1-11
一夜が明け、朝食の時間。ダイニングではマリーヌが一人で食事をした。ナッツと鶏肉を食材に加えた炒め物。油の風味が生きて、朝からでも胃が受け付ける。クロワッサンのサクサク感。領内の酪農家が作ったヨーグルト。マリーヌはこれから起こる出来事を視野にエネルギーを補給した。
気分が悪いのか公爵は部屋での食事を望んだ。それがかえって好都合となった。なにも知らされていないエディダス公。そこに現れたのは前執事フラールだった。きちっとした服装で清潔感に包まれている。 近くではマーサが見守っていた。
エディダス公はフラールを見て一瞬驚いた顔をするが、すぐに機嫌がよくなる。
「覚えておいでしょうか?」
「フラール」
ガラガラ声ではあるが懐かしそうに前執事の名を呼んだ。
公爵は大きな口から吐いたガスのような気体を、もう一度吸い込む。それはかつての清潔感のある自分を取り戻す行動にも思える。相手に嫌な思いをさせたくないという。きっとフラールとの思い出が蘇ったのであろう。
変わり果てた主人を前に、フラールは哀れみではなく、慈しみの顔でもてなしているようだった。
「ジャミール茶でございます」
カップに入れた緑色の茶は、償いや粛清のためのもの。大量に飲まなければ老化が加速するという呪いの茶を、執事はまるで高級茶葉で宴会を仕切るように、上品に提供した。
「どうぞ」
うむ
公爵の太く濁った唇が茶で潤う。ゴクッと喉を鳴らせた。
「思い出話でもとは思いますが、お体にさわるといけませんので」
フラールはカップにおかわりを入れた。
ゴクッと飲む公爵、腹が小さく膨れる。
この日、屋敷の周囲は霧に包まれていた。
グラニールが様子を見に来た。その瞳は眠そうな公爵を直視した。
公爵の目が虚ろになり、ゆっくりと閉じていく。
やがて寝息が聞こえた。
「もう大丈夫でしょう」
公爵は完全に眠りに入っている。
「睡眠薬が効き始めています。今の内に」
外には馬車が待機していた。マリーヌが乗って待っている。
使用人達が重たい公爵の太った体を持ち上げ馬車に乗せた。馬が暴れそうになるが、馬車使いが手綱で制御する。その馬車使いは、礼をしてその場を去った。
代わってフラールが馬車使いを担うらしい。神との出会いが待っている。森に入れるのは限られた者のみ。よそ者を通すことで、もう一度神の怒りにふれることは避けたい。これは最後のチャンスなのだから。選ばれたのがフラールとマリーヌだった。
「出発」
フラールが手綱を操る。馬は静かに走り出した。
公爵とマリーヌを乗せて馬車は屋敷の門を出た。
ご無事で……見送る皆の願いでもあった。
途中の山道、車輪がガタッとする。
公爵は目覚め始めている。
「もう少しです」
と馬を走らせるフラール。
愛を取り戻す時は近い、そんな思いでマリーヌは公爵の顔を見た。
禁断の森に入り太陽の位置が変わる。馬車は細く荒れた道を無理やり走り続けていた。車輪は草を踏みつぶし、石ころで何度も揺れる。
行き止まり?
大きな切り株に行く手を塞がれた。
「前に来た時、こんなのあったかな?」
マリーヌは馬車から下りた。
ヒィーーン
暴れて逃げ出しそうな馬をなだめるフラール。なにかが起こりそうな予感。
マリーヌの髪が大きくなびく。
聖なる風が吹いた。
「約束を守ってくれたのね」
切り株に舞い降りた神、メリフィス姿があった。
神衣の裾が風で入れている。穏やかな顔のメリフィスだが笑ってはいない。その表情は、神でも未来は占えない、そう言いたそうだった。
メリフィスが馬車に近づいてくる。馬は不思議なことに魔力にかかったように目を閉じ眠ってしまう。ここからは運命の光が導く二人の世界。マリーヌとフラールは音を立てず、馬車から距離を離した。
「エディダス、馬車から下りてきて」
神の声が馬車の中へ流れていく。その声は、プロローグを思わせる響き。
失われた時間を修復するための、なにかが起きようとしている。
「顔を見せて」
と、温和な顔でメリフィスは馬車の中を覗き込んだ。声のトーンは高く感じられた。
様子を見守るマリーヌ。静かに時を待つしかない。二人でしか解決できないことだから。
「わたくしは、あなたに謝らなくてはいけないの」
切なく響く神の声。いえ、神の声というより、思いを抱く乙女の心からの叫びのよう。
エディダス公が顔を見せた。
な、なんて醜い顔。メリフィスはそう思ったかもしれない。マリーヌはじっと見つめていた。
馬車から下りようとして、エディダス公は転げ落ちた。
ハッ! とマリーヌは一歩踏み出すが、フラールが制止した。
「神の御意思に任せましょう。私達が入れる隙間はありません」
マリーヌは頷いた。願いは一つ、氷が溶け、暖かな春の訪れ、愛の復活。
「このような姿にしてしまったのはわたくしのせい」
そう言って、メリフィスはエディダスの体を支えた。巨体とも言える体でも神が触れると軽く見えてしまう。
「久しぶり、あなたの温もり」
「離れてくれ」
「こうして会えたのに……」
「こ、こんな醜い男に触れて嫌ではないのか?」
「目に映るものが、この世のすべてとは限らない」
「どうしたいというのだ?」
「エディダス、わたくしは偽りしか見ていなかった。本当のあなたを知ろうとしなかった。あなたはわたくしが愛した男性なのに」
こ、これって!!
