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3.羊娘と僕は遠い未来の夢を見る

「えぇと……ユキ君、わたしそろそろ帰るね?」

 部屋の隅にへたり込んでいた芽衣さんが、スカートの裾を払いながら優雅なしぐさで立ち上がった。

 ポコポコという羊パンチも、その一声によりピタリと止まる。

 カナにとって芽衣さんは恐ろしい狼にでも見えるんだろうか。コートを手にした芽衣さんがこっちへ一歩近づいただけで、「ぴゃっ!」と悲鳴を上げて僕の背中に隠れてしまう。

 一方、芽衣さんの方は余裕綽々。

 さっきの涙が嘘のように涼しげな顔で僕たちを……というか、びくびく怯えるカナのことを興味深げに見つめて。

「ごめんなさい、カノジョさん。あまりユキ君を責めないで。彼は“浮気”なんてしてないから。わたし、ユキ君に振られちゃったのよ」

「――ッ?」

 ガツン、と後頭部を鈍器で殴られたような衝撃だった。

 ……そうだったのか、僕は芽衣さんを振っていたのか。まったく気づかなかった。

 というか、いったいいつの間に好かれていたんだろう。やはりクラムチャウダーをおごってあげたときか?

 と、己の行動を冷静に分析する僕の脇で、カナはビー玉みたいに丸い目をぱちくりとさせて。

「嘘です……そんなの絶対嘘……」

「どうして?」

「だって、アナタみたいなひとが、ユキヒロさんの理想だから……私、ユキヒロさんのお母さんに全部教えてもらったんです。ユキヒロさんが中学生の頃からずっと机の引き出しの奥に隠してたポスターの女の子、すごく大きなおっぱ」

「――僕が悪かったですゴメンナサイ!」

 ガバッ!

