最終章 親友
最終章 親友
1
昨日の仕事はかなりハードだった。土方工事の職に就いてからずいぶん経つが、深夜近くまで肉体労働をしなければならない今の環境にはなかなか馴染めなかった。同期で入った仲間もどんどん辞めて、今では数人しかいない。おまけに給料はそれほど高くなく、生活もかなり苦しかった。
こんな安月給で働くぐらいなら、勉強でもして公務員になったほうが良かったかもしれない。
今さらそんなことを後悔するなんて馬鹿だなと心底そう思った。
この日、俺は久しぶりにもらった休日を使って、家から電車で二駅のところにある病院に向かっていた。
今の仕事を辞めたい気持ちはもちろんある。でも、辞めるわけにはいかない理由があった。
駅から歩いて十分程で病院に到着した。階段を上がって廊下を歩く。ここに来るのは久しぶりだったが病院の中を迷ったことは一度もなかった。
廊下の中ほどで目的の病室を見つけ、中に入った。
「兄貴、来てくれたのか」
ベッドの上で横になっていた弟が起き上がった。
「久しぶりだな、大志。元気にしてたか?」
「兄貴こそ、来てくれるなら連絡してくれたらいいのに」
「悪い悪い、昨日は仕事で疲れてたんだ」
そばにあった椅子に座る。大志は読んでいた図鑑をそばの机に置いた。
「本当にそれが好きなんだな、お前」
「蝶々って素晴らしいよ。こんな綺麗な模様をした生き物が世界中で飛んでるんだよ。想像するだけでわくわくするよ」
子供の時から言っていることが同じで思わず笑ってしまった。
大志は小さい頃から昆虫、特に蝶に関してはかなり専門的なところまで知っていた。
「でも、やっぱり僕はあげは蝶が好きだよ。兄貴、覚えてる? まだ親父とおふくろが生きていた頃の話」
「毎回聞いていたら忘れるほうが難しいだろ」
小さい頃、田舎の農村で暮らしていた時期があった。その時に蛹から成虫になるあげは蝶を二人で見つけた。見舞いに行くたびに大志はそのことを必ず話していた。
「それより気分のほうはどうだ?」
「ああ、それがね……」
大志が視線を下ろして、鼻につけられたチューブに触れた。
「このところ検査が多くてゆっくりしていられる時間があまりないんだ」
「そうなのか? 医者は何て言ってる?」
「近いうちに大きな手術をしないといけなくなるって」
「そうか……。安心しろ、大志。俺が必ず金を用意する。お前はゆっくり休んでおけばいい」
「悪いな、兄貴。いつもいつも……」
「気にすんな。お前も好きで病気になったわけじゃないだろ」
「そうだけど、兄貴は俺のことお荷物だと思っていないかなって……」
「馬鹿言うな。弟のことを迷惑だと思う兄貴がどこにいる。まあ、俺より先に結婚でもしたら一発殴るかもしれないけどな」
「兄貴が言うと冗談じゃないみたいだよ」
「冗談だ。本気にするなよ」
そう言ってお互いに笑った。時計を見ると、大志が毎朝している検査の時間が近づいていた。そろそろ出たほうが良さそうだ。
「じゃあそろそろ行くわ」
「また来てくれよ、兄貴」
「ああ」
俺は最後にそう言って病室をあとにした。
親が事故で亡くなって以来、俺は都会で大志と暮らしていた。
何かと不良扱いされていた俺を引き取るのを親戚が嫌っていたこともあって、最初は俺だけが一人暮らしをする予定で、大志は叔父の家に預けられるはずだった。だが、大志はそれを拒んで俺についてきた。
俺と大志は正反対の人間と言っても良い。成績優秀だった大志は有名な国立の大学にも進学していたし、その将来をかなり期待されていた。
一方の俺は高校を卒業してから色んな仕事を転々とするフリーターで収入の不安定な毎日を送っていた。
二人で暮らすことになった時、俺はせめて大志にはちゃんとした生活をしてほしかった。あいつの学費を稼ぐために休まずに働き続けていたこともある。生活は苦しかったが大志との暮らしは充実していたと思う。
だが、それは大志の突然の病で変わってしまった。
大志は特別なチューブがなければ一人で満足に呼吸できない病気になってしまった。
病気の治療には膨大な費用がかかる。だが、親族は俺たち二人を除け者扱いしているため。資金援助をしてくれるとは思えない。
残された手段は俺自身がお金を稼ぐしかなかった。
当時は飲食店でアルバイトしていたが、ここで働いても満足できるお金はあまり手に入らなかった。
お金を稼ぐには社員として働くしかない。その時に巡り合ったのが今の仕事だった。
大志が無事に退院できるようにするために必死に働いた。
いつかもう一度大志と暮らす日が来ると思っていた。
自分の望んだことなんて世界にとってはほんの小さなものだ。それなのにこの世界は理不尽だった。
2
ある日、仕事を終え、自宅のアパートに戻ると、玄関のドア付近に三人の男が立っていた。灰色や黒など色は違っていたが全員スーツを着ている。その一人が俺に気付いて尋ねてきた。
「木出さん、木出拓馬さんですか?」
「誰だよ、あんたら」
「怪しい者じゃありません」
そう言って男が胸ポケットから黒い手帳を取り出す。後ろにいた二人も同じように手帳を見せてきた。背中を嫌な汗が流れていく。
「警察?」
「ええ、そうです」
「どうして警察が?」
「木出さん、あなたにお聞きしたいことがあります。署までご同行願えますか?」
「何かあったのか?」
「ここでは少し難しいので署まで来てもらいたいのです。いいですか?」
刑事ははっきりとした答えをくれなかった。
口調は穏やかだが、何かに苛立っているように思えた。後ろの男も小さく足踏みをしている。
「仕事で疲れてるんで早くしてくださいよ」
何の事件か知らないが、どうせすぐに終わるだろうと考えてた。だが、それは大間違いだった。
「目撃者はお前もそこにいたと言ってるんだ。いい加減に認めたらどうだ?」
「加害者の葉山と付き合いがあったみたいじゃないか。あの夜も一緒にいたんだろ!」
耳元で二人の刑事の声が響く。警察署に来た俺はいきなり取り調べ室に連れて来られた。
こいつらの話によると先日、女子高生が殺された事件に俺が絡んでいたと言いたいらしい。もちろん、そんなことを身に覚えもなかった。
「葉山は高校の時の知り合いってだけで今は関わりがない。何かの間違いだろ」
「犯罪をやった奴はな、みんな同じことを言うんだ。いい加減に認めろ。お前がやったと言えば全て解決するんだぞ」
こいつらの態度はアパートで出会った時と全く違っていた。
自分の縄張りに来れば、あとはこっちのものとでも言うような態度だった。その日は結局三時間ぐらい取り調べが続いた。だが、すぐに次の日も仕事終わりに取り調べが始まった。
「お前がやったんだろ?」
「俺は何も知らないって何度言ったらわかるんだよ」
「お前、黙秘する気か。確かにお前には黙秘権があるけどなあ、それは何かやましいことを隠しているから使うんだよ! もう本当のことを言ってしまえ。悪いようにしねえから」
こいつらの言っている意味はよくわからないが、自分を陥れようとしてるのは間違いなかった。
それから仕事終わりにこいつらの取り調べを受ける日々を続けた。次第にそれはエスカレートしてついに仕事を休まければならない日も多くなっていった。
一日中、警察の奴らから罵声を受けて俺はかなり疲れ果てていた。
そしてついには……。
「クビ?」
「ああクビだ。今までごくろうさん」
「ま、待ってください、社長! 俺、この仕事だけは失いたくないんです! 何もしていないのにあいつらが勝手に俺を犯人にしようとしてるんです! お願いです、もうしばらく待ってください!」
必死に頼んだが、土方工事の社長は冷たかった。
「悪いけど犯罪者かもしれない人を雇うことはできないよ。それにもう新人の応募もかけてるんだ。あきらめてくれ」
「そんな……」
それ以上何も言えなかった。身に覚えのない事件の犯人に疑われたせいで俺は仕事を失ってしまった。
そして取り調べが始まって二週間後、全てに疲れ切っていた俺はついに事件の犯人が自分であると自白した。いや、そうするように強制されたんだ。
その自白が元になり、裁判では殺人の罪で懲役十年の有罪判決が言い渡された。理不尽だ。本当に理不尽すぎる。
その後、地獄のような牢獄暮らしが始まった。
無実の罪を着せられ、仕事を奪われた俺には大志だけが唯一の希望だった。
ここを出たらすぐに会いに行ける。刑務所の中で、その日が来るのをただひたすら待ち続けた。
3
五年後。牢獄での暮らしが続き、俺は身体的にも、精神的にも限界だった。
それでも心が折れずにいたのは大志の存在があったからだった。だが、運命はあまりに残酷だった。
「木出拓馬」
部屋の鉄格子越しに呼びかけられ、顔を向けた。廊下に一人の警官が立っている。
「お前に手紙だ」
警官が一通の手紙を差し出す。それを呆然と見つめながら手を伸ばして受け取った。だが、宛名を見た瞬間、目を見開いた。大志の入院していた病院からだった。
大志から手紙!?
