4
丈瑠がやって来たのは、北海道留萌市の北にある留田町という場所だった。
小さな町で地図から捜すのも苦労するほどだった。メインストリートというものもなく、役場近くに小さな食堂が一軒見えるだけだ。
丈瑠はその食堂の暖簾を潜った。命を狙われているというにも関わらず腹は減るものだ。
既に昼を過ぎているためか、数人の客の姿しか見えない。皆、地元の人のようだ。やはりこのような無名な田舎町にはあまり観光客が訪れるということはないのだろう。
厨房には年配の老夫婦の姿が見える。
そのすぐ手前のテーブルには着物姿の若い女性が、昼間だと言うのに酒を飲んでいる。その目の前には3本の空いた徳利が転がっている。こんな田舎町には不似合いに感じるような艶やかな薄紫の着物を着た若い女性だ。丈瑠よりもわずかに年上だろうか。
丈瑠はその隣のテーブル席へと腰をおろし、奥に見える老人に向かって注文した。今はとにかく空腹を満たしたかった。
食後、これからどうするかを考えながらお茶をすする。さっきまでいた数人の客も既に店を後にしていて、店内は丈瑠と酒を飲んでいる若い女性だけだ。
「お客さん、この辺の人じゃないですよね。どちらから?」
その酒を飲んでいる着物姿の女性が、ふいに声をかけてきた。
そういえばさっき厨房の老人が彼女のことを『レイラちゃん』と呼んでいたような気がする。一瞬、この若い女性と厨房の老夫婦との関係を考えてみたが、すぐに考えるのをやめた。そんなことは今の丈瑠にとってどうでもいいことだ。
彼女は丈瑠の前に移ってくると、興味深そうに丈瑠の顔を覗き込んだ。
「……東京から」
無視するわけにもいかず、丈瑠は素直に答えた。
「観光でいらしたのかしら?」
「いや……」
こんな小さな町で観光するような場所など無いだろうと言いそうになるのを丈瑠は抑えた。
「じゃあ、お仕事?」
「いや……」
「ずいぶん大人しいんですのね? 人見知りなんですのね? それとも知らない人と話しちゃダメとお母様にでも言われているのかしら?」
「いや……別にそんなわけじゃ」
「なら教えてくださいよ。名乗ったほうがよろしいかしら?」
「いえ、別に必要ありません。ただ、ここらへんに道場があると聞いたんだけど」
「道場? 何の道場です?」
レイラは目をパチパチさせながら訊く。
「いや、今はやっていないらしいんですが……以前、道場だった古い建物があるって」
「道場ねえ。あったかしら? なかったかしら?」
酔っているのだろうか。レイラはボンヤリと宙を見上げながら言った。
「知らなければいいです。気にしないでください」
「そんなものに何の用があるんです?」
「え……えっと……」
丈瑠は口ごもった。どう説明していいかわからなかったからだ。亡霊に会えるなどという噂、どう話せばいいだろうか。ただ、笑われるだけではないだろうか。
丈瑠が迷っているとーー
「ひょっとして、変な噂でもお聞きになられましたか?」
「どうしてそれを?」
「時々、そういうお客さんが来られるんですよ」
それを聞いて少しホッとした。どうやら噂を聞いて訪ねてきたのは自分だけでは無いらしい。
「え……ええ、最強の剣士に会えるって聞いたんだけど」
「やっぱりですか」
「すいません。ご迷惑でしたか」
「いえいえ、ウチとしてはお客さんが増えるので、そういう噂も助かりますわ」
「ウチ? じゃあ、あなたはこの店の人ですか?」
「まあ、それに近いようなものですわ」
「そんな人が働きもしないで酒飲んでて良いんですか?」
「あら、いいじゃありませんか。働き方もいろいろですわ。こんな看板娘がいれば、噂になって店が流行るかもしれませんわ。こんな小さな町じゃ、観光の人も滅多に来ませんからね。たまに誰かに追われて逃げてくる人もいますけどね」
まるで試すかのように、レイラは丈瑠を見た。
「……別に俺は追われてるわけじゃーー」
丈瑠は思わず否定した。だが、レイラにとってそんなことはどうでも良かったようだ。
「そんなことより最強の剣士って? 誰のことです?」
「北海道に来て最強の剣士といえば土方歳三でしょう」
自信を持って丈瑠は答えた。
「あぁ、土方さんねぇ」
レイラは惚けたような声で、まるで知り合いを呼ぶかのように言った。まさかとは思うが知らないのだろうか? 最近は歴女と呼ばれる歴史好きの女性も多いが、そういうのは珍しい部類なのかもしれない。
「新選組を知りませんか?」
「でも、その方、亡くなっているのでは?」
「知ってますよ。でも、この町の道場に行けば最強の剣士に会えると聞いたんです」
「あらあら、なら、お化けに会いに来たのですか?」
驚いたような顔をしてレイラが訊く。
