2.美女と羊娘
「明けましておめでとう、ございます……」
マンションのドアノブを握りしめたまま、僕はしばしその光景に見惚れていた。
明るい光の中にたたずむ芽衣さんの姿は、まさに女神のごとき美しさ。
上品なキャメルのコートの肩に落ちる、艶やかな巻き髪。エレガントなツイードのミニスカートに、ファーのついたロングブーツ。手には重たげなビニール袋をぶら下げていて、ポカリの青いラベルが透けて見える。
ヒールのおかげで僕と目線が変わらなくなった芽衣さんは、硬直する僕をジーッと見つめた後、ほうっと安堵の息を吐いて。
「突然来ちゃってごめんね。でも元気そうで良かった。ユキ君が風邪引いたっていうから心配になって」
「え、そんなこと誰が……」
「ラインで流れてきたの。バイトで疲れてたのに、大晦日も朝まで麻雀してたんでしょう? 無理しすぎよ」
「あ、うん、でも」
正月に風邪引くのはいつものことだから、という台詞は、「ケホッ」という乾いた咳に阻まれた。
すると芽衣さんの表情は一変。涼やかな瞳が哀しげに伏せられる。
「ごめんなさい、その前に無理させたのはわたしの方よね。あのとき、ずっと傍にいてくれたから……」
「いやっ、それは全然、気にしなくていいし」
「ありがとう……でも、あまり心配させないで? 何度電話しても出ないし、もし部屋で倒れてたらどうしようって……くしゅッ!」
飛び出した小さなくしゃみを、僕は放っておけなかった。
ひとまずカナに『今来客中、駅に着いたら連絡くれ』とメールした後、「良かったらお茶でも」と芽衣さんを部屋に招き入れ、暖房の当たるベッドの脇へ座らせる。
僕はいつも通り、対面のポジションに落ち着いた。
……。
……。
……いや、メンタル的にはちっとも落ち着いてないというか、むしろ一秒ごとに緊張が増していくっていうか。
コートを脱いだ芽衣さんは、ゆったりしたブイネックのニットを着ている。その胸元をチラッと見てしまい、慌てて自重。
しかしいくら真っ昼間とはいえ、一人暮らしの男の家にすんなり上がり込むなんて、芽衣さんはちょっと不用心ではなかろうか?
もし僕が羊の皮を被った狼だったらどうするんだろう……まあ、僕は中身まで百パーセント羊肉ですけど。
と、若干もやもやしつつ、いただいたポカリを開けてグラスに注ぐ。
すると、どこかアンニュイな眼差しでグラスを見つめていた芽衣さんが、ポツリと呟いた。
「あのね、昨日わたし……彼氏と別れたの」
「そっか……」
悪友たちには打ち明けられなかった“デート”のことを思い出し、僕は深いため息を吐く。
あの夜、僕がばったり出会ってしまった芽衣さんは――大学の片隅にある礼拝堂の、キラキラ輝くイルミネーションの光がほとんど届かない薄暗い木陰で、声を殺して泣いていた。
僕にはどうしても、見て見ぬ振りができなかった。
寒さに震える芽衣さんの首に届いたばかりのマフラーを巻きつけ、ハンカチを差し出して、涙が止まるまで夜景観賞に付き合った。その後、近くのファーストフード店へ連れて行った。
そして、温かいクラムチャウダーを飲ませる代わりに、苦しい恋の話を吐き出させた。
帰り際、いつもの明るさを取り戻した芽衣さんは「ありがとう、もう少し頑張ってみるね!」と言っていたはずなのに……。
重たい沈黙の中、ひたすらポカリを飲み続ける僕に、芽衣さんは語ってくれた。
「わたしね、勝手にユキ君のこと尊敬してたの。好きな人に会えなくても全然平気だなんて、強いなって……わたしもそうなりたいって思ったけれど、やっぱり無理だった。『もっと会いたい』って言っちゃったの。そしたら『重い』って……」
長い睫を伏せた芽衣さんの、雪のように白い頬を、透明な涙がつぅっと流れ落ちる。
儚げなその横顔に、僕はカナの姿を重ねていた。
……もしかして、カナもずっとこんな思いをしてきたんだろうか?
