第3話
家に帰ったら日付が変わっていた。母を起こさぬようこっそりと家に入る。静かに玄関の鍵を開け、滑り込むようにして中に入った。
「うわっ」
入った途端、何かを吹き掛けられた。母が待ち構えていて、消毒作用のある消臭剤を噴射してきたのだ。
「クソ息子、こんな時期に外で酒飲むな!」
母は怒りながらスプレーを発射してくる。目や口の中に入って強烈に沁みた。
「服を洗濯機に入れて、とっとと風呂入れ!」
叫んで浴室を指差す。私は目を閉じながら、少し酒の回った足取りで洗面所に向かい、手探りで蛇口を見付けて水を出した。我が母ながら酷い事をするものだ。目を洗い流してうがいをし、ようやく視界を取り戻すと、消毒と酒で臭う服を脱ぎ捨て、風呂に入った。勿論、諸悪の根源であるマスクも外した。
風呂から上がり着替えて浴室を出たら、一時を過ぎていた。母の寝室を覗くと、しっかりマスクを装着してご就寝だ。私もさすがに疲れたので、部屋に入って早々に寝た。
翌日、眠気に襲われつつも何とか遅刻せずに出勤した。昨日の轍を踏まない為、マスクを忘れずに電車に乗ったのは言うまでもない。
職場に着き、篠田さんが来ていない事に気付いた。いつもは私より早いのだが、昨夜遅かったので寝坊でもしたのだろうか。
「皆、聞いてくれ。篠田君が発熱して、PCRキットで調べたら陽性だったそうだ」
始業前だが、課長が部屋中に聞こえるように言った。さすがに室内がざわついた。
「しばらく休む事になるが、変な噂を立てないようよろしく頼む。皆も気を付けるように」
課長は少しきつい口調で注意した。皆、小さな声で「はい」と返事を返す。
私は気が気でなかった。原因である可能性が高い上、濃厚接触者確定だ。篠田さんに連絡して色々聞きたかったが、連絡先を聞いておらず、そうもいかない。彼女は今どんな心境なのだろう。コロナになった自分を責めているのか、それとも私を恨んでいるのか。彼女が課長に何を言ったかも気になるし、私自身正直に話すべきなのか、見当も付かない。
それから母に何処まで知らせるべきか迷った。知らさずに家に帰って後で揉めるのも面倒だ。私はスマホからメッセージを送り、昨夜一緒に飲んだ者がコロナ感染して、自分が濃厚接触者に当たるであろう事を伝えた。すぐに既読にはなったが返事はなかった。
結局、職場で何か言われる事はなかった。ただ、皆が仕事どころではない雰囲気で一日中騒いでいた。陽が暮れて夕方になると、全員が定時で帰宅し、課長からは「明日以降も体調を見て無理をしないように」という指示が出た。しかし、残業しなければ仕事が終わらない業務量であったにもかかわらず、コロナ感染者が一人出ただけで全員が定時で帰れてしまうのも不思議なものである。
混んでいる電車に乗り、家に着いたのは七時過ぎだった。まだ外は明るかった。とっとと風呂に入ってのんびりするか、などと思いながら鍵を開けて邸内に入ろうとした。ところが、何度試しても玄関の鍵穴に鍵が入って行かない。呼び鈴も鳴らすが反応はない。
私は何が起こったかを悟った。きっと母が濃厚接触者である私を家に入れない為に鍵を替えたのだ。玄関を叩いても、電話をしても出ず、完全に家から閉め出された。感染したくない気持ちはわかるが、何という親だ。
仕方ない。家を離れて、町の方へ向かった。夕飯を食べて、ホテルにでも泊まる事にしようと決めた。またほとぼりが冷めれば帰れる日も来るだろう。酒も飲みたい気分だったので、車ではなく電車に乗ろうと駅へ向かった。
改札を通ろうとした時、スマホが鳴った。知らない番号だったが、気になって通話ボタンを押して耳に当てた。
「増久さん?」
聞いた事のある女性の声で安心した。
「ああ、篠田さんか。大丈夫なの?」
「少し熱があって喉が痛いけど、大丈夫です。連絡したかったんですが、電話番号も交換してなかったし、職場の連絡網を思い出して掛けたんです」
連絡網、言われてみればそんなものもあったなと思い出した。緊急用という名目で作られている筈だが、コロナ対策には全く役立っていない。しかし、こんな形で役立つとは。
「そっか。昨日、交換すれば良かったね。私も心配だったよ」
ありがとうございます、と彼女が言うと、しばらくお互い沈黙してしまった。何となく気まずくて上手く言葉が出ない。三十秒くらい何も言えなかったが、不意に篠田さんから
「あの、もし良ければお買い物頼めませんか? 一人で寝ていて、家に何もなくて……」
