2-5
開演前のリハーサルが始まるところ。写真で見た俳優に劇団のスタッフが大勢集まった。
施設のスタッフも集められている。マリーヌもその中にいた。
「あれが演出家のピミナールさんよ」
マリーヌの耳元で、隣のスタッフが教えてくれた。もじゃもじゃ頭が印象的で、いかにも芸術家らしい風貌かと思った。
マリーヌの視線の先、ピミナールは助手らしき若い男性に指示をしているようだった。
その助手がピミナールから離れると、ジョーンズとなにやら話し始めた。深刻な話ではなさそうなので、たぶん演出に関する相談なのだろう。
「どうなるんだろう?」
マリーヌが隣のスタッフに話しかけた時だった。
「みんな聞いて」
サブリーダーのスタッフから全員に指示が下る。
観客を想定してリハーサルをしたいとのことで、スタッフに観客の代わりをしてほしいというのだった。支配人承諾の上、みんなの参加が決まったらしい。
マリーヌも客席に座った。
リハーサルが観られるなんて……。
誰よりも先に観客の一人になれた。幸運だと思う。ドキドキとして血流が沸き立つ感じ。本番のブザーが鳴る。ステージは光と影に包まれ開演。背景は、海と陸が一つになった不思議な世界・レジェンディア。神秘的な音楽が流れるとマーメイドの登場。海を背景に長い髪をとかしながら、失った愛を取り戻したいと願う。
一気に時空を飛び越え、女神だった時代に遡る。
「展開が速い」
「このテンポが演出の凄さよ」
誰かの囁きが聞こえた。夢中になってしまうストーリー。
愛する男性は人間? 女神と男性が引き裂かれるシーン。
一つであったはずの陸と海に境目ができると、男性は陸に残され、女神は海に沈んでいく。
時間が過ぎていく。背景のスクリーンに映像が映る。大陸から渡ってきた舞台装置なのだろう。すぐれた技術が大陸には存在する。スクリーンに映る時代の移り変わりは、過ぎ去った時間を見事に映像で再現していた。
舞台が暗転し、シーンが変わる。
マーメイドとなった女神が冒険家の男性と出会う。その男性こそ、引き裂かれたはずの恋人の生まれ変わりだった。
運命を受け入れるシーン。客席でじっと見つめるマリーヌに異変が起きる。
なにかの予感がする。どうしたの? 私の体?
耳鳴の後、頭痛がした。
やめて! 心が叫んだ。
耳を塞ぐとすぐに耳鳴りが消え、正常に戻った。劇は続いている。愛のセリフが交わされるシーンだった。
『遠く果てしない時の流れ』
マーメイドが、冒険家に向かって愛を囁こうとしている。
このセリフ……。
『初めて愛の尊さを知ったあの時から』
まさか……言霊?
マリーヌは、マーメイドの唇が放つ言語に光を感じた。
ん!?
マーメイド役のフェミリアの様子がおかしい。相手役のマードックもその異変に気づいた。
言葉が出ない。
苦しそうなフェミリアだった。
「どうした?」
マードックがフェミリアを抱き寄せる。もちろん演技ではない。客席のどよめきと同時に、演劇スタッフが走り出した。
フェミリアはそのまま気を失った。まるで異国の彼方に引き寄せられるように……。
アクシアスラグーンはハイクラスの人々が集い合う施設。当然館内には病院も完備してある。簡単な手術なら可能な設備は整っている。
病室ではフェミリアが眠っている。医師のファランが検査をしたが、 原因がわからずにいた。看護師が支配人のジョーンズを呼びに病室を出た。
そんな時、マリーヌはフェミリアのマネージャーをしているアスカと出会い。フェミリアの病室に向かう。
途中、アスカは以前からフェミリアの様子がいおかしかったことマリーヌに伝えた。
「役を演じるようになってからなんです」
「マーメイドの?」
「ええ、役になりきろうとしてセリフを覚える内に、体調に変化が起こって」
マリーヌも感じた。フェミリアが言霊のようなセリフを言った時の光。それは神との関係を示唆するもののようだった。
「クライマックスに近づこうとした時にセリフが出てこないと」
マリーヌは目を閉じて情景を思い浮かべた。
「なにかに憑依されたようだなんて言っていました。最初は信じませんでしたけど」
アスカの言葉に濁りはなかった。
病室の扉を開けてマリーヌとアスカが入室する。
あれ?
