表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔巣食う社会  作者: 馬河童
1/3

第1話

 うだるような真夏の職場での打合せ中、その場の六人の顔を見て、ふと違和感を覚えた。暑くて熱気むんむんとしているのに、全員の顔に白い覆いが付いていて、当たり前のようにその光景に馴染んでいる。いや、つい先程まで私自身、何の違和感もなかったが、改めて皆の顔を見回すと、不思議な思いがした。

 マスクが人間の顔の一部となったのは、新型コロナウイルスの流行以来だ。未知の脅威とその感染力の高さに、社会はマスクの常態化を選択した。様々な色彩や模様の布は、もう三年以上も鼻から下に定着し、もはや人間の顔にはなくてはならない物となっている。

「そこは少し違うんじゃないかと思います」

 課内でも一番若い女性、篠田節子が自分の意見を述べる。髪は短めでパンツスーツ姿のボーイッシュな恰好をしているが、おそらく美人だろう。おそらくと言うのは、コロナ禍後に入社してきた為、私はマスクを取った彼女の素顔を見た事がない。この場で物怖じせず意見を主張しているように、意志の強さが感じられる黒く鋭い目は、マスクを取っても綺麗に見えるのだろうと予想された。

「篠田君の意見もわからんでもないがね……」

 とマスクの表面をいじりながら、応じたのは課長だ。表面は一番菌や汚れが付着している筈で、それを触っては何の予防にもならない。とはいえ、それを課長に指摘出来る者もない。彼などは四十代のダンディで立派な髭を蓄えていたのだが、それもマスクに隠されてしまい、マスク被害者の一人であろう。

 打合せは篠田さんの発言を基に、皆が活発に意見を交わす結果となった。私は篠田さんより五つ年上の二十九歳だが、彼女程しっかりとした意見も言えず、感心させられた。


 打合せが終わると、皆、個々の業務に戻る。今日の方針に沿って資料を作る事になり、私は残業して対応する羽目に陥った。

 昼以降も暑さが続いたせいか、あまり時間経過への意識がなく、ふと時計を見ると八時を回っていた。残っているのは私と篠田さんだけだった。確かに何人かが「お疲れ様です」と言って帰って行ったのは覚えている。

 その事実に気付き、私は緊張を覚えた。こんな時間に若い女子と二人きりというのは、やはり意識してしまう。マスクがなければ赤くなった顔に気付かれたかも知れない。そんな私の内心に気付く筈もなく、彼女は斜め左前方の机で黙々とPCで作業していた。私はついその様子をじっと眺めてしまった。やはり少しきつい感じの目が奇麗な印象だ。

「増久さん……」

 長く見ていたのがマズかった。彼女は視線をこちらに向け、私が見ていた事に気付いた。

「ゴメン。あんまり一生懸命にやっているからつい見入っちゃって……」

 私は正直に話した。恥ずかしくはあるが、それこそマスクが半分覆い隠してくれているような気がした。

「もう八時過ぎてるんですね」

 篠田さんは時計を見て目を見開く。時刻は八時十五分になろうとしていた。

「篠田さん、いつも遅いよね。大丈夫なの?」

「大丈夫です。忙しいのもあるけど、コロナで大っぴらに遊べないし、私なんて給料も安いから、残業で稼ぐくらいしかないんです」

 意外と現実的な答えがきて、私は少し驚いた。彼女はただ真面目に仕事をしているという訳でもなさそうだ。

「確かにコロナで遊んだり出来ないもんね」

 コロナ禍においては、飲み会はほぼ消滅したし、旅行は制限され、私自身も外へ出て遊ぶような機会はほとんどなくなっていた。

「やっぱり皆、そんな感じなんですね」

 こんな話を交わしたが、同じ部屋ながらなかなか二人で話す機会はなく、新鮮だった。何より彼女を綺麗だと意識している為、会話出来る事が嬉しい。

「あら、もうこんな時間。まだ続けます?」

 仕事もそっちのけで話し込んでしまい、気付くと九時を過ぎていた。

「いや、疲れたんで帰るよ。篠田さんは?」

「私も帰ります。じゃあ片付けて出ますか」

 私は頷くと、机の周りを片付けた。彼女も出る準備は出来たようで、お洒落な感じの白いリュックを担いでいた。共に室内の各種電源を切り、コロナ換気対策で開けてあった窓を締め、電気を消して、部屋を出た。


 建物から出ると、外は土砂降りだった。先程、窓を閉めた時は雨の音など聞こえなかったのに、まさにゲリラ豪雨というやつだ。

「降る予報じゃなかったんですがね」

 篠田さんが呟く。どうやら傘は持っていないようだ。となると、私の取る道は一つだ。

「あの~、良かったら乗って行く?」

 私は車で通勤していた。いつもは電車なのだが、今日は朝、母親をリハビリ施設に送る必要があり、車で来ていたのだった。

「えっ、いいんですか?」

「勿論。篠田さんって確か徒歩通勤でしょ? こんな中、帰れないよ」

 彼女が徒歩通勤なのは課長から聞いていた。一人暮らしで二キロ圏内にアパートがある筈だった。

「すみません。それじゃお願いします」

「どうぞ。車取って来るから待っててね」

 私は彼女を玄関先の屋根の下に待たせ、駐車場へ走った。玄関から百メートル程の場所に停めたのだが、それでも猛烈な雨で全身がずぶ濡れになってしまった。慌ててドアロックを解除して、運転席に乗り込んだ。

