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この物語はすでに終わっている

作者: だんご
掲載日:2026/04/11

この物語は、すでに終わっている


                   *


 雨が降っている。

 当然だと思った。こういう日には雨が降るものだし、雨が降らなければこういう日にはならない。だからこれは正しい雨だ。正しい雨の降る、正しい日だ。

 そう思わなければ、立っていられなかった。


 焼香の列に並びながら、俺はずっと棺を見ていた。白い布で覆われている。顔は見えない。損傷が激しいから見せられない、と葬儀屋が言った。母親が泣き崩れたのはその説明を受けたときで、父親のほうは何も言わなかった。ただ一度だけ頷いて、それきり口を開かなかった。

 俺の前に三上がいた。三上は焼香のとき、妙に長く手を合わせていた。唇が動いていたから、何か言っていたのだろう。何を言っていたのかは、聞かなかった。聞けなかった。

 園田は列の最後尾にいた。遅れてきたのか、それとも最後尾を選んだのか。腕を組んで、誰とも目を合わせなかった。式場に入ったとき、一瞬だけ俺と目が合った。すぐに逸らされた。

 式場の窓から海が見えた。防波堤の先端が、雨に煙ってぼやけている。あの先に何があるか、俺は知っている。灰色のテトラポッドが積まれていて、その下は岩場で、満潮のときには波が岩を叩く。そういう場所だ。そういう場所で、あいつは死んだ。

 棺の中の人間の顔を思い出そうとした。だが浮かんでくるのは笑った顔だけだった。妙だな、と思った。あいつはそんなに笑う人間じゃなかった。どちらかといえば無表情で、感情が顔に出ないタイプだった。なのに今、俺の頭の中にあるのは笑顔だけだ。

 読経が響いている。

 俺は目を閉じた。雨の音と、読経と、誰かの嗚咽。それだけが世界のすべてだった。

 ふと思った。

 この葬式は、誰のためのものだろう。

 死んだ人間のためか。残された人間のためか。それとも、ここに並んでいる全員が、自分自身を弔っているのか。

 答えは出なかった。

 棺の中の顔は、最後まで見えなかった。


                   *


 三上が話したのは、葬儀のあとだった。

 喫煙所で煙草を吸いながら、三上は防波堤のほうを見ていた。雨はまだ降っていたが、小降りになっていた。


「あいつは笑ってたよ」


 唐突だった。俺は何も聞いていなかった。聞いていなかったのに、三上は話し始めた。まるで、聞いてもらわなければ自分が壊れるとでもいうように。


「最後に会ったとき。三日前かな。駅前のコンビニで偶然会った。久しぶり、って声かけたら、笑ってた。すげえ穏やかな顔でさ。ああ、こいつこんな顔するんだ、って思ったくらい」


 三上は煙を吐いた。


「で、ちょっと話した。大したことじゃない。最近どうだとか、仕事どうだとか。そしたらあいつ、こう言ったんだ」


 三上の声が、わずかに震えた。


「『もう決めたから』って」


 俺は黙っていた。


「何を決めたのか聞いたら、笑ってはぐらかされた。でも今思えば、あれは――自分で選んだってことだろ。全部わかってて、自分で決めて、だから笑ってたんだ」


 三上は煙草を揉み消した。指が震えていた。


「あいつは、自分で選んだんだよ」


 断言だった。確信ではなく、そう信じなければ耐えられないという種類の断言だった。俺にはわかった。三上は自分を責めている。最後に会ったのが自分で、そのとき止められなかった自分を、許せないでいる。だから「自分で選んだ」という物語が必要なのだ。止められなかったのではなく、止める必要がなかったのだと。あいつが自分の意志で歩いていったのだと。そう思わなければ、三上は立っていられない。

