表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒刀  作者: かとぶ
5/10

第四章 悲劇

 第四章 悲劇


 1

 

 2013年12月9日 午前八時


 湯田月祭が終わったあと、休日を過ごしたあたし――結城沙耶(ゆうきさや)は雄二と学校に向かっていた。

 土曜日に湯田月祭が行われたため、代休があっても良いと思っていたけど、残念ながらこの学校にはそういう制度はなかったみたい。

 普通なら、休みが減って嫌がるところだけど、今回はむしろ代休がなかったことに感謝していた。

 理由は里菜に湯田月祭での感想を早く聞きたかったことがある。斎藤先生とは結局どうなったのか、それが知りたかった。電話やメールで聞きたかったけど、こういう大事なことは直接聞いたほうが良いと思った。

「どうなったのかな、里菜」

「さあな」

 雄二は面白くなさそうにそう言った。

 湯田月祭の時、雄二と店を回っている時に偶然、二人を見かけた。その時の様子は本当に恋人同士のような感じで、かなり雰囲気が良かった。

 これで雄二が里菜のことをあきらめてくれたから、あたしのことを見てくれるかもしれない。

 まだ、可能性がないわけではなかった。

「よし、頑張るぞ!」

「何を頑張るんだよ?」

「色々頑張るのよ!」

「なんだそれ?」

 雄二は苦笑いを浮かべて再び前に向かって歩き始めた。

 全部雄二のためだよ……雄二のために頑張ったの。

 彼の背中に向かってそう言いたかったが、何とか我慢して、あたしは学校の校門をくぐり抜けた。


 2


 午前八時三十分


 昨日は全く眠れなかった。布団に潜り込み、しっかり目を閉じても、あの夜のことを思い出してしまう。

 一昨日の夜、先生が人を殺した。その光景を見たわたしは一目散に自分の家に帰った。目を閉じるとあの時の光景が蘇ってくる。だからこの二日間、十分に睡眠を取ることができないまま、学校に来ていた。

 朝からずっと同じことを考えている。

 わからない。意味がわからない。どうして先生があんなことを。優しい先生だと信じていたのにどうして……。

「里菜? 里菜ってば」

 わからない。わからないわからないわからないわからないわからない。

 先生が誰なのか、わたしにはわからない。

「里菜!」

 そばからずっと呼び掛けられていたことに、ようやく気付いた。沙耶が顔をしかめてこちらを見ている。

「さ、沙耶?」

「もう、さっきから何ぼうっとしてるのよ?」

「ごめん、ちょっと考え事してたの」

「へえ、もしかしてこの前のこと?」

「え?」

「もう、とぼけちゃって。斎藤先生のことに決まってるじゃん」

 わたしは言葉を失った。あの時のことを思い出し、声を出すことが出来なかった。

「里菜?」

「あ、ご、ごめん……」

「本当に大丈夫?  顔色悪いよ」

「大丈夫。平気だよ」

「それでどうだったの?」

 なおも沙耶は先生のことを聞いてきた。

 沙耶は本当の先生を知らないんだ。昨日の夜のことを話せば、もしかしたら……。

「沙耶」

「ん?」

「実はね――」

「おーい、授業始めるぞお!」

 その声が聞こえた瞬間、何も喋ることが出来なくなった。教室の扉が開かれる音が響く。

「!」

 わたしは扉のほうを見た。

 斎藤先生だった。いつも学校で見る優しくて明るい斎藤先生だった。でも違う。あれは斎藤先生なんかじゃない。

 先生がわたしを見た。にらみつけられたように感じた。見られてる。わたしのことを監視しているんだ。

 それから先生の授業が始まった。いつもと何ら変わりのない授業だった。時折先生が言う冗談にクラスのみんなが笑って雰囲気が明るくなる。だけど、わたしは怖さが増すだけだった。

 どうして……どうしてあんなに平然としていられるの?

 人を殺したのに、何事もなかったかのように授業をする先生のことが理解出来なかった。

 とても優しくて明るい先生なのに、どうして人殺しなんかできるの?

 どうしよう。

 わたし……どうしたら……。

 そのことばかりを考えていたせいで、その日の授業は何も頭に入ってこなかった。


 3


 午後五時 米山医院。


「今日の容態は安定しているね。問題はない」

 米山先生はいつものように表情を崩さずにわたしの様子を診察した。

「すいません、いつもありがとうございます」

 今まで以上に暗い声になってしまった。その異変にどうやら米山先生も気付いたようだ。

「撤回しよう。身体的には問題ないが、精神面では少し様子が悪いみたいだ」

「え?」

「隠さなくてもいい。顔を見れば、わかる」

 米山先生ならどう思うだろうか。でも、彼に斎藤先生のことをいきなり話すのは何かおかしかったので、遠まわしに聞いてみることにした。

「米山先生にとってもし大切な人がいて、その人が自分の思っていたのと全然違う一面を持っていたらどうしますか?」

「急にどうしたんだ?」

「すいません、ちょっと聞いてみたかっただけです。例えば、本当に例えばですけど、いつも優しい人が家に帰ると、すごい暴力を振るう人だったりとか……」

「ふうむ、そうだな……」

 米山先生はわたしのカルテを机に置いて少し考えた。

「最初はやはり驚くだろうな。ショックを受けると思う。だが、その人にはその一面を隠さなければならない理由があるはずだ。まずはそれが何なのかを知りたいかな」

「隠さなければならない理由?」

「ああ。でも、人には誰にも知られたくないことは一つや二つある。その境を越えるかもしれないから、難しい話だな」

「……」

「だが、大切な人であれば、もっとその人のことを知りたいと思うのが普通じゃないのか?」

 米山先生は眼鏡を外して、そばに置かれた写真立てを見つめた。わたしが以前、米山先生に聞いた家族の写真だ。

「私はそれをしなくて後悔したことがある。君に同じ目に遭ってほしくないな」

 

 4


 どうして隠していたのか、その理由を本人に聞く。

 米山先生の言っていることはわかった。でも、それでもわたしには聞くことができない。

 斎藤先生にどうして人を殺しているのか、なんて聞けるわけがない。もしかしたら、今度はわたしが殺されるかもしれない。

 全身に血を浴びても、先生は何も変わっていなかった。学校ではいつもと同じ先生だった。

 どうして、あんなに平然としていられるんだろう。

 やっぱりどう考えてもわからない。わたしには先生の気持ちがわからないよ……。

 呆然としながら、病院を出た。

「川崎」

「!」

 突然、呼びかけられてわたしは反射的に後ろに下がった。一瞬、斎藤先生だと思った。

 でも、そこにいたのは先生ではなく、雄二くんだった。

「大丈夫か? 今朝から様子がおかしかったから、心配して付いてきたんだけど……」

 そう言われた瞬間、わたしの中で何かが弾けた。気がつけば、わたしは雄二くんの懐に飛び込んでいた。

「お、おい、川崎!?」

 雄二くんは驚いていたが、わたしは何も言うことができず、ただ泣き続けた。

 斎藤先生のことをずっとわかっているつもりだった。明るくて、クラスのみんなに優しくて、いつも楽しい授業をしてくれる。みんなが憧れる先生だった。

 でも、それは本当の先生じゃない。もとから先生は本当の斎藤悠輔ではなかった。

 先生は……本当のあの人は……。


 5


「もう、雄二のやつ、どこに行ったのよお!」

 あたしは一人、町の住宅街を歩いていた。学校が終わった後、雄二に声をかけようとしたが、雄二は教室を飛び出していった。

 その前に里菜もすぐに出ていったが、何か関係があるのかな。

 そう思いつつ、とりあえず雄二のあとを追ってきたのだが、途中で見失ってしまい、辺りを探し回っているところだった。

「うーん、この辺りで見失ったんだよねえ」

 周囲を歩き回ったあと、あたしは一旦雄二を見失った場所まで戻ってきた。

 この辺りは住宅街になっているけど、あたしと雄二の住んでいる所とは学校を境にちょうど反対側にある。つまり、里菜が住んでいる場所だ。

「まさか……ね……」

 一瞬、嫌な予感がしたが、頭を横に振った。

 そんなはずはない。里菜は斎藤先生とうまくいったはずだから。

 そう信じて通りの角を曲がろうとした時だった。

 視界の端にあるものを捉え、あたしは素早く通りの壁に隠れた。ゆっくりと顔を出す。

 そこにいたのは雄二だった。何処かの病院の入り口だろうか。その近くに立っている。

 そして、雄二は女の子を抱きしめていた。よく見ると、それが誰なのかすぐにわかった。

 り、里菜!?

