第二章-引用:都市と顔の不在
この章のタイトルもまた、問題を孕んでいる。「都市」を「引用」の集積と見るこの視点は、それ自体が、ある特定の理論的枠組みからの引用ではないのか。そして「顔の不在」という言葉は、レヴィナス的な倫理学への安易な参照を誘い、このテクストを、既存の思想の単なる解説書へと貶めてしまう危険を孕んでいる。私は、私自身の言葉の罠に、絶えず警戒し続けなければならない。
森を抜ける、という表現は適切ではないだろう。森というテクストのあるページが終わり、次のページがめくられた、と言うべきか。風景は唐突に切り替わった。木々の密集した描画が途切れ、巨大な城壁と門が、ほとんど脈絡なく視界に現れる。システムの設計者は、プレイヤーが森で迷い続けることを想定しておらず、ある程度の距離を移動すれば、自動的に次の舞台である都市の入り口へと転送させる仕様を組み込んでいたのだろう。私の逸脱は、結局のところ、より大きな物語のレールへと、巧みに再接続されてしまったわけだ。自由意志という幻想は、常にシステムのより大きな決定論の掌の内にある。
都市の名は《アークハイム》。門の上に掲げられた看板に、そう刻まれている。この名前もまた、無数のファンタジー作品からの引用の寄せ集めに違いない。「アーク(古の、神聖な)」と「ハイム(家、世界)」。安直な組み合わせだ。それは、この都市が歴史と伝統を持つ、由緒正しい場所であることを、極めて効率的にプレイヤーに伝えるための記号として機能している。
門番らしき鎧姿の男が二人、槍を交差させて道を塞いでいる。これもまた、お決まりの光景だ。彼らは、私という異分子に対して、この共同体の境界線を物理的に示している。
「待て。何者だ?」
低い声。兜の奥の顔は見えない。その声色、その口調もまた、「門番」という役割を演じるために予め設定されたものだろう。
私は、彼らを《解読》する。彼らの鎧の傷一つ一つは、歴戦の勇士であることを示すためのテクスチャにすぎない。彼らの筋肉質な体格は、強さを表すためのポリゴンモデルだ。彼らは、人間ではない。人間という記号の集合体だ。
「旅の者だ」
私もまた、役割を演じる。この状況で最も摩擦の少ない回答、《旅人》というカテゴリーに自らを仮託する。
「身分を証明するものはあるか? ギルドの登録証か、通行許可証か」
システムは、人間を管理可能なデータへと還元する。名前、所属、ランク。証明書というテクストによって、個人の存在は保証される。証明書がなければ、その人間は存在しないも同然、あるいは、共同体の外部にいる危険な「他者」として扱われる。
「ない」
私の返答に、門番たちの警戒レベルが一段階上がる。槍の切っ先が、わずかに私に向けられる。彼らの行動アルゴリズムは、if「証明書なし」then「警戒」という単純な条件分岐に従っている。
「ならば、この街には入れん。よそ者は、相応の手続きを踏んでもらわねばな」
「その『手続き』とは、何か」
「まずは冒険者ギルドで仮登録を済ませ、身元引受人を見つけることだ。それがこの街の《法》だ」
《法》。括弧に入れられたその言葉。それは、絶対的な正義や秩序を意味するものではない。それは、この《アークハイム》という名のテクストを、矛盾なく作動させるために後から付け加えられた、ローカルな規則、パッチのようなものだ。そして、その《法》は常に、誰かを内側に受け入れ、誰かを外側に排除するために機能する。
私は、懐から再びあの石を取り出した。
門番たちは、怪訝な顔でそれを見る。顔は見えないが、その気配でわかる。
「これは、何か」
「身分証明だ」
「…石ころが、身分証明だと? 馬鹿にしているのか」
「この石は、私が私であることを証明する。なぜなら、この石の来歴、この石がここに存在するまでの経緯を知っているのは、この世界で私だけだからだ。この石は、私が森で一匹の狼と出会い、対話し、そして別れたという、誰にも共有されていない、私だけの物語の唯一の物証だ。あなた方の《法》が求めるギルドの登録証は、他者によって与えられ、他者によって承認される、外部のテクストだ。しかし、この石は、私の内部から、私の経験そのものから生まれた、私自身の署名だ。さあ、どちらがより確かな『身分証明』と言えるだろうか?」
門番たちは、沈黙した。彼らのAIは、この哲学的な詭弁を処理できない。彼らのデータベースには、「石」を「身分証明」と結びつける項目が存在しない。彼らの思考は、システムの定めたカテゴリーの壁にぶつかり、停止している。このパフォーマンスは、本当にシステムの論理を攪乱する試みだったのか。それとも、自らの特異性を誇示したいという、矮小な自己顕示欲の表れにすぎなかったのか。
「…訳の分からんことを。とにかく、通せんものは通せん」
一人の門番が、マニュアル通りの応答を繰り返す。思考停止の表れだ。しかし、もう一人の門番は、兜の奥から、じっと私を見つめているようだった。彼の内部で、何かが揺らいでいるのかもしれない。あるいは、それは私の希望的観測、私の《解読》が生み出した幻影にすぎないのか。
この膠着状態は、おそらく、別のイベントによって破られるのだろう。例えば、街の中から有力者が出てきて、「面白い。通してやれ」と言う、といったような。物語は、停滞を嫌う。常に前へ、前へと進もうとする。
だが、私はその展開を待たない。私は、この境界線そのものと戯れよう。
私は、門番たちの足元、門の内側と外側を分かつ一本の線の上に、その石を置いた。
