えようともそれを『使いこなせたつもり』にしかなれんのだから。我の想定を超える事は出来ないまま、我に生かされ続ける姿がお前には相応しいからなぁ、なんちゃって。……ま、とにかくさっさと『特典』を決めろ」
相変わらず感情の込められていない声が、空虚でつまらない嘲りを紡いだ。喋る『神』の息が私の顔に掛かると言う不快な出来事は起きていない。唇が動かないまま音を生み出す、呼吸をしない人型のスピーカーのような男への苛立ちが、私の中に高く高く積まれていく。それと同時に、私がどんな『特典』を望んでいるかを口にすれば、この『神』もどきが私の望み通りに私の前から消えてくれる可能性に気付き、口元を歪めて笑みに似た顔の動きをしてやった。顔が動く。私は動ける。
――それならば、私が言うべき言葉は、たった一つ。
「私は、『私』以外になりたい」
「だから、そうしてやると最初から言っていただろうが。お前が歩む新たな人生を与えてやると、我は何度も言ったぞ?」
「だから、――『素晴らしい世界』の『女の子』になる事のない、『男の私』になりたい」
耳を右から左へと通り過ぎていた『神』の言葉を思い出し、この『神』への最大限の嫌がらせになってくれるだろう『特典』を望む言葉を口にすれば、『神』は答えに困ったのか沈黙を生み出した。動きを完全に停止した。ザマァミロ、心の中で罵ったのと同じ言葉を実際に声に出して、『神』を罵倒してやる。そのまま口汚く罵り続け、『神』が顔に貼り付けているものと同じような表情を作り上げて嗤っていたが、急に私の口が塞がれた。唇に触れた何かは生温い。柔らかい。それ以上に、生理的な嫌悪と感情的な嫌悪と本能的な嫌悪を覚え、私は突然口付けてきやがった屑を全力で振り払おうとしたけれど、出来なかった。身体は動いたのに、男の力で抱き寄せられたまま、引き剥がせない。口内で、生臭い他人の温度が蠢いている。止めろ、消えろ、気持ちが悪い! 鳥肌が立ち、全身から血の気が引いて、凄まじい寒気に襲われる。それと共に、私の意識が薄れていく。弱まっていく。失われていく。力が入らない。遠くで、赤ん坊の泣き声が聞こえる。何も考えられなくなる。病院を思わせる、薬品の匂いが鼻先を掠めた気がした。誰かが私を愛おしげに見下ろし、私を優しく抱き上げて、私の名を呼ぶ未来が視えた。
「次に会った時は、殺してやる」
「――それは愉しみだな」
私の意識が完全に失われる寸前に脳裏に浮かんだ言葉に対し、心底楽しそうに弾んだ誰かの声が、はっきりと返事をした。