シュノーケル
僕の名刺的作品です。
昔、水族館で水中トンネルというものを体験した記憶がある。上も下も四方八方水だらけ、といっても水槽に囲まれているだけのものなのだが、とても綺麗であったことが感動と共に心に刻まれている。しかし、今の風景とはかけ離れすぎている。今になってどうして思い出したのだろう。
そこには魚しかいなかった。
いや語弊があった。そこには一般的な教室の風景があり、そこに異質な魚たちが、椅子や黒板の上に我が物顔で鎮座しているのだ。僕には、いわゆるクラスメートと呼ばれる人たちが魚にしか見えないのだ。
多分そこには、偏見とか差別とかそういうものを僕が抱いているせいもあると思う。僕はあんなやつらと一緒になりたくなんかない。欺瞞的で、強欲で、嫉妬し他人を蹴落とし見下す。そんなやつらと同じようなものには絶対なりたくない。僕は着けていたシュノーケルに静かに触れながら思った。
「それにしても暑いなあ」
思わず口から言葉が漏れた。風通しの悪い教室はそれだけでもう地獄である。なんだか意識が飛びそうである、ただ淡々と周りを俯瞰することしかできない。
蜃気楼を生まんばかりに空気を歪めようとしている、女性を呼ぶセミの声。遠くの学校のグラウンドから聞こえてくる野球部の叫び。首筋を伝い流れていく不純物を含んだ汗。クーラーの入らない教室の暑さ。湿気。カツカツと無機質に響くチョークが削れていく音。受験を控えたみんなと僕の、どこか異様な補習授業も、何もかもが。
夏であった。そうとしか感じられなかった。
「……ふぅ」
一息つけるところまで板書写しを済ませた僕は、席が一番後ろであることの特権を使い、腕を伸び伸びと後ろにのばし、静かに息を吐いた。数学は写すのが面倒くさいなあ、僕は思った。先生が黒板に書いた文字列はとても汚く、解読に時間がかかるのだ。
「ここはなあ! 二ページ前に公式あっただろう! それをまた使うんだ!」
先生は袖口で額の汗を拭いながら叫んだ。授業は教師と生徒の戦いだ。そんな感じの言葉をいつか見かけたことを思い出した。どんな意味だったか。それは思い出せないが、先生の鬼気迫るような授業のやり方は、まさしく誰かと戦っているように見える。
「……よし!」
自分を奮い立たせるための言葉が思わず喉から漏れる。響きとしては「うしっ!」に近いだろうか。
「…………」
前の席の男子が、僕を責めるように睨んできた。メガネの奥の瞳はぎらつきながらも、どこか濁っている。彼は何も言いはしないが、彼の目は所謂「目は口ほどに語る」と言った感じであるがゆえに、彼の言いたいことははっきりと僕に伝わってきた。
「何やってんの?」
それぐらいしてもいいじゃないか。とは思うのだが、そんなこと口に出すことはしない。円満な人間関係、的な嘲笑したくなるようなもののために。とりあえず僕は謝罪のために微笑んでみた。多分この、空気を悪くしないための愛想笑いってやつは日本人が一番上手だと思う。
「……ちっ」
彼は静かに、でも確かに舌打ちをしてまた板書を見るために前を向いた。……その態度、人間的にどうなのよ。まあ、人間じゃないのか。僕は心の中で毒づく。誰にも届かないから、虚しいけど無害。
考えを頭から消してまた静かに僕は腕を後ろに伸ばした。
「……ふぅ」
最近、溜息が増えた。
学校で生きていくのは息苦しい。比喩なんかじゃなくて、本当のことである。そう、ここは水の濁りきった水槽の中である。空気なんてありやしない。今吸ってる空気だって、シュノーケルを通して得たものだ。水は緑に変色している。僕は窓の外の空を見た。シュノーケル越しの、緑色の水越しの、窓の向こうの空の色は、もちろん濁っていた。青と腐った緑の混ざった空を見ていたら、元の空の色なんて、忘れてしまいそうだ。
僕が外を見ていると、少女が廊下を通った。普通の少女だ。もう一度言おう、特に変わったところもない、普通の顔の普通の少女が廊下を通ったのだ。手には黄色いシュノーケル。黒いゴムを掴んで、彼女は走る。
「……え?」
思わず僕は立ち上がった。膝の後ろに押された椅子がガタッと補習授業の空気に爪を立て、そして倒れ、空間を派手に砕いた。
クラスメートが一斉に僕を見た。魚面をしたクラスメートたちが僕を見た。
「どうした?」