と依頼してきた。これは悩ましい提案だ。本来、感染者に近付くのは自殺行為にも等しい。しかし、おそらく彼女は昨日の行為を経て、私への信頼感を抱いており、こんな状況でも買い出しや見舞いに来てくれるものと思っている。私がまだ沈黙していると、
「ごめんなさい。本当は頼んじゃいけないのも分かってるんです。でも、一人で心細いし、増久さんの顔も見たくて……」
こんな風に懇願されては断れない。私は承諾し、必要なモノを聞き取った。
電話を切ると駅前のスーパーに入り、頼まれた飲食物を購入した。母によく買い物へ行かされているのでお手の物だ。品を揃えると再度電車に乗った。コロナ陽性者かつ一人暮らしの女性の家に行くという事で、二重の意味でドキドキする。こんな真似を母に知られたら、それこそ殺されかねない。
駅から十五分程歩いて篠田さんのアパートに着いた。呼び鈴を押す。返事はないが、程なくドアが開いた。篠田さんは顔を見るなり「すみません」と頭を下げる。どうやらマスクをいつも以上に重ねているようだ。
「大丈夫?」
「ええ。何とか。ただ、一人で凄く不安でした。増久さん、少し寄って行って下さい」
そう言われると、彼女の事が心配で一人にしておけない。私は導かれるまま邸内に入った。よく整理整頓されている一室は奥にベッドがあり、彼女はそこで寝ていたようだ。
「良かったら食べて」
私は持参した食べ物を渡す。彼女は吸うタイプのアイスを手に取り、またマスクの端から吸い込んでいた。具合が悪い時にはこういう物が食べやすいのだろう。
篠田さんは一通り食べ終わると、「歯磨きしてきます」と洗面所へ向かって行った。手持ち無沙汰になった私はトイレを借りる事にした。個室に入ろうとした時、偶然洗面所の鏡に映った彼女の顔が見えて、ぎょっとした。何とマスクを取った彼女の口は大きく上の方まで伸びて、口裂け女のようだったのだ。
私は何とか声を漏らさずにトイレに入った。鼓動が速くなり、しばらく落ち着かない。目鼻立ちは整って綺麗なのに、まさかマスクの下にあんな口が隠されていたとは……。何度も深呼吸して、ようやく落ち着く事が出来た。
トイレから出ると、彼女はマスクを付けてベッドに座っていた。
「今日は本当にありがとう。この前の事もあったし、お顔が見たかったんです」
マスクの付いた彼女の顔はいつもと同じで、決して口裂け女には見えなかった。先程見たのは何かの間違いじゃないかと思えた。
「うつしちゃうと悪いから、今日は帰って休んで下さい」
うん、と返事をすると、篠田さんが擦り寄って来た。そして、また目を閉じて何か求めるような顔をする。これはキスをせがんでいるのだろう。私は拒否も出来ず、また互いの布をくっつけ擦り合わせた。今度はマスクを取らないのが幸いだった。これで満足したのか、彼女は手を振り、私は部屋を出た。
ひどく頭が混乱していた。正直、篠田さんを美人だと思っていて、何か期待する気持ちがあったから危険を冒してまで見舞いに行ったのは間違いない。しかし、まさかあんな秘密があったなんて思いも寄らなかった。
いや、この片時もマスクを外さない世界では彼女は美人だ。今や人間の美の価値観は鼻から上にのみ集約されつつある。キスだってあんな形なのだから、それでも良いのでは……
考えながら歩いていると、何だか具合が悪くなってきた。夜になったが、夏の暑さもあり息苦しい。喉も痛くなってきた気がする。気怠さを感じながら電車に乗り、中心街へ出た。ひとまず寝床を確保しようと駅前のビジネスホテルに入る。入口にセンサー型の体温感知器があったので顔を近付けた。
ビーッと人間失格を告げるような音がして、画面が赤くなった。警告音が続き、私を犯罪者であるかのように扱う。フロント周辺にいる人間の視線が痛い。コロナなのか、体調不良なのかはわからないが、困った事になった。嫌な音のせいでこっちの鼓動が高鳴って来る。
「くそっ。こんなもん!」
私は投げやりな気分でマスクを外し、近くのゴミ箱に投げ捨てた。コロナを悪魔と見立てれば、マスクはそれを防ぐ十字架的役割だった筈だ。しかし、いざ感染してしまえばこんな薄布には何の効力もない。ここ最近、私に起こっている事を振り返ってみても、マスクは人心を乱し、余計な争いを生み、魔が巣食う社会を助長しただけだ。
ほら、既に私を見ている何人かのマスクマンの心が乱れて騒いでいる。こんな事を考える私自身が既にコロナに心を侵されているのだろうか。段々と憂鬱な気分になってきた。
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