第2話
翌朝、寝坊して、七時前に目が覚めた。少し喉が痛かったが、夜中にイビキでも掻いたのだろうか。それとも昨夜、大雨に降られたせいか。念の為、熱を測ったが平熱であった。寝汗も掻いていたので、下着を替えた。ついでに外していたマスクも付ける。
「おはよう」
居間に行くと、母親が味噌汁を啜っていた。無愛想で挨拶も返して来ないが、朝食は用意されていた。何だか酸っぱい味の味噌汁を飲み、今日は電車通勤なので慌てて家を出た。電車の出発時刻までギリギリだったので、朝から強烈な日差しが照り付ける中、走って駅まで向かい、駆け込み乗車して何とかセーフだった。
車内は満員で、かつ相変わらず白布や黒布、模様のある布で顔を覆った人間で埋め尽くされており、異様な光景であった。エアコンが付いているとはいえ、夏の暑さもあり、その場にいるのが辛い。既に汗だくだ。
「ん?」
思わず疑問の声が漏れる。何故かマスク集団が皆、私の方を見ているのだった。気のせいではない。間違いなく多くの視線が私を射抜くように集中している。そして、私と距離を置こうとしているようにも感じる。
大汗掻いたせいで何か臭うのかと思い、自分の服の匂いを嗅いでみるが、洗濯洗剤の匂いと消毒液の香りしかしない。いや、待てよ、何故私は匂いを嗅げる……
原因がわかり、思わず「あ~っ」と声を揚げてしまった。また一斉に視線が私に向いた。皆が私を見た理由、それはマスクを付けていなかったからだ。駅まで走った時、息苦しさに耐える事が出来ず、外してそのまま電車に飛び乗ったのだった。
誰にともなく「すみません」と周囲に頭を下げ、胸ポケットに入れた筈のマスクを取り出そうとする。しかし、中には何も入っていなかった。走った時に落としたのか。代わりはないし、これは参った。困ってまごついていると、小太りの中年女性が近付いて来た。
「ちょっとあなた、マスクは?」
険しい表情で詰問するような口調だ。ようやく大衆の代表が来たというところだろう。
「その~、落としてしまったようで……」
私はバツが悪くて下を向いた。
「え~っ。そんな状態で乗って来ないでよ。まったく、どういう神経してんのかしら」
彼女はどうしようもない事を悟り、呆れ顔で離れて行った。すると半径二メートル程度に急速に空間が出来た。飛沫の飛ぶ距離でも意識したのか、周りの人々が間を空けたのだ。しかし、逆にマスクしている者同士がくっつく結果になり、意味があるのかどうかは疑わしい。むしろ私個人としては、人が離れてくれてありがたかった。
二十分程揺られた後、白い目で見られながら電車を降り、コンビニでマスクを購入した。店員にも怪訝そうな顔をされたが、「マスク落としちゃって」と聞かれてもいないのに言い訳をして、ようやく現代社会での最重要アイテムを手に入れた。心の平穏を得た私は、悠々と職場へ向かった。
程なく職場に到着して自席に座ると、
「昨日はありがとうございました」
斜め前から篠田さんが声を掛けて来た。
「いやいや、気にしないで」
「あの、マスク、これを使って下さい。それだとあまり効果ないと思うんで……」
彼女は分厚そうな生地のマスクを一つ手渡して来た。よく見ると彼女は布のマスクの上に同じ物を二重にして付けていた。
「あ、ありがとう」
正直、マスクなんて付ければ良いと思っていたので驚かされた。そして、篠田さんがかなりのマスク信者なのがわかった。
そのまま仕事が始まり、今日も午後から昨日のような打合せがあった。その結果、また方針に沿った資料の作成が必要になり、私は残業する羽目になった。同様に篠田さんも残業しており、気付くとまた私達二人だけが残っていた。
「また私達だけですね」
「仕方ないね。下っ端がある程度頑張らないとってのはあるしね」
私達は職場でも若い方だった。下から数えれば篠田さん、私という順番になる。ある程度の残業が降り掛かってくるのは致し方ない。
「そうですね。頑張らないと」
先進的な意見を言える篠田さんだ。仕事がある事自体はやりがいを感じている口振りだ。
「そうだ、マスクありがとう。これいいね」
私は朝に貰ったマスクの礼を言った。
「でしょう。それ、ウイルスの侵入を九割カットする優れモノなんですよ」
「道理で。凄くフィットする感じだし」
確かに優れモノなのだろう。貰ったマスクに替えた途端、息苦しさが増した。おそらくウイルス防御効果と呼吸のしやすさは共存しないものと思われる。しかし、貰っておいて否定的な事は言えず、こんな答えとなった。
