はじまりの朝
ぶわり
───赤色が舞う
時が止まった。そう感じさせるほどの刹那
聴こえてきた悲痛な叫びは、まるで自分の身から発せられたと錯覚するほど
溢れんばかりの憎悪、身を斬られるような想い
みるみるうちに地を濡らす赤色
だんだんと視界を染めゆく赤色
美しく咲く薔薇のような紅色ではない
燃え盛る炎のような緋色でもない
それは命を巡る色
血潮の赫だった
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はっと眼を見開いて飛び起きた。
バクンバクンと酷く耳障りな脈動、荒れた呼吸にじわりと視界が滲む。
「(アレはいったい何だったの?)」
夢の内容を思い出したくても、もうわからない。
あまりにも衝撃的な内容だった。だからこそ脳裏に焼き付いているはずで……
それなのに“嫌な夢を見た”という認識、ただそれだけの余韻を残して泡沫のように消えてしまった。
つまりは考えても無駄というもの。わかっている。
どんな意味があったのか理解りたいのに、そのための材料すらも失ってしまっていた。
「お早いお目覚めですね」
「……シア」
「顔色が!どこかお加減でも悪く!?」
短い悲鳴をあげるほどに驚き、慌ててふためきながらも心配そうに覗き込むような仕草で触れられる。
この家で……いいえ、この世界で唯一とも言える女の優しい手つきに、縋りつきたくなる感傷を振り払って、「なんでもないわ」と笑みを浮かべた。
自分よりも狼狽える者がいると冷静になるって本当なのね。少し心が軽くなった気がするわ。
「わたくしは大丈夫だから。それよりもお父様をお待たせしてはいけないわ」
「っ……かしこまりました」
ほんの少し不満げに、それでもすぐにのみこんでくれるのだから流石の一言。わたくしの専属侍女は優秀なの。
顔を洗うためのぬるま湯、癖の知らぬ黒い髪を梳かれる感覚が心地よい。
ネグリジェから着替える衣ずれの音、ゆるくまとめられた髪にお気に入りの蝶の髪飾りをつけて、最後にくるりと回ってみれば、姿見に写るのは完璧な淑女。
「いつもありがとう」
しばらくこの優しい時間とはお別れだからと、そんな言葉を残してダイニングへと足を運ぶ。シアの瞳が涙ぐんでいたのは見ないフリ。
いつの間にか、悪夢のことなんて頭から抜けていた。
和気藹々とした歓談なんてものとは程遠い食事風景。けれども、この静かで穏やかに流れる時間をわたくしは嫌いではないの。とはいえ今日から全寮制の学園へと向かうわたくしとしては、できるのなら何かお言葉をいただきたいなと思うのも本音。
父から冷遇されているわけではない。きっとお忙しいはずなのに、朝食だけは必ず一緒にとる時間を作ってくれている。緊急の事態でも起こらない限り、その約束を破られたことは1度も無い。
屋敷の者達に蔑まれているわけでもない。意地悪で無体を強いるような低俗な扱いをしたことはもっと無い。ただわたくしが仕事中の彼らの義務的な態度でしか知らないだけ。当然のように厳格で冷酷だと畏れられる父に対するものと変わりない。それを寂しいと思ったことはあるけれど、まだ幼い頃の話。疾うの昔に仕様の無いことと諦めてもいた。
どんなに抑えていたって、魔力差による威圧感は少なからずあるもの。つまりは本能的なものなのだと自分に言い聞かせて……
食後の1杯のコーヒー。いつもならそれがこの時間の終わりだけれど、今日は珍しく父が執事へと目配せをした。
そんなやり取りを不思議に思って、注視はしない程度に心の隅で追えば、好々爺然とした執事が何かを持ってやってくる。恭しく差し出された細長い箱がぱかりと開けられると、中身は真紅の薔薇のような可愛らしい万年筆。換えのインクには家門を象徴する瑠璃色が添えられていた。
「入学祝いだ。研鑽に励むように」
「っ……はい!」
