③ 「憂鬱だ……」
「……し、ほら、……し!」
なんだか懐かしい声が聞こえる。でも僕は眠いんだ。もう少し寝かせてほしいのだけれど。
「こら! いつまで寝てるの! 早く起きなさい!」
声と同時に背中に大きな音が響く。なんて暴力的なんだ。
「やっと起きた。今日は買い物に付き合ってくれる約束だったでしょう。早く準備してよね」
買い物? そんな約束していただろうか?
ゆっくりと目を開ける。目の前には本とノートが広げられていた。そうか、勉強しながら眠ってしまったのか。
腕を挙上して伸びをする。机に突っ伏していたため、身体の至る所が凝っていた。
肩を解しつつ、横に立つ人物を見る。
その顔を見た瞬間、衝撃が走った。
「何よ、オバケを見るような顔しちゃって。そんなに変な顔してる?」
言いながらその人物はペタペタと自分の顔を触る。
所々に変顔を入れてくるその人は、紛れもなく自分の知る懐かしい彼女だった。
何故彼女はここに居るのか。いや、それよりもここは一体……?
混乱していると、彼女が顔を覗いてきた。バランスを崩したら額が触れそうなほど、近い。
「ねぇちょっと、まだ寝ぼけてんの? それとも調子悪い?」
そう言いながら今度はこちらの頬を触る。僕は動くことが出来なかった。
「うーん、熱はなさそう。じゃあ問題なし! ほら、さっさと顔洗ってきな!」
彼女はニッと笑い、固まっている僕の背中を遠慮なしに叩いた。
状況はよく分からないが、仕方ないのでとりあえず立ち上がる。寝起きだからか、足元がややふらついた。
「じゃ先に行ってるから。十五分後いつものバス停で」
そんな僕を他所に彼女は手を上げて先に行ってしまう。
十五分で身支度、移動しろだなんて、相変わらず無茶なことを言ってくれるな。
顔を洗うために洗面台へ移動する。
何故だか身体が鉛のように重い。寝ていた体勢が悪かったのが影響しているのだろう。
しかし遅刻をすると彼女に何をされるか分からない。身体に鞭を入れて、なんとか洗面と歯磨きを済ませた。
服は寝巻きでなければ何でもいいだろう。部屋干ししていたシャツに手を伸ばす。
その時、突然激しい胸痛と吐き気が身体を襲った。思わず膝をつく。すぐに喉に灼熱感を感じ口を抑えると、生暖かい残渣が手のひらに広がった。
身体中から汗が噴き出す。しかし物凄い寒気がした。目の前はチカチカする。何より、かなり息苦しい。
一体どうなっているのか。自分の身に起こっている状況に、脳が追いついていなかった。僕は彼女を待たせているのに。行かないと、いけないのに。
唐突に、床に落ちていた携帯が鳴った。彼女だ。恐らくまだ来ない僕に怒りの電話をかけてきたのだろう。
なんとか携帯をつかもうと手を伸ばす。
僕は今度こそ、彼女のもとに行かなくては───
「今行くから怒らず待っててください!」
ボタンを押し、直後に早口で伝える。しかし音は一向に鳴り止まなかった。
……おかしい。そう思って手にした物をよく見る。そこには二つの針が重なった光る丸型の物体があった。
そういうことか。冷静になりつつ、時計のアラームを止める。
今の自分には、先ほどのような身体症状は全くなかった。吐いたはずの残渣もどこにも見当たらない。
「……目覚めが悪いな……」
数秒前の自分の行いを取り繕うかのように頭を掻いた。口内がなんだか気持ち悪いので、一先ず洗面所へと向かう。
久しぶりにあの日の夢を見た。地球にいた頃の、最後の記憶。
普通の休日に友人のワガママに付き合う、いつもと変わらない日常だった。それがあの日、何の前触れもなく終わってしまった。
あの症状は一体何だったのか、彼女はあの後どうしたのか、僕には分からない。調べる手段もない。ただ分かるのは、向こうでは故人として処理されたということのみ。今更何故こんな夢をと思うが、昨日見たニュースの所為なのは言うまでもない。
すくった水を顔に浴びせる。今はその冷たさが心地良かった。鏡を見ると、疲労の色を濃くした自分と目が合う。
……なんて顔をしているんだ、僕は。
はぁ、と溜息が漏れる。朝からなんだか疲れてしまったので、今日は一日やる気が起きなさそうだ。
ソフィアの補習用の資料は昨日大方まとめてある。夕方それを渡しつつ理解度をチェックしよう。
さて、それまで何をして時間を潰そう。図書館に行って本を物色しようか。
「……まず朝食に行きますか」
食欲はあまりないが、食べないのは身体に良くない。適当なものを入れて頭を働かせよう。
ポケットに鍵を入れて部屋のドアノブを回す。するとドア脇に置いてある通信機が鳴った。この機械は学校からの連絡用に各部屋に設置されているものだ。授業変更などの連絡で鳴ることがほとんどだったが、休日の朝に鳴ることは珍しい。
正直、あまりいい予感はしない。
「はい、ハイディアです」
無視は出来ないので受話器を取る。
「オーウェンだ。アッシュ・ハイディア。お前に話がある。九時に指導室へ来るように」
それだけ言われすぐに通信が切られる。
オーウェン教官。僕等四年次の学年主任であり、生活指導の最高責任者でもある。坊主頭に鍛えられた身体、深く刻まれた眉間の皺という、まるで裏社会の住人の様な見た目から、生徒から最も恐れられている教官であった。
その教官からの呼び出し。生活指導に関する項目で引っかかるようなことをした覚えはない。指導されるような成績でもない。呼び出される理由に心当たりがなかった。
「憂鬱だ……」
先程の夢でやる気を失ったところにトドメを刺された気分だ。頭痛がする。食欲も完全に失せた。出来ることならこのままもう一度布団に潜りたい。今日はせっかくの中間休暇一日目なのに、朝からなんでこんなことに。
ドアを開ける。幸い廊下には誰もいなかった。
とにかく食堂に行き、後で食べられるようおにぎりだけでも貰っておこう。
フラフラと覚束ない足取りで歩き出す。
先程の連絡が、何かの間違いであることを願うばかりだ。