そう思って素早く封を切って中の手紙を取り出す。だが、その内容に目を通すと言葉が何も出なかった。
「大志が……死んだ?」
手から手紙の束が滑り落ちていく。そのまま、壁にもたれて座りこんだ。
俺の稼いだ金が底をつき、親戚から十分な援助を受けることもなく、大志は十分な治療を受けることができなかったらしい。
俺はこの地獄のような場所の暮らしで唯一の支えとなっていたものを失った。
「くくく……」
しばらくして、湧き起こっていた怒りを通り越して笑いがこみ上げてきた。
これは何の冗談だ。あまりに馬鹿げている。あいつらのせいで何もかもを失ってしまった。理不尽にもほどがある。俺は何もしていないのに……。
「くくく……」
冗談じゃない。俺だけがこんな仕打ちを受けるのは不公平だ。全部あいつらのせいだ。
右手に光が宿り、その光の中から大きな剣が現れた。
「くくく、ふざけるな」
復讐してやる。他のことなんてどうでもいい。俺から全てを奪った警察に復讐してやる。
「見ていろ、大志。俺は奴らを皆殺しにしてやる!」
その後、俺は刀人の力を使って刑務所を脱獄した。
これが俺の復讐の始まりであり、『アゲハ』の始まりでもあった。
4
2014年1月27日 午後十一時。湯田月市内 某所。
目を閉じるとあの時の記憶が蘇る。もうずいぶんと昔のことだが、忘れたことなど一度もなかった。あれから仲間を集め、大志の好きだった『アゲハ』の名を組織につけた。
ここまで長い道のりだったと思う。
再び目を開けると街灯や車、建物などの光に照らされた湯田月の町が見えた。
大志が生きていれば、一緒にこんな町で暮らしていたかもしれない。
そんな妄想をしても、過去は変わらないが。
「木出さん」
そう呼びかけられ、後ろを振り返ると野梨子が立っていた。
「どうした?」
「いえ、なぜか木出さんが悲しそうな表情をしていたので」
「くく、そう見えたか?」
野梨子は何も答えず、横に並んで町を見下ろした。
「明日から始まりますね」
「どうした、 今になって躊躇いが出たか?」
野梨子の口調が普段と少し違っていたのが気になり、そう聞いてみた。
「いえ、後悔したことはありません。私の両親は警察に殺されましたから」
「そういえば、お前もだったな」
「親を亡くした時、姉は刀人にならず、私だけが刀人に覚醒しました。出来の良かった姉ばかりに目を向けていた両親に、私のことも見てもらいたいと強く思っていた時でした。その思いが嫉妬になり、刀人の力になりました」
普段あまり自分のことを話さない野梨子は、こうして一緒にいる時だけこうして胸の内を話してくる。俺にだけ気を許している証拠だった。
「アゲハに入るのを姉はずっと止めようとしていましたが、私は警察を許せなかった。あれからどれだけ我慢してきたか……。でも明日ようやく奴らに復讐することができます」
野梨子は俺のほうを見つめた。いつも無表情な野梨子の顔に感情が垣間見える。
「全て、木出さんのおかげです」
「礼を言うのはまだ早いぞ、野梨子」
そう言って野梨子の肩に手を置く。
「これからようやく俺たちの計画が始まるんだ。お前にもしっかりやってもらう」
「わかっています。私は最後まで木出さんのために尽くします」
「くく、それでいい。そろそろ全員が集まる。行くぞ」
「はい」
俺は野梨子と共に湯田月タワーの展望台をあとにした。
5
2014年1月28日 午前九時 湯田月署
湯田月の町にずいぶん久しぶりに雨が降っていた。だが、そんなことは今の俺にはどうでもいいことだった。くだらないことを考える余力は全く残っていなかった。
俺――糸井智彦は湯田月署の一階にあるソファに座っていた。
唇を噛み締める。あの時の悔しさがまた湧き出てきた。
結局、俺は稜を救うことが出来なかった。燃え盛る炎の中にいたあいつは今までと何もかもが違っていた。かつての面影はほとんど残っていない。あいつに残っているものはアゲハの連中を一人残らず殺すという憎しみだけだった。
だからこそ、俺はあいつを止めなければならなかった。でも、結局できなかった。
歩実から託されたこの力を使っても、稜はまだ深い闇の中にいる。
「稜……」
やっぱり無理なのか。
どんなに頑張っても俺はあいつを……。
「糸井さん」
その時、絢音が話しかけてきた。顔をあげると、かなり深刻な表情をしている。
「どうした?」
「木出拓馬から聞いた情報を元に調べてみたところ、こんなことが……」
そう言って絢音が何かの資料の束を差し出してきた。それを手にとって目に通す。一通り読んで内容を理解したが、驚きのあまり絢音には何も言えなかった。
無意識のうちに菅原の部屋に向かっていた。
部屋の前に行き、何も言わずにドアを開ける。普段はドアを叩いて入っているが、今はどうでもいい。そう思えるほどこれまでに溜まっていた怒りが限界に来ていた。
菅原は俺が入ってきても何も言わなかった。それにかまわず菅原の前に行き、手に持っていた資料を机に叩きつけた。
「部長、アリナキサスのことをどうして隠していたんですか?」
菅原は何も答えない。ただ机に置かれた資料の束を見つめていた。
「人間を刀人に変える薬。それを盗まれたのなら事態は最悪だ。奴らが次に何をするのかわかっているだろ! どうしてこんな大事なことを隠していたんだ!」
大声で怒鳴っても菅原はずっと黙ったままだった。この女に怒りをぶつけても仕方がない。
「この薬の開発をしていた男のところへ行きます」
「駄目よ」
部屋を出ようとすると菅原に呼び止められた。
「それは許可できないわ」
俺は後ろに振り返って、再び菅原の前に立った。
これ以上こいつの言うとおりにする必要はない。
胸ポケットから警察手帳を取り出し、机の上に置いた。
「俺はもう部長の部下じゃありません。これから先は俺自身の手でやります」
今度こそ部屋を出る。
「ま、待って下さい、糸井さん!」
絢音が慌てて呼び止めたが耳に貸さない。署を出て自分の車に乗り込んだ。
「糸井さん!」
絢音が車の外から呼びかける。俺はハンドルを握りしめたまま絢音に言った。
「音坂成二のところへ行く。お前が止めても、俺は行くぞ」
「私もご一緒します」
絢音が助手席に乗り込んでくる。
「糸井さんが菅原部長の部下を辞めても、糸井さんは私の上司です。最後までついていきます」
「でも、お前――」
「大丈夫です」
絢音はきっぱりと言い切った。そこには別の決意もあったように思えたが、今は考えている余裕がなかった。
「わかった。時間がない。飛ばすぞ」
車を発進させ、俺たちは音坂成二の病院へ向かった。
6
「はあ……」
大きなため息をついて椅子にもたれた。
もうこの部屋には私しかいない。これからずっとそうなってしまうかもしれなかった。
机の上に置かれた糸井の警察手帳を見つめる。
もっと私がしっかりしていれば彼を怒らせることはなかった。本当のことを全て話していたら協力してくれたかもしれない。
結局、原因は不器用な自分にある。
出来の良い姉と両親から言われていたけど、そんなことは全くない。いざという時は何もできなくて、すぐに誰かを頼ってしまう。
姉らしいこともあの子には何一つしてやれなかった。いつも両親は私のことばかりを気にかけて、あの子には何もしてあげなかった。でも、私だけはあの子の姉として、何とかしてあげたい気持ちでいっぱいだった。
でも、両親が冤罪で警察に捕まってしまって、それも手遅れになってしまった。
私が今こうしていることも、何もかもが手遅れなのかもしれない。
「稜、あなたはどうなの……」
あの日以来、稜からの連絡は来ていない。糸井がアゲハのアジトで彼を見たという情報もあるが、それすら本当なのかわからなかった。
もし稜がアゲハのリーダーと接触したとすれば、どんな事態が起こるのか……。
「でも、だめね。もう私には何も……」
思わずそう呟いた。その瞬間、耳元でけたたましいサイレンが鳴り響いた。
「いったい何!?」
その場から立ち上がると、下の階で大きな爆発の音が聞こえてくる。窓のほうを見ると、真っ黒な煙があがっていた。
火事が起こったと思ったが、そうじゃない。
これはもしかして……。
7
午前十時。米山医院
俺は絢音と共に湯田月の都市部から離れ、住宅街の路上に入った。
町に住んで長いが、この辺りに来たことはほとんどなかった。
いくつかの通りを抜け、目的地の米山医院が見えた。その近くに車を停め、改めて病院を見る。
道路の角にある小さな病院だった。本当にあの男がここにいるのか疑問が出てくる。しかし、菅原の隠していた情報から判断すると、間違いなくここにいた。
「中に入るぞ」
「はい」
俺は絢音と共に病院の中に入った。
待合室に人は誰もいなかった。部屋の隅にソファや椅子が置かれているだけでひっそりとした雰囲気に包まれている。
「悪いが今日の診療は午後からなんだ。また来てもらえれば――」
部屋を見回していると奥のドアが開いて一人の男が出てきた。男は客が来たと思ったみたいだが、俺だとわかると何かを言うのをやめた。
実に十三年ぶりの再会だった。
「俺のことを覚えているか?」
稜の父親――音坂成二はしばらく何も言わなかったが、やがてメガネを掛け直して口を開いた。
「いつか来ると思っていた、糸井智彦くん」
特に驚いている様子はなかった。
おそらくこれまでの刀人の事件で俺たちが捜査していたことを知っていたのだろう。
「俺がどうしてここに来たのか、あんたならわかるはずだ」
「ああ、わかってる。その様子だと私が刀人に関する実験を行ったことも知っているようだな」
「やっぱりあんたが……」
「君には知る権利がある。こっちに来なさい」
成二はそう言って診察室の中に戻っていく。俺と絢音はそのあとにしたがった。
部屋に入ると成二はコーヒーを入れてそれを飲んでいた。一口飲むと手にしたコップを机に置き、椅子に腰掛けた。
最初に会った時と比べるとだいぶ老けているのがはっきりとわかった。
もう一度コーヒーを飲んで成二は話し始めた。
8
刀人がいつから存在していたのか、それは定かではないが、日本で初めて確認されたのは今から二十年くらい前のことだった。その刀人は数名の人間を殺害したが、警察によって射殺されている。
事件は単なる殺人事件として処理されたが、以降刀人の存在が各地で確認されるようになった。
刀人は我々にとって脅威だった。人間の身体能力を遥かに超える彼らを野放しにしておくわけにはいかない。
警視庁の上層部は当時、警察の科学捜査班の主任を務めていた私を呼び寄せた。
「私が刀人の研究チームのリーダーを?」
「すでに耳にしていると思うが、刀人の絡んだ事件は最近になって多発している。これまでの事件は刀人が単独で起こしているものが多いが、もし奴らが一つに集まればこれは脅威だ。そうなる前に奴らの特徴や弱点を知る必要がある」
「彼らを殺すのですか?」
「これは殺戮ではない。我々人類の未来のためだ。君にも理解できるはずだ、音坂成二くん」
「……」
その時、私は上層部の頼みを断ろうとした。だが、このままでは刀人が人間に取って代わる事態を起きる可能性がある。そうなれば上層部の言うとおり、多くの犠牲者が出てしまう。
悩んだ末に私は人類の未来を守るためには刀人の研究を引き受けた。
それから、私は警察によって捕縛された刀人たちを使ってあらゆる実験を行った。
研究していくにつれて、彼らが個々の感情に支配されること、その感情こそが覚醒のきっかけとなったものであること、刀人はお互いをひきつけ合う特性を持つことなど、様々な特徴がわかった。
そして私は刀人に覚醒する素質を持つ人間を見つけることが出来るようになった。そのうちの一人にまさか自分の息子が含まれているとは想像もつかなかったが。
稜は最も若い刀人の素体として研究の第一候補に挙げられた。もちろん私は反対したが、人間の未来のためにあの時は少しでも刀人のことが知りたかった。
私は稜を研究所に連れていった。
「父さん、ここはどこなの? どうして僕はここにいるの?」
「ここは病院だ。お前の病気を治すために連れてきたんだよ」
「僕、どこも悪くないよ」
「大丈夫、すぐに良くなるさ」
病院だと嘘をついて私は稜の研究を行った。その結果、稜は他の刀人よりも一回り強い力を持っていたことがわかった。覚醒すればその力がどれ程のものになるか計り知れない。暴走する可能性もあった。
私はそれを防ぐために稜の研究を続けた。そしてその結果、恐るべきものを生み出してしまった。
それが人間を刀人に変える薬『アリナキサス』だ。私はあの薬を稜を素体にして生み出した。アリナキサスは刀人に対抗できる武器になるのは間違いない。しかし、それは矛盾していた。私は刀人を滅ぼすために研究を続けていたのに、刀人を生み出す薬を開発してしまったのだ。その薬を使えば刀人が途絶える未来はなくなってしまう。
私は処分しようとしたが、アリナキサスの存在を知った上層部はそれを使用する実験を行うように指示した。
その実験の被験体にされたのは、まもなく処刑されることになっていた死刑囚たち。
アリナキサスは万能な薬ではない。その副作用で命を落とした人間は少なくなかった。
何人も人を殺して、どうして人が救われる?
