婚約破棄されたので呪いをかけたら、愛人が不幸に落ちていきました
「婚約を破棄させてもらう。理由は……君といても、俺の未来に何の価値もないからだ」
それは、朝の陽が窓辺に差し込む、何の変哲もない穏やかな午前のことだった。
アラン・フーバー。帝都の名門侯爵家の嫡男で、わたしの婚約者であったその男は、涼しい顔でそう言った。
彼の金の髪が陽光に透け、目を細めてこちらを見る仕草は、まるで貴族らしい品格に満ちているようにさえ見えた。
けれど、わたしにはもう、そんな幻惑は効かない。
「まあ……では、貴方様は、わたしの何を御覧になってそうお思いになられたのかしら?」
わたしは微笑みを絶やさずに尋ねた。まるで舞踏会で気取った会話でもしているかのような、気品ある声音で。
「全部だよ。出自、教養、顔、家柄……田舎娘にしてはよくやったとは思うが、所詮その程度だ。俺には、もっとふさわしい女がいる」
その瞬間、胸の奥に、氷のような怒りが静かに染み込んでいくのを感じた。
けれどわたしは、微笑んだまま黙って頷いた。
(……これで、すべてが始まるわ)
わたしはかつて、この裏切りの可能性を、ほんのわずかでも考えなかったわけではない。
だからこそ、手は打ってあった。
――“婚約を破棄されたその瞬間、相手に呪いが発動する”という術式を。
* * *
この国の西の果て、山深い村の外れに、ひっそりと住む呪術師がいた。
男の名はマティス。妙に整った顔立ちをしていて、色の薄い瞳がどこか影を帯びていた。
「君の願いは“呪い”かい? 本当にそれでいいの?」
「いいえ、“呪いこそ”がいいのです」
わたしはそう答えた。
誰かを呪うことに、後ろめたさなどない。それは、正義の延長であり、わたしの矜持にかけた報復だった。
「言葉の一つを契機に発動する術にしよう。君の婚約者が、“破棄”を口にした瞬間、彼の心と体に呪いが刻まれる」
「ええ、それでよくってよ。……ふふ、楽しみですわね」
彼の喉に異物が湧き、夜毎に悪夢に魘され、皮膚に黒い痣が広がる。
そんな姿を想像して、わたしは小さく笑った。
けれど。
それから一週間経っても、アランには何の変化も見られなかった。
「おかしい……」
噂では、彼はすこぶる健康で、舞踏会でも軽やかに踊り、しかも傍らには新たな女性の影があった。
「……誰かしら、あの女」
社交界に詳しいメイドの話によれば、彼女は“癒術師”の令嬢マキ・ランゼット。
癒術の家系に生まれた彼女は、帝都でも名の知れた“自癒の才”を持つとされている。
つまり、アランが呪いを受けなかった理由は――
「彼女が、わたしの呪いを無効化したのですわね」
指先が震える。けれど、それは恐れではなく、怒り。
わたしの“正当な怒り”が、あの女によって掻き消された。
* * *
「なるほどね。癒術師の介入があったか……。まあ、想定内だ」
再び訪ねたマティスの小屋で、彼はそんなふうに笑った。
「でもね、そう簡単には終わらせないよ。君のような強い感情があるなら、もっと“深い呪い”が使える」
彼が棚の奥から持ち出したのは、手のひらほどの布人形――ドールだった。
「これは“対象の一部”があればリンクできる。たとえば、髪の毛とかね。それを縛って、夜ごとに鉄釘を打つ。痛みだけじゃない。“本当の不幸”を呼び込むことができるよ」
「不幸……?」
「恋人に裏切られる、病に冒される、名声を失う。そういう“流れ”がね、じわじわと崩れていくんだ」
「ええ……それこそ、ふさわしい報いですわ」
舞踏会の日。
わたしは、アランの隣に寄り添うマキに近づいた。
その髪飾りに絡む、細い銀糸のような髪。
「まあ、素敵な髪飾り。少し、曲がっていましてよ?」
「え? あ、ありがとうございます……」
言葉巧みに、彼女の髪の毛を一本、そっと指に絡めるように取った。
そしてその夜、わたしはドールにその毛を結びつけ、鉄の釘を一打、打ち込んだ。
トン。トン。トン。
「さあ……始めましょう。あなたに相応しい“運命”を」