眠っているフェミリアに付きそうフェルンがいた。支配人ジョーンズもそばに立っている。
「やぁ」
フェルンが顔を向けた。
「容体は?」
マリーヌとアスカが歩み寄った。フェミリアは死人のように目を閉じている。
マリーヌとジョーンズの目が合った。
「君は……」
「紹介するよ」
と言って、フェルンはマリーヌにジョーンズが父で支配人をしていることを告げた。
「フェミリア……」
アスカが泣き出した。
「どうしても意識が戻らないらしい」
フェルンは険しい表情で言った。
「病気じゃないんですか?」
「わからない」
「やはり、役と関係が」
「それはどういう?」
フェルンがアスカに訊ねた。
「女神の化身とされるマーメイドの役になりきることで、体内になにかの障害が入り込んだのでは?」
アスカの言葉を聞いた後、マリーヌはフェミリアに寄り添った。
「であれば、僕にも責任がある」
「どういう?」
今度は、アスカがフェルンに訊ねた。
「マーメイド オブ レジェンディアのストーリーは息子の原案をもとに劇団の脚本家が描いた物語なんだ」
フェルンの代わりにジェームスが答えた。
フェルンがあの物語を作った? どうして? なにか知っているの?
マリーヌはフェルンと見つめ合った。なんて綺麗なフェルンの瞳。
はっ!
マリーヌの中になにかが入り込んだ。
『かつて神をも不運に飲み込んだ運命という名の悪戯。翻弄されながらも神は愛を信じ、その魂はこの時代を彷徨い続けている』
『その志を受け継ぐ者がいる』
誰の声? フェルンの? わからない。でもマリーヌに訴えかけている。
マリーヌはベッドの横で膝をつき、フェミリアの手を握った。
今の私は、奇跡を起こせる言霊を身に着けてはいない。でも、他の誰かが私に力を与えている。
マリーヌの手が……その温もりがフェミリアの手に伝わっていく。
ん!?
反応した!! フェミリアの瞼が微動する。
『フェミリア、あなたとわたしをつなぐ者は……誰?』
無意識に放つマリーヌの言葉が粒子となって飛び散った。
むぐぅ
フェミリアの意識が戻った。
「フェミリア!!」
アスカが叫んだ。
「顔色もよくなって、もう大丈夫でしょう」
フェミリアが目覚めても、結局、医師のファランには病気の原因がわからない。そもそも病気であるのか、なぜ突然意識を失い眠りから覚めなかったのか? この時代の医学では解明できないようだった。
「舞台は? 舞台を続けなければ」
フェミリアは急に立ち上がろうとする。 俳優魂が彼女を動かそうとしているかのよう。
「無理をしないで」
アスカが止めた。
「もう大丈夫だから」
「脚本を変更してからのほうがよくないかね?」
ジョーンズの提案だった。
「そうよ。役をいただいてからあなたはおかしくなったのよ」
アスカが心配そうに言った。
「ストーリーやセリフを変えたら、舞台が変わってしまう。それに不思議なの」
「え?」
「今の私は、倒れる前の私じゃないみたい」
フェミリアは不思議なことを言い出した。
「どういうこと?」
アスカがフェミリアの顔を覗き込んだ。
そばにはマリーヌが立っている。そのマリーヌにフェミリアは親愛なるまなざしを送った。
「あなたの手の温もりを感じて、私は変わった」
フェミリアはマリーヌに強い視線を注ぐ。
彼女は、私になにかを伝えようとしているのかしら? マリーヌも親しみを込めて見つめ返した。
「あなたを見ていると、不思議なくらい安らぎを感じる」
「フェミリア、あなたは女神の化身とされるマーメイドになりきる力を得たのかも?」
マリーヌはなにかに動かされるように無意識に言葉を放った。その言葉をフェミリアが心で受け止める。
「今なら、すべてのセリフが言えそうな気がする」
そう言って、フェミリアは立ち上がった。今まで気を失っていたとは思えない回復ぶりだった。
ステージがライトの輝きに染まる。演技も終盤にさしかかった。
「長い時の流れは、神の魂を彷徨わせ、今、二人はここで出会った……」
「二度と離れることはない。離れたくない……」
男女の愛のセリフ。マーメイドは青年との愛の力で、女神へと変貌する。不思議なことに観劇しているマリーヌの目にも耳にも、異変は起こらなかった。言霊のようなセリフは、物語を感動に導く。ただ、光を感じることはなかった。自然な形で演技が進行した。
まるで神の魂が沈黙を装うように……。