第七話 誰そ彼、輝くは天と地と、祓い清め給ふは弓の姫 其の九
その日の夜、忠陽たちは夕食が終わり、鞘夏が皿を洗っていた。
鞘夏は皿の汚れが落とすと同時に自身にある雑念を洗い取っていた。
「手伝おうか?」
忠陽の顔はいつもの優しい顔だった。
「お気遣いありがとうございます。ですが、私だけでできます」
忠陽は頷いた。しかし、そこから動こうとしない。
鞘夏の雑念が膨れ上がっていった。
「鞘夏さん、話があるんだけどいいかな?」
鞘夏は黙ったまま洗い物を強く擦る。
「夜なんだけど、また、たまに外出するかもしれない……」
鞘夏は洗うの止めた。
「そ、そうだよね。ごめん……」
忠陽がその場を離れようとしたとき、鞘夏は口を開く。
「なぜ、私に仰るのですか?」
忠陽は足を止め、鞘夏の方を向いて言った。
「鞘夏さんには、知っていてほしいからかな……」
「私は、反対です」
鞘夏は慌てて口を抑えようとしたとき、皿を手放し、割ってしまった。
「申し訳ございません」
鞘夏は急いで割れた皿を取ろうとする。
「鞘夏さん、慌てないで―」
鞘夏は割れた皿の棘に指先を触れてしまい、指先を切ってしまった。そこから血が滲むように流れ出た。
忠陽は優しく鞘夏の手を取り、まず水で指先を洗った。
「手を洗おう。その後、手当を」
「大した傷でありません……」
忠陽は無視して、鞘夏のもう片方の手も取り、洗い出した。洗い終えると、忠陽に食卓用の椅子に座るように促した。
「えーと、救急箱は……」
「そこの棚の、一番下です」
鞘夏の指示通りに、忠陽は救急箱を取りだし、消毒液を綿に付け、患部を消毒した。消毒の後は患部に絆創膏を貼った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。今日は僕が洗い物をするよ」
「いえ、私めが―」
「ケガ人にはさせられないよ」
忠陽は洗い場へと行き、割れた皿を片付け始めた。その後ろ姿を鞘夏は見ていた。
「先程は申し訳ございません……」
「ううん。鞘夏さんが大事に至らなくてよかった」
「いえ……外出の件です」
忠陽は一瞬破片を拾うのを止めた。だが、すぐに拾い始め、話し始めた。
「いいよ。鞘夏さんが言ってることは間違いじゃないと思う」
割れた皿をすべて拾い終わり、忠陽は鞘夏の方を向く。
「最近、呪術を使うことが楽しくなってるんだ。あんなに嫌いだったものなのに……。最初の目的は皆を傷つけないためだった。でも、それが段々と呪術を上手く使いたい、呪術のことを知りたいって思うのようになってるんだ。……おかしいよね?」
「忠陽様は……呪術師の家系です。…そう思うのは……ごく自然かと……」
「そうかもしれない。でも、僕はそういう人たちが嫌いだった。僕の祖父のことは覚えてる?」
「……はい」
「僕はあの人が嫌いだった。人を見ず、呪術だけを見ていたあの人を。でも、この前ね、伏見先生の知り合いに会ったとき、あの人が言った言葉を思い出しまった。そうして、その人に憧れた。僕はあの人と同じなんじゃないかな――」
「違います」
鞘夏は無意識に立ち上がった。
忠陽はそれに驚いていた。しかし、洗い物の方へ向き直し、洗い始めた。
「違わないと思う…。僕は所詮呪術師なんだ」
鞘夏は椅子に座り、俯いた。
それから二人の会話もなくなり、食器を洗う音だけが鳴り響いた。
しばらくして、忠陽は手を止めた。鞘夏はそれに気づき、忠陽の背中を見る。
「ねぇ、鞘夏さん。僕が伏見先生に関わることが嫌だったのは、そのことに気づくと思ったからかな?」
再び、鞘夏は立ち上がった。
「違います! あの男は……陽様を不幸にする」
その語気は鞘夏らしかぬ強い口調だった。
忠陽は鞘夏の方を向いた。
「ありがとう、鞘夏さん」
優しい忠陽の笑顔が鞘夏の心を揺さぶる。
「でも、伏見先生は僕たちのことを考えて―」
「陽様は何故、私の言葉をお聞きいただけないのですか?」
鞘夏は真剣な顔をしていた。その顔に忠陽は戸惑う。
「私の願いは、陽様が平穏に暮らすことです。あの男は……その平穏を……奪ってしまいます」
忠陽は鞘夏を見た。その願いは切実であり、忠陽の頭を混乱させた。その中でも、由美子や、大地、伏見やエリザ、そして神無の顔が浮かんできた。忠陽は洗い物の方を向いた。
「無理だよ……。僕はこの島に来て、色んな人に出会って、色んな思いをした。その体験は平穏じゃあできなかった。それを捨てることはできないよ」
「ならば……選んで頂きたいのです。あの男ではなく、平穏に暮らせる人を」
「選べないよ! 今の僕にとって皆、大切なひとなんだ!」
鞘夏はぐっと服を握る。
「ねぇ? 喧嘩はそれぐらいにしてくれない? 近所迷惑なんだけど」
鏡華が居間の奥から現れた。
「ごめん、鏡華」
「別にいいけど。……それよりも、アンタ、そんな声を荒げることできたのね」
