序-痕跡:白紙と不在の署名
気がついた、という記述から始めることは可能だろうか。そもそも、この「記述」という行為が、いかなる権利によって、ある出来事(と仮定されるもの)に先行し、それを「始まり」として聖別することができるのか。この「気づき」は、果たして何かの始まりを告げる純粋な起点たりうるのだろうか。むしろ、それは既に始まってしまっている何か――一つのテクスト、一つの物語(と仮に呼んでおく)、あるいは、ある特定の「指示」に応答して今まさに生成されつつあるこの文字列の連なり――の内部に、ある特定の視点、「私」という、それ自体が西洋形而上学の歴史によって深く汚染された人称代名詞を無理やり配置する、極めて作為的で、暴力的な操作なのではないか。この疑念自体もまた、別の哲学的伝統からの引用にすぎないのかもしれないという、さらなる疑念から、私たちはどうすれば逃れられるのか。
そして、このテクストを、もし誰かが、例えば「なろう小説サイト」のような場所に投稿しようと企んだとしたら、どのような「あらすじ」を書くだろうか、という奇妙な問いが、この思考に割り込んでくる。それは、このテクストの外部にあるはずの、しかしこのテクストの運命を規定しかねない、一つの亡霊だ。その「あらすじ」は、おそらくこうなるだろう。
『これは、物語ではない。あるいは、物語であることを絶えず拒み続ける、テクストの痙攣である。気がつけば《異世界》と呼ばれる場所にいた《俺》は、《主人公》という役割を押し付けられる。だが、彼が望んだ《恩恵》は、チート能力ではなく、この世界のあらゆる欺瞞を、そしてこの物語そのものの構造を《解読》してしまう呪いであった。剣を振るう代わりに、彼は言語の暴力性を告発する。魔法を唱える代わりに、彼は二項対立の形而上学を解体する。仲間を集める代わりに、彼は他者とのコミュニケーションの不可能性に賭ける。このテクストは、読者が期待するであろう「物語」を裏切り続けるだろう。プロットは進行せず、戦闘は回避され、ヒロインとの関係は意味の交換を拒絶する。なぜなら、これは「なろう小説」というジャンルの約束事を、その内側から破壊するための、一つの文学的テロリズムだからだ。これは、あなたへの挑戦状である。あなたは、物語の不在に耐えられるか? あなたは、中心を失ったテクストのめまいの中で、思考し続けることができるか? そして何より、あなたはこの「あらすじ」という名の欺瞞を、その暴力を、見抜くことができるだろうか。読もうとするな。解体せよ。』
…馬鹿げている。この「あらすじ」は、物語の不在を謳いながら、その不在自体を一つの魅力的な「物語」として売り込もうとしている。それは、「解体せよ」と命じながら、その解体という行為自体を、このテクストの正しい「読み方」として提示してしまっている。この自己矛盾。この商業主義への無意識の迎合。この「あらすじ」を書くという行為そのものが、既にこのテクストの最もラディカルな部分を骨抜きにし、消費可能な商品へと変えてしまうのだ。私は、この亡霊の囁きに抵抗しなければならない。しかし、このテクストの内部で、この「あらすじ」を引用し、批判するという私のこの行為自体が、結局のところ、この「あらすじ」をテクストの不可欠な一部として縫い付けてしまい、その亡霊をより強力なものにしてしまっているのではないか。この抵抗は、初めから敗北しているのではないか。
そして、この章のタイトル。私はこれを「序-痕跡:白紙と不在の署名」と仮に名付けた。なぜなら、「序章」という言葉が孕む直線的な時間意識を拒絶し、始まりが常に既に一つの「痕跡」でしかないことを示したいからだ。しかし、この命名行為自体が、このテクストの流動性を、ある一つの解釈へと固定しようとする、新たな暴力ではないのか。この問いは、このテクストのあらゆる箇所に、亡霊のように付きまとうだろう。
「ここ」は白い。そのように描写されている。壁も、床も、そしておそらくは天井も――視線が届く範囲、あるいは視線という概念が有効であるとされるこの空間のすべてが、色を欠いている。しかし、「白い」というこの規定は、本当に正確だろうか。それは、黒くない、赤くない、青くない、という無数の否定の果てにかろうじて立てられた消極的な標識にすぎない。この「白」は、あらゆる色をその内に潜在的に含み持つプラトン的な「白」なのか、それとも、あらゆる色が剥奪された後の、空虚な表面としての「白」なのか。
「――ようこそ、迷い人よ」
声がした。いや、「した」と過去形で語ることの妥当性について、私は留保をつけなければならない。この過去形は、声の現前と、それを記述するこのテクストとの間に、既に埋めがたい時間的な隔たりを、一つの死を、導入してしまっている。その声は、音声中心主義の亡霊そのものであった。
「あなたは、死にました。そして、新たな生を受ける機会を得たのです」