なおも研究を続けろと指示する上層部の意向に反して私は刀人の研究をやめた。
そして研究を辞めてから数ヶ月過ぎた頃、私の元にあの男から連絡が来た。
「よお、あんたが音坂成二だな?」
「誰だ?」
「はは、名乗るほどのもんでもねえよ。それより、あんた最近面白いことをしているらしいじゃないか。何でも人間を刀人に変える薬を開発したとか」
どうしてあの男が私の研究のことを知っていたのかわからなかった。
「何の用だ?」
「単刀直入に言おう。その薬を渡してほしい」
「そんな要求をあっさり受け入れるとおもっているのか?」
「でなければお前の家族を皆殺しにする」
「脅しはきかんぞ」
「そうか、まあじっくり考えろよ」
男はそこで電話を切った。
それ以降、男は何度も何度も私に電話をかけてきた。だが、私は奴の要求を頑なに断った。
アリナキサスが部外者の手に渡ればどうなるのか、誰にも想像できない事態になる。たとえ脅されても私の意思は変わらなかった。
そして、その結末があの事件だ。
9
「あの事件で私は真由子と歩実を失い、稜は刀人へ覚醒した。アリナキサスの素体である稜はいずれどの刀人よりも上回る力を持つだろう。そうなっては誰にも稜を止めることができなくなる」
話を続ける成二に対して、俺は拳を強く握りしめていた。自分の家族を失ったことなのに、淡々と話すその態度が気に入らなかった。怒りがだんだんとこみ上げてくる。
「だが、私は間違った選択をしたつもりはない。アリナキサスを渡せばもっと多くの人間が死ぬことになる。それを防ぐために私は――」
「自分の家族を見殺しにしたっていうのか!」
成二が言い終わる前に詰め寄り、その胸倉を掴んだ。
「あんた、自分が何をしたのか、わかっているのか!」
「糸井さん!」
絢音の声が聞こえるが、俺の怒りは頂点に達していた。
「稜にとって家族が全てだったんだ。あいつの支えになるのは家族しかいなかったんだ! それをあんたが奪ったんだ!」
拳をつくり、成二の頬を殴りつける。成二のかけていた眼鏡が割れて後ろに飛んでいった。
「私にはどうすることもできなかった!」
「あんたのせいで稜がどれだけ辛い目にあったと思ってるんだ! あんたのせいで! あんたのせいで!」
何度も何度も成二の顔を殴りつける。唇がきれて血が流れ始めたが、成二は怯まなかった。
「他にどうすれば良かったんだ! アリナキサスが奴らに渡せば、大勢の人間が――」
「あんたの一番大事なものは家族だろ! 他のどんなことよりもそれが一番に決まってるだろ! 何でそんなこともわからねえんだよ!」
今まで以上に力の入った拳で殴りつける。成二は後ろにあった壁に激突した。顔中が血まみれになり、もう何も言えなくなっている。それでも俺の怒りがとどまることはなかった。成二を無理矢理起こし、更に殴りつけようと、拳をつくる。
「もうやめてください!」
絢音が大声を出して、俺の腕を掴んだ。
「お願いです、糸井さん。もうやめてください……」
「くっ……」
全然殴り足りない。でも、絢音に止められて殴る気力が一瞬でなくなった。成二の胸倉を掴んでいた手を離す。成二は何も言わないまま、部屋の壁に背中を向けて倒れた。
殴っていた拳が赤い血で染まっていたが、それを拭き取らずに部屋を出た。
病院からも出て、路上に停めていた車に手をつける。その瞬間、今までの悔しさが溢れてきた。
あんな男のせいで稜は闇の中に落ちてしまった。何度も助ける機会があったのに、全てを無駄にしてきた。
「くそっ! くそっ!」
再び拳をつくって自分の車を殴りつける。激しい痛みがはしったが、今までの自分の愚かさを考えると比べる必要もない。
「落ち着いてください、糸井さん」
背後から絢音が呼びかけてくる。
「まだきっとチャンスはあるはずです。黒刀を止めましょう。糸井さんならきっと――」
「無理だ」
絢音の言葉を遮ってそうつぶやいた。
「え?」
「くく、俺にはもう無理だ」
笑いがこみあげてくる。全てが馬鹿らしくなった。
「俺に稜を助けることなんて最初から出来なかったんだ! あいつが刀人になってしまった時点で助けられるはずもなかった! あいつはもう何人も人を殺している! 万が一助けられたとしても、あいつは裁かれる。死ぬのが早くなるだけなんだ! ああ、そうだ。俺が今までやってきたことなんて全部無駄だったんだ! 俺は何も出来ない大馬鹿だったんだよ!」
自棄になって、自分が何を言っているのかわかっていなかった。ただ、思ったことを言うだけ言った。
そのあとに訪れた束の間の沈黙。それを破ったのは絢音だった。
「糸井さん」
絢音の口調が今までと違うものになる。俺の目の前に立ち、真剣な目で見つめる。
「申し訳ありませんが、失礼します!」
次の瞬間、強い衝撃がはしった。さっきの拳の痛みよりも何倍も心に響いてきた。一瞬何が起こったのかわからなかったが、絢音が自分の頬を叩いたと理解するのに時間はかからなかった。
「そうやって現実から目を背けて今までの自分を否定するんですか?」
絢音を見ると、目から涙が溢れていた。
「音坂稜は……糸井さんの大事な人はまだ生きているんですよ。ここであきらめたらだめじゃないですか!」
「絢音……」
「私と同じ目に合わないでください、糸井さん。音坂稜が生きているならまだきっと助けるチャンスはあるはずです。だから……」
ついに絢音は流れてくる涙を止められず、手で顔を隠して泣きはじめた。
やはり西馬千秋のことで深い傷を負っていたらしい。自分よりもずっと辛い思いをしているのに、それでも絢音は俺のことを……。
その時、声が聞こえた。歩実が最後に託してくれた言葉だった。
『お兄ちゃんを助けてあげて。お兄ちゃんを助けられるのは智彦お兄ちゃんだけだから』
歩実、ごめんな。俺はとことん馬鹿な男みたいだ。でも、お前の願いだけは必ず叶えてみせる。
「ありがとう、絢音」
絢音の両肩に手を置いた。絢音が泣くのをやめる。
「おかげで目が覚めたよ」
「糸井さん……」
『緊急事態! 緊急事態!』
その時、車内の無線機から大きな音が鳴り響いた。
『湯田月署が何者かの襲撃を受けている。死傷者多数! 付近を巡回している者はただちに署へ帰還せよ! 繰り返す! 付近を巡回している者はただちに署へ帰還せよ!』
その報告を聞いただけで、署が異常事態であることはすぐにわかった。
始まった。近いうちにこの町で前代未聞な事態が起こる。そんな予感が的中した気がした。
「糸井さん、署が襲撃されたってまさか……」
「ああ、お前の思っている通りだろう。アゲハが動き始めたんだ」
車のドアを開けて運転席に座る。絢音もすぐあとに従って助手席に座った。
「糸井さん、どうするんですか?」
「署に戻る。アゲハの連中からどこを拠点にしているのか、聞き出せるはずだ。そしてそこに必ず稜が来る。それに……」
一瞬言うのをやめようと思ったが、そのまま続けた。
「部長が危険かもしれない。助けに行く」
「糸井さん……」
絢音も不安に思っていたようだ。安心させるように笑みを浮かべる。
「行くぞ」
俺は車をだして湯田月署へ向かった。
10
智彦たちが去ったあとも、成二はしばらく壁に背中を預けたままだった。
何度も殴られて激しい痛みがあるが、過去のことを思い返せばまだまだ足りないものだった。
人類のため? 未来のため?
