③ 「敦はさ、寂しくないの」
「ねぇ、今日は何読んでるの?」
人気のない図書室の角の席。いつもの桜の木が見えるこの席が、冬季の僕の特等席になっていた。
しかしその一人の時間を邪魔する者が後ろに。左目元の泣きぼくろが特徴の彼女は、友達になろうと言ってきたあの日以来度々現れては、僕の時間を奪っていくのだった。
「恵美には難しい本だよ」
「へーどれどれ。……じんたいかいぼーず? これで何を勉強するの……」
「人体の構造や臓器の働きについてかな。食事から栄養を取り込む仕組み、脳の役割とか、いろいろ学べて面白いよ」
「ごめん、よく分かんないや」
僕が説明をすると、恵美はつまらなそうな顔をして離れていく。
そう、それでいい。僕は一人でゆっくりと読書がしたいのだ。そのまま部活にでも行ってくれ。
しかし願いも虚しく、彼女は本を持って隣に腰掛けた。
「ホームズ? 推理小説なんて読めるの?」
「今月のオススメコーナーにあったから読んでみようと思って」
「部活は」
「行くよ。もう少ししてからね」
言いながら読み始める恵美。僕もページをめくる。
ゆっくりとした時間が流れる。邪魔さえされなければ、彼女が隣にいることに問題はない。慣れとは恐ろしいものだ。
「んー……、なんか難しい」
眉間に皺を寄せた恵美が、早くも文句を垂れる。
「この学校にあるホームズシリーズは古風な文体のものだからね。慣れないと読みにくいよ」
「アタシはやっぱり体動かす方がいいな」
「だろうね。その本返しておくから部活行きなよ」
既に閉じられた本を手元に寄せ、部活へと促す。しかし彼女は動こうとはせず、ジッと僕を見つめていた。
「……何?」
「敦ってなんでそんなに読書ばかりしてるの?」
「知識量を増やす為だけど」
「なんで知識が必要なの?」
「人に頼らずに生きる為。それと、妹を支える為、だよ」
僕は本を開いたまま答える。僅かに恵美は目を逸らした。
「この前話しただろう。僕の過去」
「聞いた、けど」
「それなら理解してほしいな。僕に遊んでいる暇はないことを」
きっぱりと言うと、彼女は虫の居所が悪いのか背を向けた。その背は何か言いたげだが、僕は知らん顔をする。
十六時を告げるチャイムが鳴り響く。いつもであれば、これを聞いた恵美は部活へと向かう。しかし今日は動く気配がなかった。
静かにしているのなら邪魔にはならない。僕は彼女をそのまま放っておく。すると、痺れを切らした恵美が唐突に僕の頬をつねってきた。
「いきなり何」
「敦はさ、寂しくないの」
「え?」
「自分から人を拒絶して、一人で全部抱え込んで。今はそれでいいかもしれないけど、いつか壊れちゃうよ。心が先に」
恵美は眉根を吊り上げていた。一見すると怒っているようだが、その瞳は揺らいでいる。
「僕にあれ以上の地獄はない。だから誰に何と言われようが、何をされようが、今の僕にダメージはないよ」
「そう思いたいだけでしょ。本当は、誰かに頼りたい、助けてほしいって、思っているんじゃないの」
「何なんだよ。いい加減部活に」
ドクン。僕の心臓が跳ね上がる。
彼女の頬を伝うもの。僕はそれに釘付けになった。
「な、なんで泣くんだよ」
「敦が、敦が泣けないから、でしょう」
「僕は別に泣きたいと思ってないし」
「それは泣き方を忘れたからじゃないの」
雫が制服を濡らす。けれど僕は動けなかった。
初めて見る恵美の姿に、ぶつけられる言葉に、鼓動が鳴り止まない。
「敦、最後に泣いたのいつだか覚えてる? 過去話聞いたけど、全然泣いてる様子なかったじゃん。泣き方を忘れるくらい辛かったってことでしょ。敦は頑張り屋さんだから、涙を封じて、ずっと頑張ってきたんだね」
温かな手がふわりと頬を包む。普段あんなに強いアタックを決めるこの手が、今はとても優しい。
「妹さんにとって敦は唯一の家族でお兄さんだから、しっかりしないといけないのかもしれない。でもまだ子供だよ。もっと人に甘えていいし、人を頼っていいと思うの。感情を押し殺して平気そうにしているの、カッコいいけど、見ていて辛すぎるよ」
「僕はそんなの……」
本心を見抜かれているようで、反論出来なかった。
恵美とはまだ出会って半年しか経っていないのに。短い時間の中で、彼女はそんなにも僕を理解しようとしていたなんて。
「ねぇ、アタシ、そんなに頼りないかな」
「そんなことっ……!」
「アタシはもっと、敦の本音が知りたいよ。教えて、敦のことたくさん。良いとこも悪いとこも全部、受け止めるから。だってアタシ達、友達でしょう」
心の奥に封じた弱い自分。今、その氷塊にヒビが入り始めている。
本当に心を許せる相手なんていない。友人なんて馴れ合うだけの存在に、本音を言えるものか。僕はずっと、そう思っていた。
しかし恵美は違った。僕の考えに物凄い勢いで拳を入れてきた彼女は、本気の関係を求めているようだ。
それは僕が一番避けたかった関係。同時に、一番求めていた関係。
「そんなの、綺麗事だ」
「強がりばかり並べる敦に言われたくない」
「優しいのか厳しいのか、どっちなんだよ……」
「アタシも本音を言わないとフェアじゃないでしょ」
気持ちいいくらい真っ直ぐに言う恵美。彼女は遠慮知らずで強引だと思っていたが、僕の感じ方が歪んでいたらしい。
彼女の思う“友人関係”とは、何でも言い合える関係なのだ。
「……はは、恵美らしいな」
初めて出会った時は、面白いから友達になろうなんて失礼な奴だと思ったが、今は合点がつく。彼女にとってあれは、素直な気持ちの表れだったのだろう。
仕方なしに手を取った自分を、今だけは思い切り褒めてやりたい。
「正直、恵美は子供っぽいから頼りないんだけど」
「そこは否定出来ないや」
「今だけは存分に甘えさせてもらうから、覚悟しろよ」
「あはは、何で偉そうなの。よーし、どんとこい!」
そして、面倒臭そうにしている自分にこう言うんだ。
その手を絶対に離すなよ、と。
「敦、今までよく頑張ったね。お疲れ様」
「ありがとう、恵美」
降り注ぐ優しい声、耳元で奏でられる心音、髪を撫でるマメだらけの手。それら全てが、心の奥の氷を壊していく。
そして、溶け出たものが僕の目元から流れ出す。僕はそれを拭うことはしない。この状況なら恵美からは見えないし、何より僕にもまだ人の心があったことを感じていたいから。
ごめんな、今まで閉じ込めてきて。
けれど、これからは一緒だ。さぁ行こう、未来へ。
五歳の幼い僕、藍田敦。君と共に。どこまでも。
そしていつか時が来たら、恵美に伝えるんだ。
僕が思っていることの全部を。彼女のように真っ直ぐに。




