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④ 「敦も好きな人ができたら分かるよ」

 赤や黄色に色付いた木々が目の前に広がる。そして隣には、大きなリュックサックを背負った女子が一人。彼女は意気揚々と山道を歩いていた。


「いやーいつ見ても本当に綺麗だね」


 キョロキョロと周りを見渡す彼女の目はとても輝いていた。毎年見ている馴染みの光景に毎年のように感動出来るとは、素直というか、感性が豊かというか。


「先週も来たばかりなのに、何でまた今日も」

「いいでしょ。紅葉は今しか味わえない景色なんだから!」

「僕一応受験生なんだけど」

「気晴らしも必要でしょ!」


 そう言って僕の手を引っ張ると、彼女はどんどん進んでいく。手を取らなくてもついていくのにと呟くが、彼女は気付いていないようだ。


「わぁ! すっごく綺麗に色付いてる! 先週よりも紅葉が進んだんじゃない?」

「そうだね。今年も見事だ」


 山頂へと到着した彼女は、柵から身を乗り出す。そこには、一面に赤、黄、橙が散りばめられた景色が広がっていた。時々見える緑がまた色彩に深みを与えている。


「ほら敦、アタシ達あそこから登ってきたんだよ。学校も小さーい!」

「恵美は毎年同じこと言うよね」

「煩いなぁ。いいでしょ別に」


 自分達の母校を指差していた恵美だったが、僕がそう言うとプイッと反対側を向いてしまう。少々子供じみたその行動がまた僕の笑いを誘う。


「さて、始めようか。山頂コーヒー!」

「その荷物はコーヒーの為だったのか……」

「しえすたの店長に借りたの。豆も店長ブランドだよ」

「それは楽しみだ」


 丸太のテーブルにコーヒーメーカーを置き、早速動かしていく。外とは思えないほどいい香りが鼻を掠めた。


「紅葉を見ながら淹れたてのコーヒーを飲めるなんて、贅沢だと思わない?」

「そうだね。店長に感謝しないと」

「アタシにも感謝しなさいよ!」


 そんな他愛もない掛け合いをしながら、出来上がりを待つ。

 大学受験を控えたこの時期は、学校にいても家に帰っても緊張感があった。そのため、既に体育大学に進学した恵美に連れ回されるこの時間が、僕にとっての唯一の憩いの時間になっている。

 まぁ、彼女の学校での愚痴を聞かされるのがほとんどなのだが。


「ところで、結局敦は何系の大学に進むの?」


 何の脈絡もなく話題が変わる。しかし気になるのも当然だった。高三の秋なのに志望校を決めていないなんて、なかなか無いだろうから。


「医療系とは思っているよ。ただ、医師か看護師かで迷ってて。直接的に治すって意味では医師だと思うけど、時間かかるし仕事自体激務だから面会時間が無くなりそうだしさ」

「看護師でも医療の知識は深められるもんね。でも男性看護師ってあまり見ないかも」

「確かに少ないよ。でもなれないわけじゃない。それに、看護師の方が患者の身近にいる気がするし」


 僕はそう答える。

 妹の為になる勉強をしたいのは今も変わらない。一緒に暮らすことを考えると収入は多いに越したことはないが、傍にいられる時間も大事にしたい。どの道が最良か、あと数ヶ月で選択できる自信がなかった。


「まぁ、出願ギリギリまで考えるよ。変更は効かないからね」

「そうだね。はい、コーヒー」

「お、ありがとう」


 考えているうちに、目の前にカップが置かれる。早速一口含むと、鼻にほのかな香りが広がった。飲み込んだ後のスッキリとした後味も、行きつけの喫茶店しえすたの珈琲そのものだ。さすが、そこでアルバイトしているだけのことはある。


