② 「本当に毎日キースさんのご飯を食べられたら、きっと幸せですね」
帰るとまず俺は風呂を用意した。彼女の不衛生さが気になるのもあったが、単に部屋の中を片付けたかったからだ。タオルと自分サイズのシャツを彼女に渡し、ゆっくりしていいと念を押してから必死に散らかったエロ本などを隠した。
その後あり合わせで食事を作り、ほかほかに温まった彼女へそれを出した。彼女は目を輝かせると、温かい食事は久しぶりだと言いながら全て食べてくれた。
料理を美味しそうに食べてくれる姿はとても嬉しかった。けれど同時に、彼女があれだけ汚れていた背景への興味も膨らむ。
「あの、えっと、キースさん。色々用意してもらってありがとうございました」
「いやいや。もう少しもてなせれば良かったんだけどね」
「私には勿体ないくらいです。本当にありがとうございました」
「そっか、喜んでもらえたなら良かったよ」
食事を終えて一息ついたところで、彼女は深く頭を垂れる。
自分は大層なことはしていないつもりだった。しかし彼女の反応を見るに、少なくともここ数日は衣食住の基本すら満たされないくらいの生活をしていたことが感じられる。
ただの家出にしては警戒しすぎている。彼女が逃げている相手は一体──……。
「……でも、これ以上ご迷惑はかけられません。すぐに出て行きますね。このシャツだけ、後日お返ししますので」
「待って。迷惑だなんて思ってないよ。そんなにすぐ行かなくてもいいんじゃない?」
そう言って俺は立ち上がる彼女の腕を取って引き止める。すると、腕を掴んだ手に電撃痛が走った。
「っ!」
「あっ! あの、ごめんなさい!」
慌てた彼女がすぐに俺の手を確認する。俺の手は火傷をしたように赤くなっていた。
「こ、こんなつもりじゃ……」
「いや、いいんだ。驚かせた俺が悪いから」
「すぐに治します!」
彼女は俺の手を素早く両手で包む。ヒリヒリとした痛みはすぐに引き、何事もなかったかのように元に戻った。
彼女はホッとしたように顔を緩めるが、すぐにこちらを向いて頭を下げた。
「ごめんなさい! つい反射的に攻撃してしまいました……!」
「謝らなくていいって。それより治してくれてありがとね。君、補助型なんだね。あれ、でも今の電気は」
「そ、それは、その……」
頭を上げたのはいいが、今度は目線を逸らせてしまった。口籠もり、それ以上は言いたくないような素振りだ。
この子には何かある。そう思った俺にイジワルな考えが浮かぶ。
「この家、リマナセの寮なんだけど、朝六時になるまで中から開けられない仕組みになっているんだよね」
さらっと言ってみせるが全て嘘だった。寮ではないし、外に出られないなんてこともない。
しかし、そうでも言わないと彼女は本当にいなくなってしまいそうだった。眼鏡の影になって分かりづらいが、目元には隈もある。そんな彼女に、せめて今夜だけでもゆっくり眠ってほしい。
それに正直に言うと、今起こった事象が何なのか知りたい。
「え……出られないんですか……! もっと早くそれを言ってもらえれば」
「そのかわり外からも誰も入れない。だからゆっくり眠れると思うよ」
「うっ、それは……」
彼女の目が泳ぐ。
寝たい、しかし一緒にはいられない。と、彼女の中で葛藤しているのが見てとれた。
よし。あと一押しだ。
「最近布団を新調して、ふかふかなんだ。そこで寝ていいよ」
「ぐっ」
「あと、久しぶりに誰かと朝食を食べるのもいいかなって思うんだけど、どうかな」
「うううっ」
彼女は分かりやすいくらい揺らいでいた。基本的な欲求が満たされていない彼女にとっては、これだけでも十分な餌だろう。
「……どの道ここから出られないんですよね。ではキースさんのお言葉に甘えさせていただきます」
「そうこなくっちゃ」
「でも! 朝食をいただいたら本当に出ていきますから!」
「うん。引き止める理由、ないもんね」
諦める素振りを見せつつ、どこか嬉しそうな彼女が微笑ましい。
彼女の身の上話を聞きたいが、一先ず今夜はゆっくり寝かせてあげよう。
「じゃ、俺は布団を準備するから待ってて」
居間に彼女を残したまま、俺はエロ本の眠る棚から新しいシーツとカバーを引っ張り出した。