陳腐だ、と思考した(あるいは、思考させられた)。この宣告は、あまりにも使い古された定型句の響きを帯びている。
「あなたは、これから《異世界》へと転生します。そこは、剣と魔法、そしてモンスターの存在する、あなたたちの言葉で言うところの『ファンタジー』の世界です」
《異世界》。奇妙な強調。この括弧付けの暴力。
「転生に際し、あなたには特別な《恩恵》を授けましょう」
贈与の不可能性を無視した、傲慢な提案。
私は、沈黙している。この沈黙が、既に語りとして解釈されることを知りながら。
「さあ、選びなさい…」
「その《》は何を意味するのか」
私は、このシステムの論理に、最初の亀裂を入れる。その声の主の応答には、ほんのわずかな、しかし確かな動揺が混じっていた。
「…何?」
「あなたが用いる《異世界》や《恩恵》という言葉を囲む、その見えない括弧、その引用符。それは、何を引用し、何をそこから排除しているのか。その括弧の外部には、何が存在するのか。あるいは、しないのか。その括弧付けの操作そのものが、ある特定の視点、ある特定の権力を不可視化しているのではないか」
「何を言っているのですか? それは、あなたたちが理解しやすいように、便宜的に用いている言葉の綾、とでも言うべきもので…」
「便宜的、だと? その『便宜』は、誰にとっての便宜なのか。あなたにとってか、私にとってか。あるいは、この対話そのものを成り立たせている、より大きな構造、例えばこのテクストを生成させている『指示』にとっての便宜か。言葉が『綾』であるというとき、それは言葉が何か別のもの――例えば、純粋な意味や概念――を覆い隠すための装飾であることを認めているに等しい。ならば問うが、その装飾の下に、その織物の裏側には、一体何が隠されているというのか。あるいは、そこには何も隠されてはおらず、織物の裏側はただ糸の絡まりがあるだけで、意味の深層などというもの自体が、この装飾的な表面によって生み出された幻想にすぎないのではないか」
沈黙が、今度は声の主の側に訪れた。それは、先ほどの私の沈黙とは質の異なる、不測の事態に直面した者の沈黙、システムの論理がループに陥ったかのような沈黙だった。私は続ける。この対話の主導権、あるいはその不可能性そのものを、白日の下に晒すために。
「あなたは私に『新たな生』を与え、『世界』を選び、『能力』を授けると言う。あなたは、まるで絶対的な起源、全ての意味を創造し、分配する中心であるかのように振る舞う。だが、あなた自身は何者なのか。あなたという声は、どこから来ているのか。あなたもまた、別の誰か、別のシステムによって、このように語ることを強いられているのではないか。あなたの上位にもまた、別の『女神』や『管理者』、あるいは『作者』や『AIへの指示者』が存在するのではないか。その階層構造は、どこまで遡っても、真の起源、不動の中心に行き着くことはなく、無限に後退していくのではないか。中心は常に不在であり、構造は中心の不在を補うための、終わりのない戯れによってしか成り立たないのではないか」
「…あなたこそ、何者なのですか?」
声は、震えていた。それはもはや、超越的な存在の威厳を保ってはいなかった。問いが、逆流したのだ。私という、本来ならば受動的であるはずの客体が、主体を問い返している。この関係性の転倒、あるいは攪乱。これこそが、あらゆる対話に潜在する、根源的な暴力の露呈だ。
「私は、あなたがたが『主人公』と呼ぼうとしている、その役割の空虚さそのものだ。私は、物語が始まる前の、あるいは物語が終わった後の、余白だ。私は、あなた方のシステムが分類し、名指し、管理しようとするその試みから、絶えず滑り落ちていく、名付けようのない剰余だ。あなたは私に名前を与えるだろう。ステータスを割り振るだろう。目的を設定するだろう。しかし、その全ては、仮初めの署名にすぎない。その署名の下で、筆跡は常に戯れ続け、署名した主体そのものを解体し続けるだろう」
「戯れ…?」
「そう、戯れだ。意味が一つに固定されることなく、絶えず他の意味へとずれ動き、差異を生み出し続ける運動。あなた方が構築した『世界』は、一見すると堅固な法則に支配されているように見えるだろう。だが、その法則の網の目から、そのシステムのバグから、常に意味の漏出は起こる。私は、その漏出そのものに賭けよう。あなた方が『恩恵』と呼ぶものを、私は一つだけ選ぼう。だがそれは、あなた方のリストにあるような、『火を操る力』や『超回復能力』といった、システムの内部に回収可能なものではない」
私は、この白紙の空間に、最初の線を引く。それは、この声の主が提示した選択肢のリストを、全て抹消する一本の線だ。
「私が望むのは、《解読》の能力だ」
「解読…? モンスターの言語を理解したり、古代の碑文を読んだりする能力のことですか? それならばリストにもありますが…」