私にとってそれがどれだけの価値がある。それ以上に私には大切なものがあった。
真由子、歩実、そして稜。三人の家族が一番大切だったはずなのに守ることができなかった。
今の自分があの時に戻れたら、必ず三人を助けられただろう。
こうなってしまったのは自分の責任だった。
心底、愚かな人間だった。今更こんなに後悔するなんて……。
「私を笑いにきたのか?」
視線を下に向けたままそう呟く。そばにある窓に人影が現れた。随分前からそこにいるのはわかっていた。
「憎いなら私を殺せ。お前にはその権利がある」
「いいや、あんたにその価値はない」
成二は驚いて窓のほうを見る。
「あんたはこの小さな病院の中で過去に苦しみながら生きていればいい。だが、俺は違う。奴らを一人残らず殺して歩実たちの恨みを晴らす」
「稜……」
成二がそうつぶやいたがもう人影はそこにいなかった。
この先、二度と会うこともないだろう。目から涙が流れていく。歩実たちが死んだあの日以来はじめての涙のように思えた。
「私は……私は……」
11
一時間前。 湯田月署
朝から降っていた雨はやや勢いを弱め、小雨になっていた。
私は道路脇に停めてある黒いバンの中から、署の様子を見ていた。
時間を見ると作戦決行までほんの数分しか残っていなかった。いよいよこの町で『アゲハ』の目的が達成される。警察への報復活動。これはその第一歩だった。
すでに署の周囲には数台の車が停まっていて仲間が待機している。あとは私が号令をかければいいだけだった。
木出さんには本当に感謝していた。
彼は自分を見込んでくれた上でこの大事な任務を任せてくれた。
必ず成し遂げてみせる。
「野梨子さん、他のグループも配置場所に着きました。あとは合図をしてもらえればいいだけです」
部下の報告に黙って頷いて、車のドアに手をかけた。
奴らを殺す。木出さんの望みを叶えるために、そして私自身のためにも。
「行くわよ!」
「作戦開始!」
私の合図とほぼ同時に部下が他の仲間に指示を出す。その直後、署の正面玄関から大きな爆発が起こった。仲間が事前に署に紛れ込んで、仕掛けておいた爆弾を作動させた。
とたんに建物中から警報が鳴り響き、内部から火の手があがる。車から飛び出して一気に署の正面玄関へ走った。
「なんだ!? 何が起こってるんだ!」
入口のそばにいた警官が慌てている。剣を出し、背後から襲いかかった。気づく前にその首を貫く。そのまま、一階のロビーに侵入した。
「動くな! 全員、手をあげろ!」
私たちの存在に気づいた警官が拳銃を構える。その場で三手にわかれた。
警官たちが銃を発砲するが、爆発の煙と炎で視界が悪いため全く命中しない。
煙をかいくぐって目の前にいた警官を斬り殺す。すると、横で別の警官が拳銃を構えているのが見えた。警官が発砲するが、それをぎりぎりのところで避けて、構えていた剣で斬り伏せた。
周りを見渡すと他の仲間も警官たちを片付けていた。しかし、こちらの仲間も何人かやられていた。
すでに一階ロビーは爆発の炎で覆われ始めている。
剣についた血を振り払って上の階へ続く階段に向かった。二階にもすでに火の手が上がっていたが、三階まで行くとまだ煙が立ち込めている程度だった。ここには他の仲間も来ていない。
警察への復讐のためにはそれぞれの課の中心人物を始末しなければならない。その使命が木出さんから直に指示を受けた自分にあると思っていた。
廊下の奥のほうへ歩くとある部屋の札が目に止まった。
『MEP特捜課課長室』
間違いなく私たちの行方を追い続けていた刑事さんが所属しているところだった。他の部屋を無視して、その部屋の前に行く。
まだここまで火は来ていない。建物から逃げようとした者たちは下の仲間が始末しているはずだった。
だとすれば、この部屋にはまだ人がいる。手にした剣を構えてドアノブに手を伸ばした。
「そこまでよ」
後ろから声が聞こえ、拳銃を構える音が響く。無意識のうちに動きを止めた。
「やっぱりアゲハにいたのね、野梨子」
その声を聞いて、驚いて顔を後ろに向ける。そこにいたのは紛れもなく私の姉だった。
「井織姉さん?」
「久しぶりね」
一瞬驚いたが、苛立ちが湧いてきた。
「どうして井織姉さんがここにいるの?」
井織姉さんは少し躊躇ったが、決意したように言った。
「私がこの特捜課のリーダーだからよ」
「特捜課の? 井織姉さんが?」
井織姉さんを睨みつける。
「どうして?」
「私はあなたを助けるために警察に入ったの。こんな馬鹿なことをする前にもっと早くあなたを止めるべきだったわ」
「私を助ける?」
この人は何を言っているんだ。助けるなら私の復讐を手伝いなさいよ。あれだけ優秀な井織姉さんならそれくらいわかるはずじゃない。なのに、なんで警察なんかに。
「私たちから全てを奪ったのは警察なのよ。私より出来の良かった井織姉さんならそれくらいわかるでしょ! どうして警察なんかにいるのよ!」
手にした剣を横に払う。井織姉さんはそれを避けて後ろに下がった。
「野梨子、私たちに警察を潰すことなんて出来ないわ! この組織は中から変えていくしかないのよ!」
「そんなのいったい何年かかると思ってるのよ! 両親を殺された私の恨みはいつ晴れるの!」
ずっと押し隠していた感情を出した。目の前にいる井織姉さんが、警察が許せなかった。
「私は警察を潰す! たとえ井織姉さんでも容赦しないわ!」
剣を振り上げる。
「やめて、野梨子!」
井織姉さんが拳銃を構えたが、私はそれにかまわず剣を振り下ろした。
12
俺たちが到着した頃には署から炎が燃え上がっていた。
建物の周囲では大勢の人々が騒いでいる。消防署に連絡を入れたり、怪我人を運ぼうと必死な人など、大混乱に陥っていた。
「酷いですね……」
「ああ」
辺りを見ているとあるものが目に止まった。
道路脇に停められている黒いバン。中西の事件で見かけたアゲハの連中が乗っていたものと同じだった。
「絢音、署の中に奴らがいるみたいだ」
「わかりました」
絢音が小さく頷く。俺は道路脇に車を停めると、拳銃を取り出して車から降りた。
「行くぞ」
「はい!」
俺と絢音は署の内部へ突入した。
署の中は想像以上に酷い状況だった。炎があらゆるものを燃やし尽くし、一階ロビーには煙が充満している。床のあちこちに焼け焦げた遺体がたくさんあったが、傷口を見ると何かで斬られたようなあとがあった。間違いなく、アゲハが襲撃をかけてきた証拠だった。
「結局、警察の人間なら無差別に殺すってわけか」
「糸井さん、ここは危険です。早く部長のところへ行きましょう」
「そうだな」
そう言って階段のほうに向かおうとすると、頭にびりっと電撃がはしった。背後から気配を感じる。
素早く後ろに振り向くと、煙の中から二人の男が飛び出してきた。その手にはどちらも刀が握られている。アゲハの刀人だった。
素早く拳銃を構えて発砲し、片方の刀人に銃弾を命中させた。だが、もう一人がその隙に刀を横に振ってくる。避ける余裕がなかった。
「糸井さん!」
すぐそばから絢音の声が聞こえ、銃声が鳴り響いた。男が刀を振るのをやめて絢音の銃弾を弾き飛ばす。それでわずかに隙ができた。
男の脇腹に思いっきり蹴りを入れる。男が後方へ飛び、燃え盛る炎の中に突っ込んだ。
断末魔の声をあげて男はあっという間に火に包みこまれた。
「糸井さん、大丈夫ですか!?」
「ああ、大丈夫だ」
どうやら襲ってきた奴らはアリナキサスを使っていなかったらしい。力を感知できていなかったらやばかった。まだ何人かの力を感じ取れるが、既に一階ロビーからは抜けているようだった。
「急ぐぞ」
「わかりました」
火の中をかいくぐり、煙でむせながら何とか階段までたどり着いた。
炎はすでに二階にまで広がっている。建物全体に火が広がるのも時間の問題だった。
階段を駆け上がり、俺たちは菅原の部屋のある廊下にたどり着いた。
「部長! いたら、返事してください!」
大声で呼びかけてみたが、全く返事が来ない。
もしかしたらもう……。
不安を抱きつつ、絢音と廊下の奥へ進んでいく。立ち込める煙の中を通り抜けると驚くべき光景を目の当たりにした。
特捜課の部屋の前で血まみれになった野梨子が立っていた。そのそばには血を流している菅原の姿が見える。菅原の体はわずかに上下していた。まだ死んではいなかったが、危険な状態だった。
「また会ったわね、刑事さん」
野梨子が感情のない口調で言う。手に握りしめた細長い剣から血が落ちている。
菅原はこいつにやられたんだ。
「まさかこんなとこで会うとはな。結局はただ人を殺すだけの殺人鬼に成り下がったってわけだ」
「殺人鬼? 最初から私たちの目的は警察を潰すことだった。木出さんの長年の望みを叶えるために、そして何より私の恨みを晴らすために必ず成し遂げてみせるわ」
野梨子はそばで倒れている菅原を見下ろした。
「なのに井織姉さんは警察の言いなりになってしまった」
「井織姉さん?」
その呼び方を聞いて、ずっと抱いていた疑問の答えが急に思い浮かんだ。
俺は野梨子という名前を知っているが、苗字を知らなかった。
「まさか、お前、自分の姉を手にかけたのか?」
「え!?」
絢音が驚いた声をあげる、野梨子は俺の質問に対して無表情に答えた。
「そうよ。私を助けるために警察になったとか言ってたけど、関係ないわ」
あっさりと言う野梨子に怒りが湧いた。
「自分の手で姉を殺して何になる? 家族の仇を討つために今まで『アゲハ』にいたんじゃないのか。お前の行動自体が矛盾してるぞ!」
俺の言葉が癪に触ったのか、野梨子はぎりっと歯をきしらせた。
「あなた達に何がわかるの? ずっと井織姉さんのことばかり見ていた両親に振り向いてもらおうと必死だったのに! それをあなた達に奪われた私の何がわかるっていうのよ!」
野梨子が剣を構えて突進してくる。反射的に銃の引き金をひいたが、野梨子はその銃弾を剣で弾き飛ばした。
「絢音、よけろ!」
絢音に叫ぶ。野梨子の剣先がすぐ目の前にまで迫っていた。咄嗟に横へ避けて再び銃弾を放つ。しかし、それは野梨子には命中しなかった。