 俺は何も言わなかった。

 三上の煙草の煙が、雨に溶けて消えた。

 防波堤の先端が、まだ霞んでいた。


                   *


 園田に会ったのは、翌日だった。

 葬儀には来ていたのに、通夜には来なかった園田が、俺に連絡をよこしたのだ。話がある、と。場所は駅前のファミレスだった。


 園田はアイスコーヒーのストローを噛みながら、苛立ったように言った。


「事故だよ」


 開口一番がそれだった。


「三上が何言ってたか知らないけど、あれは事故だ。自殺なんかじゃない」


 俺は、三上の話をしていない。園田に伝えてもいない。なのに園田は「三上が何を言ったか」を知っているような口ぶりだった。


「あの日は雨だった。防波堤は濡れてた。あいつは昔からあそこが好きで、よく一人で行ってた。足を滑らせたんだ。それだけだ。何の選択でもない」


 園田の声は硬かった。怒りに近い何かがあった。


「あいつを知ってるだろ。そんなことする人間じゃない。絶対にしない。笑ってた? だから何だよ。笑ってたから死を選んだ? そんなの後付けだろ。死んだあとに意味をくっつけてるだけだ」


 園田はストローを離した。テーブルの上の水滴を指でなぞった。


「あいつは死にたくなかったはずだ。死ぬつもりなんかなかった。ただ滑ったんだ。運が悪かっただけだ」


 それも断言だった。三上と同じだ。園田もまた、自分の物語を必要としている。事故だと信じなければ、園田は別の結論に辿り着いてしまう。その結論が何なのか、俺にはわからなかった。いや、わかりたくなかった。


「なあ」


 園田が俺を見た。初めてまっすぐに。


「お前はどう思う」


 俺は答えなかった。

 答えられなかった。

 俺にはどちらの物語も選べなかった。三上の「自分で選んだ」も、園田の「ただの事故」も、どちらも正しくて、どちらも間違っている気がした。あるいは、どちらも正しくないのかもしれない。

 園田はしばらく俺を見ていたが、やがて諦めたように視線を落とした。


「……お前、あの日どこにいたんだよ」


 その問いに、俺は何も答えなかった。


                   *


 日記は、遺品整理のときに出てきた。

 母親が「持っていってほしい」と言った。あいつの部屋にあったものの大半は処分するが、日記だけは誰かに読んでほしい、と。なぜ俺なのかはわからなかった。俺とあいつの関係を、母親がどこまで知っていたのかもわからなかった。

 大学ノートだった。表紙に何も書かれていない。中を開くと、日付のない文章が断続的に続いていた。日記というより、思考の断片に近かった。


 最初のページ。


『海が見たいと思った。理由はない。ただ見たいと思った。防波堤の先端に座って、水平線を見ていると、世界が単純に思える。ここと、あそこ。陸と、海。生きているものと、そうでないもの。境界線は見えている。見えているのに、越えられない。越えようとも思わない。ただ、見ている。それだけでいい。』


 三ページ飛んで、別の日。


『三上に会った。元気そうだった。元気な人間を見ると安心する。自分がいなくても世界は回る、ということの証明だから。園田には会っていない。会いたくないわけじゃない。会えば話すこともある。ただ、園田と会うと、自分のことを考えなければならなくなる。今はそれが面倒だ。』


 さらに数ページ飛ぶ。

 筆圧が変わっている。文字が小さくなり、行間が詰まっている。


『あの日、私は間違えた。

 取り返しのつかないことをした。

 でも、それが何だったのか、うまく言葉にできない。言葉にした瞬間に、それは「間違い」として固定されてしまう。固定されたら、もう動かせない。動かせないものを抱えて生きていくのは、


 そこで文章は途切れていた。ページの下半分は白紙だった。次のページも白紙だった。その次も。

 最後のページだけ、一行だけ書かれていた。


『ごめん。』


 誰に向けたものかわからなかった。

 俺は日記を閉じた。

 指が震えていることに気づいた。

 なぜ震えているのか、自分でもわからなかった。いや――わかっていた。この筆跡を、俺は知っている。知りすぎている。どこで見たのかは思い出せないのに、手が覚えている。目が覚えている。この丸みを帯びた「あ」の字を。この癖のある「私」の崩し方を。

 知っている。

 なぜ知っている。


                   *


 朝、目が覚めると、光が差していた。

 カーテンの隙間から入る光が、畳の上に細い線を引いている。ああ、いい天気だ、と思った。洗濯物を干そう。昨日の分がまだ残っている。

 台所に立って、コーヒーを淹れた。インスタントだ。マグカップに湯を注いで、スプーンでかき混ぜる。砂糖は入れない。昔は入れていた。いつからだったか。誰かに「ブラックのほうがうまいぞ」と言われて、それからだ。

