第零章 001 図書館の少女は誰
開口一番、ツカサがこの世界に来て発した言葉、いや、叫声は辺りにいる人間達を震撼させた。
賑やかだった街の大通りはツカサのその声により静寂が包んだ。ツカサがいきなり叫んだのは「ビルから飛び降りたのに助かったから」「いきなり見知らぬ場所にいたから」とかそういう理由ではない。“ツカサは眼を開けた”本当にただそれだけだった。彼の身に何が起こっているのかはツカサ自身も訳がわからず、その“視界”に発狂せざるを得なかった。
もし彼の今の症状を一言で説明するのだとしたらこの言葉程適する言葉はない。
“千里眼”
彼の眼には、普段の視界情報とは別に遠く離れた場所の景色や、体温、行きかう人らのオーラの様なもの、そして道の向こう側に並ぶ建物の中を透過し家具の配置や人の動きがほぼ同時に映っていた。
その混沌とした情報にツカサの脳内は処理しきれずにいた。眼球は錯乱し視点が定まらずブロンドの右眼左眼がばらばらの視線の軌道を描き動いている。
『なんだこの視界は…頭がおかしくなる』
ツカサに悲鳴を上げさせたのは先程の影から譲り受けた新しい“眼”が原因だということは言うまでもないのだが、その他にもツカサを不安にさせるものがあった。
人間の背丈ほどの犬や猫の様なのが直立して歩いていたり、昔映画で見たヴェロキラプトルの様な生き物が幌車を引いていたりと、街の風景が先程いた東京と打って変わってまるでパリの街にでも来たのかと錯覚させるライフスタイルが彼の目には飛び込んできたことだ。パリには恐竜がいたり猫が直立しているわけではないのだが…。
とりあえずツカサは眼を閉じ耳を塞ぎうずくまった。眼を閉じると先程流れてきたような奇妙な視界は遮断されなんとか自我を保つことができた。ツカサは今見た光景が信じられないみたいで呼吸を整え、顔を上げもう一度瞼を開ける。
「くっ…」
短い悲鳴を上げまた瞼を閉じる。周りにいた亜人や人間達が心配して寄ってきたり、さらには自分自身がうずくまっている姿が視えたりした。
「おい、兄ちゃん大丈夫かい」
「おーいこの中にお医者さんはいませんかー!」
俺はいったいどうなっちまったんだ。ツカサはそう思わずにはいられない。
「ア、アイムソーリー…アイムオッケー、ドントウォーリー」
ここが何処だか分からない以上とりあえず万国共通の簡単な英語を話すツカサ。その英語が通じたかどうかは分からないが街の人々の心配の声など気にせず、とりあえず厄介事を回避しようとツカサは眼を瞑りながら壁を伝って人の声のしない方向へと歩みを進めた。厄介事に巻き込まれないようにするのは隠密性の高いスパイの性といったところか。
角を曲がりしばらく壁に伝って歩いていると人の声があまりしないところへやってきた。ツカサは一瞬だけ眼を開けた。
「うっ…」
また短い悲鳴を上げながらもそこから見える景色をしっかりと眼に映す。
レンガ造りの建物、カラフルなタイル、50メートル先程まで直線が続く路地、眼を開いたのはほんの一瞬だが、それ以外にもこの手を付いている家の壁の内側の風景までがはっきりと見えた。
「これは…透視なのか」
その場で何回か眼を開けたり閉じたりを繰り返し、眼に慣れようと必死になっていた。何時間そこにいただろうか。ツカサはようやくその眼の仕組みが分かってきたみたいだ。
ツカサはしっかりと眼を開き辺りを見渡す。
「よし。慣れた。」
流石と言ったところだろうか。この状況に適応できたのはツカサの豪胆な性格だけでなくスパイという職業にも起因しているのだろう。決して物語を円滑に進めるためではない。ツカサが凄いのだと念を押しておく。
今のところツカサが把握しているこの眼の能力は5つある。1つは遥かかなた遠くを見ることができる遠視。2つ目は他人の視界を共有することができる共視。3つ目は生物や物の温度がわかるサーモグラフィーの様な能力、赤外線視。4つ目は透視。女性の服も透けて見える。5つ目はよくわからないが、人間や亜人の様なものから発せられているオーラの様なものが見えている。
「はぁ…いったい何なんだ。」
ツカサは混濁とした視界のまま先程の大通りへと出た。少しは自分の眼を操作できるようになったが未だ制御はしきれていないみたいだ。たまに視線が他人へと移ってしまっていたり、いつの間にか女性の服を透かして見ている。偶然に。
「ふぅ…。とりあえずどうしようか」
