② 「友達になりたいって思ったんだ」
「はぁ、また君達か。何の用? 構っている暇はないんだけど」
数学準備室の裏にある桜の木の下。そこが、中学入学後の僕の定位置だった。
給食を終えた後や放課後に、ここで本を読む。普段は孤児院で暮らす僕が唯一、一人になれる時間だ。
しかし最近、これを邪魔する輩が現れた。彼らはいつも一人でいる僕を馬鹿にしては、金は無いか、ムカつくから殴らせろ、などと低レベルな要求をしてきた。低脳な猿に付き合う暇などない僕は当然無視するのだが、それでも彼らは毎日のようにやってくる。そして決まって一人一発ずつ、僕を殴っていくのだ。
孤児院で壮絶な喧嘩に巻き込まれることもあったので、痛みには強い方だ。だから、彼らの一発も僕にとっては慣れ親しんだ痛み。それで一人の時間が守れるなら安いものだと、気にも留めていなかった。
「俺はなぁ、今日は特別イラついてんだよ」
「で?」
「敦君で発散しようと思ってな」
「本当君達は低脳だね。それしか出来ないなんて」
しかし、この日の猿達は少し様子が違った。僕がいつものように鼻で笑うと、本物の猿のように顔を赤くしたリーダー格の生徒がこちらを睨んだ。眉間には深く皺が刻まれている。
「お前のその言い方がムカつくんだよ」
「関わってほしくないからわざわざこういう言い方してるんだけど、今まで気付かなかったの?」
「さっき、特別イラついてるって言ったよな」
「へぇ、また殴ってくるかい?」
面白そうなので挑発すると、案の定リーダー格の生徒が拳を掲げた。本に傷はつけたくないので、僕は一先ず本を閉じる。
「まずは口がきけないようにしてやる!」
パン、という音が響く。拳を振るった生徒からはチッと舌打ちが聞こえた。
「敦、テメェ」
「おっと、つい手が出ちゃったよ」
「ふざけてんのか!」
「はは、それは君達の方だろう」
受け止めた拳を払い、桜の木に再び背中をつける。
弱い。今までも感じていたことだが、改めてそう思う。複数人でつるんで意気がっている、悪をカッコいいと勘違いしている生徒達。怒鳴れば相手が怖がるだろうという安易な考え。どこまでも弱くて頭の悪い思考に、思わず笑いが込み上げてきた。
「何がおかしい!」
「いや、本当に猿みたいだと思って。あぁ、猿の方がもっと賢いかもしれないね」
「このやろっ……!」
今度は蹴りが腹部に飛んでくる。横にかわして木に蹴りが当たったところで足を掴み、そのまま上方に持ち上げる。バランスを崩した生徒は尻餅をついた。取り巻きの二人も殴りかかってきたが、軽く受け流して足を引っ掛けると見事に転倒した。
三人が地面に伏せる姿を見た僕は、幹に挟めていた本を取る。
「勉強する気無くなったから帰るよ。そのイライラはママに慰めてもらいな」
「まだ終わってねぇ!」
「あーいたいた! あーつーしーくーーん!」
リーダー格の生徒が立ち上がろうとした時、後ろから大きな声が飛んできた。見ると、数学準備室の窓が開き、そこからポニーテールの女生徒が手を振っている。
「先生から資料探し手伝えって言われてたの、忘れた? ほら、早く来て」
「え? そんなの」
「なんだよお前、邪魔だ」
「あらら、敬語の使い方も分からないの」
その女生徒は一瞬消えると、バレーボールを持ってすぐに現れた。何かと思っているうちに、後ろから間抜けな声が聞こえる。
「先輩は例えどんな奴でも敬わないとね」
「うわぁ……」
振り向いた先には、転がるボールと伸びているリーダー格の生徒がいた。鼻や額は赤くなっており、目を回している。
それを見た取り巻きは、覚えてろなどとチンケな捨て台詞を吐いて去っていった。
「敦君、そのボールとってくれる?」
「これですね。どうぞ。……あの」
