【吾輩】イエネコと安宿の主人
サブタイトルにある【】は視点の主を示しています。
今回は【吾輩】です。
フェリシーと別れた(と言うか置いてきた)吾輩は、やむなくねぐらの山に戻ることにした。
発展中の町の中は、まさしく喧騒……喧しく騒がしい。
まさに、仕事でなければ立ち寄らないくらいだ。
基本的にイエネコは騒がしい場所が苦手なのだ。
その帰宅の途上……吾輩はふと立ち止まった。
エメの棲み処が目についたためだった。 正しくは、締め忘れたのか、開け放ったままの窓。
不用心だな……そう思いながら吾輩は、ぺっと窓に飛び乗り、そのままエメの部屋に入った。
不法侵入じゃないですぅー。
そもそもイエネコはヒトではないので、悪いことをしても犯罪『者』にはなりませんー。
「………」
吾輩は無言のまま部屋を見渡した。
狭い部屋。 日本風に言うなら、三畳ほどのスペース。 粗末なベッドがあるせいで、立って歩くスペースしかない。
どう見ても生活のための部屋ではないし、そのための設備、例えば流しや洗面台というものも当然ない。 鏡さえもない……が、これはこの世界の工業レベルのせいか。
ただ寝るだけのスペース。
食事を作る設備もないのは、外で食事をしているか、あるいは食堂などの別室での賄い付きなのかもしれない。
吾輩はいまひとつこの世界の風俗(もちろん衣食住など日常生活のしきたりや習わしや風習、のほうだ)、経済、社会構造を理解していない為なんとも言えないが……個室の宿とすれば最底辺なのではないだろうか。
そうでなければ、住み込みの使用人の部屋か……下手をすれば奴隷用の部屋だ。
よほど金銭に困っていなければこんな部屋に住みたいとは思うまい。 エメはよほど困窮しているらしい。
仕方ないな……吾輩は後ろ足を使って女神から貰った首輪を操作した。 ほら、犬や猫が自分の耳をかくときの、あの要領。 骨格の関係上、吾輩は前足で首輪を操作できないのだ。
そうやって吾輩は……首輪に付けられた宝石の『アイテムボックス』からなるべく高価そうなアイテムを取り出した。
『蛙の干物×20』
『蜥蜴のしっぽ×10』
『スズメの羽×50』
これらを粗末なベッドの上に置く。 それはもう、てんこ盛りに置く。
吾輩からエメへのプレゼントだ。
ふっふっふ、言っておくが、吾輩の宝物だぞ?
他者に対する施しなど偽善のように思われるかもしれないが……まあ、知らない人間でもないのだからこれくらいは良いだろう。
ふんすふんすとベッドの上の成果物を眺めていると……不意に吾輩の鼻腔を、ある香りがくすぐった。
瞬間的に吾輩は小走りに走り出していた。
小さく開いた部屋の扉をすり抜け、邸内の奥へ。
「ね↑、う→、う→、う→、うー→。
ね↑、う→、う→、う→、うー↑、う↓」
鳴きながら走った為、またも吾輩の声が変形する。
それは……吾輩の嗅覚が、大好物の匂いを感知したからであった。
匂いの発生源に向かって走る吾輩の姿、それはまさしく『猫まっしぐら』と言うやつであった。
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その部屋の中には、安酒の匂いが満ちていた。
明かり取りの窓も半分閉じられ、室内は暗い。
人の気配はある。 が、声など聞こえず、時折『うぃー』など漫画のステロタイプみたいなうめき声が聞こえてくる。
その部屋にいたのは、まさに酔っ払い、と言う奴だった。
若い成人男性だ。
ロシア人か、と言うくらい真っ赤な顔をしており、安楽椅子に完全に体を預けるような形でちびちびとワインを飲んでいる。
昏くとろんとした目と陰鬱な声で時々「くそっ」とか「あの時、もう少し運が良ければ……」とかブツブツ呟く飲んだくれ。
……悪い酒を飲んでやがる。 飲んで、というか飲まれているな。
基本的に猫は酔っ払いには近付かない。
アルコールの匂いが嫌いだし、大きな声は苦手だし、何より……動作の予測がつかないからだ。
世に、猫を踏んでしまった、猫を踏んだら引っ掛かれて逃げられてしまった、と嘆く曲はあるが、基本的に猫は人に踏まれたりしない。
イエネコは近視ではあるが動体視力が良いため、対象の移動方向の短予測に優れているためだ。
しかし、酔っ払いの行動は予測できない。 予測できないし、いきなり倒れたりする。
ゆえに基本的に猫は酔っ払いに近付かないのだが……吾輩には、ある高貴な目的があった。
高貴な高貴な目的……それゆえに吾輩は酔っ払いに声をかけることにした。
「ねうー(お酒ちょうだい)」
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「うわあああああっ!!」
その酔っ払いは吾輩の高貴な依頼を理解せず、安楽椅子から飛び上がりながら叫んでいた。
当然ながら酔っ払いは床に転げ落ち、持っていた酒杯も放り投げ、酒は少し離れたところでその中身をぶちまけられていた……あーMOTTAINAI。
酔っ払いは振り返って吾輩を見る。
するとその目が恐怖に見開かれていた。
「ひ、ひいイイ!! し、『シノニム』!?
い、いや、ここはダンジョンじゃない……では『魔物』か!?」
吾輩はその『』付きの名詞に小首を傾げる。
シノニムって確か……『ダンジョンに棲む魔物』って意味じゃなかったっけ?