ツカサはとりあえず現状を把握しようと自分の状態を確認した。ホルスターにはしっかり自分のワルサーが収まっている。しかし、内ポケットに入れていた替えのマガジンが無い。腕時計の針も10時を指し一見普通に動いているように見えるが太陽の位置が10時のそれとは違う。それに、さっきまでは夜だったはずだが…とツカサの脳内はさらにこんがらがる。
ツカサは文字通り路頭に迷っていた。これからどこへ行こうか、そもそも何をすればいいのか全く分からなかったのだから。とりあえず街の中を歩いて辺りを観察していた。
ツカサが元いた世界での時期が時期だったからハロウィーンなのかもしれないと最初は疑っていたが、それにしてはコスプレの再現度が高すぎる。ハリウッド映画のCGのようだ。
ツカサはそこら辺を歩く犬や猫のようなデミヒューマンの姿、空に浮かんでいる光る石の様なモノを見てようやく理解した。
「俺は今漫画や映画の様な体験をしているんだ」
つまりファンタジーな世界へと来てしまったという事だ。指輪を集めたり、額に傷を負った少年が闇の魔法使いと戦ったりする世界とは違うがそのような世界に近いものだと考えてよい。
ツカサは片眼を閉じ、閉じた方の瞼を撫でる。
「この眼も魔法の何かしらってことか…?」
とりあえずこの世界の事情や情勢を知るため、この眼のことについて何も知らないという現状を打破するためにツカサは図書館なるところを探すことにした。知の宝庫で調べられないものはないということは、図書館が大好きなツカサはよく知っている。
撹乱する視界を制御しながら人聞きを頼りにツカサは図書館までのたどり着くことに成功した。たまに視線が別の方向を急に向いたりするツカサを気味悪がったりした人もいたが慣れるまでは仕方のない事だと割り切る。
中に入ると正面に大きなカウンターがあった。カウンターには沢山の本や書類が積まれ、玄関口にあるものとしては相応しいとは言えないくらい雑多に積まれていた。その席にはいかにも司書のような銀色の長髪の女性が座っており、何か書類を纏めたり本をペラペラと捲りハンコを押したりしていた。
この部屋自体は手狭で向こうの部屋と区切られており、その女性の後ろに構えられたアーチの向こう側に沢山の本棚が並んでいるのが見えた。その奥が本館といったところだろう。図書館の扉を開けたツカサの顔を見る否やその女性は微笑み、要求した。
「入館証を提示してください」
しまった。と、ツカサ。借りるのにはその手のものが必要だと思っていたがまさか入館するためにもそのようなものが必要だとは思いもしなかったのだ。
「すみません…忘れてしまって…」
忘れたことにすれば何とかなるのではないかという甘い考えもすぐさま打ち砕かれた。
「申し訳ございません。そのような方でも入館証がなければ例外なく立ち入ることはできないのです。」
「そうですか…家に戻って取ってきますね」
ツカサは、とりあえず今日は諦めようと踵を返すように出口へと向き直ると、後ろで待っていた一人の青年と肩がぶつかった。
「おっと、すみません」
「あっ、ごめんなさい!」
考え事をしていたツカサ、そして後ろの青年も本を読みながら順番待ちをしていたためお互いがお互いに気付かなかったようだ。青年は、読んでいた本の他に手に抱えていた数冊の本、数枚の学校の課題の様なプリントを落とした。青年はすぐさま拾い上げツカサもそれを少し拾い渡した。
「ありがとうございます」
「こちらこそ“ごめんなさい”」
青年はツカサの不自然な返答に不思議な面持ちになった後頬笑み、カウンターへと向かった。ツカサはそのまま扉を開け図書館を後にした。
「入館証の提示をおねがいします」
「あれ…入館証…忘れちゃったかな…?」
青年はポケットや今持っていた本の間のページをくまなく探している。それでも青年の入館証は見つからない。
「そうですか。申し訳ございませんが例外なく…」
「家に戻ってとってきますね!!」
笑顔で会釈した後青年は扉を開け図書館を後にした。しかし残念ながら青年は家に帰っても入館証を見つけることができず、仕方なくその日は図書館で勉強をすることを諦めここに戻ってくることはなかった。
青年が出たあと直ぐにツカサがまた入ってきた。そして再び受付のお姉さんのところへ行き、入館証を提示した。
「ないと思っていたんですが内ポケットに入れていたのを忘れてました。アハハ」
