第九話 演習 二日目 その一
三
早朝、隊舎の周りには朝靄がかかっている。
この隊舎の近くには教練にも使う運動場がある。運動場の周りには生える草は朝露に濡れ、その葉を地面に近づけていた。
露は地面から伝わる振動で落ちる。葉は重さから開放され、その身を立てるが、すぐに誰かの靴によって踏まれた。
男が運動場にある台座に立ち、ラッパを空に掲げる。鼻から空気を吸い、口からリズミカル吐き出す。
起床喇叭が鳴り響く。
その音を聞くと隊舎で寝ていた隊員たちが一斉に起き上がる。
隊員たちが手際よく動いているなか、忠陽は大地を起こすのに一苦労だった。
「大地くん、起きないと!」
「あと十分……」
大地をを揺するも、動こうとはしない。
「うるせえな、典子……ハッ!」
大地は急に起き上がり、忠陽を見る。顔が紅潮し、忠陽の頭を叩いた。
「痛ッ。何で叩くのさ」
「うっせぇ!」
大地は起きて、忠陽と一緒に部屋の廊下に出ると、隊員たちはぞろぞろと並び始めていた。
「速く並ぶんだ」
落ち着いた声で蔵人が忠陽たちに呼びかける。
忠陽たちは列の一番後ろに並んだ。
蔵人の点呼確認を行い、蔵人が上官に報告する。その一連のやり取りは速く無駄がない。
点呼が終わると、蔵人に連れられて、掃除を行う。大地は不満タラタラだったが、たまたま通りかかった良子を見て、背筋を伸ばし、真面目に掃除をし始めた。
その姿を見た蔵人は、笑っていた。
「あんた、あのボスの息子なんだろ? 怖くないのか?」
「母さん……二佐は家でも厳しいからね。特にそう思ったことがないや」
「あんた、よくグレなかったな。俺だったら、かなり反抗するぜ」
「反抗できると思う?」
大地は首を横に振る。
「それに二佐は家じゃ、基本的には優しいよ。怒らせると怖いけど……」
「蔵人さんは、どうして軍人になろうと思ったんですか?」
蔵人は考える。
「親の……影響かな。二人とも軍人だし、その道もいいかなって。君たちは軍に入らない? 八雲隊長に誘われたんでしょう?」
「おれは人に指図されたりするのは、嫌だ」
大地の答えに、蔵人は確かにと言って笑っていた。
「僕は向いてないと思います」
「向いてるとかはあんまり関係ないよ。誰だって最初はそうだから。僕は賀茂くんがこの部隊に入隊すると嬉しいな」
「どうしてですか?」
「僕には無いものを持ってるし、部隊が強くなる」
「蔵人さんは昨日の演習でも十分に強いじゃないですか……」
「どうだろうね……。僕は母さんと同じく呪術が使えない。八雲隊長のように強くなれるかどうか」
「八雲さんが強いのは分かるけど、あの人、どのくらいの強さなんだ?」
大地は近くの縁石に座り込む。
「そうだね、皇国陸軍なら数えるくらいには強いかな。だって、出雲戦役の英雄だもん」
出雲戦役とは皇国陸軍将校が起こした内乱であった。規模としては小規模で報道でも数日のうちに終わったような気がしたと忠陽は記憶していた。
「それで、先生が英雄って言ってたのか……」
「僕はその時、まだ桜花に居たからね。戦場には行ってないけど、かなり激しい戦闘だったとは聞いてる。反乱軍の一個大隊は全員が戦死してるんだ」
「あの戦いって、そんなに酷かったのか!? テレビじゃ、軽い感じで鎮圧したっていうだけだったから」
「国で情報統制をしたからね。あの戦役の目的は単なる内乱じゃなかったし……あっ、これ言っちゃいけなかった……。悪いけど、今のは聞かなかったことにして」
「何だよ、それ。余計に気になるじゃねえか!」
「だったら、軍に入りなよ」
蔵人はわざとやってるのかと思わないぐらい爽やかな笑顔だった。
掃除が終わると、朝食を取るため、食堂に赴いた。
そこには八雲とビリーが先に食事をしており、その席の隣に忠陽たちも座った。その後に平助もやってきた。
「どうだ? 寝れたか?」
八雲は大地に聞いた。
「自慢じゃねぇけど、俺、どこでも寝れるっすから」
「起こすのは大変でしたけど」
「うるせえなー」
八雲もビリーも笑っていた。
「お前らいいコンビだな。なんで、演習じゃあ波長が合わないんだ?」
ビリーが大地に聞く。
「何言ってんすか。まだ、見せてないだけっすよ」