 いつも学校で会っているからわかる。雄二が抱き締めている相手は紛れもなく里菜だった。

 ど、どうして里菜が!?

 わからないことが多すぎて、頭が混乱した。

 いま雄二と里菜が抱き合っている状況になった過程が全くわからなかった。

 どうして?

 だって里菜は斎藤先生と上手くいっているはずなのに……。

 しかし、よく考えれば、今朝の里菜の様子は少し変だった。

 もしかして、斎藤先生に振られたからかもしれない。

 でも、どちらにしても、里菜ならあたしに湯田月祭のことは言ってくれるはず。なのに、どうして……。

 こうなったら、直接聞いてみるしかないわね。

 そう思って通りの角から飛び出そうとした。

「あれ、結城じゃないか」

「ひゃっ!?」

 慌てて振り向くと、思いがけない人が立っていた。

「斎藤先生!」

「なんで、小声で驚くんだ?」

「しーっ! 静かにしてくださいよ」

 あたしは先生を静かにさせた。雄二と里菜の状況を伝えるのは何か危ない予感がした。

 とりあえず、ここから離れないと。

「すいません、あたし買い物するためにスーパー行こうとしたんですけど、途中で道に迷っちゃって。あの先生、どこにあるか知りません?」

「ん、ああ、近所にあるけど案内しようか?」

 斎藤先生はどうしてあたしがここにいるのか、気になっているようだが、その答えにとりあえず納得してくれたらしい。

 あたしはほっと一安心した。

「すいません、じゃあ、お願いします!」

「大丈夫そうだな……」

 あたしが歩き出すと、斎藤先生が雄二と里菜のいる方を向いてそう呟いたような気がした。

「先生、どうかしました?」

「いや、何でもないよ。それよりスーパーだったな。ついてこいよ」

「はーい」

 あの二人のことはとりあえず明日、雄二に聞いてみよう。

 心の中でそう決意して、あたしは斎藤先生のあとにしたがった。


 6


「お、おい、川崎。どうしたんだ?」

「ごめん、雄二くん。でも、来てくれてありがとう」

「と、とりあえず離れてくれよ」

 俺は川崎の両肩に手を乗せて体を離した。

 川崎は目から涙をぽろぽろと流していた。

 やっぱり何かあったのか……。

 朝から少し様子が変だったから、心配になってついて来てみたのはどうやら正解のようだ。

「本当に大丈夫か?」

「ご、ごめん……恥ずかしい、こんな顔……」

 川崎はすぐに顔を手で覆った。

「どうかしたのか? 朝から様子がおかしいと思ったんだけど」

「ごめん、ちょっとね……」

「湯田月祭で何かあったのか?」

「い、今は話せない。でも、ありがとう、来てくれて。だいぶ落ち着いた」

 にっこりと笑う川崎の顔を見て、慌てて視線を逸らした。

「そ、そうか」

「じゃ、じゃあね」

 川崎は自分の家のほうに向かって走り出した。

「川崎! もし何かあったら、俺に言えよ! 力になってやるから!」

 とっさに俺がそう言うと川崎は立ち止まって、俺に笑顔を見せて走っていった。

 泣き顔を見たのも、あんな笑顔を見たのも初めてだった。

 全身から力が抜けて俺はその場にしゃがみこんだ。

 夢じゃないよな?

 もしかしたら……まだ、俺にもチャンスが……。

 俺はしばらくその場から動けなかった。


 7


 2013年12月10日


 学校へ向かう足取りは昨日と比べるとずいぶん軽くなっていた。

 雄二くんがわたしのことを助けてくれたおかげだ。

 もし、あの時、雄二くんではなく、斎藤先生が待っていたらどうなっていたんだろう。想像するだけで体が震えた。

 話さないと。湯田月祭の時、わたしが見た斎藤先生のことを。

 わたしは拳をぐっと握って湯田月高校の校門をくぐった。

 教室に入り、早速雄二くんに話しかけようとしたが、その前に彼に話しかけている人がいた。

「雄二、今日の放課後時間空いてるよね?」

「何だよ、えらく噛みつくな。空いてるけど、どうしたんだ?」

「絶対にあけておいて、わかったわね?」

「はいはい、わかりましたよ」

 雄二くんに話しかけていたのは沙耶だった。でも、かなり機嫌が悪い。話を終えると、わたしに気付いた。一旦わたしのことを睨みつけると、教室を出て行った。

「ああ、おはよう、川崎」

「おはよう。雄二くん、沙耶どうかしたの?」

「さあな、朝からえらく機嫌が悪いんだ。放課後に呼び出しくらったよ」

 雄二くんは面倒くさそうにため息をついた。

「それより、昨日は大丈夫だったのか」

「う、うん、何とかね」

 わたしは自分の席に座った。

「雄二くん……」

「ん、どうした?」

 ここで話してしまおうと思ったが、クラスのみんながいるし、やっぱりやめておこうと思った。

「ううん、ごめん、なんでもない」

「あ、ああ。昨日のことならそんなに気にするな。落ち着いたらゆっくり聞くよ」

「うん、ありがとう」

 わたしは今できるせいいっぱいの笑顔を雄二くんに見せた。


 8

 

 放課後。

 教室の窓の外にはオレンジ色の空が広がっている。その景色はいつ見ても綺麗だったけど、今のあたしはそんなことを気にしている余裕はない。

「雄二」

「ん、なんだ?」

 教科書を鞄の中に詰めていた雄二があたしに顔を向けた。

「もう帰る準備できたよね? あの公園に寄っていこ」

「お前、今日何か変だぞ。どうかしたのか?」

 雄二がそう聞き返すと里菜があたしのほうに顔を向けた。

「何でもないわ。ただ話がしたいだけよ」

 そう言いながらあたしは里菜を睨みつけた。彼女も帰る準備をしている。

「もう帰る準備できた?」

「ああ」

「じゃあ早く行くわよ」

 あたしは雄二の腕を掴んで教室を出た。何だかすごく嫌だった。里菜がいるこの教室から早く離れたかった。

「お、おい、引っ張るなよ!」

 あたしは雄二の腕を引っ張ったまま、学校を出た。校門を抜け、町の通りを歩き、そしていつも雄二と待ち合わせしている公園に向かった。

「おい、そんなに引っ張るなよ!」

 あたしは公園の中に入ったところで雄二の腕を離した。 

「何なんだよ、お前! 服がのびただろ!」

 雄二はかなり怒っていたけど、それはあたしだって同じだ。

「ねえ、雄二。昨日の放課後どこいってたの?」

「え、どこって……?」

「里菜に会ってたでしょ?」

 そう言うと雄二の表情が変わった。

「まさか、お前見てたのか?」

 その質問には答えず、あたしはさらに雄二を問い詰めた。

「あれはどういうことなの?」

「どうもしねえよ。川崎のほうからいきなり抱きついてきたんだよ」

「え?」

「昨日からあいつ、なんか様子がおかしかっただろ? だから心配になってあとを追ったんだよ」

 心配に……なって?