鯰面した先生が僕に心配そうに聞いた。僕は小さく「なんでもないです」と呟いて椅子を元に戻し、座った。本当は、あった。今すぐ駆け出したいぐらいだった。彼女を追いかけたかったのだ。
「どうしたよ!」
半漁人の面をした啓一が、授業が終わった後に話しかけてきた。僕みたいなやつとも、魚のあいつらとも仲良くなれるから、こいつは半魚人面なのかな。僕は彼の顔をまじまじと見ながら思った。
「なんだよ、俺の顔になんかついてるのかあ?」
「いや、別に……」
指摘され、思わず顔を背ける。すると、他のクラスメートの様子が目に映る。クラスメート……と呼びたくもないそれらは、完全に魚であった。いつからだろうか、僕には彼らが魚にしか見えなくなってしまった。
「ねえねえ、知ってる? Aクラスのさあ……」
「あ、知ってる知ってる! あれでしょ、先生に体をさ……」
「そうそうそうそう!」
「え? なになに?」
一つの噂に三人のクラスメートが群がっていた。その姿はまさに少ない空気に群がる金魚のようであった。生きるために「酸素」が必要なんだろう。その姿にどうしようもなく嫌悪感を感じる。僕はああはなりたくない。いや、なれもしないことを僕は知っている。それが、ある種の悲しみを孕むことも。
「・・・・・・おいっ! 聞いてるか!」
深く考えていると、啓一が声を荒げていた。
「なに?」
「なにじゃねえよ! 無視すんなよな!」
どうやら、啓一のことを無視していたようであった。僕はとりあえず「ごめん」と謝っておいた。
「それで、どうしたんだ?」
「な、なにが?」
「授業中」
「ああ、授業中ね」
「なにがあったんだよ?」
「……女の子」
女の子の姿を頭に浮かべていたら、いつの間にか言葉が口から零れ出ていた。魚なんかじゃない確かな同族だ。
「お・ん・な・の・こ?」
啓一が急に目を輝かせ始めた。肉食魚かなにかだろうか、だとしたら半魚人の彼は魚と人のどちらを食べるのだろう。僕は思わず自分の思考に呆れ気味であった。馬鹿らしい。というかやっぱり、こいつもそういう話題は好きなんだな。
「詳しく聞かせてくれよー」
下卑た笑みを浮かべながら、啓一は静かに距離を詰めてきた。逃げることは、もう出来そうにないようだ。
「あれあれ」
「え、あれが? 見えない!」
「エリ、声大きいってば」
「ごめんごめん、だって意外じゃない?」
噂話をしていたクラスメートたちが騒ぎ始めた。ふと気をひかれ視線をそちらへ向けた。
彼女がいた。
シュノーケルを持った彼女は、ゆっくりと歩いていたが、向けられる好奇の目にいたたまれなくなったのか、走り始めた。
いつの間にか、僕も彼女を追って走っていた。運命じみた何かを感じながら、僕はクラスを出ていた。
「お。おい!」
啓一が叫んだが、そんなことで僕は止まりはしなかった。
好奇の目、僕もそれを知っている。僕も同族だからだ。あの魚の群れに馴染めない僕らは、クラスの中で自然と浮いてしまうのだ。
やっぱりスリッパは走りにくい。彼女との距離は開いていく一方だ。時折木造の廊下が甲高く鳴いた。なぜだか警告音のように聞こえてしまう。もう戻れないぜ、いいのか。と僕に迫りながら言っているようであった。彼女を追って僕は階段を駆け上がった。リズミカルに刻まれる足音が心地よかった。心のドラムのようであった。
屋上に続く扉は少しサビているのか、甲高い音を立てながら開いた。濁ってないクリアな空が僕を出迎えた。
「誰?」
彼女がこわばった表情で緊張したように言う。
「あ、いや。と、通りすがりの者です」
緊張しながら言った僕はどう見ても挙動不審で、安心感を与えるような要素はどこにもなかった。急いで取り繕う。
「いや。なんだか、似ている気がして」
失敗しているような気がする。僕は心で冷や汗をかいた。
「持ってるんですね。あなたも」
彼女は僕が着けているシュノーケルに目を向けて言った。
「はい」
「苦しくないんですか?」
「それはこっちのセリフです。着けなくて大丈夫なんですか?」
彼女はまだ手にシュノーケルを持っている。ここなら平気だとは思うが、校舎内となると話は別である。
「苦しいです」
「じゃあなんで」
「通りすがりの人」
「あ、いや僕はですね……」
「いいですよ。名前なんて」
「そ、そうですか」