野梨子が容赦なく斬りかかってくる。その時、絢音が銃を発砲した。
俺に意識を集中していた野梨子は油断していたのか、左肩にその弾が命中した。
「くっ!」
野梨子が初めて舌うちをする。そして血のように真っ赤になった目で絢音のほうを睨みつけた。
「絢音、逃げろ!」
野梨子を背後から止めようとしたが、剣の柄を腹部に押し込まれた。後方に吹き飛ばされ、呼吸が一時的に出来なくなる。
体に力も入らなくなった。
前を見ると、野梨子が絢音に向かって斬りかかっている。距離を詰められている状態であれをくらえばまずかった。迷っている暇はない。
目を閉じ、右手に力を込める。そうするとずっと前の記憶が蘇ってきた。
『助けてあげて。助けられるのは智彦お兄ちゃんだけだから』
歩実が最期に言った言葉が響く。
大丈夫だ、歩実。俺が助けてやる。
目を開けると右手に真っ白な刀が現れた。体に力が戻る。地面を蹴って絢音に向かって振り下ろされた野梨子の剣を刀で受け止めた。
絢音も野梨子も驚いて目を見開いている。
「あ、あなた、まさか!」
「俺はあいつを助ける。歩実の願いを叶えるために!」
力を込め、野梨子の剣を弾いた。後ろに下がる野梨子に接近する。
「くっ!」
野梨子が剣を俺に向かって突き出す。それをすんでのところで避けて、手にした刀を強引に持ちかえて、振り上げた。
切り裂いた野梨子の体から血が飛び散る。握っていた剣が消えていった。
「木出さん、申し訳ありません……」
小さな声でそう呟いて、野梨子はそのまま後ろのほうに崩れ落ちた。それを見届けて手にした刀を消した。
「糸井さん……」
絢音が聞きたいことが何かはわかっていた。
だが、それよりもやらなければいけないことがある。
「部長、しっかりしてください!」
部屋の前で倒れていた菅原のそばに駆け寄って半身を起こした。ひどい傷だったが、菅原は何とか意識を保っていた。
「糸井……野梨子は死んでしまったのね」
「すいません。ああしないと俺たちが――」
「いいのよ、糸井。あの子をあんなふうにしたのは全部私の責任だから」
菅原は野梨子の遺体を見つめながら言った。
「私は本当に不器用な女だわ、本当のことをなかなか言えず、野梨子を助けるためにやってきたことは全部無駄だった。あなたの邪魔ばかりして、稜にも迷惑をかけて、本当に駄目な女ね」
「部長、あなたは今までずっと妹のために……」
「あなたには信じられないかもしれないわね、糸井」
「いえ、信じます。たった一人の家族を助けるためにあなたは今まで頑張ってきた。稜をずっと追い続けた俺にはその苦しみや悩みがよくわかります」
俺は菅原の手を掴んだ。
「気付くことができなくてすいません」
「いいの、私の役目はもう終わったわ。糸井、今度はあなたの番よ」
菅原がそう言って何かを差し出した。それは俺が成二の病院に行く時に置いていった警察手帳だった。
「アゲハは湯田月タワーを占拠している。恐らく稜もそこに行くはずよ。彼を止められるのはあなたしかいないわ」
「部長……」
「私の最後の命令よ。稜を助けに行きなさい」
俺は菅原の差し出した警察手帳を受け取った。
「わかりました。俺……俺はあなたが上司だったことを誇りに思います」
「馬鹿ね、そういうことは普段から言っておきなさいよ……」
そう言うと、菅原は目を閉じた。握りしめていた手からも力がなくなる。
「そんな……」
絢音が口元を押さえる。
俺も辛い気持ちでいっぱいだった。菅原の表向きの態度に苛立ってばかりで彼女の本当の姿を見つけようとしなかった。
後悔がよぎるが、このままここにいるわけにはいかない。せめて彼女の最後の命令に従うためにも。
「行くぞ、絢音」
「どこへ行くんですか?」
「湯田月タワーだ。そこに『アゲハ』も、稜もいる」
13
午後一時 湯田月タワー 展望台
馬鹿な!
野梨子の刀人の力が消え、思わずその場から立ち上がった。
「どうかしたんですか、木出さん?」
そばでノートパソコンを操作していた春樹が俺のほうを見る。
「いや、何でもない」
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、ため息をついた。
野梨子を倒した刀人の力を感じ取れる。アリナキサスを使った相手ではないが、これまでに感知したことのないものだった。
少なくとも湯田月署を自由に出入りできる警察の関係者であることは間違いない。黒刀の可能性はほぼないだろう。
「……」
野梨子がやられるとは想像もしていなかった。
アゲハの中でも特に高い戦闘力を持つあいつに署の襲撃を任せて少し慢心していたかもしれない。
動揺がまだ全身に広がっていたが、何とか抑え込んだ。
署を襲撃させた連中からまだ報告はないが、署の連中を片付けたあとは周辺に集まった警官の始末をするように指示してある。
野梨子がやられても、まだこの計画が潰れたわけではない。
まだ俺たちは終わっていない。
せめて死んだあいつの望みを叶えるためにも、警察への報復は必ず成し遂げなければならない。
「木出さん」
春樹がパソコンを操作していた指を止めて呼びかける。
「どうした?」
「準備が出来ました。いつでも始められますよ」
「よし、始めるぞ」
再び椅子から立ち上がる。
展望台の中央にある大きな部屋。周囲には大型のテレビカメラやマイクなどの機材が並べられていた。
部屋にいた数人の部下が撮影場所のテーブルにカメラとマイクを向ける。
春樹が再びパソコンのキーボード操作する。
これから俺は全国の人間に問いかける。俺たちの存在、そして歪んだ正義を掲げた奴らの是非を。
部屋の周囲を見渡したあと、俺は撮影場所のテーブルに向かって歩いた。
14
同時刻 湯田月市 某所
小雨だった雨が一段と勢いを増した。
灰色の雲の中で雷が鳴り始める。まだ小さな音だったが、やがてはここまで近づいてくるものだった。
音坂稜は建物と建物の間にできた路地裏の壁にもたれていた。
傘をさしておらず、黒い雨具を着ていた。しかし、フードを被っていないため、髪が雨で濡れていた。
稜はそれを全く気にしないまま、じっとある方向だけを見つめていた。
道路の反対側の先にそびえる電波塔。湯田月タワーだった。
ただでさえ東京タワーやスカイツリーに匹敵する高さのあるタワーが 雨と風でより強調されるように見えた。
まだ警察は来ておらず、人通りも少なかった。
稜が視線をタワーの正面玄関のほうへうつす。入口の両端に二人の男が立っていた。どちらも雨具を着ているが、首筋にあげは蝶の刺青があるのを見逃さない。周辺を見渡すと別の人影が見える。
二人、三人、四人。タワーの内部にいる人数も含めるとかなりの数だった。
それでも稜はその場から逃げようとしなかった。周辺を見渡した後に右手を少し持ち上げる。
手に握った黒の刀をじっと見つめた。刀の柄から伸びた黒い鎧のようなものが右手を覆い尽くしている。その鎧は手だけでなく、右肩にまで届いていた。
相手が何人いても今の彼には関係がなかった。邪魔する者が誰であれ、斬り殺せばいい。そして、必ず木出の元にたどり着く。
稜が刀から視線を外す。刀を握っていた手の力を更に強くする。すると、右肩まで覆っていた鎧がさらに上へ伸びていった。
「歩実……」
雨具のフードを頭から被る。刀を構えて稜は路地裏から出た。
15
燃え上がる署を後にし、俺は湯田月タワーに向かって車を走らせていた。その途中で何台もの救急車やパトカーとすれ違う。
道の途中で大破したパトカーや倒れた警官の姿を何度か見かけた。町の至るところで人々が逃げ惑っている。車のラジオをつけるとすでに湯田月市の騒動がニュースとなって放送されていた。
「こんなこと今までなかったのに……」
助手席に座っていた絢音が外の様子を見ながら言った。
「連中は警察を集中的に狙っているみたいだな」
「彼らは本当にこんなことを望んでいたんですか?」
「わからない。だが、警察への報復としてはずいぶん豪快な手段だな。事態が悪化したら自衛隊が来るかもしれないぞ。そうなったらもうこれは事件なんかじゃない。戦争だ」
その時、ラジオに突然雑音が入り、ニュースが聞けなくなった。
「故障か?」
「糸井さん、あれを見てください」
絢音の指差した方向を見ると、道路の角のビルに設置された巨大なテレビが磁気嵐になっていた。周囲にいた人々も騒ぎ始めている。
車を道路脇に停めて周囲を見渡した。
「どうなってるんだ……」
『俺たちの名はアゲハ。警察の壊滅を目的としている組織だ』
その時、ラジオから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「この声は……木出拓馬ですか」
「そうみたいだな」
角のビルに設置された巨大なテレビに木出の姿が映る。おそらく湯田月タワーの展望台の部屋だった。
どうして奴らが湯田月タワーを占拠したのか、ようやくわかった気がした。
湯田月タワーは湯田月市を含む周辺の町の電波塔の役割を持っている。テレビやラジオなどの放送はこのタワーを経由しているため、ここを占拠すれば自分たちで好きな放送を流すことができるはずだった。
当然それは容易なことではない。だが、アゲハの幹部の一人が警察のネットワークにハッキングをかけるほどの腕前を持つと中西から聞いていた。
井ノ坂春樹。あの男ならこんな芸当が出来ても不思議ではなかった。
やがてラジオやテレビを通じて木出が話し始めた。
『全ての人間に問う。お前たちは日本の警察を初めとした国家機関の歪んだ実態を知っているか? 奴らは罪のない人間たちに濡れ衣を着せ、本人だけでなくその関係者にまで苦しみを与えてきた連中だ。奴らはそれらの過ちをもみ消して自分たちの歪んだ正義を全うしてきている。奴らに『言葉』は必要ない。俺たち『アゲハ』は理不尽な目にあった人々のために『力』で警察への報復を行う。そのために犠牲者が出るかもしれない。俺たちを憎んでくれても、非難してくれてもかまわない。だが、今一度考えてほしい。このまま奴らのせいで不幸な目にあった人々を放っておいていいのか、そしてこれからも同じ目にあう者たちを出していいのかを』