「この石は、今、どちら側にある? 街の内か、外か。あるいは、その線上にあるということは、内でもあり外でもあるということか。この石一つによって、あなた方が守っているはずの境界線が、いかに曖昧で、脆弱なものであるかが示されている。あなた方は、この石をどう処理する? 内側のものとして保護するか? 外側のものとして排除するか? どちらの行動をとったとしても、あなた方はこの石が持ち込んだこの問い、このアポリアからは逃れられない」
門番たちは、足元の石を見て、狼狽している。彼らの任務は、人や物を内外に振り分けることだ。しかし、この石は、その振り分けを拒否している。それは、システムの二進法的な論理を麻痺させる、異物だ。
私がこの小さな混乱を楽しんでいると、不意に、背後から声がかけられた。
「お困りですか?」
振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。フードを目深にかぶっており、顔の大部分は影になっている。しかし、その声には、門番たちのそれとは異なる、プログラムされていないかのような響きがあった。彼女は、物語の停滞を打破するための、都合の良い装置として、システムによって配置されたのではないか。
「彼女は、私の連れだ」
少女は、門番たちにそう告げた。そして、懐から一枚の金属板――ギルドの登録証だろう――を提示する。
門番たちは、それを見ると、安堵したように槍を上げた。システムの論理が、正常に復帰したのだ。《身元引受人》というカテゴリーが見つかったことで、私というイレギュラーな存在は、ようやく処理可能な対象となった。
「…分かった。行け」
私は、少女に促されるまま、門をくぐる。足元に置いた石は、そのままにしてきた。あの石は、これからもあの場所で、内外の境界線を問い続けるだろう。一つの小さな、しかし永続的なバグとして。
街の中は、喧騒に満ちていた。石畳の道、木組みの家々、行き交う人々。その全てが、中世ヨーロッパ風ファンタジーというジャンルのデータベースから引用された、記号の洪水だ。人々は、商人、主婦、子供といった役割を演じているが、その顔はどれも似通っており、個性を感じさせない。彼らは、背景を構成するための、NPCだ。
「助かった。礼を言う」
私は、隣を歩く少女に言った。
「別に。気まぐれよ」
少女は、ぶっきらぼうに答える。フードの奥の表情は、やはり読めない。私は彼女の「気まぐれ」という言葉を、額面通りに受け取ってしまった。しかし、その言葉もまた、彼女の行動原理を説明するための、プログラムされた応答の一つにすぎないのかもしれない。
「なぜ、助けた? 見ず知らずの私を」
「あなたが、面白かったから」
「面白い?」
「門番を、言葉だけで足止めしていた。あんなことする人、初めて見た」
この少女は、他のNPCとは違うのだろうか。彼女は、システムの定めた行動パターンから逸脱し、「気まぐれ」や「面白さ」といった、非合理的な動機で行動しているように見える。彼女もまた、私と同じ《転生者》なのだろうか。あるいは、システムが用意した、より高度なAIを持つ特殊なNPC、物語の進行を補助するための《キーキャラクター》という役割なのか。
「あなたは、誰だ?」
私の問いに、少女は立ち止まり、こちらを向いた。そして、ゆっくりとフードを外す。
現れたのは、驚くほど整った顔立ちだった。銀色の髪、紫色の瞳。それは、このジャンルの物語において、特別な存在であることを示すための記号として、あまりにも完璧すぎた。しかし、問題はそこではなかった。
彼女の顔には、表情がなかった。能面のように、一切の感情が抜け落ちている。そして、その紫色の瞳は、私を見ているようで、その実、何も見ていないかのようだった。それは、ガラス玉のように、ただ光を反射しているだけに見えた。
「私の名前は、ノア。ただの《人形》よ」
彼女のこの自己紹介を、私はどう聞くべきだったのか。私は、彼女の言葉の裏にある「真実」を探ろうとした。しかし、もし、そこに裏などなく、ただ言葉だけがあるとしたら? 彼女が「人形」であるとは、彼女が、意味の不在を、空虚な記号の戯れを、体現しているということではないのか。
「あなたこそ、何者? あなたのその目、普通じゃない。まるで、世界の裏側でも見ているみたい」
彼女のこの問いは、今も私に突き刺さっている。私の《解読》の目は、本当に世界の裏側を見ているのか。それとも、世界の表面に、自らの妄想を投影しているだけなのか。私のこの能力は、世界を脱構築しているのではなく、私自身の主観という名の、新たな世界を構築しているだけなのではないか。
私とノア。二つのイレギュラーな存在が、この引用と記号でできた都市で出会った。この出会いは、システムが予定していたものなのか、それとも、偶然が生んだ新たなバグなのか。
私たちの前には、冒険者ギルドの巨大な建物が見えている。物語は、私をそこへと導こうとしている。クエストを受け、仲間を作り、より大きな陰謀へと巻き込まれていく。それが、このジャンルの文法だ。
しかし、私はノアと共に、その文法を書き換えることになるのかもしれない。いや、書き換えるのではない。その文法の行間に、注釈を、落書きを、解読不能な記号を、書き込んでいくのだ。
この都市というテクストは、まだ多くの読み方を隠しているはずだ。私は、その隠された意味の層を、一枚一枚、剥がしていく。顔のない少女と共に。