50. 臆病者の覚悟と一歩
陽が昇り、森全体を照らす。
崖の中腹でその時が来るのを待った。
視界に収まる木々が鮮明になったことを確認した後、この場へと身を運んだ。
長い長い階段がやけに短く感じた。
「………」
手を強く握り締めるのは震える身体をどうにかしたくてだ。
木々が光を遮るこの場に立つのすら恐ろしい。
目先にある森が私を呑み込まんとしているように思えて足が竦む。
本日はそこに身を投じると決めたのに。
また危険な目に遭うのかも……震えが止まらない。
(紅い目…)
どうしてもあれを思い出してしまう。
私を射抜いたあの目の持ち主がここにいる。
(分かってる。それが当たり前の世界)
「………」
目を閉じて受け入れようとすれば今度はあの日の森が思い起こされた。
この世界の始まりの時。
あの瞬間のあの森を。あそこからの道のりを。
身震いしなかったのは既に震えているから。
両手をより一層強く強く握り締める。
掌の痛みが何かを霞ませてくれないだろうか…
あの日を今でも覚えている。
湿り気を帯びる重い重い空気漂う暗がりだった。
引き込まんとする泥のような何かが終始纏わり続けていたように思う。
それを振り払いたくて足を動かし続けたのかもしれない。
遠い遠い道のりだった。
今、足を踏み出せばあの日が繰り返されるかもしれない。
あの時の不安と恐怖と混乱と…何かが私の身を捕らえ引きずり込むかもしれない。
(違う。あの場所じゃない。あの時の私じゃない)
そう教えても私はあの日に囚われる。
視界に広がる光景はあの場所と全く違うというのに。
悠然と佇む木々は湿り気を帯びていない。
あの場よりも木々の間隔は広く、圧迫感も焦燥感も控える。
差し込む光の量にだって差があるではないか。
あのときよりも内部を見通せているはずなのに、心に余裕が生まれたはずなのに、不安も恐怖も今尚ここに。
先を見通せるようになったからこそ生まれる怯えがある。
何が待ち受けているか分かるからこそ、この身体は前に向かうことを拒否するんだ。
まるで足裏から根が張っているかのように動かない。
恐怖に呑まれそうだ…
(今日はやめようか……いや、それはダメだ)
足踏みも後ずさりも私が許さない。
本日を逃せばこの先ずっと己を甘やかし続けるだろう。
不安と恐怖なんてこれからも付き纏う。
怖いなら仕方がないと己を許せばこの先もずっとそう。
一度目なら尚の事、前に進め。
逃げたっていいんだ。それは悪いことではない。
だけど、それを行なってはいけない時というものがある。
一度背を向けてしまえば二度と振り返ることができなくなってしまう。
それは、後に苦しみを齎すだろう。
だから私は今、私の為に進まなければいけない。
この森に入り戦うんだ。
(できるのか?お前に)
できるできないではなく、やらねばならぬ。
そう分かっていても心は揺らぐ。
心とは持ち主の意志が通ずるものではない。
従えることなんてできないのがそれなんだ。
それならば、揺らぐ心と共に行こう。
震えも恐怖も抱えたままでいいんだ。
顔が上がる。
(今日の目標は?)
「………殺る」
(そうだ。その意気だ)
決意を固めるには声に出して唱えるのが有効だ。
瞳に力が宿る。
垂れ下がる拳を開き剣を現した直後、また握り締めた。
右手に重みを感じながら前を見据える。
風が通り過ぎた。暖かな風だ。
「ふっ」
揺れるローブに師匠を思い出す。
額を擽る前髪に青い小鳥を掠める。
手の届かない存在に縋るしかない私が情けなくて思わず笑ってしまった。
だけど、どうだっていい。
私が何を支えとするかは私の勝手だ。
情けなくなんかないさ。
「……ふぅ」
清らかな空気を目一杯取り込み一度限界のところで止めた。
そして、ゆっくりと吐き出していく。
息ができるのは生きている証拠。
生き残る為に必要なことをこれからしようとしている。
それで呼吸が途絶えてしまっては本末転倒。
(死なないこと)
それを忘れるな。
掲げた目標を達成するには命を危険に晒す必要がある。
だからこそ忘れるな。死んではいけない。死ななければいんだ。
(うん)
頷いた途端に鼓動がドクドクと脈打つ。
それは新たな一歩を踏み出す時だから。
動き出す勇気が今ここに。
決めたんだ。立ち向かうと。
痛みも苦しみも受けて立とう。
殺るまで命を繋ぎながら足掻くこと。
未だ震えは止まらないが共に行くと決めた。
現実を理解しているということではないか。
身も心も夢に浸っていないからこそ震える。
激しく脈打つ鼓動もその証。
(いいことじゃないか)
ようやく口角を上げられた。
背筋を伸ばし、警戒心を高める。
「行け」
覚悟を胸に足を踏み出した。
視界を塞ぐ森へ。道を隠す森へ。これを呑み込む森へ。
私を翻弄する渦であり、多くを抱える雄大な森へこの身を投じた。
顔に貼り付けるは微笑みだ。
新たな幕開けに相応しいだろう。




