ティラノの中
「おはよう、ゆめ」
「おはよう」
「昨日楽しかったよね。だってダイヤモンドの熊がさあ」
「そうそう。転んでね」
「砕けちゃってね」
「ちょっと可哀想だったよね」
「そう? すごく面白かったじゃない」
ここはティラノの胃袋の中。ピンク色の丸い場所。ゆめの狭い部屋くらいはあるから、ゆめは自分の部屋と同じくらい悠々と手足を伸ばせる。何と天井に電灯があるので明るい。ゆめの家にもないような、紐で吊り下がる粗末な裸電球。その光はまるきり胃袋らしい形をしたその場所を弱弱しく照らす。ここにいるのはゆめ、モルグ、チイの三人。モルグはモグラだ。小さな視力に乏しい目と、尖った鼻と、大きな前足を持つ。とても無口だ。ではゆめと話しているのが誰かというと、それはチイだ。チイは真っ赤なハチドリで、とても小さい。興奮すると羽根を蜂そっくりに勢いよく羽ばたかせ、空中の一点でとまる。今はゆめの肩に乗っている。モルグはひたすらティラノの胃袋を舐め、チイは延々とゆめに話をする。ゆめはこの二人を対照的だなと考える。二人きりでいるとき、どんな様子なんだろう。例えカブトがこの場にいても、話は盛り上がりそうにない。だってカブトは王様気取りのもったいぶりだし、モルグはいつもつまらなそうに黙っているし、チイは自分と楽しくおしゃべりできない相手は変な奴だと決めてかかるし。
「ねえねえ、モルグ」
チイが珍しくモルグに話しかけた。モルグがのろのろと振り向く。焦げ茶色の柔らかそうな体。鼻がぴくぴく動く。
「あんまり舐めたらティラノ、くすぐったがるんじゃない?」
モルグは一瞬考える仕草をしたが、すぐにゆっくり首を振った。口を開く。
「大丈夫だよ。ティラノはいいって言った」
小さな声で、モルグは答えた。チイは不満げだ。
「いつ言ったのよ。わたし、あんたといつも一緒にいるけどティラノとそんな会話を交わしたこと、一度もないじゃない」
「君が花の蜜を吸いに行ったときに決まってるじゃないか」
「ふーん。他にどんな話をするのよ。ティラノとあんた、仲良しには見えないけど」
それはひどい、とゆめは思う。モルグは体全体をゆめたちに向けた。
「仲、いいよ。ティラノとぼくは二人でいて、ひたすら黙っていても心地よくいられるんだ」
「それ、ティラノは退屈してるんじゃない? 黙ってて居心地がいいなんて、ありえない」
「君にはわからないんだ」
「わかんないわよ」
ゆめは、あーあ、と思う。二人とも、性格が違いすぎるんだ。何となく、お互いに軽蔑し合ってる感じ。
「おや、喧嘩中か?」
不意に入ってきたのはカブトだ。ティラノの口から喉を通って現れた。鼈甲飴の冠が、背中の角の周りでぐるぐる回っている。この人も空気が読めないからなあ、とゆめは苦笑する。
「喧嘩する奴はほら、わたしと見張り交代だ」
それって自分が疲れただけじゃないの? と思うが、プライドの高いカブトに逆らうと面倒くさいので、ゆめはモルグを引っつかんで立ち上がった。モルグは無言で足をぶらぶらさせている。
「ゆめも行くのか?」
と、少し寂しそうなカブト。ゆめはうなずく。
「だって、外が見たいんだもん」
「ゆめたち、上がってくるの?」
太いティラノの声。ゆめは声を張り上げる。
「うん。だから一度とまって首を下げて」
「わかった」
上手な運転手がブレーキをかけた車のように、ティラノはとまった。そして胃袋の口が降りてくる。
「ありがとう」
ゆめは肩にチイを乗せ、手にモルグを持ったまま、ティラノの喉を這った。いい匂いだなあ、と思う。何度入っても心地いい匂い。
モルグとチイは無言だ。互いを意識しあったまま動かない。面倒くさい二人だなあ。ティラノの取り合いなんてやっても無駄なのに。ゆめは目をくるりと回した。
胃袋よりもよっぽど明るい出口が見えたので、ゆめはチイをつまみ、モルグを握った手を緩め、出口、すなわちティラノの口の中にひょい、と置いた。二人の動揺する様が手に取るようにわかるが、ゆめは肩や手の中にいる小さな二人を潰しそうになってしまったので仕方がない。ゆめが遅れてティラノの舌の上に着くと、チイはティラノの大きな牙の一本の上に、モルグは舌の真ん中に、じっと立っていた。目の前にあるのはブロック塀。
「ティラノ、いいよ」
ゆめが声をかけると、ティラノの首がぐいっと上がる。ゆめは牙につかまって転げ落ちないようにする。チイは上手に飛び、モルグはティラノの舌をぎゅっと掴む。首の動きがとまる。
「絶景かな、絶景かな」
ゆめはにこにこ笑いながらつぶやいた。
朝の住宅地が、ティラノの口の外に広がっている。朝日で淡い色になった四角い建物が無数に平たく並んでいる、街。高層マンションはないし、ぽつりぽつりとしかないアパートはせいぜい五階までだし、遠くまで見渡せる。いい風景だ。