木出の言葉が終わったのと同時にぷつりと途切れ、何事もなかったかのようにさっきのニュースに戻った。テレビも元の画面に戻っている。すぐに今の木出の放送についての情報が流れ始めた。
「犯行声明のつもりか。もう始めてるくせに」
「今の全国に流れたのでしょうか?」
「間違いなく流れただろうな。大半の人間は冗談か、やらせだとおもっているかもしれないが、奴は本気だ」
アリナキサスで戦力を強め、警察への報復と同時に犯行声明か。単純といえば単純だが、前代未聞の犯行だった。
「絢音、飛ばすぞ」
「はい」
俺は再び車を出して湯田月タワーへ向かった。
16
湯田月タワー 展望台
「大丈夫です。ちゃんと放送されました」
「ふう、無意識とはいえ、緊張するものだな」
大きく息をついて椅子に座った。
「大半の人間はでまかせだと思ってるかもしれませんが、すぐに真実だとわかるでしょ」
春樹がノートパソコンを閉じてガムを噛み始めた。
「俺でも最初、木出さんがこんなことをしているなんて信じていなかったですよ。でも、こうするしか奴らの歪みを変えることはできない。よく考えたらそのことがわかりました」
「考えるのもめんどくさかったんじゃないのか?」
「いくら面倒くさがりな俺でもそれぐらいの覚悟はありますよ」
ガムを捨てて、春樹は青い髪をかいた。
「木出さん、野梨子がやられたとさっき連絡がありました」
「ああ、そうだな」
「知ってたんですか?」
「誰にやられたのかはわからないがな」
「俺より先にやられるなんて、最後まで侮れない女だったな……」
春樹は軽く笑ってそうつぶやいた。その時、不意に耳につけた通信機から雑音が入る。
この通信機はタワーの周囲の見張りをしているグループと一階ロビーに待機しているグループと連絡を取るために使っているものだった。
普段は雑音が入るとどちらかのグループから報告が来る。数十分前の連絡もそうだった。
だが、通信機からは雑音が続くだけで何も聞こえてこない。春樹のほうを見ると、険しい顔で通信機を耳にあてていた。
「何かあったのか?」
『木出さん……』
呼びかけると、雑音の中で誰かのかすれた声が聞こえてくる。
『奴がすぐ近くに……』
再び雑音が入る。そのあとに叫び声のような音が聞こえた。
「おい、応答しろ!」
通信機に向かって叫んだが、反応はなかった。雑音が続き、別の見張りから報告が入る。
『こちら一階ロビー、外を見張っていた五人から連絡が途絶えました』
ロビーに待機していた仲間の報告が聞こえる。
「全員外に出るな。警戒しろ」
そう指示を出すと、春樹が頭をぽりぽり掻いて通信機から耳を離した。
「木出さん、まさか奴が……」
「ああ、そうらしいな」
「俺は一階の仲間と合流します。木出さんはここにいてください」
「春樹、見張りの五人はアリナキサスを使った連中だ。そいつらがやられた。どういう意味かわかるな?」
「ええ、わかっていますよ」
春樹が部屋の奥にあるエレベーターに乗り込む。
それを見届けたあと、再び椅子に深く座った。
不安や恐怖など微塵もない。奴と出会ってからその力が変わっているのがわかる。
早く来い。俺はここにいるぞ。
こみあげてくる興奮と喜びを感じながらまたにやりと笑った。
17
勢いを増した雨と共に雷が鳴り始めた。
俺はタワーの一階ロビーに到着してそこにいた仲間と合流した。
改めて確認したが、本当に周りを見張っていた連中は全員殺されたらしい。言葉が出なかった。いくら相手が奴であるとはいえ、アリナキサスで強化した刀人相手にかなうはずがない。
それなのに奴は味方を皆殺しにしたというのか。偶然に決まっている。そんなことはありえない。
「ロビーにいる人数は?」
「十人はいると思います」
仲間の答えに余裕が生まれる。そうだ。相手が誰だろうと十人の刀人相手に勝てるわけがない。やはりさっきのは偶然……。
『西側から奴が侵入しました。一人やられています!』
仲間の焦った声が通信機から聞こえてくる。すぐに周りにいた仲間とロビーの西側へ向かった。
ロビー内部は明かりがついていないため薄暗くなっている。おまけに雨が降っているためどこから奴が来るのか予想しづらい。一人ずつ確実に仕留めていくつもりか。
『や、やめてくれ……ぎゃああああ!』
雑音に混じって仲間の悲鳴が聞こえてくる。足を早めてロビーの西側へ向かうが一階はかなり広く、移動には時間がかかる。その間にも通信機から何人かの仲間の悲鳴や叫び声が聞こえてきた。ついてきた仲間も顔色が変わっていく。
ようやく西側にたどり着いた。見ると、ロビーの周りを覆っている壁の一部が破壊されている。そこから中へ血のあとが続いていた。あちこちにさっきの仲間の死体がいくつか転がっている。
「奴はどこだ?」
辺りを見回すがどこにもいない。他の仲間も探しているが、誰一人奴を見つけることができなかった。
木出さんのいる展望台へ行くにはエレベーターを使うしかない。そこには別の仲間が見張っているため、すぐに報告がくるようにしてある。自分たちをやり過ごすことは出来ないはずだった。
奴は必ず襲ってくる。仲間と円形の陣を組んで、周りを再び見回した。
「井ノ坂さん、やつはどこにもいませんよ」
「いや、絶対にいる。見張りがやられてるんだぞ」
「そうですけど……」
「探せ。このロビーのどこかに――」
頭に何か冷たいものがあたって言うのをやめた。手で触れると水であることがわかった。
変だ。どうしてロビーにいるのに水なんか……。
背筋に寒気がする。それが雨水であるとわかった瞬間、天井から気配を感じた。
「みんな散れ!」
俺が叫んだのとほぼ同時に天井にぶら下がっていた黒刀が飛び降りてきた。味方が四方へ散っていく。だが、その中で仲間の一人が反応するのに遅れた。黒刀が手にした刀でその仲間を斬りふせる。
「くそっ、囲め! 囲め!」
仲間に指示を出して地面に降り立った黒刀を取り囲んだ。全員が刀人の力を使う。
味方の一人を殺した黒刀がゆっくりと立ち上がる。真っ黒な雨具を頭から被っているため、どんな表情をしているのかわからない。
だが、連れてきた仲間は六人いる。いくら黒刀といえ、この状況は不利に違いない。
「ここまでだな、黒刀。木出さんの元へは行かせないぜ」
黒刀は何も言わずに立ち尽くしていたが、わずかに顔をあげて俺のほうを見た。
そこで以前にはなかった異様な雰囲気にようやく気付いた。どこからともなく強い風が吹く。黒刀の被っていたフードがその風でめくれる。
一瞬、黒刀の顔の半分が黒い鎧に覆われているのが見えた。
「お前、それは――」
言い終わる前に黒刀の姿が風のように消えた。
「どこにいった!?」
周りを見回していると、背後から悲鳴が聞こえた。後ろに振り返ると、二人の仲間が肩や脇腹から大量の血を噴き出して倒れていった。そのそばを黒刀が通り過ぎて行くのが一瞬見える。
「なんだ!?」
周りにいた仲間が動揺する。混乱しているうちにまた味方の一人が黒刀に斬られる。その動きがあまりに早すぎて目で追いきれなかった。素早く目を動かすと別の仲間の背後に黒刀が現れる。
「後ろだ! 気を付けろ!」
俺の声に反応して、仲間がその場から離れようとしたが、その時にはもう胸のあたりから黒い刀が突き出ていた。
早すぎる。目で追いきれない。
すぐそばで風を切る音が聞こえる。別の味方が動揺して刀を振り回したが、一瞬で肩口から斬り裂かれた。
全てがあっという間のできごとで何もできなかった。連れてきた仲間が全員黒刀にやられてしまった。
ありえない。一緒にいた仲間は全員アリナキサスで強化していた。それなのに圧倒的だった。
前方にフードを取った黒刀が現れる。顔の右半分を覆っていた黒い鎧が右腕全体に侵食し、握りしめた黒い刀にまで繋がっていた。
「刀人の力と一体になっているのか……」
黒刀が木出さんと再会した時のことを思い出す。冷静だった奴はずっと押し隠していた感情を露わにしていた。
それが引き金になって刀人の力に支配され始めたというのか。
そうとしか思えない。それがアリナキサスを超えるほどの力を……。
黒刀が刀を構える音が聞こえ、反射的に身構える。風を切る音が聞こえ、気づけば頭の横で刀の振る音が鳴った。槍を前に出してそれを防ぐ。わずか数秒の間、黒刀と目が合う。奴の目は血のように赤くなっていた。
「一人残らず殺す……」
黒刀が小声でつぶやく。黒刀の姿が目の前で消える。次の瞬間には懐に入られ、刀の先端が顎にせまる。これを受けたらまずい。咄嗟に横へ避けた。
血しぶきが宙に舞い、周囲の床に飛び散った。
「くっ……」
黒刀が一旦後ろへ下がる。
右目を押さえてその場にひざまずいた。顎を斬られていたら危なかったが
何とか避けることができた。だが、その代わりに右目を斬られた。おそらく失明している。額のあたりまで斬られたようで血が流れてくる。
黒刀の姿をとらえているが、利き目をやられ、額から流れた血が目に染みて視界も悪かった。
槍を両手で持って構える。まともに戦える状態とは言えなかったが、それでも逃げ出すつもりはなかった。こいつを木出さんのところに行かせるわけにはいかない。せめて傷一つでもつけないと役たたずのまま死ぬことになる。
面倒くさいが、それだけはなぜか嫌だった。
黒刀が迫ってくる。俺は再び槍を構えてそれを迎え撃った。
18
展望台にある部屋で俺は数人の部下と共に待機していた。春樹が下の階に向かってしばらく経つが、戻ってくるどころか通信機からも連絡が全く来なかった。
一階ロビーには十人近くの部下が待機しているはずだった。アリナキサスで強化した奴も半数が占めている。
そう簡単に倒されるはずがない。しかし、頭の中ではどうしても拭い切れない予感があった。
全滅。その予感がだんだん強くなっていく。
普通は動揺するところかもしれないが、むしろ興奮していた。
面白い。ここに来て奴の力が強くなっている。しかも、この前とは比べものにならないくらいに。