たったそれだけの、されどわたくしにとっては素敵な贈り物に胸が高鳴って、つい淑女らしくない声をあげてしまった。無邪気な子供であればそのまま抱きついてキスでも贈るような心境だけど、流石にそのようなことができるわけもない。
はしゃいでしまった気まずさにちらっと横目で見れば、一瞬眉がしかめられた。叱責がくるのではと緊張したが、その後は大きくため息をつくだけだったことに安堵して、気づかれないように止めていた息をそぅと吐いた。
こんな日に叱られるなんて嫌だもの。
「ありがとうございますお父様」
改めて礼を述べれば、ふっと薄く笑って頷きひとつ。きっとほとんどの人間にはわからないくらいの表情の変化。
シアが言うには、「旦那様は不器用なお方なので許してあげてください」なのだそう。
だからだろうか?抱きしめられた記憶も、頭を撫でてもらった記憶も無いけれど、それでもいいと思えるほどに“嫌われていない”ことを実感できることが嬉しく思うの。
真紅の薔薇──それは『赤』を厭うこの国では珍しく、けれどもこの侯爵邸では見慣れたもの。
今は亡きお母様が愛したというその薔薇は、お父様からお母様への贈り物。お母様の瞳の色と似た花を探し求め、わざわざ海の外から取り寄せた薔薇で温室を埋めつくさせたのだと教わった。
ローザマリアの由来にもなった、2人を絆ぐ思い出の花。
つまりはこの万年筆も“特注品”であることを意味している。
これで“愛されていない”と思えるほど、被害妄想に浸ってはいない。
わたくしはずっと護られてきた。
畏怖されるだけならまだしも、必要以上の悪意に苛まれることの無いように、大切に。
だからこそこれからの学園生活は、お父様の庇護下から独り立ちするためのはじまりの一歩でもあるのでしょう。
荷物は既に馬車へと運び込まれていた。
見送りはお父様だけではない。執事から庭師に至るまで、この屋敷で働くみんなが来てくれたのが少しくすぐったい。
忘れ物はありませんか?にはじまり、ありとあらゆる注意事項を並べ立てる、酷く心配性な専属侍女の言葉は聞き流すしかない。
まったく……シアの話を真面目に聞いていたら日が暮れてしまうわ。
何があってものわたくしの味方なのだと真摯に訴えてくれるところは頼もしく思う反面、1ヶ月も前から何度も聞かされると正直少し重たい。
「娘を頼んだぞ。リオネル」
「はい。お任せください旦那様」
こっちはこっちで、まるで今生の別れともいうような神妙な重苦しい雰囲気を醸し出しているお父様とわたくしの護衛騎士──リオネルの姿にため息をひとつ。
じぃとわざとらしくその横顔を見つめていれば、はっとしてわたくしに気づいたのは偉いわ。
リオネル、わたくしのリオン。
幼い頃からずっとわたくしのそばにいてくれた、兄のような弟のようなお友達。リオンの愛称は2人だけの秘密、わたくしにだけ許された特別だった。
「お待たせしましたか?」
「いいえ。問題ないわ」
わたくしとは正反対の白銀の髪がサラリと揺れ、キリリとした綺麗な顔立ちは鋼のように硬質で冷たい印象を与えるけれど、そのブルーグレーの瞳には柔らかな温度があるのだと知っている。
差し出された手にそっと乗せる仕草は慣れたもの。お父様への挨拶は先程済ませたから、今は視線を合わせて微笑むだけで良い。
寂しさも名残惜しさもあるけど、それよりも期待に応えたい。だからこそ今この時浮かべる表情は笑顔であるべきでしょう。
所作のひとつひとつをとっても優雅に見えるように馬車へと乗り込めば、正面に座ったリオンと眼が合う。
待っていてくれる人がいる、共にいてくれる人がいる、それだけでこんなにも心強くあれる。
「いつでも帰ってきなさい。……ローズ」
ほんの少し間を置いて思い出したように付け加えられた愛称。じわりと視界が滲むけどそのくらい隠せてこそ淑女。厳格を謳われるお父様らしくないけれど、不器用と称される理由がよく分かるそれに、ふわりと微笑むことでこたえるの。
「ええ。いってまいります」
「「「いってらっしゃいませ」」」