ツカサは笑顔でカウンターのお姉さんに言った。
そう、この男は先程の青年から入館証を掏っていたのだ。青年が本や書類を落とした時に紛れていた名刺サイズの証にツカサは気付き、それを拾い上げ自らの懐にしまいこんだ。これから図書館で学校の課題をやろうとしていた笑顔の爽やかな好青年の、前途ある善良な好青年の入館証を気づかれないように奪ったというわけだ。
「はい確かに確認しました。エリナ・ライトウッドさんですね。」
司書は書かれていた名前を読み上げた。
エリナ・ライトウッドというのか、可愛い名前だなありがとう青年と心の中で礼をするツカサ。世界のどこかでは『掏るほうも悪いが掏られる方も悪い』という言葉があるがそんなことはない。『掏るやつが悪い』のは絶対だ。多少例外はあるがツカサは後者である。
返却された入館証を内ポケットに入れ図書館の散策を始めた。ここでもない、ここでもないと棚と棚の間を抜け、とある書物を探している。ツカサが探しているのは今日の新聞やこの世界の歴史の本ではなく、本を普段読まないような人でも、世界が違くても、人生で一回は必ず読んだり聞いたり見たりするモノだった。
「あった。」
小さな声で呟きツカサが手に取っていたのは絵本。ツカサは新聞でも歴史の本でもなく、一番初めに絵本を手に取った。何故か。それは、ツカサはこの世界の字が読めなかったからだ。
そもそもこの世界が自分のいた世界と全く別の世界だと勘付いたのも、図書館へ来る途中で視た看板の文字や店先に並ぶ値札の文字が見たことないという事が原因の一つだった。
ツカサは語学が堪能で、英語、ロシア語、中国語、ドイツ語、コリア語、フランス語、スペイン語とその他数々の言葉を話し、認知していた。それなのにも関わらずこの発展した街の文字が読めないという事はありえないとツカサ自身が自信を持って否定した。亜人がいたり、魔法の様なものがあったりと様々な考察を得てここは死んだ後の世界、もしくは全く別の世界だという結論に達したというわけだ。
それにしても言葉は話せるのに文字は読めないとは何とも珍妙だが、文字が読めないことにはこの世界の事情を知ったり、生活したりすることは困難になることは確実だ。いくら識字率が低い国であっても簡単な文字くらいは読み書きできる。ツカサはそれがまったくできなかったのだから。少しでも覚えるしかない。
ツカサは絵本数冊と辞書と思しき本を手に取り、部屋の中央にある大きな丸いテーブル席に腰を下ろした。
ペラペラとページを捲り、絵本の文字をどうにかして理解しようと躍起になる。自分が知っている言語で似ているような文法はあるか、この絵に描かれているのはどの文字と組み合わせることができるのかと、さらに数時間かけて暗中模索した。しかしツカサにそれは難儀なことだった。
描かれている絵が何を言っているのかわかっても、それの発音がわからないのだ。例えば、リそのページにンゴの絵が描かれており、その絵の下に『苹果』とい中国語が並んでいたとする。『苹果』と言うのがその描かれている絵、つまりリンゴだという事が分かってもこの『苹果』の発音を知ることはどうしても自力じゃ不可能と言う事だ。この世界の言葉は話せるが、この世界の文字の発音はわからないという奇妙な齟齬がツカサの言語習得を邪魔している。
眼で見るという意味では、文字くらい先程発動した眼の力を使いどうにかできないものなのかと試してみるもどうやらそれはできないらしい。文字は眼で見て脳で処理するが、透視や遠視は眼の中で処理を行った後脳に伝わっているとツカサは推測しているためそれはできないのだろう。
さてどうしたものか、と何か打開策があるわけでもないのに辺りを見渡す。すると、本棚の一角で一人の少女がぴょんぴょんと跳ね、高い所に手を伸ばしている姿を見つけた。
その少女の長く艶やかに映えるその黒い髪の毛は、ジャンプするたびに揺れ、まるで髪の毛からサラサラと音が出てきそうなくらい綺麗に纏まっていた。肩から掛けているポシェットもぶんぶんと揺れている。
着ている服装も黒を基調としたドレスで、グレーや赤い色のレースが腰から裾にかけて斜めに彩っている。ちらりと見える背中は空いており白く綺麗な肌が露わになっていた。見た目年齢の割にかなり妖艶さを醸し出している。
そんな少女の手が届かない事を見かねたツカサは立ち上がり、少女の元へと歩みを進め、声をかけた。