白井家の朝
ゆめの一日は、Art Blakey and the Jazz Messengersの「MOANIN’」から始まる。ゆめ自身はジャズになど全く興味がないし、むしろ渋すぎて何がいいのだかわからないのだが、朝一番に大音量で聞こえてくるのが「MOANIN’」の寂しげなピアノの音なのである。ピアノ、トランペット、ドラム。あとはわからないけれどとにかくバンドがゆったりした音楽を奏でているのだが、寝床のゆめに聞こえてくるのは大音量のそれなのだ。迷惑極まりない。
「お母さん。お母さーん!」
ベッドから飛び降りたゆめが叫ぶと、廊下を挟んで向かいの部屋から「うーん」というくぐもった声が応えた。ゆめは厚手の綿のパジャマを脱ぎ捨てながらまた呼ぶ。
「お母さん、うるさいよー!」
うーん、わかった。それだけ聞こえて、ゆめは呆れながら今日の服を着た。色あせたジーンズに丈の短い紺色のワンピース。最近は走ったり転んだりが多いから、これくらいの動きやすい格好がいい。ただしおしゃれは怠らない。
「お母さん、いい加減起きてよ」
ドアの向こうで静かな、かすれた声が聞こえた。感情がこもってないように思えるが、明らかに苛立っている。ゆめの兄の悠二だ。
「毎朝お母さんを起こすの、うんざりなんだけど。それにこの曲。もっと起きやすい曲を目覚ましにしたら?」
「起きるわよう」
やっと明瞭な母の声が聞こえてきた。「MOANIN’」が途切れるようにしてとまる。ゆめはほっとしながら小さな折りたたみ式鏡の前で髪をブラシで梳く。長い猫っ毛がからまる。人より色素の薄いゆめは、小学生なのに茶色の髪と目をしている。ヨーロッパ系の血は入っていないから、顔立ちは日本人だ。大きくて優しい目をしていて、口元はとても幼い。それでもしっかり者なので、朝の支度は自分でできる。梳いた髪を完璧なポニーテールにして、よし、とつぶやくと、部屋を出た。途端に母とぶつかりそうになる。母の友子は髪が乱れ、スウェットの上下を着ていて、顔色は悪く、目は虚ろだ。
「おはよ、ゆめ」
「おはよう、お母さん」
ゆめの元気な様子に気圧されたようになりながら、友子は笑ってゆめの後を追った。階段を降りながら、彼女は長いあくびをする。
「春休みなのに、二人とも早起きねえ」
「お母さんは仕事でしょ?」
「仕事。うんうん、仕事ねえ」
「わたしは友達と約束があるし、お兄ちゃんはお母さんのご飯を作らなきゃいけないでしょ?」
「できた息子よう」
「わたしは?」
「かわいい娘。うんうん。ところで最近いつもどこ行ってるの?」
「えーっと、色々だからわかんない」
「危ないとこには行かないでね」
「はーい」
一階に着いたあともこうして話しているものだから、悠二の雷が落ちた。
「お母さん、ゆめ、早く朝ごはん食べてくれよ。お母さんはいつもぎりぎりなんだから、急げよな。化粧の時間はたっぷりの癖に」
悠二の声は枯れたようになっている。声変わりの時期なのだ。そのためか、最近友子にもゆめにも冷たい。反抗期だろうかとゆめたちは考えている。
「はいはい。食べるわよ」
友子がゆめに目配せをしながら台所に入った。テーブルには焼き魚と味噌汁とご飯がきっちり三人分ある。悠二は黒縁眼鏡をかけた色白の顔を二人に向けた。にらんでいる。服装もきちんとしていて、まるで真面目なサラリーマンのようだ。
「いただきまーす」
その目を避けるように、友子は食事を始めた。ゆめはそれを横目に洗面所に入って顔を石鹸で洗う。濡れた顔をタオルで拭いて、すっきりしてからテーブルに着く。いただきますを言うと、無言で食べ始める。
「おいしかった。さすがは悠二」
友子が立ち上がる。彼女は早食いだ。さっさと洗面所に支度をしに行ってしまう。
「お世辞はいいから急げよな」
悠二はぶつぶつと文句を言いながら味噌汁を口に運ぶ。
「顔洗って、歯磨いて、髪ブローして、化粧して。お母さんは手間がいるのにのらくらしてるんだよ」
「はいはい小姑みたいなことを言わない」
友子はいつの間にかしゃっきりした声になっている。支度をしていくうちに目が覚めてきたのだろう。
「結婚できないよー。そんなに細かいと」
「離婚された癖によく言うよ」
悠二が小さくつぶやくと、母は洗面所から乳液でてらてら光る顔を出して、にっと笑う。全くもう。ゆめは無言でため息をついた。