 誰だったか。

 テーブルの上に、新聞が置いてあった。日付を見た。八月十七日。水曜日。

 窓の外では蝉が鳴いている。

 食パンを焼いて、バターを塗って、かじった。テレビをつけた。朝のニュースをやっている。キャスターが今日の天気を伝えている。「今日も全国的に晴れ、最高気温は三十五度を超える見込みです」。

 当たり前の朝だった。何の変哲もない。


 携帯が鳴った。

 画面を見ると、三上からだった。「今日暇? 飯行かない?」。俺は「いいよ」と返した。それから園田にも連絡しようと思って、連絡先を開いた。

 園田の名前の横に、小さく「最終通話:八月十四日」と表示されていた。

 八月十四日。

 三日前。

 三日前に園田と話した記憶がなかった。だが記録はある。十七分間の通話。何を話したのか、まったく思い出せなかった。

 それから、もう一つ気づいた。

 テーブルの上の新聞。八月十七日。水曜日。

 今の季節は――

 窓の外を見た。

 蝉は鳴いていない。

 さっきまで聞こえていたはずの蝉の声が、消えている。外は曇っていた。光など差していなかった。カーテンの隙間から見えるのは、鈍い灰色の空だけだった。


 新聞をもう一度見た。

 日付が読めなかった。

 いや、読めるのに、意味が取れなかった。数字が数字として認識できない。紙面の文字がすべて他人の言葉のように見えた。ここに書いてあることは本当のことなのか。この日付は正しいのか。今日は本当に今日なのか。


 マグカップの中のコーヒーは、冷めていた。

 いつから冷めていたのか、わからなかった。

 どのくらいここに座っていたのか、わからなかった。


 携帯をもう一度見た。

 三上へのメッセージ。「いいよ」。

 送信済みになっている。

 だが既読はつかなかった。


                   *


 手紙が出てきたのは、日記と同じ引き出しからだった。

 茶封筒に入っていた。宛名はない。差出人もない。封はされていなかった。中に便箋が一枚。万年筆で書かれていた。


『許してほしい。

 こんなことを言う資格がないことはわかっている。許されるべきではないことも。それでも書く。書かなければ、この感情が腐る。腐ったまま残るのは耐えられない。

 あの日、正しい選択肢があった。正しいほうを選べた。わかっていた。わかっていたのに、選ばなかった。選ばなかったのではなく、選べなかったのだと言いたい。だが嘘になる。選べた。選べたのに、選ばなかった。その違いを、自分はずっと抱えて生きていく。

 許してほしい。

 でも、許さなくていい。

 許されないまま、それでも生きていくことが、自分にできる唯一のことだと思うから。

 ごめん。ごめん。ごめん。

 もう会えない。

 会えないとわかっているから、書いている。

 届かないとわかっているから、書いている。

 これを読む人間が誰なのかもわからない。自分かもしれない。お前かもしれない。誰でもないかもしれない。

 でも、どうか。

 覚えていてほしい。

 あのとき、世界は確かにあたたかかった。

 防波堤の先端で、二人で海を見たあの日。風が強くて、波が高くて、それでも空は晴れていた。お前が「きれいだな」と言った。俺は何も言わなかった。何も言わなかったことを、今でも後悔している。

 あのとき、俺も同じことを思っていた。

 きれいだった。海も、空も、隣にいたお前も。

 それだけだ。

 それだけのことを、言えなかった。

 それが、俺のすべてだ。』


 便箋を持つ手が震えていた。

 これは誰が書いたのか。

 誰に宛てたものなのか。

 「お前」とは誰のことか。

 俺のことか。

 それとも。

 読み返した。三回読み返した。読むたびに、意味が変わるような気がした。最初は別れの手紙だと思った。次は遺書だと思った。三回目に読んだとき、これは告白だと思った。何の告白かは、わからない。罪の告白か。感情の告白か。それとも、もっと別の何かか。