翌朝。彼女は眠そうに目をこすりながら居間に入ってきた。サイズの合っていないシャツからは、白い肩が少しだけのぞいている。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「おはようございます。はい、いつの間にか朝になっていたのは久しぶりです」
「それは良かった。ちょうど朝食が出来たところなんだ。温かいうちにどうぞ」
「わぁ、いい匂い! ほ、本当にいいんですか⁉︎」
目玉焼きを皿に移す様子を、彼女は緩い顔で見つめていた。口では遠慮しているが、身体は朝食へと向いている。ごくりと唾を飲み込む姿が小さな子供のようで可愛らしい。
「もう二人分作っちゃったし、食べてって」
「はい! ではいただきます!」
彼女は手を合わせ、素早く座って食べ始める。俺もエプロンを外して向かいに座った。
「昨日も思いましたが、ご飯本当に美味しいです。これだけ美味しいご飯を作れるなんて、キースさんはすごいです」
「そうかな。焼くだけだし、誰でもできるよ」
「お米もとても光っていて美味しいです!」
「はは、そっか。俺も誰かに美味しいって言ってもらえるのは久しぶりだから、嬉しいな」
幸せそうに笑いながら一口ごとに感想を述べてくれる彼女に、俺も和んでいた。
自分の行いにこれだけ喜んでくれる人は初めてだった。確かに綺麗な女性と過ごすのは楽しいし、自分の汚い欲も満たされる。しかし彼女から貰う感情は、心の奥底から温まる、穏やかなものだ。
「明日も明後日も、君がそう言ってご飯を食べてくれたらいいのにな」
「え?」
「あ、ごめん。君がすごく褒めてくれるから、つい嬉しくなって」
本音がポロリと出たことに自ら驚きつつ、取り繕ってみる。
名前すら知らない女の子に俺は何を言っているんだ。
そんな一人で焦る俺を見ていた彼女は、少し間を空けてからはにかんだ。
「本当に毎日キースさんのご飯を食べられたら、きっと幸せですね」
そして彼女は表情を隠すようにスープをすする。少しだけ見えた頬は赤らんでいた。
俺はそれをぽかんと見つめる。心臓が止まっているような、そんな感覚がしていた。
何故この子は、こんなにも無垢に言葉を紡げるのか。昨夜出会ったばかりの何も知らない俺に、何故そんなに無邪気な表情を見せられるのか。
もっと多くの時間を共に過ごせたら、少しずつ君のこと、知っていけるのだろうか。
「あ、あれ、キースさん? 大丈夫で……」
「ねぇ。すぐに出て行かなくてもいいんじゃないかな」
俺は、君のいろんなことが知りたい。
「君、家に帰れない事情があるんだろう。俺は迷惑じゃないから、しばらくここに居ていいよ」
君ともっと、いろんなことを話したい。
「学生寮だから日中は俺もいないし、好きにしていいから」
「キースさん、あの、ち、近いです……」
「え、あ! ご、ごめん!」
顔を真っ赤にして言う彼女を目の前に我に返った俺は、壁際まで後ずさる。彼女も箸を止め、両手で顔を覆っていた。
一体俺は何をしているのか。彼女を引き止めてどうしようというのだ。彼女の事情は、人に話したくないものかもしれない。興味だけで首を突っ込んで、責任を取れと言われたらどうするのか。
「違うんだ。俺はただ、君ともっと話せたらと思って……」
俺は言い訳のように言う。
情けなかった。いつものように華美な女の子を口説く時は、もっと上手くやれるのに。
「あの……」
凹んでいると、顔をあげた彼女がちらりとこちらを見る。
「私、今まで誰かに必要とされることがなかったので、キースさんにそう言っていただけて嬉しいです。ご迷惑をお掛けしているばかりなのに」
「そんなこと」
「でも」
彼女は正座をして、今度はきちんと、しかし申し訳なさげにこちらへ向いた。
「やっぱり、私はここにはいられません。キースさん優しいから、甘えてしまいます。そんなキースさんを巻き込むことはしたくありません。だから、朝食が終わったらお別れです」
最後に深々と頭を下げ、彼女は礼を述べた。浮かない表情ながらも、彼女の目には決意が満ちている。
「ここを出た後、君はどこに行くの」
「どこか、見つからなそうな場所です」
「君は何に追われているの? 何でそんなにボロボロにならないといけないの」