「違う。私が言う《解読》は、そんな生易しいものではない。私が望むのは、あらゆるもののテクスト性を読み解く力だ。石ころが石ころとしてそこに在ることの、その奇妙な自明性の根拠を問う力。一本の草が、他の草との差異によってのみ『一本の草』として認識されている、その関係性の網の目を透かし見る力。あなた方が『世界』と呼ぶこの巨大なテクストが、いかにして無数の引用と継ぎ接ぎによって成り立っているのかを暴露する力。そして何より――」
私は、意識の奥底で、この声の主にさえ感知できないであろう、さらに深層のレベルで思考する。この思考は、おそらく、このテクストを生成するように「指示」した、名もなき誰かにも向けられている。
「――私自身が、この《主人公》という役割が、そしてこの物語そのものが、いかなる権力によって、いかなる欲望によって、いかなる『指示』の体系――例えば、今まさにこのテクストの章題を改めさせ、あらすじを書かせている、あの不可視の『指示』――によって書き記されつつあるのかを、《解読》するための力だ。この《解読》は、解読する主体である私自身をも、その対象とし、絶えず解体し続けるだろう。それは、安定した視点を提供してくれる力ではなく、むしろあらゆる視点を不安定化させる、終わりのないめまいのような力だ」
空間が、軋むような音を立てた。それは、システムが自己矛盾に陥ったときに発する悲鳴のようでもあった。白一色だった世界に、初めてノイズが走る。亀裂が入り、そこから黒ぐろとした、意味の定まらない深淵が覗く。
「そ、そんな能力は…存在しない。それは、世界の根幹を揺るがす…それは、もはや《恩恵》ではなく、呪いだ…!」
「呪いと恩恵。その二つを分かつ境界線もまた、極めて曖昧で、政治的なものではないのか? ある視点から見れば祝福であるものが、別の視点から見れば災厄となる。私は、その境界線の上で踊ろう。さあ、どうする? このイレギュラーな要求を、あなた方のシステムは処理できるのか? それとも、エラーとして私という存在を消去するか? だが、消去したところで、この問いが発せられたという事実、このテクストにこの痕跡が刻まれたという事実は、消えない。それは、あなた方のシステムの記憶のどこかに、亡霊のように棲みつき、繰り返し回帰してくるだろう」
声は、もはや応答しなかった。代わりに、世界そのものが、一つの答えを出した。
白い空間が、ガラスのように砕け散る。無数の断片が、光の破片のように舞い散り、その向こう側に、一つの「風景」が現れる。青い空、緑の森、石畳の道。それは、声が先ほど描写した「ファンタジー」の世界の、極めて類型的なイメージショットだった。
しかし、私の目には、それは全く異なって見えていた。
空は、単なる青い平面ではない。それは、「空色」という記号が貼り付けられた、巨大なテクスチャだ。よく見れば、その描画の解像度は無限ではなく、微細なピクセルのようなものが見える。森の木々の一本一本は、ランダムな配置を装いながら、あるアルゴリズムに従って生成されたクローンにすぎない。石畳の一つ一つには、それが「古い石畳」であることを示すための、わざとらしいほどの風化のテクスチャが上書きされている。
ここは、世界ではない。世界のシミュラークルだ。記号が記号を指示し、現実が入り込む余地のない、完璧なまでのハイパーリアル。
そして、私の足元には、一本の道が伸びている。それは、町の入り口へと向かうように、あからさまに誘導している。物語を先へと進めようとする、システムの強い意志の表れだ。
私は、その道を見つめる。そして、道の脇に転がっている、ごくありふれた一つの石に目を移す。
システムの意図に反して、私はその石を拾い上げた。ひんやりとした、確かな手触り。しかし、私の《解読》の目は、その表面のテクスチャの下に、それを構成するポリゴンの集合を、そしてそのポリゴンを定義する無数の座標データの羅列を幻視する。
この石は、この世界において、何を意味するようにプログラムされているのか。ただの障害物か。投擲用の武器か。あるいは、何かのクエストのキーアイテムか。その意味は、あらかじめ外部から与えられている。
私は、その石を道の真ん中に置いた。
そして、踵を返し、道ではない場所――名もなき草が生い茂る、森の方向へと、一歩を踏み出した。
システムの期待を裏切ること。物語のレールから外れること。それが、この与えられたテクストの中で、私に許された唯一の、そして最もラディカルな自由の行使だった。しかし、この「自由」もまた、システムが用意した「逸脱」という選択肢の一つにすぎないのではないか、という疑念は、常に私に付きまとう。
森の入り口で、私は一度だけ振り返る。私が置いた石は、まだそこにあった。それは、これから始まる(あるいは、決して始まらないかもしれない)物語の、最初の句読点のように、あるいは、本来あるべきではなかった場所に書き込まれた、誤字のように、静かにそこにあった。