「通りすがりの人」
「はい」
「本当の自由って、なんだと思いますか?」
「はい?」
「あいつらに遠慮するように、隅っこの方でシュノーケルを着ける。僅かな空気を求めてですよ。ありもしない噂を立てられる。仕方ないんだろうけど、どうしようもないほどの壁を感じる。信じられますか? 彼らと私たちって、同年代で、同じ人間で、同じ国の人なんですよ。だけど、分かり合えない。分かり合おうとすることすら許されない。それでもこれをつけて生きていかなきゃならない。……ねえ、本当の自由って、なんだと思いますか?」
「…………僕はですね」
僕らは視線を交わさずに話した。校舎内からは見えない、クリアな空ばかり見ていた。望郷、ではないが、きっと郷愁だとかそんな感情を抱えていた。
「本当の意味で、シュノーケルを外した時だと思うんですよ」
偽らない自分でいること。そしてそれが認められ、シュノーケルなどつける必要がなくなった時、僕はそれが本当の自由だと思った。
「……そっか」
彼女は静かに口に微笑みを浮かべた。
そして、駆け出した。
「どこに行くんですか?!」
「ありがとね」
と、言い残して彼女は屋上を出て階段を駆け下りた。嫌な予感がして僕は彼女を追いかけた。でも、やっぱり、僕は彼女に追いつけない。きっと、僕がどれだけ足が速くなろうとも、彼女には追いつけないんだろうな。体の距離なんかじゃなくて、もっと深くにあるもの、その距離が遠すぎるのだ。ギシギシとなるスリッパと廊下の音を背景音にして、僕はひたすら走った。体が悲鳴をあげるのなんてどうでもよかった。心に悲鳴をあげさせたくなかった。
Aクラス。彼女のクラス。後ろ姿を追って来た。ドアは開いてる。パンドラの箱はもう閉められない。そんな気がした。
醜い魚が一箇所に群がってる。中心には彼女がいる。予感じゃない、確信だった。証拠は僕の心が言ってる、それだけなんだけど。でも、これは外れない。よく見たら、手前の方にシュノーケルが落ちている。誰の? 言うまでもない。
「離れてください」
魚の濁った目が一斉に僕を見る。とてつもなく不快だ。吐き気がする。人を見定める、値踏みする目だ。
「その人から、離れてください」
補足、そして通告する。いいから離れろ、そんなニュアンスだ。
その言葉の意味を理解するまでのタイムラグか、ちょっと時間を置いてから魚たちは散開していった。やはり、中心には彼女がいた。いや、多分彼女だ。
彼女は魚の面をしていた。種類は知らない。知りたくもない。
「あら、さっきの」
彼女はくぐもった声で言った。水中で喋ったみたいだ。
「……幸せ、ですか? 自由ですか?」
僕は努めて冷徹な声で言った。イメージは青い炎。もしくはドライアイスでできた火傷。
「ええ、幸せだし」
彼女は少し溜めて「自由よ」と言った。
「そうですか」
僕はAクラスを出ることにした。ここにいる意味は、もうない。
僕は出る間際に、彼女のものだったシュノーケルを手に取った。まるで遺品みたいだ、と僕は思った。そして静かに自分のシュノーケルを外した。濁った水が顔を覆った。ぬるっとした感触、人肌程の温さがとてつもなく気持ち悪い。息を止め、僕は彼女のシュノーケルを着けた。
女性独特の甘い匂いがした。そしてそれが、切ない。
もしかしたら、と僕は馬鹿みたいに考えてみた。
もしかしたら、と続けてみようと思ったが、頭を振って考えるのをやめた。訪れる思考の空白。
「さよなら」
静かに僕は呟いた。
やっぱり、もしかしたら僕は……。
一瞬魚の顔が、元の彼女に戻った、気がした。視線が滲んでるせいだろう。滲んでよく見えないが、魚の目が潤んでるように見える。
「私も。ごめんなさい」
凛と澄んだその声は、風鈴のようであった。そっか、僕は汗ばんだシャツを掴みながら思った。頬を伝うのは、きっと涙だな。わざと淡白に考えた。
「僕は――」
僕の呟きは千切れて、セミの鳴き声と共に混じって、遠くの野球部の怒号と共に消えた。呟きが届くべきだったのか、なんてことはどうでもよかった。
ああ、もう夏か。思考をかき消して、そんなことを無理やり思った。
「さよなら」
もう一度誰かが呟いた。誰が言ったのかなんて、僕には分からなかった。夏の刺すような日差しが、やけに目に眩しかった。