「うん、店長の珈琲だ」

「でしょ。半年間みっちり教え込まれたからね」

「恵美に珈琲を淹れてもらえる日が来るなんて」

「バカにしてない?」

「気のせいだよ」


 僕はカップを片手に感嘆の溜息をつく。見頃の紅葉、馴染みの珈琲、そして大切な人。これ以上求めることはなかった。

 こんなに穏やかな時を過ごしていいのだろうか。妹はまだ病院のベッドだというのに。

 けれどもう少しだけ、このままでいたい。この日々がいつまでも続くとは限らない。

 何故なら。


「敦のおかげでアタシ、少し自信がついたよ」

「なんのこと?」

「コーヒー。あの人に出しても恥ずかしくないものが淹れられるようになったかなって」


 恵美に大切な人ができることだって、あるのだから。


「前言ってた、しえすたの常連さん?」

「そう。消防士なんだって。二の腕の筋肉が素敵で爽やかなんだ」


 言いながら頬を染める恵美。そんなしおらしい姿、僕は今まで見たことがない。


「夜勤明けにコーヒーを飲むのが癒しだって言ってた。美味しいって言ったコーヒーを、それはアタシが淹れたやつだよって、言えたらいいなって」

「それで僕を実験台にしたんだ」

「敦の舌を信用してるの! 敦に合格をもらえれば間違いないと思ったから」


 それ程の信用を得ていることは素直に嬉しい。しかし、結果的には恋愛交渉を手伝ったことになる。

 悔しかった。僕はずっと、彼女の一番近くにいたのに。


「で、脈アリなの?」

「分からない。彼、七つも年上だもん。アタシのこと、妹としか見てくれなそう」

「恵美らしくないね。いつもみたいに突っ走ればいいのに」

「そ、そんなことしたら子供っぽいって思われるでしょ! 妹ポジション真っしぐらじゃない……」

「グイグイいけるのが恵美の個性だと思うけどね」

「恋愛って複雑なの」


 僕はあくまでいつも通りに振る舞う。ショックを受けているなどと思われたくなかった。

 なんて、慕う相手にいい姿を見せたいと思う今の状況は、恵美のそれと大差ないだろうと自分に突っ込みを入れる。


「それにしても、恵美が恋愛とはね。みんな友達! って感じなのに」

「年上の魅力なのかな。落ち着いた感じと、あの筋肉がね」

「そんなに筋肉がいいのかよ」


 目を輝かせて言う恵美に少し呆れる。筋肉好きは相変わらずだ。惚れるきっかけはもっと色々あるだろうに。

 ……自分ももう少し鍛えれば良かったか。


「もちろんそれだけじゃないよ。上手く言えないけど、その人がいいって思ったの。敦も好きな人ができたら分かるよ」


 幸せそうに笑う恵美を羨ましく思う。それ程素直に言えたらどれだけいいか。

 もっと自分に勇気があれば、今の関係が変わったかもしれないのに。そんな後悔ばかりが心を支配する。せっかくの珈琲も喉を通らなかった。


「僕は分からないままでいいよ。妹のことで手一杯だ」

「シスコンみたい」

「なんとでも言え」


 半ば投げやりに言いながら、鞄からノートを取り出す。これ以上恵美の惚気を聞きたくなかった。


「ここでもまだ勉強するの? せっかく連れ出したのに」

「恵美もレポートとかやることあるだろう」

「そんなものは置いてきた!」

「単位落としても知らないぞ……」

「なるようになる!」


 その自信はどこから湧いてくるのか、と思いつつ、いつもの彼女の様子に安堵する。

 やはり、このお気楽な彼女の方が居心地がいい。今後もしかすると彼女は離れていってしまうかもしれないが、大人になる上でこれは仕方ないことだ。自分の招いた結果でもある。嫉妬するのも惨めな気がする。


「恵美」

「ん?」

「受験が終わったら、雪の綺麗なところに行こう」

「いいね! じゃあ計画しておくから、雪が溶ける前に合格してよね」

「当たり前だ」


 だから今はただ、一緒に居られる時間を大切にしよう。彼女はまだ隣に居てくれるし、友人であることに変わりはない。その関係だけでも変わらずにいてくれれば、僕は救われるのだから。

 そして、一区切りとなる高校卒業時。ここで彼女に想いを伝えよう。結果は分かりきっているがそれでもいい。ただ彼女に気持ちを知ってもらえれば、それで。


「でも、受験前だろうがまた容赦なく連れ出すから覚悟しててよ。とりあえず来週、空けといてよね」

「はは、本当に容赦ないな。ま、いいけどね」


 そう言って恵美はニッと白い歯を覗かせて笑う。彼女は僕が受験生だと分かっているのだろうか。

 しかし二つ返事で了承する僕も僕だ。やはり、恵美には滅法甘いらしい。惚れた弱みだろうか。

 そんな自分を呆れ笑いつつ、冷めてしまった珈琲を口に含む。今度はいつもの味わいを感じた。


「やっぱり店長の珈琲は絶品だな」

「アタシが淹れたんだからね!」

「分かってるよ。さて、少しゆっくりさせてもらおうかな」

「ハイハイ。どうぞ気の済むまで」


 そうして僕は、紅葉色めく山頂で、珈琲片手に受験勉強を始める。

 かなり感情を揺さぶられたが、お陰で大きな決心も出来た。あとは実行に移すのみ。少しでも格好つけるためにも、卒業までに受験をクリアしておかねば。

 恵美もリュックからバレーボールを取り出す。それから僕達は、日が沈み始めるまで、自分の時間を満喫したのだった。



「そういえば、そろそろ恵美の誕生日か……」


 高校の寮に着いた僕は、布団に寝転びながらそう呟く。

 紅葉が終わるこれからの時期が恵美の誕生日だ。毎年小物程度の物は贈っている。今年はどうしようか。

 来週も連れ出されるようだし、そこで渡すことにしよう。この一週間でよく考えればいいか。


「……一眠りしよう」


 布団の冷たさが気持ち良い。僕は布団に誘惑されるがまま、目を閉じた。




 この紅葉狩りが恵美との最後の思い出になったことを、僕は数年後に思い出すこととなる。

 結局、彼女へ想いを伝えるどころか、誕生日プレゼントを手渡すことすら叶わなかった。全てを思い出してから僕は後悔した。想いを伝える機会はたくさんあったのに。いつまでも一緒にいられるわけがないことは、家族との件で知っていた筈なのに。

 しかし、もう彼女に会う手段はない。そもそも彼女が生きているかどうかも、自分の記憶が正しいのかも分からない。

 僕はもう、諦めるしかなかった。


 そしてその経験を踏まえて僕は決意する。二度目の人生、今度は後悔したくない。たくさんのことを楽しんで、大切な人にはその都度言葉を紡いでいこう、と。

 幸いなことに、今は家族にも幼馴染にも恵まれ、藍田敦だった時よりも充実した人生を送っている。

 アッシュ・ハイディアとしての僕が一番願うのは、普通の日常を送ること。これ以上に望むものはない。神様とやらがいるのなら、どうかこのまま放っておいてはくれないだろうか。




 なんて僕の願いはいつも叶わない。

 叶っていれば、こうして地球に来ることも、面倒ごとを抱えることも、無かったはずなのだから。

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