非日常
「貴様の弟たちはもうこの世界にいない」
その「何か」はにたにた笑っていた。
手は四本。足はなく消しゴムで消したように途中から途絶えている。左目は真っ赤。右は真っ黒。心臓のあたりには変な模様のようなものがある。
――とにかく、人間ではない。
逃げたほうがいいんだろう。けど、足がすくんで動けない。それに、さっき告げられた言葉が頭の中で繰り返される。
「この世界、って――」
普通こういう時に言う言葉は「この世にいない」だろう。でも目の前の「何か」は「この世界」と言った。だったら――。
「ああ。別の世界、にはいるかもしれないな」
「何か」はとても低い声でささやいた。目に映るのはおぞましい姿なのに、声は甘く、体内をめぐっていく。
「父さんは、母さんは、秀一は……生きて、いるのか?」
「何か」は無言のままだ。無言のまま、四本あるうちの一本の手をこちらに差し出される。無言は肯定でいいのか……? 本当に? ほんとうに?
一歩「何か」に近づいた。足が動くようになっている。一歩、二歩、三歩……俺は、あゆみをススメテ――。
「だまされちゃダメ!」
空気を貫くような強い少女の声に叩き起こされた。
目の前に現れた同い年くらいの女の子と、少し年上に見える男の人。女の子は「何か」に向かって強くにらんでいて、男の人は俺を見て優しく微笑んだ。
「君。秀一くんのお兄ちゃんだよね?」
頷く。何もかも分からないけど――少なくともこの人たちは、人間だ。
「あいつの言葉に惑わされちゃダメ。あいつは悪魔よ。簡単に嘘を吐くわ」
女の子が軽蔑するように吐き捨てる。
「嘘など吐かぬわ」
「何か」――悪魔は静かに声を荒げた。表情は読み取りづらいが、怒っているのだろう。その気配に、あふれ出している怒りのオーラに息が詰まる。今度は腰が抜けてしまいそうになったが、なんとか耐えた。女の子と男の人にはそんな様子はなく、強く悪魔を見据えていた。
「いつものやつでいいですよね?」
「ああ。いくぞ」
女の子がポケットから何かを取り出した。絵具のチューブみたいなのが七つ。出して落ちた絵具は地面に墜落することもなく、空中に球体のまま浮かんでいる。いや、球体じゃない。鉄砲の弾のほうが適切だろう。男の人がそれを悪魔に向かってはたいていく。
べちゃって手に付くだけだろう。
そう思ったのに。
絵具の弾はヒュッと目に見えないスピードで飛ばされていく。
まるで本当の弾丸みたいに。
「なんなんだいったい……」
訳が分からない。
飛ばされていく数々の絵具と、それを全てかわす悪魔に目が奪われっぱなしだ。
「まるで、魔法みたい」
そう零れた言葉に、女の子は振り返った。
「何言ってんのよあんた……まさか、知らないの?」
周りの空気が凍りついたのを感じた。じっとこちらに視線が集まる。
それでも、こう答えるしかない。
「……なにを?」
「あんたなんも知らないの!? バカじゃないの!? 大馬鹿! くそ虫野郎!!」
一瞬何を言われたのか分からなかった。が、罵倒されたことを理解した途端怒りがこみあげてくる。そんなに言われなきゃいけないことか?
「いくらなんでも、くそ虫野郎って言い方はどうなんだよ!」
「いいえ、くそ虫野郎以下よ! 本当に知らないの!?」
「ゆず、お前状況見て物事を……」
男の人がなだめようとしたが女は手を振り払って俺をにらんだ。
「帝人はだまってて! いい? あんたのご家族はね……」
女は深く息を吸い込みささやくように言った。
「魔術をつかえたのよ」
「魔術……?」
俺のきょとんとした顔を見て女は苦々しい顔をした。知るかよ。そんなの初耳なんだから。
「貴様ら、私を忘れられるほど余裕があるのか?」
空気がビリっと震えた。そうだ。まだ、悪魔はそこにいるんだ。
「ゆず。冷静になれ。お兄ちゃんもだ。ほら、深呼吸」
「帝人さん……ごめん」
「……ごめんなさい」
男の人はとても冷静だ。二回深呼吸をしたら、少し落ち着いた。
「ゆず。ここは撤退するぞ。彼を守りながら下がるんだ」
「おや、戦わないのか」
悪魔はつまらなさそうに言う。でも、素人の俺でもわかる。あの悪魔には勝てない。さっきの絵具の弾丸は一度も当たっていないのだから。
「まあいい。一族皆殺しはつまらぬからな。そうだそうだ。今日見逃しておいたほうが後々御馳走になる。上玉に育つだろう。ああ、今から楽しみだなあ。そうは思わぬか?」
――狂っている。そう思った。
悪魔のことなんて理解できるわけがない。物語の中でもそうだったのだから、現実でもそうに決まっているじゃないか。
逃げよう。逃げるのがきっと正解なんだ。
――本当にそれでいいのか?