 あたしの中で何か嫌な予感が広がってきた。

「ねえ、雄二。あんた、もしかして、里菜のことあきらめてないの?」

「はあ? 急になんだよ?」

「いいから答えなさいよ!」

 たまっていた苛立ちを雄二にぶつけるように言った。雄二も少し不機嫌になった。

「当たり前だ。俺はまだあきらめてない」

 う、うそ……。

 想像していなかった雄二の答えに頭の中が真っ白になった。

「だ、だって里菜は斎藤先生のことが好きなんだよ! 里菜は雄二のことをただのクラスメートだって思ってるんだよ!」

 動揺しながらそう言ったが、雄二の気持ちは変わらなかった。

「なんでお前が勝手に決めつけるんだよ! そんなのお前にわからねえだろ!」

「ど、どうして……どうしてそんなに里菜のことが好きなの? 里菜は雄二のことを何とも想ってない。あたしのほうが雄二のこと好きなんだよ!」

 言い終わったとたん、あたしは雄二に歩み寄って、自分の気持ちを伝えるために彼の唇に自分の唇を押し当てた。

「んん! や、やめろ!」

 雄二は強引にあたしを突き放した。

「ゆ、雄二、あたしはこんなにあんたのことを!」

「ふざけるなよ」

「え?」

 雄二は腕で自分の口を拭った。それがあたしの思いを拒絶していることをはっきりとあらわしていた。

「川崎が俺のことを何とも思ってないってなんでお前にわかるんだよ? 勝手に人の気持ちを決めつけるな」

「ち、ちがう……あ、あたし、そんなつもりじゃ……」

「もう帰る」

 雄二は後ろに振り返った。公園の出口の近くで立ち止まり、目だけであたしのほうを睨み付けた。

「俺は川崎が好きなんだ。この気持ちは絶対に変わらないからな」

「ゆ、雄二……」

 雄二はそのまま自分の家のほうに帰っていった。

 あたしはその場に崩れ、口を押さえた。

 うそ……あたし、ふられちゃったの?

 どうして……どうしてこんなことに……。

「あ、ああ……」

 わからない。何もわからない。こんなことになるはずじゃなかった。こんなことには……。

「ああああああああああああ!」

 あたしは叫んだ。その瞬間、あたしは自分自身を失った。


 9


 2013年12月11日

 

「来ないで! 来ないで!」

 真っ暗な闇の中を必死に叫びながらわたしは走っていた。

「逃げるな、川崎……川崎……」

 後ろを見ると、先生が刀を持って私を追いかけてくる。

 追いつかれたら殺される。逃げないと。早く逃げないと!

 わたしは持てる力を全て出して走った。だけど、いくら頑張って走っても、先生との距離は変わらない。それどころか徐々に追いつかれている。

「うう、まて、川崎……」

 斎藤先生がうめき声を漏らしながら血に染まった手を伸ばしてきた。

 だめだ。逃げなきゃ!

 逃げなきゃ、殺される!

 死にたくない!

 助けて、誰か助けて!

「逃がさないぞ……」

 耳元で声が聞こえたかと思うと、先生に肩をがっしりと掴まれた。

 無理矢理体を引っ張られた。目の前にいた先生がわたしに向かって刀を振り下ろしてきた。

「いや……いやあああああ!」

 闇の中で私は泣き叫んだ。

「いやああああ!」

 わたしはそこで目を覚ました。

「はあ……はあ……」

 肩で息をしながら周りを見ると、そこが自分の部屋であることがわかった。

「夢……?」

 両手を頬にあてた。感触がある。温もりがある。

 これが現実……だよね。

 だけど、顔が大量の汗で濡れていた。さっきの夢でだいぶうなされていたらしい。

「こんなんじゃ、体がもたないよ……」

 早くあのことを雄二くんに話さないと……。

 窓を見ると、もう太陽の光が昇って明るくなっている。

 わたしはベッドを下りて身支度を始めた。


 10


「はあ……はあ……」

 雄二に嫌われた。雄二に捨てられた。雄二を失った。

 今までの思い出も、ずっと隠していた気持ちも、楽しい日常も全部失った。

 だから、もうこの部屋にある思い出はみんないらない。

 全部なくしたほうがいい。

 あたしは昨日の夜からずっとカッターナイフで自分の部屋のまわりに傷をつけていた。

 雄二との思い出の詰まった写真も、本も、何もかも。

 雄二がいなくなったらあたしに生きる意味なんてない。あたしはもう失ってしまった。

「沙耶?  沙耶!  もう学校に行く時間よ、早く起きなさい!」

 一階からお母さんの声が聞こえてきた。

 そこでカッターを持っていた手を止めた。

「そうだ……あたし、学校に行かないといけないんだ」

 でも、何しに行くんだろう。だって、もうあそこに言っても何の意味も……。

 それはふと頭の中に思い浮かんだ。

 あった。あたしが学校に行く理由。

 あの子に会わないといけないんだった。あの子に教えてあげないといけないんだった。

 あたしの色々なことを伝えてあげないと。

 あの子の心に、体に教えてあげないと。

 じゃあ、やっぱり……。

「行かなきゃ……」

 あたしはカッターでボロボロにした教科書を鞄の中に入れた。

「学校に行かなきゃ……」


 11


『殺しのプロだと聞いていたけど、ずいぶん手こずっているようね、五島(ごとう)

「まさか、あの男に井毛内(いけうち)たちが返り討ちにあうとは思いもしませんでした」

 俺――五島昇(ごとうのぼる)は町の道路脇に停めた白いワゴン車の中で、野梨子(のりこ)さんに説教を受けていた。

 内容は当然、湯田月祭での戦闘についてだ。井毛内、前橋(まえばし)下関(しもぜき)の三人はあっさりと黒刀に始末された。大勢の人がいたあの状況で、奴は俺の部下を返り討ちにしたのだ。

 少しでも気を緩んでいたのが、敗因かもしれない。いや、呑気に『RIPA(りぱ)社』の名産と言われるゲームで遊んでいたからかなり油断していたが。

 洞察力の高い野梨子さんはそのことにすら気付いていたようだ。

『彼らの戦闘能力はアゲハの中でかなり優秀な位置にあった。全員が倒されたのはあなたの判断能力が欠けていたからよ』

「く……」

『さあ、どうするのかしら? まさかここまで来て殺すことが出来ない、なんて言うんじゃないでしょうね?』

「ご心配なく。俺が自ら奴を始末します」

『そう。じゃあ、期待してるわ』

 言い終わると、野梨子さんは一方的に電話を切った。

「ちっ、期待なんかしていないくせに」

 俺は携帯電話を投げ捨てた。

 もうあとがないのは明らかだった。今度失敗すれば、俺がやられる。

 何より、これ以上俺のプライドを傷つけられるのが嫌だった。

「黒刀……次は俺の手で消してやる」


 12


 学校の門をくぐり抜けたわたしはすぐに自分の教室へ向かった。中に入るともう雄二くんが自分の席に座っていた。

「雄二くん……」

 良かった。今日来てくれていなかったら、どうしようかと思ってた。

「雄二くん、おは――」

「里菜」

 雄二くんに話しかけようとする前に、背後からいきなり肩を掴まれた。驚いて後ろに振り向くと、沙耶が立っていた。

「あ、おはよう、沙耶」

「……」

 沙耶は何も言わなかった。顔を少し下にむけたまま、黙っている。

 よく見ると沙耶の髪はみだれていた。顔をうつむかせているため、どんな表情をしているのかわからない。

 なぜかいつもの明るい雰囲気をまったく感じることが出来なかった。

「沙耶、どうしたの?」

「別に何でもないわ。それより、里菜。今日の放課後時間ある?」

「え、それは――」

「あるよね?」

 沙耶が顔をあげた。前髪のあいだから酷く充血した彼女の目が見えた。

 やっぱり沙耶……いつもと様子が……。

「う、うん、特に予定はないけど……」

「……」

「沙耶? 本当にどうかしたの?」

「別に。じゃあ、その時に屋上に来て」

 それだけ言うと沙耶は自分の席に向かっていった。

 沙耶……どうしたんだろう、まるで別人みたい……。

 私は変わり果てた沙耶に圧倒されて雄二くんに話すことを忘れてしまった。


 13


 放課後。

 夕焼け空が広がる町を窓から見ながらわたしは屋上に向かった。

 沙耶の話っていったい何なのかな……。

 朝に話しかけられた時の沙耶は明らかにおかしかった。乱れた髪、ひどく充血した目。いつもの明るい雰囲気もなかった。

 何かあったのかな?