復讐の目的である俺と再会したことで奴が無意識に抑え込んでいたものを一気に放出したのだろう。その力はアリナキサスを超えるほどの力なのかもしれない。
早く来い。俺はここにいるぞ。
そう思ってる自分はどうかしているような気がした。
「誰か来ます!」
そばにいた部下が大声をあげる。エレベーターのほうを見ると、一階についていたランプが消え、一気に上の階へと上がっていった。
展望台にいた味方がエレベーターの入り口で待ち構える。俺は椅子に座ったまま、その様子を見ていた。エレベーターが展望台の階へ近づいてくる。空気が重くなり、緊張がはしってきた。
エレベーターが静かに展望台の階に止まった。強い何かの匂いが鼻につく。
すぐにそれが血の匂いだとわかった。しかし、エレベーターの扉が開いた瞬間、味方が全員刀を構えるのをやめた。俺も思わず椅子から立ち上がろうとした。
「木出さん……」
春樹がエレベーターから出てきた。体中の至る所に斬り傷があり、その傷から流れ出た血で全身が赤く濡れていた。右目をまっすぐに斬られ、足にも怪我を負っているのか、動きがぎこちなかった。
「何があった、春樹」
「木出さん、早く……逃げてください……」
春樹の声は小さくかすれていた。
「すぐに奴が来ます……。今のあいつと戦ったら駄目です」
「どういう意味だ?」
「奴は――」
春樹が何かを言いかけたが、もう一つのエレベーターのランプが点滅した。いつの間にか、展望台の階のすぐ下まで来ている。その場にいた数人の部下が再び身構える。春樹も壁にもたれながら何とか槍を手にして立ち上がる。
エレベーターが展望台の階に到着する。その扉がゆっくりと開いた。部屋の中に緊張がはしる。
しかし、エレベーターの中には誰もいなかった。仲間の一人がエレベーターの中を見るが、右手を挙げて誰もいないことをほかの仲間に伝えた。
部下たちが構えをとく。だが、俺だけはにやりと笑った。
「また会ったな、黒刀」
ゆっくりと天井を見上げる。ほかの部下も異変を感じて俺と同じところを見た。
入り組んだ鉄骨の一つに黒刀が立っていた。刀を握り締めた右手から顔の半分までを黒い鎧が覆い尽くしている。体に返り血を浴びていたが、全く気にかけずに俺を見下ろしていた。それに対して笑みを浮かべて応える。
黒刀がその場から消える。一瞬で目の前に現れ、手にした黒い刀を振ってきた。
鈍い金属音が鳴る。俺のすぐ前に現れた春樹が槍で黒刀の攻撃を防いだ。
「逃げてください、木出さん!」
春樹が大声をあげる。俺は素早く部屋を出てタワーの屋上へ続く階段に向かった。
階段を上がっている途中で叫び声が聞こえる。
思った通りだ。奴は春樹たちを圧倒している。
また笑みが浮かぶ。面白い。もっとその力を引き出して俺の前に来い。
19
勢いを増していた雨はぴったりと止んだ。木出の犯行声明から一時間後、俺はようやく湯田月タワーにたどり着いた。近くで見るとやはり大きい。さすが東京タワーやスカイツリーに匹敵する高さはある。この町に来てから何度も見ているが、実際にここまで近づいたのは初めてだった。
本当に稜がここにいるのか。
一瞬そう思ったが、タワーの周囲を見て息を飲んだ。刀人の遺体がいくつも転がっている。体から流れ出た血が雨水に混じって周囲へ流れていた。
「もう始まっているみたいだな。急ぐぞ!」
「わかりました」
俺は車をタワーの入口まで回そうとした。だが、その直前に上のほうから大きな爆発音が聞こえてくる。見上げると展望台の一部が崩れてその破片が落下してきた。
「絢音、逃げろ!」
そう言ったが、返事を聞いている余裕もなかった。
素早く車のドアを開けて外へ飛び出す。それとほぼ同時にタワーの破片が大きな音をたてて車に落下した。
落下の衝撃は凄かったが、何とか無傷で済んだ。車のほうを見ると、前座席のあたりに破片が落下している
「絢音、大丈夫か!」
「大丈夫です……」
大声で叫ぶと、小さな声が聞こえてきた。見ると車の横に絢音が倒れていた。何とか車の外に出たみたいだが、破片の一部が足に刺さっていた。
「しっかりしろ、絢音」
その傷を確認してからもう一度絢音に呼びかける。絢音は何とか目を開けて「糸井さんは大丈夫ですか……?」と言った。こんな時でも他人の心配をするなんて相変わらずだなと思った
「俺は大丈夫だ。それよりこの傷じゃ、動けないな」
絢音の腕を自分の肩に回して立ち上がった。
タワーのそばにある建物の壁に絢音をもたれさせる。携帯で救急車に来てもらうように連絡をいれた。
「お前は足の怪我を治してもらえ。あとは俺がやる」
「糸井さん、しかし――」
「大丈夫、死にはしないよ」
絢音に笑みを浮かべて安心させ、タワーのほうへ向かおうとした。すると、絢音が手を伸ばして俺の腕を掴んだ。
「絶対に死んだらだめですよ、糸井さん。必ず戻ってきてくださいよ!」
絢音の腕を掴む力が強くなる。
これが最後になるかもしれない。だからこそ、自分の気持ちを言ったほうがいいのかと思った。でも、それは全てが終わってからだ。
「心配するな。必ず戻るよ」
絢音の頭に手を置いて優しく撫でる。絢音は泣きそうになるのを必死にこらえていた。
俺は絢音から手を離し、湯田月タワーへ向かった。タワーの中に入り、そこで見た光景に絶句する。
ロビーに切り刻まれた死体があった。それも一つや二つではない。何人もの血まみれの遺体が横たわっている。一階には血の匂いが充満していた。遺体の一つを見ると、首筋にアゲハ蝶の刺青があった。ここで派手な戦いがあったらしい。
その中で横に伸びた血の筋を見つけた。それは入り口からエレベーターのほうへ続いている。
誰かが上に向かったらしい。稜なのか、それとも……。
どちらにしても一刻も早く稜に会う必要がある。俺は走って展望台へ続くエレベーターに向かった。
20
湯田月タワー 屋上
タワーの屋上は周囲を覆う無数の鉄骨がむき出しになっていた。俺はその鉄骨の一つに座って展望台につながる階段を見ていた。感知した刀人の力からしてどうやら仲間は全員倒されたらしい。恐らく春樹も殺されただろう。
署の襲撃をまかせた連中がここへ戻ってくるには時間がかかる。このタワー内部にいるアゲハのメンバーで生き残っているのは、もう俺だけになっていた。
「くく、これじゃ計画が台無しだな」
軽く笑った。風が吹いて血の匂いを感じ取り、再び階段のほうを見る。階段の影から全身に返り血を浴びた黒刀が姿を現した。
黒刀はゆっくりと周囲を見回して鉄骨に座っている俺を見つけた。だが、奴はその場から動かずに俺を睨みつけている。
「よくここまで来たな、黒刀。その執念は褒めてやる。だが、刀人の力を使い続ければ、自分自身の命を削ることになるのは知っているよな? ここまで来るのにお前はもう限界に達しているはずだ」
鉄骨から飛び降りて地面に着地する。
「それにお前のその姿、刀人の力に侵食されている証拠だ。一時的に強力な力を手に入れることができるが、その代償は大きい。肉体に相当な負担をかけているはずだ」」
「それがどうした?」
ようやく黒刀が口を開く。思ったよりはっきりとした声だった。
「お前にもう逃げ場はない。他の奴らと同じように殺してやる」
「はは、動揺を誘っているつもりか? くだらない。早く来いよ。お前の家族を殺した俺を殺してみろよ」
黒刀の顔が一瞬歪む。その直後に刀を構えて地面を蹴り、俺との距離を詰めてきた刀を振ってくる。右手に剣を出してその攻撃を防いだ。攻撃は重いが余裕で対処できる。
押し返すと黒刀が後ろによろけた。やはりここまで来るのに相当しぼられたらしい。
今度は俺から黒刀との距離を詰めて剣を振り下ろす。黒刀がそれを防いだが、その隙をついて回し蹴りを入れた。思いっきり振り抜くと黒刀の骨がきしる音が聞こえる。そのまま、後ろへ吹き飛んだ。
「どうした? 俺への憎しみはそんなものなのか? 興ざめだな」
「黙れ」
黒刀は素早く体勢をたてなおして再び近づいてくる。刀を横に振ってくるのを予想して身をかがめた。黒い刀が頭上を通り過ぎる。だが、そのあとにわずかに隙ができた。今度は黒刀の懐に拳を叩き込む。確実に急所に入る一撃だった。黒刀は後方へ大きく飛び、鉄骨の一つに激突した。その拍子に組み合わさっていた鉄骨が次々と黒刀の上に落ちていく。
「本当に興ざめだ。そこでくたばれよ」
そう言った直後、今まで感じたことのないような寒気が全身にはしった。笑うのを無意識のうちにやめる。
「殺す」
山積みになった鉄骨が崩れていく。
「殺してやる」
崩れた鉄骨の中から血を流した黒刀が現れた。
「お前だけは俺の手で殺す!」
黒刀が絶叫した瞬間、黒い鎧が顔のほとんどを覆った。目が血のように真っ赤になる。
ここに来て更に刀人の力に支配されたというのか……。
何も言えずにいると、黒刀が地面を蹴った。さっきとは比べものにならないほど速い。一瞬で懐に入られる。剣を振り下ろしたが、黒刀はそれを避けて刀を振り上げた。
大量の血を噴き出す、気付けば俺の左腕が宙に浮いていた。
「貴様ああ!」
右手に握りしめた剣を振るが、それもかわされる。
「うおおおお!」
黒刀が大声をあげながら刀を突き出す。避けるまもなく、右肩に突き刺された。激痛がはしり、そのまま地面に叩きつけられた。
「ぐっ!」
刀の先端が体の奥深くまで入ってくる。剣を離して、右手でそれを止めようとしたが出来なかった。
「苦しいか? 苦しいだろ? だが、歩実が受けた苦しみはこんなものじゃない。簡単に死なせないぞ」
黒刀が刀を引き抜く。肩と斬られた左腕から大量の血が流れ出た。
痛みが酷くて全く動けない。黒刀が再び刀を振り上げる。その表情は笑っているように見えた。
「苦しんで死ね」
黒刀が刀を再び刺そうとする。だが、聞こえてきたのは体に刀を刺された音ではなく、鈍い金属音だった。
「そこまでだ、稜」
聞き覚えのある声だった。間違いない、あの特捜課の刑事だった。
21
顔のほとんどが黒い鎧に覆われていたが、目の前にいるのが稜だと確信していた。