当たり前だろう。逃げるしか、俺にはできない。
――あいつに聞くことがあるんじゃないのか?
聞くこと……?
悪魔の発言を一つずつ思い出す。
弟たちはもうこの世界にはいない。
別の世界にはいるかもしれない。
嘘は吐かない。
一族皆殺しはつまらない――。
「父さんも母さんも秀一も……お前が殺したのか?」
生きているのか、という問いかけには無言だった。
無言は、嘘を吐いたことにはならない。
それに、秀一の手が落ちていた――川が血で染まっていることと合わせても生きていると考えるほうが難しいだろう。
「どうなんだ……!」
悪魔は冷たい目で俺の目を見つめ――目を細めた。
「確かに貴様の弟たちは私が殺めた。しかし別の世界にいるというのは……可能性の話だ。私にも分からぬ」
「は……?」
どういうことだ。
死んだのに、別の世界にいるって、矛盾していないか? 死者の世界――地獄ということだろうか。
それなら一応嘘を吐いたことにはならない。でもあの言い方は……そんな単純なものではなく、もっと別のように……。
「それでは私は帰るとするか。言っておくが貴様の家族を殺めたのには理由がある。あやつが、私を呼び出し、こき使おうとしたのだ。まったく、悪魔をなんだと……」
……意味が分からない。
そんなことで、と言っていいのか分からない。
でも、そんな簡単に殺したのか?
そう思うといきなり腹が立った。
さっき冷静になれと言われたばかりなのに、脳が沸騰して、怒りがこみあげてきて。
「ふざけんなよ!」
何を思ったか近くの草を引き抜いて悪魔に投げた。
カッとなって、藁にもすがるような気持ちで、こんなものでそいつが傷つけばいいのに、と思った。
たかが雑草を投げたところでどうせ意味はない。俺は男の人や女と違う。絵具を弾丸にして飛ばすような真似はできない。ただの幼稚なあがきだ――そう冷静な部分の俺は思った。
だから目の前の光景が信じられなかった。
その草は悪魔の体に突き刺きささっていた。
軽傷だと思うが血らしきものも出ていた。
まるでナイフで浅く刺したように。
「あんた……まさか」
確かゆずとか呼ばれてた女が信じられないというように声を零した。
悪魔は傷口を見てニヤッと笑った。とても嬉しそうに、くつくつと笑う。良い獲物を見つけたと舌なめずりするように笑みを浮かべる。
「おお、おお、おお……! 貴様は家族より強い魔力を持っているな。醜いアヒルの子は白鳥だったというわけだ。ああ、ああ、ああ……! そうかそうか。ようやく分かった。だからか。ああ、なんと哀れな! 滑稽な! 本当に……これだから人間は、愛おしい」
男の人も女も、初めて恐怖の感情を顔に出した。俺でも分かる。今言っていることは何も分からないけれど――知られてはいけないことを知られてしまったのだと。
「ああ、なんと気分が良いことだろう――どうせだ、私の真の名を教えてやろう。我が名はペイン。貴様ら人間の悲しみ、憎しみ、恐怖を好む悪魔だ」
そう言うと悪魔は消えた。
その場に残ったのは、悪魔の血と思われる白い液体だけだった。
緊張の糸というものは一度切れると戻らないようで、俺は膝から崩れ落ちて地面に座り込んでいた。
「君。名前は?」
確か、帝人と呼ばれていた男の人尋ねてきた。そうか。ずっと「秀一のお兄ちゃん」という認識だったもんな。
「叶、大夢、です……」
声に出した途端、何故か悲しみが急にこみあげてきた。
悪魔の……ペインの発言が本当かはわからない。別の世界にいるのかどうか。生きているのか死んでいるのか。
けれども、この世界にもう家族はいないんだ。それだけは確かで変えられない事実。
俺は叫んだ。
動物が吠えるように、叫ぶことしかできなかった。
けれども涙は出なかった。
酸素が薄くなったのだろうか、目の前が暗くなっていくのがぼんやりとわかった。ゆずと呼ばれていた女の口が動いてるのを、最後に目に映して。
俺は意識を失った。