 いろいろ思い返してみたものの、はっきりとした答えは出てこなかった。

 階段を登り終え、わたしは屋上の扉を開いた。

 沙耶は既に屋上にいた。背中をわたしのほうに向けているため、顔を見ることは出来ない。フェンスに手を掴み、山の背後へ沈んでいく夕日を見つめている。

「沙耶」

 呼びかけてみたけど、返事はない。さらに近づいて彼女に話しかけた。

「沙耶、話って何?」

「……」

 やっぱり沙耶から返事はなかった。絶対に聞こえているはずだと思うけど……。

「ねえ、里菜」

 ようやく沙耶が口を開いた。

「里菜は斎藤先生のことが好きなんだよね?」

「え? そ、それは……」

 一瞬、あの夜のことをどう言えばいいのか、わからなくなった。でも、沙耶ならわかってくれるかもしれない。

「あのね、沙耶、実は……」

「里菜が先生のことを好きだって言ったから、あたしは応援しようって決めたの。里菜と先生がうまくいけば、雄二の気持ちも変わるかもしれないって思ったから」

 沙耶はわたしの言葉を遮った。

「え……」

「でも、雄二はあきらめてくれなかった……」

 沙耶がフェンスを強く握りしめた。

「そしてあんたも雄二にすがりついた。ずっと好きだった雄二をあんたはあたしから簡単に奪っていった……。あたしが必死に頑張っても手に入らないものを、あんたは何の苦労もせずに手にいれた」

 沙耶が手で握りしめていたフェンスが音を鳴らし始めた。

「さ、沙耶?」

「あんたのせいであたしは何もかも失ってしまった。あたしをずっと支えてくれた雄二への想いをあんたは踏み潰した!」

「ち、違うわ!」

「あんたさえいなければ、雄二はあたしのことを見てくれたのよ!」

 沙耶がわたしのほうに振り返った。赤く充血した目で睨んでいる。

 その手にはカッターナイフが握りしめられていた。

「さ、沙耶……冗談だよね?  沙耶がこんなこと……」

「お願い、里菜」

 沙耶は手にしたカッターナイフをわたしに向けた。

「今すぐ死んで」

 直後、沙耶はカッターナイフを横に振ってきた。間一髪のところで避けたが、頬にかすって小さな斬り傷がついた。

 さ、沙耶。本気で私を!?

「や、やめて、沙耶!」

「死ね! 死ね、死ね、死ねぇ!」

 沙耶は絶叫をあげながらカッターナイフを振り回してくる。

 に、逃げなきゃ!

 わたしは後ろに振り返って走り出そうとした。

 だけど、その前に沙耶がわたしの髪を掴んで引っ張ってきた。

「逃がさない!」

「やめて! 助けて、誰か助けて!」

 必死に逃げようとしたが、髪を掴まれてしまって逃げることができない。

「離して! 離して!」

 力を振り絞って何とか沙耶から離れた。

 前に一歩進んだ。その瞬間、髪が音を鳴らして何本か千切れてしまった。そのまま、前に倒れ込んだ。沙耶はちぎった髪を投げ捨て、わたしを睨つけた。

「あたしの前から消えろ!」

 顔を歪ませ、手にしたカッターナイフを突き出してくる。わたしはなんとか沙耶の手を掴んだ。けど、沙耶は少しずつカッターナイフを押し込んでくる。

「やめて……沙耶……」

 カッターナイフの先端がわたしの喉に触れた。

 殺される。嫌だ、死にたくない。

 死にたくない!

「やめてええええ!」

 わたしはせいいっぱいの力で掴んでいた沙耶の手首を払った。

「がっ!」

 変な声が聞こえた。その直後にわたしの顔に生暖かい液体がついた。

「え?」

 驚いてその液体を見ると真っ赤に染まっている。

 血? でも誰の?

 わたしは沙耶のほうを見て驚いた。彼女の喉から大量の血が噴き出していた。

 さっきのカッターナイフで自分の喉を切ってしまったんだ。

「ゆ、ゆう……じ……」

 途切れた声でそう言うと沙耶は後ろに倒れた。溢れ出した血が屋上の床を赤に染めていく。沙耶の体はしばらく痙攣していたが、やがてその動きが止まった。

「う……うそ……」

 わたしは口元を両手で押さえた。

 死んじゃった。沙耶が死んじゃった。

 わたしのせい? わたしのせいで死んじゃったの?

 両目から大量の涙が溢れてくる。

 嘘だ。嘘だよ……。

「いや……」

 わたしは首を横に振った。

「いやああああああああ!」

 わたしは泣き叫んだ。その瞬間、心の中で何かが弾けとんだ。

 悲しい。こんなの悲しすぎるよ。

 こんなことって……こんなことって……。

 悲しみがわたしの心を支配していく。

「悲しいよ……」

 ふとわたしは右手に何かの感触があるのに気づいた。それを見た瞬間、さらに目から涙が流れ落ちていく。

 剣だった。普通の剣とは違う。途中で二つに枝分かれした変わった剣だった。

 何……これ?

 この剣を握りしめていると、とても悲しくなる。

 辛い。辛いよ、こんなの……。

 わたしはその場から逃げ出した。涙を流しながらただ走った。


 14


 時計が午後六時をまわった。

「沙耶のやつ、遅いな……」

 教室で俺は沙耶の帰りを待っていたが、いつまで待っても帰ってくる気配はなかった。

 机にまだ鞄が置いているから、先に帰っていることはないと思うが……。

「……」

『あたしのほうが雄二のこと好きなんだよ!』

 この前、公園であいつが言ったことが頭の中に響いてきた。

 沙耶のあんな真剣な顔を見たのは久しぶりだった。

 あいつはずっと俺のことを……。

 そう思うと、罪悪感が心の底から沸き起こってきた。

 ちょっと言いすぎたかな……。

「しょうがない。探しにいくか」

 校門前や体育館裏、中庭。俺は教室を出て、あいつがいそうな場所に行ってみた。でも、学校中を探し回っても、あいつの姿はなかった。

「あいつどこいったんだ……」

 あといそうな場所と言えば、屋上ぐらいしかないな。俺は階段を上がって屋上に向かった。

 扉を開いて外に出ると、もう夕日が沈みかけていた。

「また帰りが遅くなるな」

 独り言を呟いていると何かが目に止まった。

 誰かが倒れている。よく見ると、それが誰なのかすぐにわかった。

「お、おい……まさか!」

 慌てて駆け寄った俺は目を見開いた。

「沙耶……」

 そこに倒れていたのは沙耶だった。喉の細長い傷から血が流れ出ている。沙耶はもう息をしていなかった。

「さ、沙耶……」

 俺はその場にひざまずいた。

 なんで……なんでこんなことになってる?

 なんで沙耶が死んでいる?