「最初から見ていたよ。楽しませてくれてありがとね」
「いえ、こちらこそ追い払ってもらってありがとうございました」
クルクルとバレーボールを回しながら女生徒は言った。白く整った歯をニッと見せて笑う彼女の胸元には、オレンジ色のリボンがぶら下がっている。どうやら彼女は二年生らしい。
「その……先輩、ですよね。何でここに」
「体育館に向かう途中だったの。アタシ、バレー部だからさ」
「それであのアタックを……」
僕は先程の光景を思い出す。何食わぬ顔で打ったように見えたが、そのボールのスピードは並みのものではなかった。彼女はエース級の選手なのかもしれない。
「ねぇ、アタシ木下恵美。敦君の苗字は」
「藍田ですが」
「どっちも“あ”で始まるんだね。じゃああっくんって呼んでいい?」
「あっくん……?」
唐突に自己紹介とニックネームが飛んできて僕は面食らう。そもそも敦という名前すら彼女には言っていない。向こうで伸びている生徒とのやりとりの中で名前を知ったのだろうが、一応僕達は初対面なのだ。もう少し順序というものがあると思うのだが。
「嫌? あっちゃんならいい? あ、アタシは気軽に恵美って呼んでいいから」
「あの、僕達初対面ですよね」
「そうだけど」
「少し馴れ馴れしくないですかね……」
「そう?」
恵美と名乗った先輩は、顎に手を添えて考える素振りを見せる。
恐らく彼女はいつもこうだったのだろう。よく言えば人懐っこい、社交的、悪く言えば強引、無遠慮。
正直、彼女に対する第一印象はあまり良いものではなかった。
「キミが面白そうだから友達になりたいって思ったんだ。先輩後輩とか関係なしに。
って訳だから宜しくね、あっくん」
彼女が窓から手を差し出してくる。期待の眼差しが僕には眩しい。
先輩後輩関係なしだなんて、彼女は良くても僕はなかなかそうは思えないだろう。この手を取ったら、それも了承したことになりそうだ。どうも躊躇われる。
「勉強の妨げになるので、出来れば放っておいてほしいのですが」
「邪魔はしないからさ。ね、あっくん」
「そのあっくん、というのやめてください。呼び捨てが一番しっくりきます」
「分かった。じゃあ敦。これでいいでしょ。はい、握手」
更に手を伸ばす彼女に、最早呆れるしかなかった。嫌だというオーラに気付いているだろうが、友人になりたいという欲が勝っているらしい。
……これは自分が折れるしかなさそうだ。
「はぁ。では僕も遠慮なく呼び捨てにしますからね、恵美」
「うんうん、いいね! 宜しくー!」
手を取るとすぐにブンブンと腕を振られる。一々行動が大袈裟だ。しかし、不思議と嫌な気はしなかった。大らかそうな雰囲気がそう思わせるのだろう。
「じゃっ、アタシは部活行くから。またそのうちね」
「はいはい」
恵美は敬礼のように手を挙げ、パタパタと数学準備室から出て行った。
過ぎ去る嵐の背中を眺めながら、僕は小さく溜息を吐く。
「今更友人なんていらないんだけどな」
今の僕に必要なのは妹を助けるための知識だ。友人と他愛もない話をしたり、出掛けたりする時間などない。参加するのはお世話になっている孤児院の行事のみにしている。
それなのに。彼女の強引な申し出を断りきれなかった。まぁ、チンピラを払ってくれた手前、その手を無下にも出来なかったのだが。
単に、今後相手にしなければいいことだ。あの様子だと友人も多いだろう。そう頻回に僕の所には来るまい。
「……帰ろう」
もう勉強する気は無くなっていた。僕は鞄に本を突っ込み、まだ倒れたままの生徒を横切って帰路に着いた。
何でもない初夏の放課後に偶然起こった出会い。嵐の如く現れた女生徒、恵美。
彼女に僕の感情を激しく揺さぶられるということを、この時の僕はまだ知らない。




