スティージェ
救いはあると信じたい
第一次世界大戦が終わって、負けたドイツは多額の賠償金を負わされ、経済も停滞していたが、まずまずの小康状態を保っていた。
アドルフはユダヤ人であった。
彼の父は金貸しをやっていたが、アドルフは父の職業が嫌でたまらなかった。
「金に汚いユダヤ人」という、世間のイメージにぴったり当てはまるように思えたからだ。
彼は父の仕事を継ぎたくはなかった。もっとも、今のドイツはかつてないほど経済が危機的な状況なので、父の仕事もあまりはかどってはいないようだ。
アドルフは画家を目指していたが、父はあまりいい顔をしなかった。
父は言った。
「アドルフ、画家なんて不安定な仕事はやめろ。金融業の方がいいぞ。お前もいずれ家族を養わなければならないんだから」
アドルフは言った。
「僕は嫌です。金貸しなんて良い職業じゃないし、誰からも好かれないじゃないですか」
「画家なら好かれるとでも言うのか?
どのみちユダヤ人はヨーロッパ人からは好かれやしない。」
「なんでそんな事言うんですか。今は昔と違って、ヨーロッパ中でユダヤ人が活躍してるじゃないですか。
政治家も画家も音楽家もいますし、先の大戦ではユダヤ人もドイツ兵として戦ったじゃないですか。
今さらそんな、昔ながらの金融業なんて嫌です。偏見を広げるだけだと思います。」
「どんな仕事をやろうと偏見を受けるのは同じだ」
「今はそんな時代じゃありませんよ。昔のような、宗教のために殺し合うような狂信的な時代とは違って、今は啓蒙された時代ですからね。
イスラム世界や、東欧なんかとは違って、ここは西欧ですからね」
「本気でそう思っているのか?最近また暴力事件が起こっているじゃないか?」
「一部の人間がやっているだけですよ。また昔のような迫害が起こるとは思えませんし、思いたくもありません」
戦後になって、ドイツには傷痍軍人や失業者があふれていた。最近のニュースでは、元軍人が左翼活動家やユダヤ人に暴力を振るう事件をよく聞くが、でもそれは戦後のことでもあるし、あの敗戦をみな不満に思っていて、誰かに不満をぶつけたがっているのだろう。
アドルフ自身、第一次大戦に兵士として参加したので、その気持ちはわからないでもない。彼らは、ドイツが負けたのは左翼活動家や、ユダヤ人の陰謀のせいだと思っているのだ。
噂では、暴力事件で殺された左翼活動家にはユダヤ人が多いとも聞いて、アドルフは少し不安を感じもしたが、それはそんな活動をしている者が悪いのであって、ユダヤ人だからというわけではないだろう。
自分はドイツ兵として戦ったのだ。自分が憎まれるはずはない。
美術学校に行ったが、最近では生徒も減ってしまった。皆、絵など描いている余裕はないのだろう。アドルフが絵を描いていると、どこからか声がした。
「こんな時代に絵を描いていられるなんて、金持ちは良いねぇ」
アドルフはそちらを見たが、誰が言ったかは分からなかった。そもそも自分に言ったのかも分からない。
アドルフは苛立った。
明言はしなかったが、言外に
「ユダヤ人だからな」
という含みがあるように感じてしまう。それとも気にしすぎだろうか?
そう、現代は狂信的な中世時代とは違う。
今は啓蒙された時代なんだ。
アドルフは画面に赤い色を塗った。
赤…
かつて、中世時代には「血の中傷」というものがあった。
いわく、ユダヤ人はキリストを死刑にして以来、全て持病に悩まされている。そのため、ユダヤ人は毎年ひそかに共謀して儀式的殺人を行い、キリスト教徒の子供をさらって殺し、その血を使って病気の症状を食い止めるのだと、かつては広く信じられていた。
今から考えると馬鹿馬鹿しい迷信だが、かつてはその迷信のために、多くのユダヤ人が殺された。
中世、あるキリスト教徒の子供がユダヤ人居住区の近くで行方不明になり、後に死体で発見された時、ユダヤ人やユダヤ人の長老たちは、怒り狂った暴徒の群れに殺されたのだった。
似たような事件は、子供が行方不明になるたびに起こった。
でも今は、そんな迷信を信じる者などいないはずだ。今は中世時代ではないし、今だに同じような暴力行為が頻発する、東欧のような後進的地方でもない。
ここは西欧だし、ドイツだ。ドイツは多くのユダヤ人にとって祖国であり、西欧のユダヤ人の中心地の一つだ。ドイツ自体、ユダヤ人抜きでは回らない国ではないか?