 わけがわからない。

 こんなの……こんなの……。

「沙耶あああああ!」

 目の前の現実を受け入れられず、俺は空を見上げて絶叫した。


 15


 辺りがだんだん暗くなっている。わたしは学校から逃げ出し、自分の家のそばに来ていた。だけど、家の手前にある電柱にしゃがみこんだまま、身動きが取れなかった。

 どうしよう。家に帰りたくても、全身に沙耶の血を浴びている。ブレザーを着ても、全ての血を隠すことは出来なかった。

 いや、それよりも……この感じは何なの……。

 自分の手を見つめる。さっきの剣は煙のように消えた。でも、また心の奥底から悲しみが溢れ出てくる。

 だ、だめ……考えちゃだめ……。

 必死に自分の感情を抑え込もうとしたが、頭の中に斎藤先生、そして血まみれになった沙耶の姿が思い浮かんできて、悲しみは増すばかりだった。

「だめ……また……」

「あれ、里菜じゃないか。どうしたんだ?」

「!」

 通りの角から声が聞こえてきた。見ると、仕事から帰ってきたお父さんが立っていた。

「お、お父さん……!」

「どうした、そんなところに座って? 具合でも悪いのか?」

 お父さんがきょとんとした表情をしながら近づいてくる。

 た、大変……。

 心の中から悲しさが込み上げてくる。両目に溢れた涙が流れ落ちた。

「お父さん来ないで! 来ちゃだめぇ!」

「いったいどうしたんだ?」

 必死に言ってもお父さんは立ち止まらなかった。

 だ、だめ……。それ以上近づいたら……。

「大丈夫か、里菜?」

 そしてお父さんがわたしの肩に手を乗せた。その瞬間、私の体が光に包まれた。その光が胸に集まっていく。

「なんだ!?」

「逃げてえええ!」

 悲鳴をあげた直後、その光の中から剣が現れた。その直後に、体が勝手に動いて剣を握り、お父さんに向かって振った。

「ぐっ!」

 お父さんの体にまっすぐ横に傷がつき、大量の血が噴き出した。

「!」

「り、里菜……?」

 お父さんがわたしを見つめたまま、地面に倒れていく。

「あ……ああ……」

 また涙が出てくる。

 違う、わたしのせいじゃない……。

 こんなの酷いよ……こんなの……。

「いや……」

 地面に倒れたお父さんの体から赤い血が流れ出していく。

「いやあああああ!」

 わたしはその場から逃げ出した。もうどこにも戻る場所はなかった。


 16


「刀人の気配がするな」

 俺は湯田月の町の通りを車で移動していた。

 さっきまで町の通りを走行していたが、突然、刀人の存在を感じとって学校へ向かった。しかし、すぐにその気配が消えてしまい、探索を続けていると、住宅街のほうから再び気配を感じた。

 普通の刀人なら少しずつその存在を感じ取れるが、今追いかけているものは突然現れた。だとすれば、考えられる可能性は一つしかない。

「人間が刀人に覚醒したってわけか」

 全ての人間が刀人になれるわけではない。もとからその素質を持った人間が精神的なショックや、特定の感情が増大した時に刀人へ覚醒する。

 その素質を持った人間が学校にいたっていうことか。

 それが事実であれば、黒刀がこの学校を拠点にしている理由も何となく察しがつく。奴は俺たちに対抗するために仲間を探していたのだろう。

 俺には無理だが、奴には刀人の素質を持った人間を探知する力があるかもしれない。

木出(きで)さんと同じか……」

 しかし、これで見つけるのが難しかった黒刀の居場所をようやく掴むことができる。

 覚醒した刀人を追えば、自然と奴が姿を現す可能性が高いからだ。

「必ず殺してやる、黒刀」

 絶対に奴を殺して部下たちの仇を討ってやる。

 じゃないとこの怒りがおさまらない。

 俺は車のアクセルペダルを踏み込んで町の通りを走り飛ばした。


 17


 午後九時。


 湯田月と隣町のちょうど境にある交差点。その上にある歩道橋にわたしはいた。

「死んじゃった……沙耶も……お父さんも……」 

 呆然としたまま、わたしはそう何度もつぶやいた。

 二人が死んだのはわたしのせいだ。沙耶の気持ちを考えずに雄二くんにすがりついてしまって、彼女を傷つけてしまった。

 そのせいで沙耶はおかしくなって、わたしを殺そうとして……。でも、わたしは逆に沙耶を殺してしまった……。

 そして、目覚めたこの力のせいでお父さんまで……。

 最低だ、わたし……。

 もう学校に行くことも、家に帰ることもできない。

 このまま、警察の人たちのところに行ったほうがいいのかな。でも、今はなるべく人に会いたくない。

 もし、この力がまた勝手に目覚めてしまったら思うと何もできなかった。

 だから、わたしはこの町から離れようと、ずっと歩き続けて、ここまで来た。

「もうここにはいられない……」

 これ以上他の人たちに迷惑をかけたくなかった。

「でも、わたしは……」

 ふと、思った。人を殺してしまった以上、この罪を償わないといけない。でも、人の命を奪って自分だけが生き続けていいのだろうか。人殺しは絶対にやってはいけないことだ。もし、それを償うのなら……。

 そう思った瞬間、無意識のうちに歩道橋の手すりに手をかけた。下の道路を見ると、何台もの車が行き来している。

 この下に飛び降りたら死ぬことができるかな。

 そうすれば自分の罪を償うことができるだろうか。

 沙耶もお父さんも許してくれるだろうか。

 わからない。けど、もうわたしに残された道はこれしか……。

 わたしは手すりの上に自分の体を乗せようとした。

「やめろ」

 ふいに呼びかけられた声にわたしは動きを止めた。

「やめるんだ、川崎」

 聞き覚えのある声。

 どこかで何度も耳にした声だった。

 とても懐かしい……。

 この声は確か……。

 わたしは声が聞こえたほうに顔を向けた。

 紺色の髪と黒い瞳をした男の人が立っている。誰なのか、すぐにわかった。

「先生?」

 斎藤先生だった。深緑のパーカーと青いズボンを履いている。

「お前が命を絶つ必要はない」

 先生がわたしのほうに向かって歩いてきた。

「!」

 わたしは思い出した。

 そうだ、先生はあの湯田月祭の夜に人を殺したんだ。

 なんで、忘れてたの? 

 わたしは自然と後ろに下がった。

「こ、来ないで……先生……」

 心の中からまた何かが溢れてきた。目に自然と涙が溢れてくる。

 ま、まただ……。また、目覚めてしまう!

「来ないで! 来ないでよ!」

「……」

 わたしが叫んでも先生は立ち止まらなかった。表情を変えずに歩いてくる。

「来ちゃだめえええ!」

 その瞬間、両目から涙が流れ落ちた。それと同時に光がわたしの体を包みこむ。光が胸に集まり、その中からあの剣が現れた。

 だ、だめ……まただ。また、わたしは人を殺してしまう。

 血まみれになった沙耶とお父さんの顔が思い浮かんだ。

 そんなの嫌なのに……そんなの……嫌だよぉ……。

 目を閉じて、視界が真っ暗になる。

 これ以上、人を傷つけたくない。もうわたしが死ぬしか……。

 そう思った直後、自分の体が何かに包み込まれるのを肌で感じた。

 なんだろう、とても暖かい……。

 暗闇の中から心臓の鼓動が聞こえてくる。わたしの心臓の音じゃない。すぐ目の前からその音が聞こえてきた。

 この感じはいったい……。

 ゆっくりと目を開けた。

 先生がわたしの体をしっかりと抱きしめていた。

「先生……」

「落ち着け、気を楽にするんだ」

 不思議と悲しみでいっぱいだった心が軽くなってきた。先生からとても暖かい感触が伝わってくる。

握りしめていた剣が煙のように消えていった。それと同時に視界がぼやけていく。

 最後に見たのは、倒れたわたしを抱き止めてくれた先生の顔だった。


 18


 気が付くと、暗い闇の中にわたしは立っていた。なぜ自分がここにいるのか全くわからない。

「里菜……」

 足元から声が聞こえてきた。見ると、顔中が血まみれになった沙耶がいた。彼女は手を伸ばして、わたしの足首を掴んだ。

「よくもあたしを殺したわね……あたしを……」

「……!」

 声をあげようとしたが、口が何か黒いものにふさがっていて声が出なかった。

「里菜ぁ……」

 さらに後ろから誰かに肩を掴まれた。大量の血を流したお父さんがわたしを睨みつけていた

「なんでお父さんを殺したんだ?」

 違う。そんなつもりはなかったの。そんなつもりじゃ――!