三人暮らしには慣れた。ゆめが六歳のときに父は出て行ったが、ゆめにはあまり彼の記憶がない。多分家にいなかったからだ。父は写真家で、珍しいものを撮る習性があったというのが友子の弁だ。父は出て行ってすぐにヘリコプターの墜落事故で行方不明になってしまった。だから両親の離婚後に父と会うということはほとんどなかった。だから余計に何も感じないのだ。楽しい記憶も、悲しい記憶もない。でもそれは幸せなのかもしれない。記憶が邪魔になることがあるということを、ゆめはやっと知り始めていた。
「おい、ゆめ」
悠二が立ち上がり、皿をシンクに置いてから振り返った。ゆめがきょとんと彼を見る。
「お前の友達、今日も来るの?」
「来るよ」
「ふーん」
「一緒に来る?」
ゆめがにっこり笑って尋ねると、兄は首を振った。
「おれはさ、おれは。……用事があるから」
「あ。……デート?」
「聞こえたらどうすんだよ。まあ、そうだけど」
「彼女と一緒に来ればいいじゃん」
「できるか? 彼女と一緒に、妹と、妹の変わった友達のとこ行って遊ぶとか」
「できないの? つまらん男だねえ」
「こいつ」
悠二は眼鏡の奥からじっとゆめをにらんでから、皿洗いを始めた。ゆめはその後姿を見ながら、悠二の恋人は彼のどこがそんなにいいのだろう、と思った。勉強はできる。運動もそこそこ。顔も悪くない。でも、神経質だし、何より服装が十三歳に見えない。そんなによくないよなあ。わたしなら、嫌。
食事を終え、悠二が洗い物をしているシンクに皿を置く。そして化粧中の友子を横にどかし、歯磨きを始める。友子は右の目が完成し、今は左の目の睫毛にマスカラを塗っているところだ。未完成の顔って何て変なんだろう、とゆめは思う。友子のぼさぼさの髪はきれいに梳かしつけられて焦げ茶色に光っている。けれど顔が中途半端な状態なのでおかしいのだ。化粧って変だ。わたしはしないだろうな。ゆめはそう考えながら友子を観察する。
「あんまり見ないでー。化粧中の顔って見られたものじゃないんだから」
友子にも自覚はあるようだ。
ゆめは歯磨きを終え、なお化粧を続けている友子を残し、台所に戻る。悠二はテーブルを拭いている。ゆめは椅子に座って足をぶらぶらさせる。
まだかなあ。まだかなあ。
「お母さんが出かけてからだよ」
悠二が眼鏡を直しながら席に着く。おや、こちらのことをずいぶん把握しているじゃないかとゆめは思う。
「あいつら、お母さんを避けてるみたいだからな」
「遅刻遅刻―!」
友子がやっと洗面所から出てきた。首から上は準備完了のようだ。ゆめと悠二はそれを目で追う。友子はどたどたと廊下を走って二階に上がり、五分ほどで服を着てバッグも携え降りてきた。あっという間に完璧になったなとゆめは感心する。
「いってきまーす!」
台所に姿を見せぬまま、友子は玄関を飛び出した。少ししてから車のエンジンの音がして、やがて完全に遠くに行ってしまった。
「ふう」
悠二がため息をつく。ゆめは彼を見ながら、反抗期とやらはそんなに親が嫌いになるものなのかと考えてみた。不思議だ。だって友子は悠二を今まで散々世話をしてくれて……ないか。逆に悠二が友子を世話していたのだった。家事は全般悠二の仕事だ。
「立派な兄だねえ」
「何だよいきなり」
悠二が顔をしかめる。ゆめが説明しようとしたときだった。玄関のチャイムが鳴る。
「ゆーめーちゃーん。遊びましょー」
バグパイプのような声。ゆめがいきなり立ち上がって、
「来たあ!」
と叫んだ。悠二がちょっと笑う。
「行って来いよ」
「言われなくとも!」
玄関に向かって走り出す。家が狭いからすぐに到着する。ドアを開けると。
「ゆめ。おはよう」
目の前がショッキングピンクだ。全てピンク。透明感がある。おまけに甘酸っぱい匂い。声の主は一歩後ろに下がってゆめに姿を見せた。住宅街と青い空を背景にした見事なキャンディーザウルス。ティラノサウルスの形をしたイチゴ味キャンディー。生きている。キャンディーが、生きている。
「おはよう、ティラノ」
ゆめが笑顔を向けると、ティラノは目を細めた。
「いい天気だね。暖かくなってきた」
「わたしは溶けそうだ」
ティラノの口の中からカブトムシが飛び出してきた。ゆめの肩にとまる。チョコレート製のカブトムシ。ティラノとはまた違った甘い匂いがする。
「おはよう、カブト」
カブトは背中の小さな角に、鼈甲飴の冠を引っかけている。
「毎朝言ってるような気がするが、わたしは王様なのだからもっと敬意を払って挨拶するべきだと思うが」
「はいはい」
ゆめはにこにこ笑っている。
「で、ゆめ」
ティラノが首をかしげた。
「またおれに食べられてくれる?」
「いいよー」
ゆめが一歩ティラノに近づく。
「ようし、それじゃあ」
ぱくり、とティラノはいきなりカブトごとゆめを食べた。
「うん」
ティラノは一人うなずくと、朝の住宅街をゆったりと歩き始めた。