多少の暴力事件ならともかく、大きな迫害など起こらないはずだ。人類は歴史から学ぶはずだ。進歩するはずだ。
家に帰ると、父が宝石を数えて、金庫に収めていた。
アドルフは父のそんな所が嫌いだったし、恥ずかしかった。だからユダヤ人は金に汚いと言われるのではないか?
父がいつも、金や宝石の指輪や、ネックレスを身に付けているのも嫌だった。
アドルフは言った。
「父さん、その指輪をつけるのはやめた方がいいんじゃないですか。今は不況で、皆お金に困っているのに」
父は言った。
「俺がお金に困っているわけじゃない」
「そういう態度が反感を買うんじゃないですか」
「反抗的な息子だな、お前は!
ユダヤ人が金や宝石を持ち歩くのは、いつでも財産を持って逃げられるようにするためだ。
お前は、この国が俺たちの安住の地だと思ってるようだが、それは間違いだ。
俺たちには安住の地などない。あるとすれば、聖地だけだ。それも今は、俺たちの土地じゃないんだからな。
あの自由の国と言われるフランスでさえ、ドレフュス事件があっただろうが。」
アドルフはそれ以上父に反論しなかったが、心の内では反発した。父は昔ながらの考えにとらわれすぎている。
この国に安住する気がないから、この国の方も受け入れてくれないのではないか?
自分から歩み寄らなければ駄目だ。自分は父と同じ道は歩まない。過去のユダヤ人達とも、違う……
ドレフュス事件とは、かつてフランスで、軍人だったユダヤ人のドレフュスが、ドイツのスパイ容疑で、大した証拠も無いのに有罪判決を受けたことにまつわる事件である。
ドレフュスは終身刑を受けて島流しにされたが、その不公平な判決に反対する運動がフランス国内で起こり、フランス世論はドレフュス側と反ドレフュス側で真っ二つに割れた。結局裁判はやり直され、証拠があがってドレフュスは無罪判決を受けた。
しかしこの事件は、後々まで影を落とすことになった。ドレフュスの無罪判決は、保守的なフランス人の、フランス社会がユダヤ人に毒され、政府もユダヤ人に操られているという考えに確証を与えたからである。
この事件で保守派から恨みを買ったフランスのユダヤ人は、その後のナチス占領時代のフランスで、ナチの対ユダヤ人政策に協力するフランス人組織によって殺されたのだった。
やがて父は亡くなった。
絵がさっぱり売れないので、いやいやながらアドルフは父の仕事を継いだ。金を借りる人々は恨みがましい態度でアドルフに接し、アドルフは心が痛んだ。早く何か、別の仕事をしたい。
最近ショックなことがあった。
本屋に行った時、ある本を見つけた。最近ヨーロッパ中で流行っている本らしい。
「シオンの長老たちの議定書」
という本で、ユダヤ人の長老たちの秘密の会議で出された議定書が、世間に流出したものだという。
この議定書を読むと、ユダヤ人がひそかにヨーロッパの歴史を操り、世界をも操ろうと企んでいることが明らかになっている。
アドルフは愕然とした。自分もユダヤ教会堂に行っているが、ユダヤ人の上層部でそんな陰謀が巡らされているとは知らなかった。もしかして、自分もその駒に使われていたのか?
しかし、数日悩んだ結果、どうやらこれはデマらしいと思い至った。
多分これは、「血の中傷」や、最近ロシアで起こった共産主義革命が、ユダヤ人の陰謀によるものだという説と同じ類のものだろう。
とはいえ、結局の所は分からない。そういう陰謀、絶対無いとも言いきれない。そうでないとすれば、偽の文書がヨーロッパ中で流通している事になる。
そんな事があり得るのだろうか?