 そう言いたかった。だけど、声が出ない。喋りたくても何も言うことが出来なかった。

「里菜、よくも……よくも…… 」

「どうしてだ……里菜ぁ……」

 沙耶がわたしの足を伝って登ってきて、お父さんが顔を近づけてくる。

 いや、助けて。誰か……。

 誰か助けてえええええ!

 わたしは心の中で絶叫した。

「!」

 目を覚ますと最初に目に入ったのは部屋の天井だった。

 茶色の板が張られて、中央に小さな電灯がついている。とても古いアパートの天井だった。

「ここは……」

「気がついたか?」

 聞き覚えのある声が聞こえてきた。窓際の壁に先生が座っていた。

「先生……」

「ここなら安全だ」

 先生は立ち上がると台所に置かれたコップを手に取り、水を入れてわたしのそばにきた。

「喉が渇いただろ? 飲め」

 わたしは先生が差し出してきたコップを受け取らずに聞いた。

「先生……教えてください。わたしの体、どうなってしまったんですか?」

 先生はコップを床に置くと暗い表情をしたまま口を開いた。

「川崎は刀人(かたなびと)になった」

「刀人?」

「怒り、怨み、悲しみ、憎しみ。それらの感情を刀や剣に変えることができる人間たちの呼び名だ。川崎は悲しみの感情の刀人になった」

「な、何を言っているんですか?」

「あの剣を見て、触れて、何を思った? 悲しくなったり、辛くなったりしなかったか?」

「ど、どうしてそれを?!」

 先生の言葉の一つ一つが非常に的確だった。

 あの変な形をした剣。あれを握りしめていると涙が勝手に溢れて悲しい気持ちになった。とても辛くて……他には何も考えられなかった。

「覚醒すれば一つの感情に支配される。その感情は覚醒するきっかけになったもので決まる」

 先生の説明を聞いて、わたしはあることを思い出した。

 あのとき、沙耶に殺されそうになって、必死に抵抗したわたしは逆に彼女を殺してしまった。そのとき、目の前の現実を受け入れられず、沙耶の死を目の当たりにしてとても悲しんだ。

 そうか。あれがきっかけで……。

「刀人に覚醒したばかりの段階は力がかなり不安定だ。勝手に力が暴走する場合が多い」

「そうだったんですか……だからわたしは……」

 体にかけてあった布団を握りしめてわたしはぽろぽろと涙を流した。

「刀人になったことがそんなに怖いか?」

「怖いんですよ。だって……先生も……」

 躊躇いながらもわたしは先生に言った。

「先生も人を殺していたじゃないですか」

「……」

「どうしてですか? 先生は力が暴走しているわけじゃないのにどうしてあんなことを?」

「やはりあの時、見ていたのはお前だったのか」

 先生は視線を下に向けて言った。先生も気付いていたらしい。あの夜、わたしが見ていたことに。

「無差別に人を殺しているわけじゃない」

「どういうことですか?」

「俺は奴らに生きる支えを奪われた。何もかも……全てをな……」

 そうして先生は自分の過去について話した。

 わたしが想像することが出来なかった悲しい過去を。


 19


 1998年


「ほら、音坂、なんとか言えよ」

「言えよ、こいつ!」

 中学生の時、頭も悪く、力も弱かった僕はクラスの奴らにいじめられていた。

「仕方ないよ、音坂くんには口がないから」

「ええ? 口がないんだあ、気持ちわるーい」

「だめだって口があっても音坂の吐く息は臭いんだぜ、ぎゃはははは」

 男子はもちろん、女子にも悪口を言われる毎日。でも、この時はまだましなほうだった。

 奴らのいじめはさらにエスカレートしていった。

 ある日の授業中、机の中を見ると、カッターナイフで斬られた僕の教科書が出てきた。周囲から小さな笑い声が聞こえてくる。

 これくらいはいつものことだったから、まだ耐えることが出来た。だけど、それで終わりじゃなかった。

「え?」

 机のさらに奥に何かがあった。手で触ってみると嫌な感触だった。冷たくて毛ざわりのある生き物みたいなもの。ねずみの死骸だった。

「うわあ!」

 僕は驚いて椅子から落ちた。

「おい、音坂、授業中だぞ。静かにしろ!」

 先生が言った。

「で、でも、先生! 死骸が……ねずみの死骸が!」

「ねずみの死骸? 何馬鹿なこと言ってるんだ! 授業の邪魔になるだろ!」

 先生の言葉と同時に周りから笑いをこらえる声が聞こえてきた。わかっている。先生は僕がいじめを受けていることなんてとっくに知っていた。それでも、黙っているのは自分の立場が危なくなるのを避けるためだ。僕をいじめていた奴を叱って保護者に訴えられたら、辞めなければいけない可能性も高くなる。

 わかっていた。このクラスに僕の味方なんて一人もいないことぐらい、僕でもわかっていた。

 でも、あるとき苦しみに耐えられなかった僕は、別のクラスの教師にいじめられていることを訴えたことがあった。幸いにも、その先生が行動を起こしてくれて、クラスで話し合いがされることになった。

 だけど……。

「音坂くんは他の人の悪いことばかり言うだけで、自分のことは何一つ反省していません」

「音坂くんは自分が悪いこともちゃんと言うべきだと思います」

 クラスの奴らはそのことを言うだけだった。もちろん、先生もその仲間だった。

「みんなの言うとおりだ。お前も反省しろ!」

 僕が悪い?

 意味がわからない。

 なんでそうなるんだ?

 いじめていたのはお前らじゃないか!

 なのに、どうして!?

 自然と涙が溢れてきた。話し合いが終わったあとも僕は泣き続けた。周りの女子が笑いながら言った。

「音坂くんが泣いてる。男の子なのにー」

 こいつ……いじめられたこともないのに、よくもそんなことを!

 悔しかった。でも、それを口にしても何も変わらない。そんなことはとっくにわかっていた。

 それから数日後、僕にとって一番最悪な時が訪れた。

「やめて! やめてよ!」

「しっかり縛ろうぜ、出れなくしてやれ!」

 その日の放課後、僕は掃除用具箱の中に閉じ込められた。必死に抵抗したけど大勢いるあいつらにかなうわけがない。そのまま、ロープで何重も巻かれて中から出られなくなった。

「出して! 出してよ!」

 いくら扉を叩いても、奴らは開けようとはしなかった。

「おいおい、あれ入れようぜ。絶対面白いって!」

「やろうぜ。やろうぜ!」

 何をする気なんだ?

 しばらくして掃除用具箱の吹き出し口から、何か冷たいものが流れ落ちてきた。

「水!?」

 次の瞬間、大量の水が流れ落ちてきた。あいつらは水道の水を吹き出し口から流し込んでいるんだ。

「やめてええ! やめてええ!」

「あははは、ほらほらもっと入れろ! 入れろ!」

 それから長い時間をかけて用具箱の中に水は流し込まれ続けた。全身がびしょ濡れになっても、僕はずっと水を浴び続けた。

「あ、いけね。もう、こんな時間だ」

「そろそろ帰ろうぜ」

「音坂はどうする?」

「ほっとけほっとけ」

 え? ちょっと待て。

 さっき最後の奴……なんて言った?

