5
外はパラパラと小雨が降り続いている。
借りたビニール傘を広げ歩き出そうとすると、再び食堂の扉が開いてレイラが顔を出した。そして、丈瑠に向けて声をかける。
「道場までなら歩いて1時間くらいですわよ」
それを聞いて、丈瑠は振り返った。
「知ってたんですか?」
「ええ、この辺りで古い道場といえば一つしかありませんから」
「そうですか、ありがとうございます」
丈瑠は軽く頭を下げ、それから再びレイラに背を向けて歩き出す。
「でも、このまま行っても無駄ですわよ」
「無駄?」
丈瑠は振り返った。「無駄って何が?」
「道場の扉には鍵がかかってますから、中には入れませんわ」
「鍵……そうですか」
それなら鍵を壊せばいい……と咄嗟に思う。どうせ古い道場ならば、鍵もそうしっかりしたものではないだろう。
だがーー
「乱暴なことしちゃいけませんわよ」
「え?」
まるで心を読んだかのようなレイラの言葉に丈瑠はドキリとした。
「鍵ならここにありますわよ」
レイラはその手に持った古びた鍵を丈瑠に向けて翳してみせた。
「どうしてあなたが?」
「私が預かっていますので」
そう言いながら、レイラは鍵をポンポンとその手のなかで弄ぶ。
「貸してもらうことは出来ないんですか?」
「そうですわねぇ。ま、いいですわ」
レイラはそう言って古びた鍵を取り出して、丈瑠に差し出した。
「道場はどこに?」
「この道をまっすぐ北に向かって、郵便局に差し掛かったらそこを右手に曲がればそのうち着きますわ」
丈瑠は思わず時計に視線を向ける。夕方までには行って戻ってこられるだろうか。
その姿を見て、レイラがさらに言う。
「ちなみにこの町に宿はありませんわよ」
「それってどういう……?」
その言葉の意味がわからず丈瑠は聞き返した。
「急ぐ必要ありませんわ。お好きなだけお使いください。お会いしたいのがお化けなら、夜にならないと出てきてくれませんわよ」
どうやら、そこに泊まってもいいという意味らしい。
泊まるかどうかはあとで考えることにして、丈瑠は一応、礼を言ってから再び歩き出した。
* * *
レイラに教えてもらった場所に、確かにその小屋はポツンと存在していた。
竹林に囲まれ、そこにあることを知らなければ多くの人は見逃してしまうことだろう。
古くはあるが、予想していたよりもしっかりとした建物で、今でも道場として使えることはできそうだ。
道場脇には、巨大な花崗岩があり、その岩の間から大きな一本のヤマザクラの木が生えている。きっと春には見事な花を咲かせることだろう。
預かっていた鍵を使い、扉を開ける。
少し建付けが悪くなっているのか、扉を開けるのに少し手間取る。それでもさほど力をこめる必要もなく扉を開けることが出来た。
丈瑠は靴と靴下を脱ぐと裸足になって道場へと足を踏み入れた。
窓から射し込む光に埃が舞っているのがよく見える。床にも少し埃が溜まっているらしく、足の裏がざらつく感じがする。
道場の中を改めて見回す。
壁には何本か木刀が掛けられていて、確かに昔、道場として使われていた面影がある。
丈瑠はそのうちの一本を右手にとった。
久しぶりの感覚だった。
剣道の稽古をしていた時も、稽古はじめは必ず木刀の素振りからはじめたものだ。
子供の頃、こうして木刀を持つと何か楽しいことが始まるような気がしていた。あの頃のような熱い思いをいつ忘れてしまったのだろう。
正面に向かって木刀を捧げるように礼をすると、大きく木刀を振りかぶり、そのまま振り下ろす。
心がすっとする。つかえていたものがスルリと消えていくような気がする。
自分でも意外だった。以前は道場に通っていても、妙にピリピリした感覚ばかりが強かった。今は妙に落ち着いた気持ちになっている。
丈瑠は再び木刀を振り上げる。
一回、二回……
幾度となく素振りを繰り返す。
以前の自分は強くなりたいと思いすぎていたのかもしれない。
(来てよかった)
たとえ最強の剣士に出会えなかったとしても、ここに来たことに悔いはない。明日、殺されることになったとしても、少しくらいの覚悟は持てるような気がする。
30回を超えると、少し汗ばんでくる。高校の頃ならこのくらいのことまるで平気だった。ずっと稽古をサボってきた証拠だ。
50回に至ると、すでに腕が張るような感じが強くなってくる。それでもその痛みこそが懐かしく、嬉しく感じさせる。
(もう少し……もう少し)
70回……80回と越えてくる。もう余計なことは何も頭の中を過ぎらない。なんとか100回の素振りを終え、丈瑠は息を整えるためにしゃがみ込んだ。腕が張り、全身汗をかいている。
(なさけないな)
昔なら、ただの準備運動にしか過ぎなかったものが、今は四苦八苦している。その自分の姿が妙に可笑しい。
そのままゴロリとその場に横になった。
不思議と寒さを感じない。
今夜はここで眠ることにした。