「私、そろそろ帰りますけど、まだいます?」
「いや、俺もそろそろ帰ろうかと」
時計を見るともう八時半だった。さすがにお腹も空いたし、帰りたかった。
「あの~、良かったらご飯行きませんか。昨日の御礼したいし、私、今日家に何もなくて」
突然の申し出に驚いた。彼女に好意を持つ私には願ってもない話だったが、昨今の社会状況を考えると安易に承諾出来ない気もした。何より先輩格は私で、何かあったら間違いなく責任追及されるであろう。
しかし、結局誘惑に負けた。今日は私も電車通勤だったので、駅前の居酒屋に入り、夕食を共にした。店内は空いていた。
「こんな時期にすみません」
篠田さんはテーブルを挟んで正面に座るやいなや頭を下げてくる。
「大丈夫。あんまり気にしてないんで」
私は正直な気持ちを述べた。食事くらいで感染したら、それはそれだろう。ただ、感染した場合、私から誘ったんじゃないかとか、二人で飲みに行ったからとか、世間的に問題になるのはその点だ。
「うん。マスクしっかりしてますから、大丈夫ですよ。私、二重ですし」
「そ、そうだね」
私は肯定したが、内心、少し驚いていた。篠田さんはコロナを恐れるというよりは、マスクに盲従している感じだ。実際、食べ始めても、彼女の食べ方は少し異様であった。マスクを下ろすのではなく、端っこを少し前に広げて、食べ物を脇から口に入れるのだった。飲み物も酒でさえ脇からストローで啜っていた。あまり見た目が良いとは言えないが、指摘する事も出来なかった。お陰で顔全体を見る事も叶わず、少し物足りない気分であった。
逆に私がマスクを外して食事をするので、「マスクしてないとダメですよ」と指摘を受ける羽目になった。しかし、マスクの隙間から食べるような器用な真似は到底出来ない。
ただ、互いの愚痴や状況を話して楽しく会食出来たのは間違いない。課長がマスクの表面を触る癖とか、皆のマスクの付け方とか、誰それのマスクが汚いとかかわいいとか、そんな話題で盛り上がった。さすが篠田さんはよく観察していて、私が気付かない他人のマスク習慣まで話してくれた。お酒も入ったお陰で、楽しくも心躍る時間は続いた。
「あら、もうこんな時間……」
ふと時計を見ると、十時半を過ぎていた。平日だし、こんなご時世なのでこれでお開きとし、会計を済ませて店を出た。
私達は歩いて彼女のアパートを目指した。時間も遅いし、一人で歩いて帰らせるのは心許ない。熱帯夜で汗も掻き、喉も渇いていたので、途中、小さな公園でベンチに腰掛けた。辺りには人っ子一人ない。
「はい、どうぞ」
汗を拭きながら私は自販機で買った水を渡した。彼女は礼を言うと、後ろを向いて水を飲む。周囲の暗さもあって、やはり顔は見えなかった。
「はい。増久さんも喉渇いたでしょ」
飲んだばかりのペットボトルを返される。コロナ時代にこんな間接接触的な飲み方が望ましいとは思えないが、精神的な高揚感がそれに勝って私は飲んだ。不思議と水がいつもより美味しく感じた。
ベンチで私達は他愛もない会話をした。ただ、店と違い、横にくっつくように座っている状態は心地が良い。静かだし、真っ暗だし、いい雰囲気だった。
「そろそろ帰ろうか」
私が腰を上げた時、篠田さんが身を寄せて来た。二人きりという状況もあってか、私は緊張していた。暗さとマスクで顔はよく見えない筈だが、たぶん真っ赤だったろう。
「今日は久しぶりに楽しかったです」
彼女はさらに擦り寄ってくる。またとない瞬間に私はその身体を抱き締めた。彼女の顔を見ると、目を閉じている。これはOKという意味だと判断し、私は相手の顔へ唇を寄せた。そしてマスクの紐に手を掛けるが、
「マスクは取らないで!」
強い意志を感じさせる毅然とした声だった。取らないでどうするんだ、と内心自問自答するが、篠田さんは目を閉じたままだ。キス自体は拒否していないのだろう。何だか間の抜けた感じだが、私はマスクをしたまま己の口を彼女のマスクをした口元に触れさせた。数秒間、そのままマスク同士がくっついていた。
「キス……しましたね」
身体を離して篠田さんが呟く。「うん」と返事はしたものの、全くキスをした気分ではなかった。確かに質感はあったが、互いの顔を覆う布と布が触れて擦り合っただけである。マスクを取らずに何でもするのがコロナ時代の常識なのか。嬉しさと悔しさが、入り混じったような気分のまま彼女を送り、帰宅した。