もちろん、道行く人々は困った顔でティラノを見ている。ティラノは家を壊したりはしないけれど、車道を歩くから多くの人の邪魔になる。
「ティラノ、何で地面を歩いてるの? 人の邪魔になってるよ」
ゆめが言うと、ティラノが「あ、そっか」とつぶやく。ティラノは歩き出した。とんとんとん。そのたびに風景が高くなっていく。ティラノは空を歩けるのだ。
「カブトが言ったんだよ。今日は地面に『扉』がある気がするって」
「えー? なら尚更空から探したほうがいいよね。上から見えるでしょ」
「だよねえ」
「カブトって、本当に王様だったの?」
「うるさあい」
胃袋のほうから声。ティラノは、ははは、と笑う。
「カブトはいばりん坊だけど、いい王様だったよ」
カブトはお菓子の世界にあるお菓子の国の王様だったのだという。ティラノという大きな仲間を連れて、氷砂糖の山、シナモンの砂漠、ココアパウダーの大地に育った豊かな国を巡り、皆に慕われていたらしい。カブトはマシュマロの兎や薄荷ガムの蛇やクッキーの象などの国民を上手に住み分けさせ、幸せな国を作ったのだ。
「だけど落とし穴に落ちちゃってさ」
ティラノが落ちるような落とし穴をゆめは想像する。それって、ブラックホールなんじゃないかなあ。
「気がついたらこの世界だよ」
カブトに言わせれば「味気ない」この世界のこの街に落っこちて、それからずっと「扉」を探しっぱなし。正解の「扉」はなかなか見つからない。
「わたしはね」
いきなりチイが口を挟んだ。おしゃべりのチイには楽しそうな人の会話に口を挟まないことなどできないのだ。
「お花の蜜を、ちゅうちゅう吸ってたの。吸って、吸って、吸って。顔をどんどん奥に突っ込んで行ったら体がね、するっと向こう側に抜けて。あらお花を壊しちゃったのかしらと思ってたらこの街に着いたのよ。前いたところは、鳥の帝国がいくつもある大きな星だったのよ。正義を気取った猛禽類たちと、ずる賢い烏たちがどんぱちやってたの。わたしは気候がいいし、福祉も充実してるから、猛禽類たちの国に住んでたわ。でもねえ、猛禽類たちはわたしたち小鳥にも兵役の義務を与えたり、窮屈な決まりで縛ったりするから、うんざりしてたのよね。今の暮らしのほうが楽しいわ」
聞き飽きたくらいのチイの身の上話だ。ゆめは表向きだけでも面白そうに聞く。
「ぼくはね」
小さな声。おや、モルグだ。ゆめ一人を見ているが、何となくティラノに聞かせている気がする。ゆめはモルグの身の上話を聞いたことがない。これは少し興味深い。
「ドラマーだったんだ」
ぷっ、とチイが噴き出す。ゆめが指を唇の前に立てて黙らせると、モルグはむしろ前より熱心な様子で話しだした。
「星だとか世界だとか、そんな大きなことはわからないけどね。ぼくが住んでた地底の国は音楽が盛んだったんだ。『穴掘りのマーチ』と『盲いた老モグラ』が一番の流行曲だったね。ぼくは中くらいの人気のバンドにいるそこそこのドラマーで、この国にあるのとまるきり同じ形のドラムセットを叩いていたよ。ライブハウスの観客は、ぼくらが演奏するといつもすごく熱狂してくれた。皆が地面をね、跳ねるんだ。けれどぼくはいきなりリーダーのギタリストであるエルドラドーに首を言い渡されてね、激しい喧嘩をしたんだ。エルドラドーを殴ろうとしたときだった。体がびりびりと痺れたようになって、倒れたんだ。気づいたらこの街にいた。そしてゆめたちに会ったんだよ」
「嘘くさーい」
チイが聞こえよがしに言っても、モルグは動じた様子を見せない。本当なら、実は情熱的な性格なのかも、とゆめは思う。今は首になったショックで落ち込んでいるだけなのかもしれない。
春休みの始まる前日、ゆめは親友のもえと一緒に大荷物を抱えて家まで帰っていた。小学生は終業式の日に、机やロッカーにある荷物を完全に持ち帰らなければならないのだ。もえの家の前で彼女と別れ、一人で帰っていると、晴れた空で雷の音がした。変に思って空を見上げると、まずゆめの目の前に小さな空気の切れ目ができ、「扉」が現れ、それが開いてチイが飛び出してきた。次に何か柔らかい小さなものが頭の上に落ちた。跳ね返って地面に落ちたのがモルグだった。次に、どすん、と真横ですごい音がした。見ると巨大なピンク色の恐竜、つまりは口の中にカブトを入れたままのティラノが空き地に落ちていたのだった。背中を下にし、目を真ん丸くして。
ゆめは全てを放り出し、家に帰った。家には誰もいなかったけれど、テレビがあった。テレビでは、今、様々な生き物たちが空から降ってきたことを放送していた。よくわからないものも降っているらしく、テレビの中の人たちはとても混乱していた。
