8.一日の始まり
陽の光の眩しさに意識が浮上する。
ゆっくりと上げた瞼は重く、重力に逆らうのをやめてまた閉じた。
ウトウトしながら横に転がると顔に冷たいものが当たり、自然と目はうっすらと開く。
(……あぁ、ソファーか)
ぼんやりとしたまま身を起こすと窓の外の森が視界に入った。
風に撫でられた木々が気持ち良さそうに揺らいでおり、昨日あったはずの不気味さは感じられない。
(あんなに怖かったのになぁ…いや、それどころじゃない)
ぼーっと森を眺めることすらできず少し不快感を覚える。
未だに目に映る魔力の彩りが寝起きにはつらい。
色とりどりの淡い光たちが今日も部屋中を漂っているんだ。
こんな世界知らない。違和感でしかない。摩訶不思議だ。
(んー、眠いけど…)
このまま後ろに倒れ込み眠りにつきたい気持ちはあるが、それはいけない。
しかし、まだ頭が働かないので不明物質について考えるには向かないだろう。
それはもう少し頭が冴えてからだ。
(となると…ご飯が先…いや、その前にトイレに行きたい)
場所の見当はついている。確認に向かおう。
「おっ…と…そうだった」
ソファーから足を下ろし立ち上がる際に一瞬、覚束なさが挟まった。
とはいえ、傍から見たら何も不自然さはなかったと思う。
たったひとつの動作のなかに違和感がいくつも詰め込まれていたのだが、ふらつくことはなかったのでね。
床に足が付くタイミングが想定外だった。
膝が直角どころか上向きになったなぁ。
何かに気づいたとき既に立ち上がり始めていたのでいつものように身体を使ったわけで、だからなのか足裏への力の入り方に違和感があった。
身体は重くなっているはずなのに以前よりも身軽だった。
スッと立ち上がることはできたが、目線が高い。
(いやぁ…こういうことか…)
使い慣れない身体だと今になって知ったというかねぇ。
分かってはいたはずなのに、何かを実感したようだ。
(まぁ、どうしようもない。トイレ、トイレ。ん?あ…そっか。今度はこれかよ)
寝起きは髪の毛が乱れており邪魔になることも多いから布団を出ながら耳にかけるなりするのが毎日のことだった。
その癖で本日も同じようにしたのだけど、想定外に艶と滑らかさを手に感じてこれまた違和感だ。
整えた後よりは崩れているのだろうけど、ほとんど乱れていないとなんとなく分かる。
大変便利だし、普段ならツヤツヤ、サラサラの髪というだけで喜んだことだろう。
だけど、現状を考えると嬉しくない。
思い出されるのは昨日鏡に映った姿。
自然と眉を顰めてしまう。
(やめよう。考えるのは)
今は目先のことを解決しないといけない。
向かっているのは洗面所の隣にあった小部屋。
この家は清潔感があるのでトイレの臭いや汚れに対する懸念はない。
気になるのは形式だね。
(まぁ、なんでもいいか?いや…)
壺にするのは嫌だ。
しかし、そうであったとしても拒否する気はない。
仕方がないよね。そこは。
(そもそもここで合ってるかな?うん)
扉を開き中を覗くと目当ての場所だと確認が取れた。
驚くことにトイレ特有の匂いは全くしない。
なんだかんだ無臭が一番望ましいよね。
これならばこの世界のトイレ事情は悪くなさそうと思える。
(使い方は…違いそうだなぁ…)
便器は洋式で自分が知っているものと同じ形だが、水を貯めるタンクがない。
だから水の流し方は違うと分かるけれど、既に方法は見出している。
確認の意味で蓋に嵌め込まれている白い石に魔力を流してみた。
(あれ?何も起きない…違うってこと?えぇっと…それなら鑑定かな?)
