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第一章-文法:森と他者の侵入

この章を「第一章-文法:森と他者の侵入」と名付けることの暴力について、私は考え込まざるを得ない。「第一章」という番号付けは、それ自体が連続性と発展という、極めて素朴な物語観を前提としている。そして「森」を一つの「文法」体系として捉えることは、その混沌とした他者性を、人間的な知性の網の目へと回収しようとする試みではないのか。さらに言えば、「他者」の到来を「侵入」と規定することは、初めから他者を脅威として、排除すべき異物として断罪してしまってはいないだろうか。このタイトルは、私が批判しようとしている思考の枠組みを、私自身が再生産してしまっていることの、何よりの証拠なのかもしれない。この自己矛盾を抱えたまま、私はこのテクストを書き進めるしかない。


森に足を踏み入れる。この行為は、一つの境界線を越えることを意味する。道/森、文明/自然、安全/危険。しかし、この境界線は、私のこの一歩によって、既に侵犯され、その絶対性を失っている。


私の《解読》の目は、森を「森」として一括りに認識することを拒む。一本一本の木が、その隣の木との差異によって、その位置、その枝ぶり、その葉の色合いのわずかなずれによって、かろうじて個体として成立している。しかし、その「個体」もまた、より大きなシステム――この森という区域を生成するアルゴリズム――の産物である。遠くに見える木々は、近づくにつれて詳細なテクスチャがロードされる「ビルボード」であり、その向こう側には、まだ生成されていない空虚なデータ領域が広がっているだけかもしれない。この森は、私の視線、私の「現前」によって、その都度、部分的に書き出されているにすぎない。私が背を向ければ、私が通り過ぎた場所は、メモリの節約のために即座に消去アンロードされている可能性さえある。この世界は、観測者プレイヤーを中心として回転する、極めて自己中心的な天動説に基づいている。


風が木々を揺らし、葉が擦れ合う音がする。この音もまた、環境音としてプログラムされた、ループする音声ファイルだろうか。その音源はどこにあるのか。それは、空気の振動という物理現象の結果なのか、それとも、私の聴覚に直接書き込まれるデータなのか。私は立ち止まり、目を閉じる。音に集中する。そのループの継ぎ目を、その反復の不自然さを、見つけ出そうと試みる。しかし、この試み自体が、音を純粋な現象として捉えようとする、素朴な現前性の形而上学に囚われているのではないか。


「グルルル…」


低い唸り声。物語の文法に従えば、これは「モンスターとの遭遇」というイベントの開始を告げる合図だ。あの「あらすじ」の亡霊が囁く。『戦闘バトルは回避され』。なんと安易な約束だろう。この「回避」という行為は、戦闘という概念を中心においた、極めて戦略的な思考ではないのか。真に戦闘を回避するとは、戦闘という選択肢そのものが思考にのぼらない状態を指すのではないか。だとすれば、私は既に、この亡霊の予言をなぞるようにして行動してしまっている。


茂みが揺れ、一体の《それ》が姿を現す。狼に似ている。しかし、その体毛は不気味なほどに黒く、両目だけが燐光のように赤く輝いている。システムは、おそらくこれを《魔狼ダイアウルフ》や《黒曜の追跡者オブシディアン・ストーカー》といった、それらしい名前で分類しているはずだ。それは、脅威度Cランク、主な攻撃パターンは噛みつきと爪による薙ぎ払い、ドロップアイテムは「魔狼の牙」と「黒い毛皮」、といったデータに還元可能な存在として、ここに配置されている。


《それ》は私を敵と認識し、威嚇している。その敵意は、どこから来るのか。生存本能か。縄張り意識か。それとも、単にプログラムされた行動様式(AIルーチン)か。私という存在が、この狼にとって「敵」というカテゴリーに分類された瞬間、コミュニケーションの可能性は閉ざされ、闘争という単一のスクリプトが起動する。これは、他者に対する最も根源的な暴力だ。理解しようとする前に、まず分類し、敵/味方のラベルを貼り、対処法を決定する。


私は、武器を持っていない。この身体アバターのステータスもおそらくは初期値のままだろう。物語の定石であれば、ここで絶体絶命のピンチに陥り、潜在能力が覚醒するか、あるいは謎の助っ人が登場する場面だ。しかし、私はそのような都合の良い展開デウス・エクス・マキナを期待しない。そのような期待こそが、私をシステムの掌の上で踊らせ続けるのだから。


私は、狼から目を逸らさない。しかし、その視線は、敵意や恐怖を込めたものではない。私は、《解読》する。


この狼の赤い両目は、本当に「憎悪」や「殺意」を表現しているのか。それは、人間が赤い色に付与してきた、文化的な意味の連鎖――血、危険、情熱、悪――を、安易に投影しているだけではないのか。この狼自身にとって、この赤色は、単なる光の波長にすぎないのかもしれない。その唸り声は、威嚇ではなく、未知の存在に対する戸惑いや、あるいは問いかけである可能性はないのか。私がこのように「可能性」を夢想すること自体が、この狼の絶対的な他者性を、人間的な理解の枠組みの中に回収しようとする、もう一つの暴力ではないのか。