 万年筆のインクは青だった。

 あいつは、青いインクを使う人間だっただろうか。

 思い出せなかった。


                   *


 記憶が壊れ始めている。


 防波堤。

 防波堤の先端。

 テトラポッドの隙間。

 灰色の海。


 あの日。

 あの日、俺は


 あの日、俺はあそこにいた。いなかった。いたのかもしれない。いなかったのかもしれない。記憶がうまく繋がらない。あそこに立っていた。風が強かった。波の音がした。足元が濡れていた。コンクリートの匂い。潮の匂い。


 隣に誰かがいた。


 隣に誰かがいた。


 隣に誰かがいた。


 名前を呼ぼうとした。口が開かない。名前が出てこない。顔は見えている。見えているのに、焦点が合わない。ぼやけている。雨なのか。涙なのか。それとも、最初からそういう顔だったのか。


 風の音。

 波の音。

 それから、


  それから、


 誰かの声。

 「やめろ」と言ったのか。

 「行くな」と言ったのか。

 「待て」と言ったのか。


 あるいは。

 何も言わなかったのか。


 何も言わなかった。何も言えなかった。口を開いたが、声が出なかった。手を伸ばしたが、届かなかった。届かなかったのか。伸ばさなかったのか。


 足元が濡れていた。

 コンクリートが灰色だった。

 海が灰色だった。

 空が灰色だった。

 すべてが灰色だった。


 その中で、一つだけ色があった。


 何の色だったか。思い出せない。赤だったか。白だったか。あるいは、色などなかったのか。


 記憶が壊れている。

 壊れているのか、最初から存在しなかったのか。

 あったはずのものが消えたのか、なかったものを「あった」と思い込んでいるのか。


 わからない。


 わからない。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 防波堤の先端に、俺は立っていた。


 そこからの景色を、俺は知っている。テトラポッドの配列。岩場の形。波の砕ける角度。満潮線の位置。すべて知っている。何度も見た景色だから。何度も立った場所だから。


 なぜ何度も立ったのか。

 なぜあの場所に通ったのか。


 答えが出かけて、消える。出かけて、消える。出かけて、


                   *


 ここまで読んで、おそらく一つの仮説が浮かんでいるだろう。

 言ってやろうか。


 俺があいつを殺した。


 そうだろう。そう思っただろう。防波堤の先端で、俺はあいつの隣に立っていた。風が強かった。足元が濡れていた。俺は手を伸ばした。伸ばして、


 押した。


 そう考えれば、すべて辻褄が合う。三上の証言も、園田の証言も。あいつが笑っていたのは、俺と一緒にいたからだ。「もう決めた」と言ったのは、俺と会う約束をしていたからだ。園田が「事故だ」と言い張るのは、真実を知っているからだ。俺が犯人だと知っていて、それでもかばおうとしているのだ。日記に書かれた「あの日、私は間違えた」は、俺を信じたことを指している。手紙の「許してほしい」は、俺が書いたものだ。殺したあとで書いた、自分への弁明だ。

 どうだ。

 きれいに繋がるだろう。

 筋が通るだろう。

 犯人は俺だ。動機は――そうだな。嫉妬か。裏切りか。あるいは、もっと単純な何かか。そんなことはどうでもいい。重要なのは、俺があの場所にいて、あいつを押して、あいつが落ちた。それだけだ。


 それだけの話だ。


 ……本当に?


                   *


 俺のポケットの中に、切符がある。

 日付は八月十四日。区間は、この町から二百キロ離れた都市への片道。使用済み。改札を通った記録が残っている。

 八月十四日は、あいつが死んだ日だ。

 俺はその日、この町にいなかった。


 ファミレスのレシートもある。駅前の。日付は同じ八月十四日。時刻は午後二時十三分。あいつが防波堤から落ちたとされる推定時刻は、午後三時から四時の間だ。二百キロ離れた場所で午後二時にメシを食っていた人間が、午後三時にこの町の防波堤にいることは、物理的に不可能だ。