 ふう、と一息吐いて、車内を見回す。特に汚くはない。一時的にマスクを顎まで下ろし、匂いも嗅ぐ。車特有の匂いが少し漂っているが、篠田さんもマスクをしているから、臭いと思われたりはしないだろう。私は安心して、エンジンをかけ、玄関へ車を寄せた。

「ありがとうございます。助かります」

 篠田さんが助手席に乗り込んで来た。心なしか、良い香りが漂った気がした。

「増久さん、びしょ濡れじゃないですか」

 私の様子を見て、彼女は自分のリュックからタオルを取り出して拭いてくれた。

「私の使ったタオルでごめんなさい。でも、風邪でもひかれたら困ります」

「今は風邪じゃなくて、コロナでしょ」

「コロナだったらもっと困るじゃないですか。私だって濃厚接触者になってしまいます」

 薄暗くてよく見えないが、篠田さんは少し膨れた顔をしているようだった。確かに送り狼ではないが、送ってコロナ感染させたなんて事になったら目も当てられない。しかも、送った事自体は何も悪くない筈だが、それが周りに知られるのも何だか気恥ずかしい。

 一方で彼女の使用済みタオルで拭かれるのも感染に繋がりそうではあり、私自身は嬉しいが、何とも難しい時代だなあと思う。

「本当にイヤな時代になっちゃったね」

「でも、マスクのお陰で顔を気にしなくて良くなったのはありがたいかな。半分隠せて、化粧とか気を配らなくていいし」

「へえ。私なんか、息苦しいし、マスクしなくていいなら取りたいけどなあ」

「マスクは取っちゃダメですよ」

 土砂降りの雨がフロントガラスに降り注ぐ。視界の中でワイパーが忙しく動いていた。車は彼女の居所の近くまで来ている筈だが、今降ろせばびしょ濡れになってしまうだろう。

「ちょっと降りられないね」

「大丈夫ですよ、ここで降ります」

「いやいや、こんな中降ろせないよ。さっきコロナにかかったらなんて言ったじゃん」

「それは……そうですけど」

 確かに彼女が躊躇する程の雨だった。雨が車を打ち続ける音がバチバチと鳴る程だ。私は近くのコンビニの駐車場に入り、車を停めた。

「収まるまで、ここにいようか」

「でも、帰りが遅くなっちゃいますよ」

「そんな事気にしなくていいって」

 雨音が車を囲む中、気になっている相手と二人きりの時間が出来て、むしろ私は嬉しかった。会話の中に時折、笑いが混じり、楽しく喋れていたと思う。


「こんな時代で人とちゃんと話す機会もないので新鮮でした。送ってくれて感謝です」

 雨が上がり、去り際に彼女が残した言葉だ。別にロマンスも何もないが、嬉しくなった。

 一人になったところでマスクを外し、ドアのサイドポケットに置いた。新鮮な空気を吸うと、これまでが水中で息を止めていたかのように思われる。篠田さんとの事も含めて良い気分で自宅まで車を走らせた。


「ただいま」

 駐車して車から出ると、玄関の鍵を開けて自宅に入る。雨は先程までが嘘のように完全に上がっていた。返事のない邸内をゆっくり進んで行き、居間に入る。六十六歳になる母がソファで居眠りしていた。

「母ちゃん、ただいま」

 声を掛けると、小さい目が少しずつ開く。そして、私の姿を認めると、突然叫び出した。

「あんた、何でマスクしてないんだい」

 しまった。マスクは先程外して車に置いてきていた。かく言う母は居眠りしていながらもしっかりと口元を覆っていた。

「家の中でもマスクはしろっていつも言ってるだろ。あたしを殺す気かい」

「殺すって……そこまで言う事ないだろう。車に忘れて来ただけだよ」

「じゃあとっとと取って来て付けておくれ」

 母の剣幕に押され、私は「へい」と生返事をして車に戻り、先程のマスクを再度付けた。

 しかし、馬鹿な話だ。こんなマスクを邸内で再度付ける事は、もし表面にウイルスが付着していた場合、返って危険ではないのか。母はまだ六十代ながら父を癌で失ってからめっきり弱ってしまい、施設に通っている。その施設でもコロナで死亡した方がおり、極端な警戒をしているのだ。私は邸内でもマスク着用を強いられ、息苦しい思いをしている。

「あんた消毒はしたんだろうね」

 私は頷いて少し湿った手を見せる。玄関にアルコール消毒液が置いてあり、邸内に入る時は手に擦り込むよう厳命されているのだ。それは良いのだが、母はわりと何処でも所構わず消毒する。食べる前の食器にまで消毒するので、害はないとしても、食事があまり美味しく感じられない。今日も刺身が用意されていたが、魚以外の味が口の中に広がる感があった。どうせまたご丁寧にアルコール消毒したのだろう。

 母はちょっと行き過ぎではないかと思う。このコロナ禍によって、人が病むより社会や精神が病んでいる。その良い例が母だが、一つのウイルスが単なる病原菌の拡散ではなく、人の心まで侵して来ている。母の暴言や暴走は私を悩まし、コロナとは違ったダメージを与えてきていた。


 食事を終えると風呂に入った。母程ではないが、私も外から帰って来た身体には、何となくウイルス等が付着していないかという懸念はある。お湯で身体を洗い流すと、そんな心の呪縛から解放された気分になる。何より風呂場はマスクがないのが心地良い。

 浴室から出ると、母対策で着替えと共にマスクを換えた。母に寝る旨を告げて、自室に入る。当然、部屋ではマスクは取る。寝る時まで鼻や口を覆っていたら酸欠になってしまう。何より息苦しくて眠れないだろう。実際、篠田さんの事を考えていたら、なかなか寝付けなかった。


全3話です。同じくらいの長さがあと2話続きます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