実際、この文書は偽書であった。この文書は、ロシアがまだ帝政だった時代に、ロシア秘密警察が、皇帝にユダヤ人迫害の口実を与えるために作ったのだった。皇帝はそれに乗せられなかったが、当時多くの人がその内容を信じた。
この本を大いに利用したヒトラーは、それが偽物だと分かった後も、「偽物でも、内容は本物だ」と言っていたのである。
アドルフが駅に行って、電車を待っていると、茶色のシャツを着た若者の群れが、反ユダヤのスローガンを叫びながら行進していた。
アドルフは無関心な風を装って、自分がユダヤ人だと気付かれないようにした。幸い自分は黒髪でも縮れ毛でもないので、黙っていれば分かるまい。
それにしても最近は、茶シャツの連中をよく見かける…
少し不安になったが、まさか理性的なドイツ人が、全員あの類のデマを信じたりはしないはずだ。最近はデマだとも言われ始めているし、多分…、いや、きっと……
やがて例の茶シャツの連中…つまりナチスが政権を取り、大戦が始まり、ユダヤ人の歴史でもかつてない程の迫害が始まった。
アドルフの家は破壊され、財産は没収されて、アドルフは無一文になって強制収容所にぶち込まれた。
信じがたい大量殺戮の情報が次々流れてきた。信じがたい、しかし、現に自分がこういう目にあっているのだから、あり得ないではない。現に、それを自分は見てしまった。
収容所に入って以来、毎日毎日、毎時毎分毎秒、いつ訪れるか分からない突然の暴力、突然の死、拷問、寒さと飢えと病気のために、アドルフはまともにものを考えることができなくなった。
前触れもなく突然ぶち切れて暴力を振るう、看守や親衛隊におびえ、罵られながら、苦痛と屈辱の日々を、現実とは思えない一刻一刻をやり過ごすうち、繰り返し繰り返し記憶に浮かび上がってくるのは、以前見た、ナチスの製作した宣伝ポスターだった
ポスターは、ユダヤ人の子供を学校から追い出そうと訴えるものである。
黒く醜く、人間というより悪鬼のように描かれたユダヤ人の子供らが、長い列を作って、光り輝く、健全なドイツ人の子供らの学校から追い出されている。
ユダヤ人の子供らは学校の塀の下を通って追い出されているのだが、邪悪な種族にふさわしく、諦めの悪いユダヤ人の餓鬼の一人は、塀の上で見ているドイツ人の子供らの一人の、女の子のおさげ髪を引っ張っている。
髪を引っ張られて悲鳴を上げている少女の隣には、正義感に燃えるドイツ人の少年がいて、義憤を顔に表し、髪を引っ張っている邪悪なユダヤ人の餓鬼の上に正義の拳を振り下ろそうとしている……義憤…義憤!!
ああ、人間には奪われるものが数多くあるが、正義を奪われる事ほど惨めな事はない。今まさに踏みにじられ、蔑まれ、殺されようとしている自分こそが憎むべき邪悪で、自分を踏み潰し殺していく敵こそが正義なのだと、そう思い知らされること程には。
そうだ。何が一番耐えがたいか、許しがたいかと言って、敵が自分に対して「本気で」怒っていることが一番耐えがたい。
まるで自分が正義に対して、許しがたい大罪を犯したかのように、いや、自分の存在そのものが許しがたい大罪ででもあるかのように「本気で」敵が義憤に燃えて、怒り狂っているのを見る時ほど、心が冷えきって、絶望を感じる時はない。
寒さと飢えで朦朧としたアドルフにある日、収容所の仲間が陰謀を持ちかけてきた。今度は本物の陰謀で、収容所で反乱を起こそうというものだ。
アドルフは乗った。昔の自分なら決して乗らなかっただろうが、今や全てが変わっていた。
計画通り、親衛隊を殺して、多少の武器を奪う事ができた。しかし、思ったよりわずかな武器しかなく、鎮圧のためにドイツ兵が大量に送り込まれてきた。
アドルフ達は地下道に立てこもって数日戦ったが、すぐ限界が見えてきた。
毎日雨あられと銃弾を浴びせられ仲間はバタバタと死んでいき、追い詰められ残った仲間は数人、こちらの弾薬も尽きそうだ。
また相手の攻撃が始まった。今日で、きっと全て終わる。
目の前に現れたドイツ兵を、アドルフは即座に撃ち殺した。彼はアドルフの目を食い入るように見つめながら死んでいった。
ああ、俺も昔はドイツ軍の一人だったのになあ。アドルフは笑いが込み上げてきた。
また、敵は銃弾の雨を浴びせてきた。アドルフ達は撤退して弾薬を確かめたが、もう二発しかない。
だが幸い、手榴弾が一つ残っている。
どうせなら奴らを引き付けて、一人でも多くの敵を道連れにして死にたいものだ。
足音が聞こえる。そうだ、来い、もっと近くへ…!また中世のように、古代のように、憎しみと、殺戮と、血と肉の海の中で死んでいこうじゃないか!アドルフは声を立てずに笑った。
そうだ。人類は決して進歩しないし、決して歴史から学びもしない。永遠に啓蒙されたりはしない。そんな啓蒙なんてものは、人類が進歩するなどと、かつて俺が信じた事こそ迷信だ。中世の迷信にも劣る迷信だ。
この世は永遠に同じ戦いを繰り返す修羅道だ。今回の殺戮、ドレフュス事件、「血の中傷」…それ以前にも同じ事が何千回も何万回も繰り返されてきたし、きっとこれからも繰り返されていくのだろう。それならせめて、一人でも多くを道連れにして、この世界から解放してやろうじゃないか。
それとも、死んだらまた地獄に落ちて、ダンテの描いた地獄でやっていたように、永遠に戦い続けることになるのかな?
そして、手榴弾の紐を引いた。
完
タイトルのスティージェとは、ダンテの神曲に出てくる地獄の沼で、そこでは亡者達が永遠に互いに闘争を繰り返しています。