おやすみ歌舞伎町
新宿歌舞伎町一番街。
字面が醸す印象ほど燦びやかでもなく、露骨にいかがわしくもない、とはいえもちろん清廉でもない。その通りからは今夜も、深夜二時を回ろうと、人通り途絶えることはない。
道の真ん中にうっすらこびりつく、何かが飛散した痕跡を、気にならないのか見えていないのか、誰ひとり歩をゆるめず踏みつけていく。
そうやって、どこかからどこかへ歩く人たちを、灯りの消えたラーメン屋と焼肉屋の並びの向かいから、ぼくはぼんやり眺めていた。
あぐらをかいた裸足の裏で、時折むず痒いような熱が這いまわるけど、いったいこの感覚はなんだろう。かれこれ三十分、いまのところ誰もこちらに目線を向けるひとはない。
時折、目の端を横切るちいさな影はネズミたちだ。なかなかはっきり姿をとらえられないが、鼻の頭からしっぽの先までバイ菌まみれの彼らも、ちょこまかと走り回る姿はかわいいものだ。
今、ぼくから見て道の奥側、一番街口アーチのほうから、二人連れがこちらに向かってくる。隣を歩く男性にかけられた腕を、女性は嫌そうに肩をすくめつつも振り払わず、半歩先を急ぎ歩く。
ぼくにはどうすることもできないけれど、男性のほうに、何もない場所でつまづいて足首をぐねる呪いだけかけておいた。
その後方からは若い女性の二人連れが、手を繋いで楽しそうに歩いてくる。どちらかといえば短いスカートの女性の方がよりはしゃいでいて、パンツスタイルの女性は努力してテンションを合わせているようにも見えた。
だとしても、感情のアウトプットのかたちはそれぞれで、そのときに掛かる倍率もちがうのだから、どちらがより楽しんでいるかなんて、ぼくが決めつけられることじゃない。
手前から現れた男性の三人組が、彼女たちをすれちがいざまチラ見していく。真ん中を歩く男性は、すこしだけ肩で風を切っていて、左右の二人は数歩後ろを、へらついた足取りで追従する。
別の男性三人組も、この「陣形」で進軍していくのを何度か見た。もしかしたら、いずれ名のある名軍師の采配かもしれないので、「ダサい」という感想には鍵をかけておく。
そのずっと後方を、あたま二つ分以上の身長差カップルが、真横に並んで歩いていった。彼氏が彼女の背中のリュックを、真上につまみあげるように取り上げ、そのまま自分のリュックの隣に背負ってあげる瞬間を見た。
これもぼくが決めつけられることじゃない、けれど決めつけよう。彼らはいま幸せだ。
視界の端、ラーメン屋の横にある細い階段を、小綺麗な服装の男性がおりてきた。スマホを耳に当てて、周囲をきょろきょろしながら何か話している。彼が上の階に戻ってしばらく経ってから、マネキンみたいにスタイルのいい、髪の長い女性の二人連れがやってきて、階段を上って行った。
上の階にはたしか、男性向けエステ店なるものが入っていた。いろいろと興味は尽きないが、とりあえず今日は、あんなに背中がばっくり開いた服をレッドカーペットの敷かれてない道でも着ていいと学んだので、それで満足しておこう。
白の帽子と上着にピンクのミニスカートの彼女は、今日だけでもう三度くらい見た。それも、行ったり来たりではなく、ぜんぶ手前から奥に、同じ方向に歩いて行った。ぐるりと大回りして周回しているのか、それともドッペルゲンガーだろうか。
道の端を歩いていた体格の良い男性の二人組が、なにかに驚いて道の中央まで逃げる。おそらくネズミだろう。かと思えば、スマホを見ながらひとり歩く髪の長い女性は、足元をかけずる彼らのことなど眼中にないようだ。
ふと、視線を感じる。ラーメン屋さんの前で、くたびれた風体の男性が両手に荷物をぶら下げて、こっちを見ていた。
実はしばらく前にもその場所から、スマホと交互にこっちをちらちら見て、いったん歩き去っていった。いつの間にか戻っていた彼は、やわらかな笑顔を浮かべながら荷物ごと手をひらひらと振ってきた。
気付けば、二時半をまわっている。
手を振っていた彼は満足げに、さきほどと同じ方へ歩き去っていった。その丸い背中を見送って、ぼくはテーブルの上のノートパソコンをぱたんと閉じた。
ここは歌舞伎町じゃない。新宿でもないし、東京でさえない。ずっと離れた、一人暮らしのアパートの、ほの白い蛍光灯の下だった。
あぐらをかいた裸足の裏の、むず痒い熱はもう引いている。
なんとなしの心残りに、パソコンの蓋を開ける。
スリープから復帰した画面に浮かぶのは『【LIVE】東京都 新宿歌舞伎町 24時間ライブ』の文字。You Tubeチャンネルだ。内容は読んで字のごとし。
むず痒さが、すこしだけ蘇る。これはなんだろう、ぼくもそこを歩いている感覚なのだろうか。わからないけれど、その感覚がぼくは好きだ。行ったこともないし、なんの憧れもない街。ただ、ここを行き交うひとたちからは、ぼんやりと物語が見える気がする。
パーカー姿の女の子が軽やかに走り去った画面の右側、ぽつぽつとコメントが流れている。そのいちばん下にひとことだけを書き込んで、ぼくは再びノートパソコンを閉じた。
おやすみ、歌舞伎町。
(作中と同名YouTubeチャンネル、そこで目にした皆さんと、ネズミたちに感謝を)