私は、ゆっくりと、一歩、前に出た。


狼は、さらに低い唸り声を上げ、身を屈める。攻撃の予備動作だ。システムは、私のこの行動を「愚かな挑発」と解釈し、戦闘シーケンスを次の段階へと進めようとしている。


私は、もう一歩、踏み出す。そして、静かに、語りかけた。


「お前は、何を読んでいる?」


この問いを発した瞬間、私は自らの愚かさに気づく。「読む」という行為を、この狼に帰してしまうことの、あまりにも人間中心主義的な暴力。この狼は、テクストを読んでいるのではない。それは、ただ、生きている。あるいは、生きているようにプログラムされている。その差異を、私は見極めることができない。この問いは、応答の不可能性を覚悟の上で、それでもなお他者へと開かれようとする、倫理的な賭けのつもりだった。しかし、それは結局、自己満足的な、一方的な語りかけにすぎなかったのではないか。


「お前は、私というテクストを、『敵』という単一の意味に還元して読もうとしている。その読みは、お前にとって、あるいは、お前をそう動かしているシステムにとって、最も効率的で、安全な読みだろう。だが、その読みは、あまりにも多くのものを見落としてはいないか。私のこの震える指先を、この戸惑う視線を、この語りかける声の響きを。それらはすべて、お前の『敵』というカテゴリーからはみ出していく、剰余ではないのか」


狼は、動かない。ただ、赤い両目が、不可解なものを見るように、私を捉えている。攻撃に移るべきか、留まるべきか、その行動アルゴリズムが、二つの選択肢の間で揺らいでいるかのようだ。この揺らぎ、このためらいの瞬間こそが、プログラムされた存在の中に垣間見える、自由の、あるいは他者性の、かすかな亀裂なのかもしれない。と、私はまたしても、この現象に意味を、希望を、読み込もうとしている。


私は、ゆっくりと地面に膝をついた。視線の高さを、狼に合わせる。これは、降伏のポーズか、あるいは信頼の表明か。そのどちらでもあり、どちらでもない。それは、支配/被支配という二項対立の構図そのものを、一時的に宙吊りにする試みだ。


そして、私は、序章で拾ったあの石を、ポケットから取り出した。


それを、私と狼の間の地面に、そっと置く。


これは、何かの儀式だろうか。否。これは、贈与だ。しかし、それは《恩恵》のような、交換を前提とした贈与ではない。見返りを求めない。意味を押し付けない。ただ、そこに置くだけの、純粋な贈与の試み。この石は、武器でもなければ、貢物でもない。それは、私という存在から切り離され、狼という存在ともまだ結びついていない、一個の純粋なオブジェクトだ。それは、私と狼の間に介在する、第三項。この石がそこに在ることによって、私と狼の関係は、敵/味方という一対一の対立から、私/石/狼という、より複雑な、開かれた関係へと移行する。


狼は、石に視線を落とした。鼻を近づけ、匂いを嗅いでいる。それが何なのか、理解しようとしている。そのデータベースに、この状況を説明するデータが存在しないのだ。道ならぬ場所で遭遇した《主人公》が、攻撃も逃走もせず、語りかけ、膝をつき、石を置く。この一連の行動は、システムの予測の範囲プリディクションを超えている。


やがて狼は、石から顔を上げた。そして、私を一瞥すると、くるりと身を翻し、森の奥へと走り去っていった。威嚇も、攻撃も、勝利の咆哮もなかった。ただ、去った。この結末を、私は「他者との真の遭遇」などと、美しい言葉で意味づけてはならない。これは、単なるコミュニケーションの失敗だ。あるいは、成功も失敗もない、ただの出来事の連なりだ。そこに倫理的な教訓を読み取ろうとする私のこの欲望こそが、解体されるべきなのだ。


私は、その場にしばらく膝をついたままだった。残されたのは、私と、地面に置かれた石だけだ。狼は去ったが、その不在は、確かな痕跡としてこの場に残っている。狼がいた空間、狼が嗅いだ匂い、狼が発した唸り声の記憶。


私は立ち上がり、石を拾い上げた。そして、再び森の奥へと歩き始める。道に戻るという選択肢は、もはや私の思考には存在しない。システムの文法を破ること。その逸脱の先にこそ、まだ名付けられていない何か、この世界のテクストの余白に書かれるべき何かがあるはずだ。


私は、この森というテクストの、最も読解困難な一節を求めて、さらに深く、分け入っていく。



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