 俺はあの日、あそこにいなかった。

 いなかった。

 確実に、絶対に、いなかった。


 なのに。


 なぜ俺は、あの防波堤からの景色を知っている。

 なぜ俺は、あの日の風の強さを知っている。

 なぜ俺は、足元が濡れていたことを知っている。


 なぜ、隣に誰かが立っていた感覚を、覚えている。


 切符は本物だ。レシートも本物だ。俺はあの日、この町にいなかった。それは事実だ。覆しようのない事実だ。

 だが。

 俺の記憶は、あの場所にいたと言っている。

 事実と記憶が矛盾している。

 どちらかが嘘だ。

 切符が嘘か。記憶が嘘か。


 あるいは。


 「俺」が嘘か。


 ここまで語ってきた「俺」は、本当に一人の人間なのか。

 葬式で棺を見ていた「俺」と、三上の話を聞いた「俺」と、園田とファミレスにいた「俺」と、日記を読んだ「俺」と、手紙を読んだ「俺」と、防波堤の記憶を持つ「俺」と、切符を持っている「俺」は――同一人物なのか。


 考えるな。考えてはいけない。

 考えたら、壊れる。

 いや、もう壊れている。とっくに壊れている。壊れていることに気づかないふりをして、ここまで語ってきた。


 もう一度、最初から考えてみろ。


 棺の中の人間の顔を、俺は見ていない。

 損傷が激しいから見られない、と言われた。

 だが。

 棺の中にいるのが誰なのか、俺は本当に知っているのか。

 最初に「名前は知っている。もちろん知っている」と言った。言ったのに、一度もその名前を書いていない。なぜだ。知っているなら書けるはずだ。書けるのに書かなかったのか。それとも、書けなかったのか。


 日記の筆跡を、俺は「知っている」と言った。「知りすぎている」と。

 手紙の「お前」が誰を指すのか、わからないと言った。


 防波堤からの景色を、俺は知っている。何度も立った場所だから。


 あの日、俺はあそこにいなかった。切符が証明している。


 だが俺の記憶は、あそこにいたと言っている。


 ――もし。

 もし、その記憶が「俺のもの」ではなかったら。


 もし、その記憶が、棺の中にいる人間のものだったら。


 もし。


 もし、俺が。


 いや。

 これ以上は書けない。


 書いた瞬間に、それは確定してしまう。確定させてはいけない。確定させたら、それ以外の可能性が消える。消えた可能性は二度と戻らない。この物語は、確定してはいけない。

 だから、ここで止める。

 ここで止めなければならない。


 三上は言った。「自分で選んだ」と。

 園田は言った。「事故だ」と。

 日記には「間違えた」と書いてあった。

 手紙には「許してほしい」と書いてあった。

 俺の記憶は、あの場所にいたと言っている。

 俺の切符は、いなかったと言っている。


 全部が正しくて、全部が間違っている。

 あるいは、全部が正しい。全部が同時に正しいことが、ありえないとは限らない。矛盾は、矛盾のまま存在することができる。人間が矛盾を抱えて生きていけるように、物語もまた、矛盾を抱えたまま存在することができる。


 ただし。


 一つだけ、確かなことがある。


 誰かが死んだ。

 防波堤の先端から落ちて、岩場に打ちつけられて、海に呑まれて、死んだ。

 それだけは動かない。


 その「誰か」が何を考えていたか。

 なぜあそこにいたか。

 選んだのか、滑ったのか、押されたのか。

 笑っていたのか、泣いていたのか、無表情だったのか。

 隣に誰かがいたのか、いなかったのか。


 それは、もう誰にもわからない。

 死んだ人間には聞けない。

 生きている人間は、自分の物語しか語れない。

 三上には三上の。園田には園田の。俺には俺の。

 そのどれもが本当で、どれもが嘘で、どれもが不完全だ。


                   *


 最後に一つだけ。


 防波堤の先端で海を見ていたとき。

 隣にいた人間が「きれいだな」と言ったこと。

 それに何も答えられなかったこと。


 それだけは、本当だ。

 誰の記憶でもかまわない。事実でなくてもかまわない。嘘でもかまわない。


 あの瞬間だけは、確かにあった。


 海は灰色で、空は灰色で、風が強くて、波が高くて、それでもきれいだった。

 きれいだと思った。

 隣にいる人間のことも、きれいだと思った。

 その気持ちだけが、どこにも壊されずに残っている。


 たぶん、それがすべてだ。

 それが、この話のすべてだ。


 これで全部だ。

 あとは、君が知っているはずだ。


                   *


この物語は、すでに終わっている


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