メリフィスはエディダスの額にキスをした。
「このまま愛を失いたくない」
神の瞳が涙に濡れる瞬間だった。
「失いたくないのぉぉーー」
メリフィスは叫んだ。草木の間から鳥が羽ばたいた。
「こうして抱きしめていると、もう一度時を戻せたらと思う」
「もっと早く、君の愛を深く受け入れていたら、誤解が二人を引き裂くことはなかったかも」
エディダス公の瞳も濡れていた。
公爵に神の心が伝わり始めている。マリーヌは感じた。
メリフィスの赤い唇が、さらに真紅に染まっていった。
『季節は廻り、互いの心は変わるもの。時に輝きは偽りを改め、永遠の愛を引き寄せる。閉ざされた暗黒の未来でも、信じることで新たなる扉が開くことも。わたくしは信じます。二人の愛が無限であることを……』
言葉が……目に見える……光に包まれて……。
これは……神愛の言霊!!
「ありがとう、君の愛をもう一度感じることができた。それだけで十分だ」
「いやーー 戻ってぇーーー」
天空が真っ黒な気体に覆われ、日差しが届かなくなった。
周囲が暗くなり、急に夜が訪れたように……。
ん?! これって!!
もしかしたら?!
マリーヌとフラールは予感した。奇跡が起こる?
天から降り注ぐオーロラの帯。未来を捨てかけている男、未来を諦めたくない女。そんな恋人同士にオーロラが舞い降りてきた。
マリーヌが天を見上げる。まるで星座がひしめく星空のよう、もちろん本当の夜ではないはず。奇跡が運ぶ超常現象のようなものなのだろう。
周囲が明るくなった。まるで長い夜がやっと明けた時のよう。スポットライトのように光が恋人同士を包み込んでいる。
これって!!
公爵が……エディダス公の姿が、以前の青年に戻っている。
エディダス公は自分の手を、足を見る。そして自覚した。
メリフィスも奇跡を全身に感じ、驚きと喜びの中にいた。
「エディダス」
メリフィスは、愛する男性の胸に顔を埋めて泣いた。
「誰よりも……そしてなによりも愛しい人……」
見つめ合う二人……互いの唇が重なった。
風が花びらを舞い散らせる。二人を祝福するように。
「よかったですね」
ホッとした顔のマリーヌにフラールが呟いた。
淀んでいた心の泉に、スポイトで垂らした一滴の言霊が、水質を虹色の純水に変える。言霊とは心を打つ詩でもあり、人を変える未知の薬かもしれない。マリーヌは言霊の力を少しだけ知った気がした。
領内は今まで以上に活気を取り戻した。若き当主の復活で、様々な祝い事が行われた。華やかな祭り、行き交う人々の笑顔。
禁断の森は憩いの場に変わった。木の実やキノコを採りに歩き回る家族の姿が見られ、川辺を散策する恋人達の姿もあった。
エディダス公の弟・ハルキリスは、悪しき野望を抱き罪を背負ったことで島へ追放される。事実上の幽閉となった。
屋敷の正門から馬車が出発した。公爵との話し合いの結果、マリーヌは屋敷を出ることになったのだ。
グラニール、マーサ、リカルドが手を振ってくれる。
マリーヌも車窓から顔を出し、手を振って別れを悲しんだ。
「お嬢さま~」
リカルドが馬車の音を頼りに走り出した。
あっ!!
途中で転んでしまうリカルド。
「リカルドーーーありがとうぅ~元気でーー」
リカルドはすぐに立ち上がり叫んだ。
「さようならーー」
元の街に戻って来たマリーヌ、その景色は以前と変わっていなかった。
馬車が家の前に停車すると、案内係レバロンが迎えに来た。
「ご無事でなによりです」
「養女にはなれなかったけど」
と申し訳なさそうに言った。
「これでよいのです」
レバロンは、こうなることを予言していたように言う。そして部屋の中に入ると話を続けた、
大陸の情報網では様々な連絡を取り交わしているという。エディダス公爵とその領内での出来事は不吉なことの現れとして情報は流れていた。この事態を知って、どうにかしてほしいという声がレバロンにも届いていた。
「それで私を養女として送り出したの?」
「言霊に触れる機会もあるかと思いまして」
レバロンは、マリーヌの知らない秘密の扉を少しだけ開けてくれた。扉を開ける鍵のヒントをくれたと表現したほうが正しいかもしれない。
幻の王子と出会いたければ、多種多様な言霊を身に着けることが必要だという。
マリーヌが心の底から愛を伝えたいと思える夢の人。かすかな記憶の中に棲む男性でありながら運命の人として再会を熱望している。正体不明の幻の王子は憧れであり、真の愛を捧げたいと願う人物でもあった。
神々との恋愛を様々な形で経験すること。その繰り返しで、神愛の言霊を極めた時、幻の王子との恋愛に時は進むはずだという。
神愛の言霊とは、神々を魅了する愛の言葉であり魂の告白。
そして究極の言霊、キューイックの全紋章・アルバトリスを身に着けた時、幻の王子との恋愛が現実になる。
「キューイックの全紋章って?」
マリーヌは瞳を輝かせて訊ねる。
レバロンは答えた。
「詳しくはわかりません。ただ、最高峰の言霊を集約したなにかだと伝えられています」
マリーヌにとって、長い旅の始まりでもあった。