「!」

 僕は今まで以上に掃除用具箱の扉を叩いた。

「出して! ここから出してくれ!」

「あーうるさい。早く帰ろうぜ!」

「お願いだ、出してくれ! 出せえええ!」

 必死に叫んだ結果、返ってきたのは教室の扉が閉まる音だった。

 結局、僕は見回りに来た警備員に助けられるまでの五時間、その中に閉じ込められた。

 もう耐えることなんて出来ない……。

 こんなことが毎日繰り返されるのなら、死んだほうがましだ。

 もう誰も僕の味方にはなってくれない。

 誰も僕なんか必要としてくれていないんだ……。

 僕はもう限界に達していた。

 家に帰った後、僕は台所で包丁を自分の首にあてた。こうすれば死ぬことが出来る。もう苦しむことはない。この苦しみからやっと抜け出せる。

 そして包丁で首を刺そうと思った……その時だった。

「やめなさい、稜!」

 母さんが僕の手を握って抱きついてきた。

「母さん……」

「お願い、稜……お願いだから私と歩実を置いていかないで。死ぬならみんなで一緒に死にましょう……」

 母さんはそう言うと大きな声で泣き叫んだ

「お母さん、どうしたの?」

 母さんの声を聞いて妹の歩実(あゆみ)が二階から下りてきた。

「歩実……」

「お兄ちゃん、お母さん、なんで二人とも泣いてるの? 嫌なことでもあったの?」

 きょとんとした顔で僕を見つめる歩実はどんな状況なのか、全くわかっていない様子だった。歩実のことを気にせず、母さんが言った。

「稜、信じて。あなたがどれだけ辛い思いをしても私と歩実だけはあなたの味方よ!」

 味方……。

 母さんの言葉が心に響いた。

 そうだ。こんな僕にも、支えになってくれる人がいるんだ。

 周りの人間が敵でも、母さんたちは僕のそばにいてくれる。家族のおかげで僕は生きていられるんだ。そう思った時、僕の中にたまっていた苛立ちや苦しみが吹き飛んだ。

 僕は学校に通い続けた。もちろんクラスの奴らからいじめを受けるのは目に見えていた。でも、それでも僕には……。

「稜、学校が辛かったら行かなくていいのよ。お母さんがなんとかするから」

「歩実、お兄ちゃんのこと大好きだよ! 歩実はいつでもお兄ちゃんの味方だからね!」

「ありがとう、母さん、歩実」

 二人がいれば、僕はなんだって出来る気がした。学校で辛い目にあっても決してくじけることはなかった。二人のおかげで僕はこれからもずっと頑張っていける。

 そう思っていた。そう思っていたのに……。


 20


 2000年


 その日は雨が降っていた。暗い雲が空を覆いつくし、ごろごろと雷も鳴っていた。

 帰りがとても遅くなってしまった。それが僕にとって幸運だったのか、不幸だったのかはわからない。

「早く家に帰らないと母さんに怒られるな……」

 僕は足を早めて自分の家に向かった。

 今日の夜ご飯はなんだろうな。久しぶりに母さんのクリームシチューが食べたいなあ。

 あのシチューはどんな有名な店にも負けない味だった。最近作ってくれないから今日母さんに頼んでみよう。

 そんなことを考えながら僕は自分の家に戻った。

「あれ?」

 でも、家の前で異変に気付いた。

 何かおかしい。まだ母さんも歩実も寝ている時間じゃない。それなのに家の中は電気がついていなくて、真っ暗だった。

「もう寝たのかな……」

 そう思って僕は家のドアを開けた。やっぱり家の中は真っ暗だった。いつものように母さんと歩実が来てくれる様子もない。

「ただいま」

 そう言ってみたが二人の声は聞こえてこなかった。

「やっぱり、もう寝てるのかな?」

 靴を脱いで、玄関に上がった。

「なんだ、この匂い……」

 変な匂いが漂ってきた。嫌な匂いだ。なんか鉄のような匂いがする……。

 そうだ。この匂いは……。

「血?」

 でも、なんで?

 どうして血の匂いが……。

 直後、大きな音と共に雷が光って家の中を照らした。

 視界に何かが入った。

 い、今のって……。

 目の前に誰かが倒れていた。

 雷で一瞬しか見えなかったけど、目が慣れてじわじわと見えてきた。

 それは僕のよく知っている人だった。

「か、母さん?」

 間違いない。倒れていたのは母さんだった。背中に細長い傷が何ヵ所もあり、赤い血で染まっていた。母さんは目を開けたまま死んでいた。

「どうして……母さんが……」

「う……痛いよお……痛いよお……」

 ふと奥の部屋から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「歩実?」

 奥の部屋に行くと、床に倒れた歩実がいた。

「歩実!」

 歩実はうっすらと目を開けていた。お腹のあたりから血がどんどんと流れ出している。

「お兄ちゃん……」

「歩実……誰がこんなことを……」

 その時、雨が降る音が聞こえてきた。見ると、部屋の窓が大きく開け放たれていた。

 また雷が鳴った。その光に照らされて窓の外の中庭に男が立っていた。首筋にアゲハ蝶の刺青をつけ、手には血に染まった剣が握りしめられている。

 顔はわからなかったが笑っているように見えた。

 まさか、あいつが母さんと歩実を!

 男は後ろに振り返り、闇の中へ姿を消した。

「う……う……」

「歩実!」

 僕は歩実のそばに歩み寄った。

「お兄ちゃん……」

「し、しっかりしろ、歩実!」

 歩実を抱き起こすと、とても苦しそうな表情を浮かべていた。

「お兄ちゃん、痛いよお……」

「大丈夫だ、すぐに救急車を呼ぶ。すぐに呼ぶ!」

「お兄ちゃん……」

 電話機のほうに向かって走ろうとしたが、歩実の目が閉じかけているのに気づいて僕は叫んだ。

「だ、だめだ……死なないでくれ、歩実!」

 両目から涙を流しながら僕は必死に言った。

「痛いよお……」

「歩実!」

 だけど、僕の願いとは反対に歩実はゆっくりと目を閉じた。

「あ、歩実?」

僕は歩実の体を揺すった。だけど、何の反応もかえってこない。

「う……嘘だ」

 母さんも歩実も死んでしまった。

 あの男に殺されてしまった。

 なんだよ……なんだよ、これ……。

 なんで……二人が殺されなきゃいけないんだよ……。

 嘘だろ、こんなの……こんなの……。

「歩実ぃぃぃぃぃぃぃぃーーーー!」

 雷の音と共に僕は歩実の名を叫んだ。


 21


 先生の話を聞いているうちに胸が苦しくなってきた。

「あの夜、唯一の支えだった家族を失った俺は刀人(かたなびと)になった。この力を手に入れたのは偶然じゃない。俺は奴らに、俺が受けた苦しみを味あわせてやる。その命をもって」

 先生は虚ろな目でわたしを見つめた。

「それで……あんなことをしているんですか……」

「川崎、お前にとっては残酷なことだろう。だが、生き残った俺にできることはこれだけなんだ。だから、お前はもう関わるな」

 先生は立ち上がって、後ろを向いた。

「十三年前のあの時から、俺の手はもうとっくに血で染まっている。だけど、お前はまだやり直せる。今からでも家に帰れ」

「せ、先生は……先生はこれからどうするんですか? これからも……これからも人を殺すんですか?」

「……」

 先生は何も言わなかった。

「今までと同じようにこれからもずっと……」

「お前は歩実に似ている」

「え?」

 先生は顔をわたしのほうに向けた。

「お前には歩実の面影がある。だから、放っておくことができなかった。湯田月祭の時もお前が巻き込まれるかもしれないと思って、ずっとそばにいた。だから、もう失いたくないんだ。俺に関わるな。これ以上関わればお前にも危険が及ぶ」