「お化けっていうか……まあ、そういうものかな」
「怖くありませんの?」
「土方歳三が? 確かに『鬼の副長』と呼ばれていたみたいですけど」
「いえ、お化けですよ」
「ああ……そうですね」
そんなことは考えもしなかった。たとえ相手が亡霊であったとしても、会いたいと思うのは当然のように考えていた。
「変わってますのねぇ」
クスクスとレイラは笑った。「それで? 会ってどうされますの?」
「そうですね……勝負してみたいと思って」
少し躊躇いながらも丈瑠は答えた。実のところ、会って何をするかまで今まであまり具体的には考えていなかったのだ。
「土方歳三と? あなたも侍ですの?」
「侍ではないけど……剣を志す者ではあるよ」
少し恥ずかしい気がするが、それでも丈瑠はその思いを口にした。もし、本当に土方歳三と立合うことが出来たとすれば、本当の強さを知ることが出来るだろうか。
「命知らずですわね」
「それで? 何か知ってますか?」
「土方歳三ですか。どうでしょうねえ」
レイラは大げさに首を傾げる。
やはりただの噂話だろうか。
「やっぱりただのガセですかね。土方歳三がこんなところに来たという話もありませんよね」
「来てなければ会えないのですか?」
「は?」
「幽霊だって移動しますわよ。地縛霊じゃないのですから」
「……はあ」
どう答えていいかわからず、丈瑠は視線をそらした。どこまで本気で言っているのだろう? どうにもこういう女性は苦手だ。
「でも、どうして土方歳三ですの? 同じ新選組なら斎藤一や沖田総司、永倉新八は? 最強の剣士と言うならば塚原卜伝や宮本武蔵ではないのですか?」
丈瑠は一瞬、言葉に詰まった。実のところ、土方歳三を初めて知ったのは小学校3年の時に観たアニメがきっかけだった。
だが、さすがにそれを理由にするのは恥ずかしかった。
「生き様……ですかね」
「生き様? それなら最強の剣士って言い方は違うんじゃありません?」
「土方は強いですよ。あなたに何がわかるんですか?」
丈瑠は少し強い口調で言い返した。
「あら、私が女だからそんなふうにおっしゃるんですか?」
「そんなんじゃありませんけど。でも、俺にとっては土方なんです。土方歳三が最強じゃ駄目なんですか」
少しムキになって丈瑠は言った。
「いいえ、土方さんはお強いですわ」
まるで見知った人について語るかのように怜羅は言った。「彼は型に捕らわれることがありませんからね」
「型?」
「ええ。剣には型があります。でも、命のやり取りの時は、それだけでは勝てません。それを土台にして新たな剣筋を見いだせるかどうかが大切なのです。土方さんはそれが出来る人ですわ」
「まるで見てきたかのように言うんですね」
皮肉をこめて丈瑠は言った。だが、レイラはそんな丈瑠の言葉を無視するようにさらに言った。
「彼の場合、元々が侍じゃなかったというのが大きいのかもしれませんわね。侍になろうとする、その思いがあなたの言う生き様にもつながっているのかも」
不思議な女性だ。彼女の言っているのはただの空想のはずだ。だが、それがいかにも本当のことのように感じられる。
少し魅力は感じるが、いつまでもこんなところで話し込んでいるわけにもいかない。いつ追手が追いつかれるかしれない。
「そろそろ行きます」
丈瑠は代金をテーブルの上に置いて立ち上がった。
「雨ですわね」
レイラは窓から外を眺めながら呟いた。
「さっき降り出したみたいです。でも、このくらいならたいしたことはないです」
「傘、お貸ししますわ」
「でもーー」
丈瑠は一瞬躊躇した。借りたとしても、返しにこられるかどうかもわからない。いつ殺されるかもわからないのだ。
「どうぞ気になさらずに。また通りかかることがあればお返しくださればよろしいんですから」
「じゃあ、ありがたく」
生きて帰るためのおまじないにはなるかもしれない。
店の玄関口の隅に変わった華やかな和傘が置かれていることに気がついて、思わず丈瑠は手を伸ばした。
だが、見た目とは違うそのズシリとした重さに思わずよろめく。
以前、合気道の道場で師範の鍛錬棒を借りて使ってみたことがあるが、これはその何倍もさらに重い気がする。
それを見てレイラが声をかける。
「それはいけませんわ」
どうやら和傘の形をしているが、まったく違うものらしい。こんなものを傘として使える者がいるとは思えない。
「何ですか? これは」
だが、レイラの言葉はまた意外なものだった。
「それは私のですわ」
「え? 使うんですか?」
「もちろんですわ。傘なんですから」
そう言って再びフフフと笑う。
冗談としか思えなかった。
丈瑠はその和傘を元の位置へと戻し、傘立てからビニール傘を一本取り出した。