鏡華は鞘夏を睨んだ。鞘夏は顔を背けた。
「鏡華」
忠陽は鏡華を叱りつける。それを気にせず、鏡華は言い続けた。
「陽兄に意見するって、どういうつもり? 使用人風情のあんたが何様つもり?」
「鏡華!」
忠陽は鏡華を怒鳴りつけていた。
「何よ! なんで、いつもコイツには優しいの! 私は前の陽兄より、今の陽兄が好きなのに! 陽兄なんて大ッキライ!」
鏡華は怒って、自分の部屋に戻ってしまった。
忠陽は手を洗い、鏡華を追った。
鞘夏はその場に座り込み、自分の手を見た。手は力一杯服を握っていた。
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次の日、鞘夏は由美子を昼食にお誘いをしていた。その行動に由美子は驚いていたが、鞘夏の顔を見て、快く承諾した。
昨日訪れたイチョウの木の下で、二人は昼食を食べ終わり、葉のせせらぎを聞いていた。
「どうしたの? また一段と思いつめて……」
鞘夏は俯いた。
「賀茂君のことなんでしょ?」
鞘夏は由美子を見る。由美子は笑ってみせた。
「分かるわよ。貴方が思いつめるときは賀茂君と何かをあったときだけよ」
「神宮さんは、私のことが分かるのですか?」
「真堂さんって、賀茂君のことだと、分かりやすいから」
鞘夏は視線を反らした。
「それで何があったの?」
「言えません。ですが、神宮さんと話せば、何か答えが出るのかと思って……」
「そう。答えは何か出た?」
鞘夏は首を左右に振る。
「昨日、忠陽様が変わられていると仰っていましたが、忠陽様が変わることは良いことなのでしょうか?」
「いいかどうかは、人それぞれじゃない? 私は良いことだと思ってるけど」
鞘夏は俯く。
由美子は水筒を取りだし、お茶を注ぎ、鞘夏に差し出した。
鞘夏は顔を上げ、由美子の顔を見る。
由美子は笑顔で手渡した。
それを鞘夏はゆっくりと受け取る。その器は温かかった。忠陽の手よりも。鞘夏はお茶をじっと見つめた。
「真堂さんは賀茂君の変化をどう思ってるの?」
鞘夏はお茶を見つめたままだった。
「そう。嫌なの……」
鞘夏は由美子を見るも、すぐに視線を反らす。
由美子は笑った。
「真堂さんって、本当に賀茂君の事だと分かりやすいわね」
鞘夏は器に口をつける。温度はちょうど良く、優しい味だった。
「美味しい?」
鞘夏は頷いた。
「……賀茂君の、今まで良かったところって、何か変わった?」
鞘夏は首を左右に振る。
「そう。良かった」
「良かったとは?」
鞘夏は由美子を見た。
「真堂さんが知ってる賀茂君は、変わってないみたいだから……」
由美子は鞘夏に素敵な笑顔を見せていた。
「はい。……私は、忠陽様に、ただ平穏に過ごしてほしいのです」
由美子はイチョウの木を見た。
「平穏ね……。この島にいる限り、平穏で居られないかも…」
「どういう意味ですか?」
「この前、ニュースにもなった港湾事件、知ってるわよ?」
鞘夏は頷く。
「あれね、賀茂君も関わってたみたいよ」
「どうして、そのような……」
鞘夏はお茶を溢し、手にかかっていた。由美子はすぐにハンカチを取りだし、鞘夏の手を覆った。
「落ち着いて。結果論だけど、彼は無事に戻ってきてるわ」
「はい……」
由美子はハンカチを覆った手に治癒魔術をかけ始めた。
「皇国陸軍にいる私の兄さんは、その事件で、この島の調査に来たのよ」
「よろしいのですか?」
「いいのよ。陸軍の考えなんて、どうせ、この島に対して牽制できればいいんだから」
「どうしてそのような……」
「この島はね、ただの島じゃない。龍脈を恩恵を受けた場所よ。そこは儀式場にもなる。軍としても、それを手に入れたいのよ。だから、事件の内容によっては、神祇庁の管轄から移したいという目論見よ」
鞘夏はまた俯いた。由美子は治癒魔術を終え、鞘夏の手から自らの手を離し、イチョウの木へ体を向けた。
「それに……」
このとき、由美子が見ていたのはイチョウの木ではなく、空だった。
「賀茂君は、兄さんと出会ったみたいだから……」
鞘夏は首を傾げた。
「神宮さんのお兄様とは確かに会われていますが……」
由美子は首を振る。
「真堂さんが知っている兄さんとは違うの。兄さんと言っても、従兄弟なんだけどね。……兄さんを見た呪術師は、呪術師としての本能を思い出させる。この世の理を超えた存在になりたいと。だから、賀茂君の中の呪術師としての本能は、兄さんに憧れてしまった。人の身でありながら、この世の理を超えた存在を目指したいと思ってしまった」
「呪術師としては……当然のこと、ではないですか?」
「それは人の道ではないわ。平穏なんて、ない……」
由美子はハッと気づき、鞘夏を見る。鞘夏は俯いていた。
「貴方……賀茂君に、呪術を捨ててほしかったのね……」
鞘夏は由美子と顔を合わせようとはしなかった。