「テレビってどこにでもあるのねえ」
耳元で声がするのでぎょっとして肩を見ると、チイだった。チイは簡単に名乗り、いいお家ね、と言う。モルグが目の前を這っている。何だかふらふらしている。ゆめはチイをつまみ、モルグを掴んで、玄関から外に出た。すると目の前にはピンク色のティラノ。あのう、ここはどこですか? ゆめは固まったまま、ティラノの身の上話を聞いた。マフィンのオランウータンが言ったんです。子供の元気がないから遊んでくれないかって。ぼくもカブトも約束をして、今日行くところだったんです。早く行かないと。ここはどこですか? ゆめはうなずく。何度も何度もうなずく。そして結論を出す。落とした上履き、拾ってこよう。気づかぬままチイとモルグをコートのポケットに突っ込んで、歩き出す。あのう、あのう。後ろからティラノの声。あれは幻覚だ、とゆめは考える。落し物、全部拾っておきましたよ。えっ。振り向くと、ティラノは体に対してあまりにも小さな前足に、ゆめの荷物を持っていた。上履きと、返してもらった絵や作文の類。ありがとう、とささやくように、ゆめ。どういたしまして、と、目を細める、ティラノ。この微笑みがゆめの心をゆるがせた。素敵だなあ。どこからか声がする。自分の声。このぎざぎざした歯の怖そうな恐竜、素敵だなあ。
結果、きちんと身の上話を聞き、ゆめはティラノと友達になった。ティラノはとてもいい恐竜だ。優しくて、親切。おまけに勇敢だ。誰だって好きになる。誰だって親友になりたがる。ゆめだってそうだった。ティラノにとっての一番の親友になりたかった。今日の様子を見ると、モルグも、チイもそうだったらしい。でも二人は気づかないのだ。ティラノの本当の親友に。
「鳴ってるよ」
カブトが飛んできた。もちろんカブトではない。カブトはゆめとティラノが初対面のあのとき、ティラノの胃袋の中に落ちて気絶していて、しかも会ってみれば威張り散らすので、いまいちゆめのなかでも評価は高くない。
「ケータイ鳴ってるよ」
「あ、ありがとう、カブト」
ティラノの声が弾んだようになる。そして自分の牙の一本がぴいぴい鳴っているのを前足で掴んで引っこ抜く。ゆめたちはそれをじっと見ている。
「もしもし、アロ?」
ティラノの顔は見えないけど、すごく嬉しそうなんだろうなあ、とゆめは思う。
「大丈夫だよ。君のお陰でおれたちの旅は順調だ。すぐにお菓子の国に戻れるし、皆を元の世界に戻せるはずさ。うん、うん。ははは、そうだね」
早く本題に、とゆめは願う。
「なるほど、北北西の空に『扉』があるんだね。カブトに言うよ。うん、わかってる。気をつけるよ。皆にも言う。君も『扉』探し、頑張ってくれ。じゃあね」
前足が戻ってきて、牙が元の場所に差し込まれる。ゆめたちはしんとしている。ゆめはちょっとねたましい。こんなにティラノの声を弾ませるアロが。
「聞いた? カブト」
「聞いた。その『扉』まで行ってみよう」
「わかった」
ティラノがとんとんとん、と空を駆ける。景色がどんどん変わっていく。そのうち、何かが上のほうに見えたので、ティラノが走る。とんとんとん。周りが真っ青になっていく。空の青。そして黄色いものと、赤いものが見える。ますます急ぎ足になって、たどり着くと、そこには。
「アロ」
ティラノより少し小さいくらいの恐竜が、そこにいた。体は半透明の真っ黄色。彼もまたキャンディーザウルスで、レモンキャンディーのアロサウルスなのだ。アロは目で微笑みながら無言でティラノと握手をし、
「ここなんだけどね」
といきなり本題に入った。背後には赤い巨大な木の「扉」。
「街には数箇所、『扉』がある。でもその数は百を超えないだろう。この街にいるぼくらのような者の話、地面から肉眼で空に見える『扉』の数を照らし合わせて推察すると、それくらいになる。今まで五つの『扉』の中を見てきた。毎日違う『扉』を覗けば、長くとも三ヶ月程度でぼくらの世界に帰れるはずだ。そんなに長くは感じないだろう?」
アロは賢い。そういうところがいいのかな、とゆめはティラノの口の中を眺める。
「カブトはどう思う?」
ディラノの声。カブトがうんうん、とうなずき、
「ゴー」
と言った。ゴー、でいいの? とゆめは呆れる。
「閣下のおっしゃることなら間違いがない。ティラノ、みんなのため、ぼくらのため、頑張ってきてくれ」
とアロ。彼はカブトを「閣下」と呼ぶ。何だかアロって真面目すぎてつまんない。
「うん。おれたちはやるよ。じゃあ、アロ、行ってくる」
ティラノはノブを掴んでいる。アロが手を振る。
「気をつけて」
その声と同時に、ティラノの前足はノブを回し、「扉」はゆっくり、ゆっくりと開いた。