「何言ってんだ。見せる暇がないというか、賀茂が合わせてやってるんだろう?」
八雲がお茶を飲みながら、大地の肩を叩く。
「俺が前衛だから、合わせるのは当たり前っしょ」
ビリーと蔵人、平助もその傍若無人っぷりには笑わずには居られなかった。
「おい、賀茂。お前の周りには自己主張が激しいやつばかりだな」
ビリーはご飯を食べている忠陽の背中を叩く。
忠陽は食べ物を飲み込みタイミングで叩かれてしまったためむせ返ってしまう。
ビリーはむせ返る忠陽に謝った。
「八時から朝礼だ。朝礼が終わったあとは十キロのランニングと昨日の基礎訓練だ。食べすぎて、また吐くなよ」
ビリーの言葉に忠陽と大地は箸を止める。
「それ、早く言ってくださいよ……」
忠陽の悲痛な叫びに一同は笑っていた。
朝礼が終わり、ビリーから聞いていたように午前中は十キロのランニング、基礎訓練を行った。
基礎訓練の際は、忠陽への容赦のない執拗な良子のしごきに耐えきれず、気絶、悶絶、嘔吐と泥にまみれなっていた。
それは忠陽だけには収まらなかった。良子は朝子にもそのしごきを行っていた。むしろ、忠陽より苛烈だった。地稽古では何度も何度も戦い、嘔吐と泥まみれ、ボロボロになっていた。女だから、子供だからという言葉は通じない。
伏見は良子と朝子の地稽古を途中で止める。そして、藤に朝子を別の所へ連れて行かせ、休ませた。
「氷見さん、大丈夫?」
朝子は藤から水が入ったペットボトルを渡された。その封を切り、水を口の中を入れ、濯ぎ、吐き出す。
「あの女……殺す……」
そう呟く朝子を見て、藤は背中が寒くなった。本当に何かの怨念を抱くように目が強張っている。
「ひ、氷見さん。気持ちはわかるけど、それは――」
「冗談よ……」
水を頭に掛けて、泥を落とすと、朝子は立ち上がる。
「ありがとう。藤ちゃん」
朝子は演習場へと走っていく。演習場では忠陽が必死に良子の攻撃を防いでいる。その攻撃は容赦なく、一発食らうごとに忠陽は怯んでいた。
忠陽が良子のフックで倒れると、朝子は力む。そして、自分の番だと前へ出ようとした時に、服を掴まれ、後ろに引っ張られ止められる。
「そんな殺気立っていたら、あの女にヤラれるだけや」
止めたのは伏見だった。
「なにすんのよ!」
「なにって、忠陽くんはまだヤラれてないで」
朝子は忠陽の方を見ると、足を震わせながらも忠陽は立ち上がっていた。
「ええか。あの女を殺したいなら、殺気を消せ。君以上に戦うことに慣れ、君以上に相手の殺し方を知っている。自分の感情に従った殺気なんてただのカモにしか過ぎへん」
「うっさい! 私に指図する気?」
「この合宿では君は僕に従ってもらう。なんなら、縛ってもええやんで」
朝子は口惜しそうに伏見を睨みつける。
「ええ顔や。……僕を殺したいか? でも、それは出来へんな。君みたいな一般人はだれも殺せへん」
朝子は伏見に殴りかかるも簡単に避けられた。
「片腕だけの男になら近距離で勝てるとでも思ってんのか? さっきも言うたはずや。君には人を殺せへん」
「うるさい!」
朝子は伏見を掴もうとするヒラヒラと蝶のように避けられる。
「氷見さん、ちょっと何やってるよ! 止めなさい!」
藤が朝子を止めようとするが、その静止を振り切って、伏見に飛びかかる。
伏見は片手で朝子の手を弾き、朝子の服を掴むと地面に叩き落した。
「京介!」
「どないんしたんや? 僕を殺すつもりやないんか?」
朝子の体は伏見の膝で地面に押さえつけられ、泥まみれになりながらも、伏見を睨みつける。
「京介、やめなさい!」
「ええか、あの女をよく見ろ」
朝子は伏見の言葉を聞かなかった。
伏見は手で朝子の顔を、良子の方へと無理矢理向ける。
「あれが本当に人を殺せる人間や。あの技を盗め。守りたいものがあるならそうせい」
「京介!」
藤の怒声で伏見は朝子を離した。
朝子は自分の顔を拭い、息を荒げながら、伏見を睨みつける。
「氷見、暇なら次はお前だ。来い」
朝子は良子の声で振り向くと、忠陽が伸び切っていった。それを見て、朝子は立ち上がる。
「何をしている。速く来い」
朝子は良子の双眸は異形の悪魔のように見えた。息を呑み、手を握りしめ、走り出す。