「そんなの嫌です!」

 わたしは立ち上がって先生に歩み寄った。

「先生がこのまま復讐を続けるなんて……ほうっておけません! 先生が人を殺し続けるところなんてもう見たくありません」

「それは無理だ。これは俺が決めた道だ」

「そんなの悲しすぎますよ。復讐をしても、死んだ人たちは戻ってこないんですよ。もし、これからさき先生が危険な目にあって、死んでしまったら私は……」

「川崎……」

 わたしは先生にしがみついた。

 ようやく自覚できた。わたしはやっぱり先生のことが好きなんだ。今の話を聞いて先生の優しさが本物であることがわかったから。

「先生……わたしが先生の支えになります。だから、これからは……」

「どうして、そこまでして……」

 先生はわずかに動揺しながらそう聞いてきた。

「わたし、先生のことが好きなんです……優しくてみんなを笑顔にしてくれる先生が好きなんです。だから……」

「川崎……」

「先生、わたしがずっとそばにいるから……だから、もう復讐なんてしないで……」

 わたしは目を閉じた。暗い視界の中で先生がわたしをしっかりと抱き締めてくれる感触がした。


 22


 終電間際の時間帯。駅のホームにはわたしたち以外に人はいなかった。

 この時間帯に外へ出るのは初めてだった。いつもなら家で眠っているだろう。だけど、そんな日はもう二度と来ないのかもしれない。

 わたしは先生と一緒にこの町を離れると決心したから。

「川崎」

 隣に立っていた先生が言った。

「帰るなら今だ。まだ間に合う。だが、これ以上来れば、命に関わる危険が待っている」

 先生はわたしのほうを見た。

「本当に良いのか?」

 先生、本気で心配してくれている。

 やっぱり先生は……。

「はい。わたしが決めたんです。先生と一緒に生きていくって」

 わたしは先生の手を握りしめた。

「川崎……」

 先生が何かを言いかけようとした。だけど、その前に先生の背後から何かの気配を感じた。

「やっと見つけたぞ、黒刀あ!」

 見ると、顔に面を被った男の人が宙に飛び上がって、手にした刀を先生に向かって振り下ろした。

 危ない!

 先生もその男に気づいたけど、その刀はもう目の前にまで迫っていた。わたしは先生に手を伸ばした。

「先生!」

 目の前に赤い血が飛び散った。それが誰のものなのかわかっている。

 わたしの血だ。先生を庇って男の人に斬られた。体から力が抜け、地面に倒れる。

「がはっ!」

 男の人の声が聞こえてきた。見ると、先生が男の人を足で蹴り飛ばしていた。

「川崎!」

「先生……」

 意識が遠のいていく。斬られたところから大量の血が流れ出していた。

「しっかりしろ、川崎!」

 先生はわたしの両肩を掴んで必死に叫んでいた。力を振り絞ってわたしは口を開いた。

「先生は悪い人なんかじゃない。とても優しくて、クラスのみんなから好かれている立派な先生です……。わたしはそんな先生の優しさに惹かれて……好きになったんです」

「しゃべるな、川崎!」

「わたしね、先生が怖かった。でも、先生はわたしのことをちゃんと見てくれた……戦いに巻き込まないように考えてくれたんでしょ。だから、わたしは……先生のことが好き。大好きなの……」

 わたしは手を伸ばした。先生はその手をしっかりと握りしめてくれた。とても暖かい手だった。

「川崎!」

「先生、大好き……」

 わたしは今までの想いを込めてそう言った。


 23


 俺はようやく見つけた黒刀をずっと尾行して、機会を伺っていた。

 絶好のチャンスだった。完全に奴を仕留めたはずだった。

 だが、あの女の子がまさか黒刀を庇うとは思いもしなかった。あの子、結構好みだったのに……。

「くそ……」

 俺が体を起こすと、黒刀は血まみれになった子を見つめていた。

 もう手遅れだ。その子は死んでいる。

 そう言おうとしたが、何も言うことができなかった。黒刀の全身がどす黒いオーラに覆われ始めたからだ。

 その目が虚ろになり、手に真っ黒な刀が現れた。

 あれが井毛内たちを葬った例の刀か……。

「お前、アゲハの仲間か?」

 黒刀が俺のほうを睨みつけてくる。

「はは、わかっていて聞くんだな。俺の部下を全員殺したくせに」

 思わずにやけてしまう。なるほど、こいつなら井毛内たちが殺られておかしくない。

「それが報いだ。お前はその少女を俺たちの戦いに巻き込んだ。だから、死なせた。お前があの学校に潜伏していなければ、こんな結末を迎えることはなかったんだ。ゲームで言うならバットエンドだよ」

「……」

「ゲームの世界でならバットエンドを迎えてもやり直しがきく。だが、現実の世界はそうは行かない。人間は時の流れに逆らえない。それは後悔という形ではっきりと現れる」

「黙れ」

「これは悲しい結末だな、黒刀。今になってお前は普通の人生を歩もうとした。その罰が下ったんだ。俺たちのような人殺しの人生に幸せなんてねえんだよ」

「なら、お前の人生はここで終わりだ」

 言い終わると、黒刀は自分の刀を俺に向けてきた。

 はは、やはり俺の力は戦闘に向いている。相手を怒らせやすくして、冷静な判断をできないようにできる。

 殺したい衝動に駆られる下関(しもぜき)、なぜか疲労に襲われる前橋(まえばし)、自信過剰になる井毛内(いけうち)、そして相手を見下す俺。どいつもこいつも相手からすれば面倒な相手だろう。

 だが、この男はそう簡単には行かなかった。

 黒刀はその場から姿を消し、一瞬で俺との間合いを詰めてきた。手にした刀で斬りかかってくる。

「!」

 俺はすぐに剣を横にしてそれを防いだ。奴の斬撃は想像以上に重たかった。それどころか、どんどん力を込めてくる。

「どうした? ずいぶん焦っているようだな」

 珍しく黒刀が俺を見下してきた。なぜだ、その表情に笑みが見える。

「お前!」

 俺は奴の攻撃を弾いて、反撃をしようとしたが、黒刀は次から次へと攻撃を仕掛けてきてその隙を見せなかった。

「調子に乗るなよ!」

 奴の存在に鬱陶しさを感じ、剣を横に振った。完全に奴の顔面をとらえたはずだった。

 だが、奴の姿が視界から消える。

「なに!」

「死ね」

 足元から声が聞こえた。見ると、身をかがめた黒刀が刀を突き出してきた。

 刀の先端が腹部に食い込み、その場に膝をついた。

「くっ……」

 やはり何かおかしい。油断していたわけじゃない。なぜだ……。

 俺は奴を見上げて、異変に気付いた。

 やはり雰囲気が違う。さっきまでの奴とは違う。その目はもう死人のようだった。暗くとても冷たい。

 黒刀はそのまま刀を押し込んでくる。また激しい痛みが全身を駆け巡った。視界が揺らいでくる。

「はは、こんな簡単にゲームオーバーになるとは……」

 俺は笑いながら黒刀に言った。

「黒刀、俺を殺してもあいつらは追ってくるぞ、お前のことを……。お前が死ぬまでずっとな。誰かを頼ればそいつを犠牲にすることになるし、警察にも追われているんだろ? そんな人生で楽しいのか、お前?」

「楽しくなどない」

 黒刀を俺から刀を引き抜いた。

「だが、これが俺の生きる道だ」

 言い終わった瞬間、黒刀は刀を横に振った。

 そこで俺の意識は消えた。

 完全なゲームオーバーだった。

 ああ、そういえば今日は『RIPA(りぱ)』社の最新ゲームの発売日だったっけ。買っておけば良かったな……。


 24


 稜が刀を振ったのと同時に、大量の血が周囲に飛び散り、五島はその場に倒れた。

「……」

 稜は刀の解放を止めて里菜のそばに歩み寄り、その場にしゃがみこんだ。

 彼女は微笑みを浮かべながら死んでいた。自分の想いを伝えることに満足したのか、あるいは僅かな時間で稜とわかりあえたことが嬉しかったのか。いずれにしても、その答えを彼女から聞くことはもう出来なかった。

 里菜の頬に透明の雫が落ちた。彼女を見下ろしていた稜の目から一筋の涙が流れ落ちた。それは彼が家族を殺されて以来、はじめて見せた涙だった。

 稜は里菜の両手を胸のあたりで組ませて、目を閉じてしばらくその場にじっとしていた。やがて目を開け、稜はゆっくりとした足取りで湯田月の町へ歩き始めた。

 彼の表情が暗くなっていく。一歩一歩踏み出すにつれてどす黒い怒りが、憎しみが増大していく。

 彼はもう後ろに振り返らなかった。やがてその姿が暗闇の中へ消えた。


 第四章 終


次回 第五章 父と子

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