そして『魔物』は『魔法を使える獣』。
どちらの意味でも吾輩を獣扱いしているのか……て、吾輩、イエネコだった。
そしてこの世界に『イエネコ』という種はいないんだった。
そう言う意味では、未知と遭遇してしまった男の動揺は当然とも言えた。
それに一人納得した吾輩、もう一度酔っ払いに声をかける。
「ねうー(だから、お酒ちょうだいってばよ、早く早く)」
しかし男は愕然としたまま体を動かさなかった。 正確には、小刻みに体を震わせたまま動けなくなっていた。
仕方ない。
吾輩は床にまき散らされた酒の方に足を向けた。
そして、ちゃっちゃっちゃっちゃっと音をさせながらそれを舐める……意地汚いと言うなかれ。
なお……残念ながら猫の口は水を『飲む』と言う構造になっていない。 幼猫時代の歯が生え変わってしまっては、口腔内の気密が保てないのである。 ゆえに水分補給は舐め続けるしかないのだ。
まあ、水じゃなくって、今は酒だけど。
日本人的には『酒』と言って思い浮かべるのはやはり日本酒であろう。
しかしこれは……ワインだ。 しかも、安いやつ。
文句を言いたいところだが……まあここは異世界なので仕方ないことだろう。
……あれ? 吾輩、イエネコなのに何で(久しぶり)。
吾輩は床にこぼれた酒をすぐに舐め終えた。
……お腹がいっぱいになったんじゃない。 そもそもこぼれた量が少なかったのだ。
第一、ネコ科の生物は、頭の大きさと胃袋の大きさが同じなのだからこれくらいで済むわけはない……この酔っ払い、本当にチビチビ飲んでいたらしい。
まんじりとせず酒を舐める吾輩に、酔っ払いはしばらくポカーンと口を開けていた。
眺めているうちに、警戒心が薄れてきたらしい。
それは時間をかけて吾輩の身体を確認できたからだろう。
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『イエネコ』が『イエネコ』になれたのは……つまり人に飼われるようになれた理由は、大きく二つあると思う。
一つは当然、『穀物を保管する』必要が出てきた人類に、食害をもたらすネズミなどを捕食する倉庫番という必要性が必要であったこと。
そしてもう一つは……『警戒対象ではなかったこと』。
当時のヤマネコ、つまりイエネコの祖先は人間を殺傷できるサイズではなかったし、何より……その『顔』。
成猫でさえも顔の大部分を占める大きさの『目』。 これが幼児や乳幼児を連想させてしまうのだ。 ……そこに恐怖など感じようがない。
そして独特のコミュニケーション方法。
警戒対象ではないと認識した相手に頭や身体をこすりつけるのは他の生き物もするが、猫に至っては……身体が小さいのだ。 先刻の『目』のサイズ同様、身体が小さいため(体重平均約三キロ)に……その行動が『子供が親に甘えている』という誤認識を人間の脳に与える。 抱きかかえることができるサイズでもあるし。 実際、猫を飼っている人間の猫に対する接し方は、赤ん坊に対するそれに近い。
ゆえに……その酔っ払いは(イエネコというものを知らなくとも)完全に警戒を解いたらしかった。
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「はは……何だこやつは。
どこから入ってきたんだ……?」
少し優しい口調で、苦笑しながら言う酔っ払い。
吾輩はデレてきた酔っ払いに追い打ちをかける。
てっ。
吾輩は酔っ払いの太腿に飛び乗り、ゴロゴロ言いながら体をこすりつけたのだ。
当初は少し驚いていた酔っ払いだが……吾輩の甘えるような仕草にデレてしまったらしい。
少しサービスして、吾輩はアッパーカット気味に頭を顎にこすりつける。
これで男の頭部にカリアゲがあったり、ひげを剃ってから半日後ぐらいだったりしたら、吾輩はそれをザーリザーリと舐め上げていただろう……だって、自分の舌の掃除ができるじゃないか。
それに、吾輩としてはおっさんの顔など舐めたくない。
いくら『イエネコ』の仕事とはいえ……うちら芸を打っても身体は売りまへんえ。
「ご、ごほん。 う、うむ……か、可愛い奴だな……」
澄ました口調で言う酔っ払い……しかし少し上気した顔で言うので締まらない。
成人男性が猫を愛でる姿を他人に見せてはいけない、と言う良い例が、ここにあった。
ターゲットが完全に手中に収まったので、吾輩は次のステップに移る。
てっ。
吾輩はテーブルの上に飛び乗ると、酒瓶の横に立ち、無言で酔っ払いを眺める。
それはもう、まんじりと、まんじりと。
「………」
「お主……もしや酒が欲しいのか?」
「………」
無言は時に多弁より雄弁である。
「……変わった奴だな。 しばし待て……そ、そんなに慌てるものではない」
そう言うと酔っ払いは立ち上がり、テーブルの上の酒瓶を傾けて小さな皿の上に酒を注いだ。
その瓶の口を頭で押しのけるようにして、吾輩は酒の入ったさらに頭を突っ込んだ。
ちゃっちゃっちゃっちゃっ(一秒)×一分ほど。
「……獣が酒を飲むとはな……初めて知った」
化け猫や妖怪の類はお酒が好きって知りませんか?
吾輩の行動を驚いた様子を眺めていた酔っ払い……それがいつの間にか、陰鬱な顔から柔らかい微笑に変わっていた。
「……ふむ。 私の酒に付き合ってくれるというのか。
……誰かと酒を飲むのは久しぶりだな……ふふ、楽しい酒になりそうだ……」
言いながら、酔っ払いは安楽椅子に座りなおすと、自分の盃に酒を注ぎなおした。
その顔が少し、綻んでいた。