1-9
屋敷にたどり着いた。命がけだった気がする。なんとかリカルドを助けることができてマリーヌはホッとした顔で、門番の横を通りすぎた。
「ご苦労様です」
門番のささやきが聞こえた。
「リカルド!! 無事だったのね」
リカルドの母・マーサが駆けよって来た。息子をどれほど心配したことか、瞳は赤く腫れていた。
「ごめん」
そんな息子を母は強く抱きしめた。
無事な顔を見て、安堵の笑みを浮かべた。
「お嬢様、ありがとうございました」
すぐにマリーヌにお礼を言った。
「気にしないで、マーサにはとてもお世話になっているから、恩返しをしたかっただけ」
「お嬢様の身になにかありましたらと」
「私はこの通り」
と軽快にステップを踏んで見せた。その様子が頭に浮かぶのだろう。リカルドは傍で微笑んだ。
「落ち着いたら、エディダス公と話がしたいの」
「かしこまりました」
夕日が夜を運んでくる。屋敷の屋根にも影が落ちてきた。
リカルドにとっては冒険の旅。疲れていたに違いない。部屋に戻りマーサの手料理を完食すると、すぐにベッドで眠りについた。
盲目の息子を背負いながらも後ろ向きにはならず、マーサは、母としての強さを忘れず、子供の心の成長にも気を払ってきた。リカルドはその母の意思を受け、恵まれない境遇を跳ね返して生きている。そんな息子の寝顔を見てからマーサは、公爵の部屋にマリーヌを連れてきた。
「ごゆっくり」
マーサは、マリーヌを残したまま出ていった。
部屋の中は熱くもなく寒くもない快適な室温。天空が描かれている天井が、この日特に高く感じられるのはなぜ?
公爵と二人きり。うまく話せるかしら? マリーヌは自らの魂に力を込めた。
公爵は眠そうにしている。目が細い、なにを、どこを見ているのだろう?
膨れた腹は変わらず、肌にツヤはなく吹き出物が目立つ。髪の毛は乱れ薄くなっている気がする。生気が希薄になりつつある主を前にしている。ただ、神メリフィスが愛した男であるなら、これは仮面だと思うことにした。仮面をはぐことで、エディダス公の真の姿が浮かび上がるのでは?
「森に行ってきました」
今の公爵には世間話は無意味だ。イントロからサビに向かうという音楽調でもない。すぐに本題に入るきだと考えた。
侯爵のフグのように膨れた頬がぶるぶると揺れた。
うむ?
「神メリフィスとお会いしました」
話題の中心部からストレートに入った。公爵の細く輝きのない目に少しの光が灯る。
「おおよその経緯は聞きました」
二人だけの時間が静かに走り出す。
「それがどうした?」
濁りのある声で返してきた。
「神の怒りに触れたことが原因なのですね」
「だからどうだというのだ」
噛みつきそうな言葉で返してくる。公爵の体内では温度が急激に上がり始めているのかもしれない。
「私には信じられません。公爵からは背徳の気が感じられません」
「神にでもなった言い草だな」
「人として感じているんです。そんな酷いことをする方ではないと」
ツンとしていた公爵の目じりが下がった。
「自分でもわかないのだ。なぜあんなことを……矢を射ってしまったのか」
「マリンガに対する記憶がないのですか?」
公爵は太い丸太のような首を横に振った。
「どうでもいいことだ。もはやこの体は……この運命は変わらない」
「公爵が肉を嫌い野菜のみ食べるのは、マリンガを死なせてしまったからでは?」
「だからどうだというのだ!」
「神メリフィスは、今でもきっとエディダス公のことを……」
「言うな!! もういい」
「公爵! まだ救いの道が閉ざされたわけでは!!」
「出ていけ!!」
公爵はカバのように大口を開けて怒鳴った。
「誰か、この女を追い出してしまえ」
グラニールが慌てて駆け付けた。
「養女の話はなしだ」
と拳を振り上げている。殴られる距離ではなかったが、マリーヌは逃げるしかなかった。グラニールがよろめく体を支えてくれた。
「二度と顔を見せるでない」
「お嬢様、一度外のほうへ」
マリーヌは放心状態のまま外に出された。
「大丈夫ですか?」
通路を歩きながら、グラニールが優しく声をかけてくれた。
「ええ、なんとか」
と言いながら落胆は隠せない。
ハッ!!
目の前にハルキリスが立っている。
「どうかしたの?」
その顔を見ただけで泣きたくなった。
マリーヌは心が望むまま、ハルキリスに抱き着いた。
コロンの香り、その胸に顔を埋めた。
「ここは僕が」
「かしこまりました」
そう言ってグラニールは姿を消した。
「兄と何か?」
ハルキリスはマリーヌを優しく抱きしめた。背中で感じる指先の感触、癒される思い。
「泣いてもいい?」
甘えたい気分だった。
「僕に胸で泣くことで君の涙が消えるのなら遠慮はいらないよ」
その言葉に気持ちが傾きかけた。
いけないと思った。強くならないと誰も救えない。
マリーヌは我に返り、体を離した。
「ごめんなさい」
マリーヌは涙を手で拭いさると、自分の部屋に小走りに戻っていった。
部屋から見える月。今夜は光がレモン色に頬を染める。
マリーヌは気持ちの整理をつけていた。
どうしたら神と人とがわかりあえるのだろう? 愛するゆえに憎しみが生まれ、意志が固いゆえに許し合うことができないなんて……。
はぁ~
ため息が出てしまう。
月光に重なる人影? 小さいけど?
レティックだった。
「レティック!」
窓から部屋に飛び込んできた。
「どこから入るのよ!」
「えへん、これが妖精族の礼儀」
「それで、私からのお願いは?」
「お待たせ、依頼の件、伝えに来たよ」
「なにかわかったの?」
絶縁を切り出されたマリーヌには時間がない。すべての謎を解き、公爵の呪縛を解き、できればもう一度、神メリフィスに恋する喜びを知ってもらう。そうすることで領地に平和と幸福がもたらされるのだと。自分勝手な考え、自己満足と言われても仕方がない。でも、マリーヌ自身も最高の相手と出会い、誰もが羨む恋をしたいのだ。そのためにはこの難関を乗り切らねば……。
「話していいのか迷ったけど」
レティックの歯切れが悪い。きっと悪い知らせなのだろう。
「聞かせて、なにがあっても後戻りはしないつもりだから」
妖精族の情報網でつかんだとされる事件の真相。レティックの言葉がマリーヌ耳に痛く突き刺さった。できれば聞きたくない真実の欠片。飲み込むと胸が痛くなる。
「明日の朝、森へ行こう」
「そうね、そこですべてを明らかにする」