 土下座せんばかりの勢いで頭を下げたとき、僕の足首に細い紐が引っかかった。

 それはパソコンに刺さっていたヘッドフォンのコード。

 そいつがプツンと音を立てて外れた瞬間――


『羊が九九八匹、羊が九九九匹、羊が千匹……そろそろ寝ちゃったかな? ユキヒロさん、好きです、大好き……夢の中で逢えたら嬉しいな……えへへ』


 ブチッ。

 不意に音声が途切れたのは、顔を真っ赤にした羊娘がパソコンの電源を落としたせい。

 当然僕の顔も、火を噴きそうなほど熱い。

 その熱は芽衣さんにも伝染したようだ。ほんのりと頬を赤らめた芽衣さんは、心底楽しげにクスクスと笑って。

「なるほど、ユキ君は毎日こんな可愛い告白を聴いてるのね。これじゃ勝てないわけだわ」

「いや、ちが……ゲホッ、ゴホッ!」

 激しい咳のせいで言い訳できない僕と、放心状態の羊娘を置き去りに、芽衣さんは「お幸せに!」と言って立ち去った。


 ◆


 芽衣さんという嵐が去った後。

 とりあえず、僕は開きっぱなしだった窓を閉めた。ベランダに置かれたカナの鞄と赤いコート、そしてお節の詰まった紙袋も回収する。

 暖房の効いた部屋では、羊フードを背中に落としたカナがおとなしく正座していた。

 室内でこの着ぐるみ姿はさすがに暑いんだろう。汗で濡れた前髪を額に張りつかせ、今にものぼせそうなほど顔を赤らめた羊娘に、僕は適切な指示を出す。

「とりあえず、それ脱いだら?」

「あの、私もそうしたいのはやまやまなのですが……この下、すっごい汗かいちゃってて、着替えがなくて」

「じゃあシャワー浴びればいいよ。着替えも僕ので良ければ用意するし」

 淡々とした口調は、カナにとって冷たく響いたんだろうか。

 しょんぼりと眉尻を下げた羊娘は「ご迷惑おかけしてすみません……」と呟き、玄関の脇にあるユニットバスへ消えて行った。

 ざあざあという水音を聴きながら、お節の煮物を摘まみ、風邪薬を飲んで待っていると。

「……お風呂、ありがとうございました」

 三十分後、だぶだぶの黒いジャージを着たカナが部屋に戻ってきた。ドライヤーをかけなかったのか、肩にかけたバスタオルにはポタポタと雫が落ちている。

「髪の毛、濡れたままじゃ風邪引くだろ。乾かしてやるよ」

「えっ、でも」

「いいから」

 戸惑うカナをベッドへ座らせて、僕は“トリミング”を開始。

 ちょっと強引だけど、何かしていないと心がざわついてしまいそうだったから、ちょうどいい。

「ドライヤー、熱くないか?」

「はい、だいじょぶです……すごくいいきもち……」

 羊フードの下に隠されていた長い黒髪は、シルクみたいにサラサラのストレート。

 丁寧にブラシを通しているうちに、カナの気分も浮上してきたようだ。今さら眠気が襲ってきたのか、あくびをかみ殺している。

「髪が乾いたら昼寝しとけよ。その間に買い物してくるからさ。何か欲しいものはあるか?」

 ごく普通の質問をしたはずなのに、なぜか頬を赤らめるカナ。ワンピース丈になってしまうジャージの裾をきゅっと掴み、恥ずかしそうに俯いて。

「あの、えっと……」

「ん?」

「下着……」

 ……。

 ……。

 思考停止した僕の視線は、自ずとカナの胸元へ。

 パッと見は黒い布地があるというだけで何も分からないというか起伏の欠片も見当たらないけれど、この中身は今どんな状態になっ……いや、これ以上は考えるまい。

「分かった。確かユニクロにそういうの売ってたよな、キャミソールとセットのやつ。それと適当な服も買ってくる」

 さらりと告げて、僕は速やかに玄関へ移動。

 ダウンジャケット羽織り、カナにもらったマフラーを巻き、スニーカーをつっかける。そこまでの時間、体感速度でコンマ一秒。

 病み上がりなことも忘れ、そのまま駅まで全力ダッシュしようとしたのだが。

「――待って!」

 背後から伸びてきた細い腕が、抗えないほど強い力で僕を捉えた。

 つまり僕は、背後からギュッと抱きしめられるという状態で。

「おい、カナ……?」

 動揺のあまり声が震えてしまう。こんな風に女の子と密着するのは人生で二度目だ。

 圧倒的な経験値不足は、まさに自業自得。

 でもカナの方だってそれは同じ。いや、むしろ僕以上に経験値が低いはずなのに、女の子はいざというときの度胸が違うのか。

 カナは僕の背中に頬を押し付けて――いつもの『わがまま』を告げた。

「ユキヒロさん、おっぱい、触ってください……」

「――ッ、お前、何言って」

「だって、不安なんです。やっぱり私、自信がないの!」

「カナ……」

「あの人のおっぱい、すごく大きくて、ユキヒロさんの“理想”そのもので……私、悔しくて、情けなくて……そんなドロドロした気持ち、シャワーと一緒に洗い流したはずなのに、やっぱりダメみたいです……」

 ごめんなさい、と涙ながらに謝るカナに、僕は言葉を失った。

 シャワーを浴びに行ったのは、汗じゃなくて涙を流すため。思う存分泣きじゃくるためだったのか。

「ったく、バカなやつ」

 自然と零れた言葉は、僕自身へ向けたもの。カナをここまで追い詰めるなんて、本当に彼氏失格だ。

 ――この失点は、絶対に取り返す。

 覚悟を決めた僕は、ぎゅっとしがみつく小さな手を解いて、くるんと半身をひるがえした。

 そして、泣き顔のカナと真正面から対峙する。

 ポロポロと零れる涙を指先で拭ってやると、カナは叱られた子犬みたいに首をすくめた。そのしぐさがあまりにも無防備で、可愛くて……僕は湧き上がる衝動のままに告げた。

 カナの不安をかき消すための、魔法の言葉を。

「あのさ、母さんは勘違いしてたみたいだけど、僕が引き出しに隠してたあのポスターの女の子……見てたのは胸じゃなくて、髪なんだ」

「髪?」

「そう。僕は長い黒髪の子が好きなんだ。だから別に胸は……どうでもいい、とまでは言わないけど、それが人を好きになるポイントじゃない」

「じゃあ、私と付き合ってくれたのは、この髪のせい……?」

「違うよ。そういうのは関係ない。僕がカナと付き合ったのは――カナだから、だよ」

 それは僕にとって、人生初の告白。

 ……たぶん僕は今まで、“恋愛”から逃げていたんだと思う。

 その理由は『面倒くさい』のが半分、そして『傷つきたくない』という弱さが半分。

 僕は別に“カノジョ”なんて欲しくなかった。テレビや雑誌の中に好みの女の子を見つければそれで満足だったし、男友達とバカなことをやって騒いでいる方が楽しいと思っていた。

 そんな常識ルールを、カナはぶち壊してしまった。

 あれほど綺麗で理想的な芽衣さんに迫られても、気持ちは揺るがなかった。僕の中にもそれくらい強い想いがある。

 だから――

「あのさ、カナ。一つだけわがままを聞いて欲しいんだ」

「わがまま、ですか?」

「ああ。頼むからうちの大学に入ってくれ」

「えっ……?」

 ビー玉みたいに丸いカナの瞳が、戸惑いに揺れる。声にならない声が「うそ」と告げる。

 ぼんやりしているように見えて意外と鋭いカナは、きっと気づいたんだろう。『目標』という名の建前に隠された、僕の本音を。

「僕はどうせ修士まで進むつもりだし、そしたら四年間一緒にいられる。お前はホント危なっかしいし……できれば僕の傍にいて欲しいんだ。この先もずっと」

「ユキヒロさん……それって、もしかして、プロポーズ……?」

 答えの代わりに、僕はカナの頬に軽いキスを落とした。驚愕に見開かれる瞳の上と、眉の下で切りそろえた前髪にも一つずつ。

 桜の花びらみたいな唇に触れるのは、辛うじて自重。

「これ以上は勘弁してくれ。風邪移したくないし、胸に触ったりしたら……僕も我慢できなくなるから」

「もう、充分です……ユキヒロさん、大好き……!」

 僕がどうしても言えなかったその台詞をあっさり言い放ち、ぎゅうっとしがみついてくるカナ。手足は棒切れみたいに細くて、どう考えても『女』とはいえない『女の子』のレベルで。

 だけど、子ども体温のぬくもりが今の僕にちょうどいい。

 サラサラとした黒髪を優しく撫でながら、僕は心の奥に一つの“嘘”を隠して、しっかりと鍵をかけた。


 中学生の僕が夢見ていたのは――手のひらからはみ出すくらいの“おっぱい”に触ること。

 その夢は、たぶんもう叶わないだろう。

 だけど後悔はしていない。

 ジャージの布越し、去年とまったく変化のないぺったんこな大地を感じながら……僕は両手いっぱいの幸せを噛みしめた。(了)

読んでくださってありがとうございます! この話は年一回更新してきましたが、たぶん今年でおしまい……かも? ご意見ご感想などお待ちしてます☆

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