「それは話せません。あなたを危険に晒したくないです」
もう何を言っても揺らがない。彼女の目を見てそう思った。けれどどうしても、納得が出来ない。
ここを出たらまた深い闇の中だ。どうしてわざわざ、自分からそんなところに飛び込むのか。
「俺は、君が思うほど弱い人間じゃないよ」
「……それでも無理です。ごめんなさい、本当に言えないんです……」
辛辣な顔を見せる彼女に、少しだけ生き残っていた理性がストップをかけた。
これ以上は、尚更彼女を追い込むことになる。
「分かった。……ごめんね、無理に聞いて」
「いえ。心配してくれてありがとうございます」
「うん。さぁ、朝食の続き、しようか」
「はい」
心の中はとてもモヤモヤとしていた。けれど、彼女の辛そうな顔を見るのはもっと耐えられない。
せめてここにいる間だけでも、彼女には笑っていてもらいたい。
その思いで俺はなんとか笑顔を作ってみる。少しだけ、彼女にも笑顔が戻った。
朝食が終わり、彼女が食器の片付けを手伝ってくれた後。昨夜洗っておいた服も乾き、着替えを済ませた彼女は玄関にいた。
「本当にお世話になりました」
「俺も楽しかったよ。気が向いたら、いつでもここに来ていいからね」
「はい、ありがとうございます」
フワフワの癖っ毛を三つ編みにまとめた彼女は、肌の血色も良くなり、ここに連れてきた時とは別人のようだった。普通の女の子になった彼女を前にして、尚更名残惜しさを感じる。
「はいこれ。もし良かったらお腹が空いた時に食べて」
「いただいていっても良いんですか」
「お米握っただけだけどね」
そう言って俺は簡易な袋を取り出す。そこには握り飯を二つと飲み物、それとちょっとしたお守りを入れておいた。
受け取った彼女の無邪気な笑顔に、俺の胸が温かくなる。
「何もお返しできなくてすみません。これ、大切にしますね」
「ダメになる前には食べてよ」
「はい! そうします」
そして彼女は玄関を開ける。空に輝く星空に、彼女の淡いピンク色の髪が煌めいた。
「では行きますね。さようなら、キースさん」
「うん。どうか気をつけて」
ほんの僅かに寂しげな笑みを見せ、彼女は廊下に出る。
本当に行ってしまうんだ。もうきっと、二度と会うことはないのだろう。そんなの……。
そう思った時には、俺は既に彼女の腕を掴んでいた。
「あの……」
「最後に、何でもいいから君のこと教えて!」
無我夢中だった。
こんなに余裕がないのは初めてだ。恥ずかしい。それでも、彼女のことを知りたい。
人生で初めてと言えるくらい心臓が高鳴っている中、汗ばむ俺の手を、彼女は両手で包んだ。
「ピュアナ・マキア。多分十六歳の、“普通”に憧れるアテラ人ですよ」
そう言ってニコリと微笑む。
今までで一番素直で、それでいて儚い、綺麗な笑顔だった。俺はその瞬間、まるで全ての時が止まったかのような感覚がした。
そして彼女は、手を離してから一瞬で姿を消した。急いで廊下や周りを確認するが、彼女の姿を見つけることは出来ない。
「ピュアナ・マキア、さん……」
玄関の扉を開けたまま俺は座り込む。
さっきまでのことは実は夢なのではないかと思うくらい、急にいなくなった女の子、ピュアナ・マキア。最後まで謎だらけの彼女は、本当に実在していたのか。
けれど、右手には確かに柔らかくて温かい感触が残っている。
「ああーっ! クソッ!」
脳内のモヤモヤを消さんとばかりに頭を掻く。
こんなに女性に心を掻き乱されることは無かったのに。顔が綺麗とかナイスバディとかではなく、俺好みの華やかな雰囲気も彼女には微塵も無かったのに。なんでこんなに、情と興味だけで拾った彼女のことが気になるんだ。
ジリリリ。玄関脇に置いてある通信機がなる。アラーム機能もついたそれを、この時間に鳴るよう設定したのは一昨日の自分だ。
そうだ、オーウェンとの約束があったんだっけ。
「……とりあえず行こ」
重い腰を上げ、置いていた鞄を雑に取る。髪を乱したままの自分が鏡に映るが、整えている余裕など今の自分にはない。
俺はピュアナが消えた星空の下に出た。そして彼女の姿を探すように辺りを見回しながら、待ち合わせしている学園へと向かった。