稜に斬られた木出はもう動ける状態じゃない。その木出にとどめを刺そうとする稜を止めるために、俺は再び刀人の力を使った。
「智彦か……」
稜が口のあたりから血を流しながら俺を睨む。
「俺の邪魔をするなと言ったはずだ」
「ああ、そうだな。だが、邪魔させてもらう。お前を助けるためにも」
「助ける? そんなもの必要ない!」
稜が俺から刀を離して木出に向かって振り下ろす。素早く木出の体を抱えてその場から離れた。
屋上の床の一部が大きな音をあげて崩れた。木出を抱えている状態であの一撃を食らったらひとたまりもない。
ひとまずここから稜を離す必要があった。木出をその場に下ろす。
稜が刀を構えて斬りかかってくる。それを受け止めて踏みとどまり、力を込めて押し返した。
俺と稜は屋上を覆う鉄骨の合間をくぐり抜けて外に飛び出した。途中で稜に突き放され、タワーの周りに突き出ている鉄骨に着地する。十数メートル先にある鉄骨に稜も足をつける。
「なぜ邪魔をする、智彦? あいつさえ殺せば、全てが終わるんだぞ!」
「だめだ。この十三年、お前が刀人の力に支配されることなく、意識を保つことができたのは木出を殺すという目的があったからだ。その目的を果たせば今度こそお前は刀人の力に完全に支配される。お前の意識は二度と戻らなくなる」
「だからどうした? 奴さえ殺せばあとはどうなろうと知ったことじゃない。あいつの体をばらばらに切り刻んで歩実たちの苦しみを与えてやる! それが歩実の望んだ願いだ」
「いいや、それは歩実の本当の願いなんかじゃない」
「なに?」
「俺はこの刀でお前を救う。歩実の最後の願いを叶えるためにも」
「でたらめを言うなああ!」
大声をあげて稜が黒い刀で斬りかかってきた。刀を構えて稜の振り下ろしてくる刀を受け止める。その攻撃が智彦の体に重たく響いた。その衝撃でタワーの一部が崩れ落ちる。
何度目かの斬り合いでついに足場にしていた鉄骨が崩れた。落下している最中、体のバランスを保とうとするが、風圧が凄まじく目を開けることも難しかった。何とか目を開けると目の前に突き出た鉄骨が見えた。とっさに刀を振ってその鉄骨を斬る。他の鉄骨をうまく避けながらどうにか地面に着地した。稜のほうも真正面に降り立ってくる。
さっきの斬り合いで二、三度稜の攻撃が自分の体をかすった。そこから血が流れ始める。
「ぐっ!」
だが、稜のほうは口から大量の血を吐き出した。倒れようとする体を支えるために地面に刀を突き刺す。ここまで休む間もなく続いた連戦で稜の体はとっくに限界を超えているはずだった。
「やめろ、稜! これ以上戦えば本当に死ぬぞ!」
「お前に俺の何がわかる?」
稜が地面から刀を引き抜く。その目が怒りで赤く充血しているのがわかった。
「お前に俺の何がわかるんだ!?」
「わかる! お前がどれだけ苦しんで、悲しんだか。この十三年、お前を追い続けた俺だからわかる!」
俺は手にした白い刀を前に出した。
「だから俺は歩実にこの刀を託された!」
稜の動きがぴたりと止まった。
「歩実に?」
「お前が家族を失ったあの夜、歩実は重傷だったが、生きていた。その歩実にお前を助けるように頼まれたんだ。それがあいつの最後の願いだ!」
「歩実が生きていた? 嘘を言うな、歩実はあの時、俺の手の中で死んだんだ! あの男になぶり殺しにされて死んだんだ!」
稜がまた大声を叫んで突っ込んでくる。刀を構えて稜の攻撃を受け止めた。
「わからないのか、稜! この刀から歩実の思いが伝わるだろ!」
「黙れええ!」
稜が刀を横に振り抜く。その勢いに圧倒されて後ろへ吹き飛ばされた。地面に叩きつけられて体中に痛みがはしる。
「くっ」
痛みに耐えて何とか立ち上がって稜のほうを見る。
「がはっ!」
稜がまた口を押さえて大量の血を吐いた。早く終わらせないと本当にまずい。
『お兄ちゃんを助けてあげて。助けてあげられるのは智彦お兄ちゃんだけだから』
「ああ。今、助けるよ、歩実」
刀を握りしめて立ち上がる。
「稜」
そう呼びかけると稜は口についた血を拭って俺を睨みつけてきた。
「もう終わりにしよう」
刀を後ろに構えて地面を蹴る。稜も黒い刀を向けて突進してくる。お互いに立ち止まることはない。俺たちは真正面から激突した。
22
俺にはこうするしか道がなかった。母さんと歩実をあの男に殺されて、何もかも失った俺にはもう生きる力は残っていない。
この刀の力を手にしたのは歩実たちの仇を討つためだと信じていた。だから、奴らを殺した。何人も何人もこの手で殺してきた。それしか道を知らなかったからだ。
その道が間違いだと言うのなら、俺はどうすれば良かったんだ。
わかるなら誰か教えてくれ。俺はいったい何のために生きていけば良かった。
教えてくれ……。誰か……。
「生きてお兄ちゃん」
懐かしい声が聞こえてきた。
「歩実?」
「私の分まで精一杯生きて。それだけで歩実は嬉しいの。だから、お願いね」
「歩実、俺は――」
それまで真っ暗だった場所から一気に光が広がる。
何かが砕ける音が聞こえてくる。
最初に目に映ったのは自分の左手だった。その手のひらに黒い何かの欠片が乗っているのが見える。顔を覆っていた鎧だとすぐにわかった。体中を覆っていた鎧が剥がれ落ちていく。
ぼんやりとした視界がだんだんはっきりしてきた。
「俺は……」
「目が覚めたのか、稜……」
すぐそばから智彦の声が聞こえてきた。智彦が俺の体を支えているのがわかった。
「ったく……世話を焼かせるな、お前は……」
智彦の口から血が流れているのが見えて、下に顔を向ける。右手に握っていた刀が智彦を貫いていることがわかった。
「稜、俺たち親友だよな……」
智彦がかすれていく声でそう聞いた。目から自然と涙が流れていく。
俺には智彦以外に親友なんていなかった。自分のことをわかっていてくれて、助けてくれる人は家族以外に智彦しかいなった。だからはっきりと言える。
「ああ、もちろん。俺たちは親友だ」
黒の刀が煙のように消え、智彦が横に倒れていく。その表情は最後まで笑っていた。智彦が地面に倒れる音が聞こえる。
呆然と空を見上げる。いつの間にか空を覆っていた灰色の雲の間から太陽が現れていた。その光がとても心地よかった。
「歩実……」
そう呼びかけると、また歩実の声が聞こえてきたような気がした。
23
2014年2月9日
今日の天気は快晴だった。
湯田月の町のはずれの小高い丘。私はそこにある墓地に来ていた。
今日でようやく怪我の治療を終え、特捜課の勤務に復帰することになる。
あの大事件で湯田月署は全焼してしまい、私は隣町の署からこの町の事件の捜査していた。
でも一ヶ月経てば、仮設の署が作られる予定がたっている。しばらく続く交通の不便は何とか我慢できると思う。
こうしていくうちにあの事件は遠い過去になっていき、人々の記憶からも忘れ去られていくのだろう。
そう思うと何だか胸が痛かった。
事件の首謀者である木出拓馬は重傷を負っていたが、一命を取り留め、警察に逮捕された。病院での治療が終わり次第、刑務所で処罰を受けることになる。
他のアゲハの構成員は行方不明か遺体となって発見された。警察への報復を企んだ『アゲハ』の末路はひどく悲しいものになった。
黒刀と呼ばれていた音坂稜の生死はわかっていない。現在も捜索が行われているが手がかりは掴めていない状態だった。
そして今日、私はあの事件で命を落とした上司の墓参りに来ていた。
糸井智彦。特捜課の刑事で私の上司であり、尊敬していた人。
あの時、彼の身に何が起き、どういった経緯で死んでしまったのか、はたして彼は音坂稜を救うことが出来たのか、何もかもわからなかった。
墓地の中をしばらく進むと糸井さんのお墓があった。彼のお墓の前に花を飾り、お香を立てる。手を合わせて目を閉じた。
糸井さんと事件の捜査をして約一年。短い間だったけど、私にとってかけがえのない一年だった。もっと糸井さんの部下として刑事の役目を果たしたかった。それが二度と出来ないと思うと涙が溢れてきた。
「ん、吉丘か?」
その時、そばから声が聞こえてきた。見ると、黒いスーツに身を包んだ中西さんが立っていた。
「中西さん、来てくれたんですか?」
「ああ、必死に頼んで今日だけ釈放してくれた。まあ、警官二人の付き添いっていう条件付きだが」
そう言って中西さんは呆れるようにため息をついて後ろを見た。墓地のそばにある道路の脇に一台のパトカーがあり、そのそばに二人の警察官が立っていた。
中西さんは手にした花を糸井さんの墓のそばに置いて、目を閉じた。しばらくして目を開けてゆっくりと立ち上がる。
「糸井、せめて一度くらいはお前と飲みに行きたかったな……」
中西さんは一言そう口にして糸井さんのお墓を見下ろした。私は涙をこらえながら彼に聞いた。
「中西さん、どうして糸井さんが死ななければいけなかったのでしょうか……。結局、黒刀の行方はわからないままで……。糸井さんが十三年間やってきたことが報われたのかどうかわかりません。本当に彼が死んでしまった意味があったんでしょうか?」
「さあな、俺にもわからない」
中西さんはすぐにそう答えた。
「でも、糸井はやるべきことをやったはずだ。自分にしか出来ないことを成し遂げて、それに満足して死んだはずだ。そうでないなら遺体で発見されたときに笑顔のままで死ぬはずないだろ」
「自分のやるべきことをやって……」
「ああ、本当かどうかはわからないけどな。でも、俺はそうだと思うぞ。俺たちがこうやって生きているのもこれからやるべきことが残っているからだろう」
私のほうに振り返ると、中西さんは笑顔を見せてくれた。
「じゃあな。元気でやれよ」
「中西さんは大丈夫なんですか?」
「俺は大丈夫だ。雄二が今日も会いに来てくれるって言ってるからな。何とかやっていくよ」
そう言って中西さんは手をあげてパトカーのほうへ歩いて行った。
私はもう一度、糸井さんのお墓を見つめた。
「糸井さん、私はあなたの分までこれからも生きていきます。MEP特捜課の刑事として。あなたのことは一生忘れません」
糸井さんのお墓に向かって敬礼し、私はその場をあとにした。
完