* * *
その翌日。
「マキ、大丈夫か? 顔色が悪い」
「少々、胸のあたりが……でも、大丈夫です。癒しますから……」
アランがマキを支え、彼女が震える手で自分の胸に癒術をかけている場面を、わたしは遠くから見ていた。
痛みは癒せる。だが、これは始まりにすぎない。
本当に恐ろしいのは、“不幸の連鎖”。
この先、彼女の人生は、じわじわと――音もなく崩れ落ちていくのだから。
あれから数日。
街には妙な噂が流れ始めていた。
――マキ・ランゼットは呪われている。
――最近の彼女には、妙な“運の悪さ”がつきまとっている、と。
「お父様の書斎が火事に……!?」
「護衛の少年が……貴女の服に、剣の油をかけたそうですわね」
「婚約話も、破談に……?」
それらはすべて、偶然ではない。
わたしが夜な夜な、マキの髪を結んだドールに釘を打ち続けているから。
激痛の呪いはあくまで前座。本命は、“不幸を引き寄せる呪い”。
癒せるものではありませんわ。精神も、運命も、ゆっくりと壊していくのだから。
「アラン様……わたくし……もう、どうすれば……」
「……マキ、お前、最近おかしいぞ。何か隠してることがあるんじゃないのか?」
「ち、違います、そんな……!」
そう言いながら、マキは目に見えてやつれていった。いつも整っていた髪は乱れ、衣装もほつれたまま。
その瞳に光はなく、ただ怯えたように周囲を見渡していた。
(ふふ……どうなさったのかしら? 癒術師様?)
わたしは冷たい紅茶を飲み干し、満足げにため息をついた。
やがて、マキはすべてを放棄した。
邸を去り、実家に戻ることもなく、貴族社会からも、帝都からも姿を消した。
そして――
「……エレイナか。こんなとこに来て、何の用だよ」
数日後、荒れ果てた館に足を踏み入れたわたしを迎えたのは、見る影もなく疲れ切ったアランだった。
床には酒瓶、カーテンも埃をかぶっている。もはや貴族の屋敷とは思えない有様だった。
「ご機嫌よう、アラン様。お久しぶりですわね」
「……お前がやったのか、マキのことも、俺の家の不幸も……」
「まあ、心当たりがないとも言いませんけれど」
微笑みながら、わたしは扇子を取り出して口元を隠した。
「さて、参りましょうか。本日わたしが参上したのは、取り立てのためですの」
「取り立て、だと?」
「呪いによる死を選ぶのか、それとも――慰謝料という形で誠意を見せるのか。ええ、どちらでも構いませんわ」
「……た、頼む。死にたくねぇ……! 払うよ、金なら、いくらでも払う……!!」
アランは膝をついて、わたしのスカートの裾を掴んだ。
あの傲慢だった男が、情けなく泣き崩れている。すでに屋敷には召使いすらおらず、彼は完全に一人だった。
「まあ……まさか、そこまで落ちぶれるとは。予想以上ですわね」
わたしは優雅に立ち上がり、足元の男を見下ろす。
「では、慰謝料の額面については、後日書面にて。……お身体にお気をつけあそばせ、アラン様」
* * *
呪術師・マティスのもとを訪れると、彼はいつものように静かな瞳でわたしを出迎えた。
「……やっぱり君は、見事だね。心がまっすぐで、美しい。呪いにすら、迷いがない」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
「僕はね、最初はただの依頼人として接していた。でも今は……君と共に並び立ちたいと思っている。もし君さえよければ――」
そう言って、マティスはわたしの手をそっと取った。
温かい掌だった。けれど、その中に潜むものは、誰よりも“闇”に近かった。
だからこそ、共に歩ける。
「……ええ。あなたとなら、悪くない未来が描けそうですわね」
わたしは微笑んで、手を握り返した。
――呪いを跳ね返されても、わたしは負けなかった。
失恋しても、泣き崩れることなどなかった。
不幸を味わったのは、わたしではない。彼らの方だった。
だから、これは――
「わたしの勝利、ですわ」
(了)