──────────
【ソルデ】
不浄を受ける魔道具。
魔石を押すと魔石に付与された“浄化”が発動する。
魔石が蓄える魔力がなくなると魔法が発動しなくなる。
交換もしくは補充を。
〜快適な生活をあなたに〜
──────────
(名前いいね)
試しに魔石を押してみるとカコッと音が鳴り、白金色の魔力が便器…ソルデを包み消えた。
(なるほど。この石が魔石で、魔石には魔力があると…あれ?)
顎に手を添えながらうんうんと頷いている際にはたと気がついた。
あるはずの物がない。
私の記憶の中のトイレには必ずあれがある。
(トイレットペーパーはどこ?)
トイレの中を見回してもそれらしい物は見当たらない。
(え、無いってことある?こんなに立派な便器はあるのに?)
そうは言っても見える範囲に無いのであればそういうことなのだろう。
棚も何も設置されておらず、あるのはソルデだけなのだから。
分かってはいてもつい身体を動かしてしまう。
便器の裏側を掃除以外で見ることがあるとはね…。
お風呂があるくらいだから衛生観念が低いということはないはず。
(まさか手で拭くなんてことはない…よね?)
これは後回しにできない問題だ。
速やかに答えを出す必要がある。
トイレに用があるからここに来ているのでね。
ここは魔法がある世界。何か方法があるはず。
壁に背中を預けヒントはないかと首を動かす。
(魔石が持つ“浄化”の魔法を自分に向けられないかな…あれの効果の範囲を広げられないか…無理だな)
頭を振って思いつきを払う。
綺麗にする対象や範囲はあらかじめ魔道具に組み込まれていそうだ。
その設定を変える術など持ち合わせていない上に、学ぶ時間も残されていない。
(それなら“浄化”を自分が使えないかな?)
魔法の使い方をいまいち分かっていないので唯一使える“鑑定”から導き出すしかない。
“鑑定”が発動する条件は…
・体内の魔力を放出する
・知りたいと思う or 疑問を持つ
大まかにはこんな感じだと思う。
これを“浄化”に当てはめると…
“体内の魔力を放出する”は同じと分かるが2つ目が問題だ。
(綺麗にしたいと思えばいいのかな?)
目を閉じ検証してみるが、自身から魔力が抜けた感覚があるだけで他に変化は見られなかった。
(これじゃダメか)
更に考えを巡らせる。
鑑定のときは知りたい対象そのものに焦点が合ったとき発動した。
“リンゴ”のことを知りたいと思い、“リンゴ”に向かって鑑定を発動した結果説明が出たわけだ。
自分に鑑定の能力があると知らなくても使えたということは無意識だろうと条件が揃えば発動するということ。
改めて“鑑定”が発動する条件を考えると…
・体内の魔力を放出する
・鑑定したい対象を捉える
・知りたいと思う or 疑問を持つ
だと思われる。
(“浄化”を発動させたい対象は…自分かな)
再度目を閉じ、検証開始だ。
全身から汚れを落とす、無くす、払う…とにかく綺麗にするイメージで…最後に魔力の放出。
すると身体から抜けた魔力がそのまま自分を包み込み消えた。
(お?なんかさっぱりした?お?そもそもトイレに用が無くなった?…凄い!)
成功したようだ。しかも、いい意味で想定外。
身体の内も外も綺麗になったことに心が躍る。
“何を綺麗にしたいのか”それがなければ綺麗にしようがない。
分かってしまえば実に単純明快と思える。
当たり前のことだった。
これでようやくトイレ問題が解決した。
ほっと一安心だね。
しかし、これほどまでに考える羽目になるとは思わなかった。
(トイレひとつでこれか。まぁ、いいでしょう)
苦戦するだなんて思わないところで苦戦し、なんだか気分が沈む。
だけど、トイレの面倒事が消えたと思えば喜びが湧くね。
天秤にかければ喜びの方が勝るか。
(うんうん。さて、顔を…お、いいね!)
顔を洗う必要が無くなったと今気がついた。
トイレだけではなく、洗顔など朝の身支度の面倒も大幅に減ったんだ。
そう考えるとまた気分が上がるね。
となるとここにもう用事はない。
洗面台を一瞥し、足取り軽くキッチンへと向かった。