パソコンの画面に映るカナは、いつも散歩に出かける子犬みたいに嬉しそうな笑顔だったけれど、その陰では寂しさを押し殺して泣いていたのか……。
そんなことをぼんやりと考えていた僕は、皆が言うように女の子の気持ちを何一つ分かっていなかった。
鈍感ってだけじゃなく、圧倒的な『経験値』が足りなかったのだ。
――ふわり。
僕のすぐ傍から、バラの香りがした。僕の知らないシャンプーの香りが。
ベッドへもたれかかっていたはずの芽衣さんが、いつの間にか目の前にいる。今にも互いの肌が触れ合いそうな距離に。
「芽衣、さん……?」
「ごめんなさい、お見舞いに来たなんて嘘なの。わたしはユキ君に話を聴いて欲しくて……ううん、慰めて欲しくてここに来たの」
甘く掠れる囁き声。熱っぽく潤んだ瞳。
ゆっくりと傾き、押しつけられる柔らかな身体。
匂い立つような色香に当てられ、下がったはずの熱がぶわりとぶり返す。全身から汗が噴き出し、心臓がドクドクと早鐘を打つ。
……ヤバイ、この状況はさすがにヤバイ、気がする。
とにかく芽衣さんを慰めなきゃいけないってことは分かるんだけど、具体的にどうしたらいいのかさっぱり分からない。
単に「元気だせよ」的な言葉をかければいい……のか?
それとも、慰めるというのはいわゆる性的な隠語であり、具体的にはアレをナニしてもいいっていう――いやいやちょっと待て!
そもそも僕らの関係は、顔見知りに毛が生えた程度だ。二人きりで話すのもまだ二回目だし、芽衣さんには僕より親しい男友達もいっぱいいるし。
だけど……一つだけハッキリ分かることがある。
芽衣さんは、誰にでもこんなことをするような人じゃない。ちゃんと僕のことを選んで、こうして頼ってくれたんだ。
だから、もし芽衣さんが本気で僕を選んでくれたとしたら――こっちも本気の答えを返さなきゃいけない。
「芽衣さん、ゴメン」
僕は芽衣さんの細い肩を向こうへ押しやった。壊れ物を扱うように、そっと。
「ユキ君……?」
「悪いけど、僕は“彼氏”の身代わりにはなれない」
飾り気のない、冷たい台詞を告げたとき。
芽衣さんの人差し指が、僕の唇へそっと押し当てられた。「言わないで」と囁くように。
そして指先が離れる代わりに、彼女の唇がすうっと近づいて――
「――ダメェェェェッ!」
鋭い嘶きが、狭い室内に響き渡った。
バーンと開かれた窓から飛び込んできたのは、一匹の羊。
……ではなく、羊の着ぐるみに身を包んだ一人の少女だった。
「うわぁぁぁん! ユキヒロさんのバカァァァ! 浮気者ぉぉぉ!」
「――ぐへッ!」
狼に追われる羊のごとく、僕のボディへ突進してくる羊娘。
頭に被った羊フードの、くるんと丸まった羊角が脇腹に激突するも、その勢いは止まらない。
モコモコの白い毛玉状態になったカナが、子どもみたいに泣きじゃくる。蹄のついた前脚が、ポコポコと僕の胸を叩く。
開きっぱなしの窓から吹き込む寒風が、熱くなった僕の脳みそを一気に冷やす。
「おい、カナ、ちょっと落ち着け」
「落ち着けるわけない! 私、今日会えるのすっごく楽しみにしてたのに! 眠れなくて始発で来ちゃうくらいドキドキしてたのに……ひっく、ううっ」
「それで、僕が寝てる間にこっそり忍び込んで、ベランダに隠れてたってわけか……」
「うん、カーテンの隙間からずっと、ユキヒロさんの寝顔見てたの。着換えも見ちゃった。私すごく幸せだった……なのに、こんな綺麗なひとと浮気するなんてヒドイよぉぉぉ!」
ポカポカポカポカ。
途切れることのない猫パンチならぬ羊パンチ。
僕はその攻撃を享受しつつ「ゴメン」と謝り続ける。涙と鼻水でぐじゅぐじゅになった顔をティッシュで拭い、モコモコの頭をよしよしと撫でる。
そのとき、記憶の底に眠っていたカナの姿が――泣き虫だった小さな女の子の姿が、ふっと蘇った。
……やっぱり僕はカナの涙に弱い。十五年前からずっとそうだったんだ。
僕の心を動かすのは、コイツだけ。
たとえ、羊の着ぐるみ姿でベランダから僕の着換えを覗いているようなヘンタイだとしても……。