第三章 学園 後編
第三章 学園 後編
1
2013年12月4日 夜八時
自分のベッドの上で横になってから、どれだけの時間が過ぎたかな……。
部屋の中には時計の針の動く音だけが響いている。
それを耳にしながらあたし――結城沙耶は自分の部屋の天井を見つめていた。
結局、昨日も今日も里菜とはまともに話をしていない。雄二もあたしが落ち込んでいるのに気を使っているのか、あまり話しかけようとはしてこなかった。
こんな状態がいつまでも続いてはいけないと思う。でも、どうしても雄二が里菜のことを好きなのが、引っかかった。
雄二は里菜のことが好き。そして、里菜は斎藤先生のことが好き。じゃあ、どうすれば……。
「!」
それはふと思いついた。あたしが里菜のことを応援して、先生とうまくいくようにすれば、雄二の思いも変わるかもしれない。そしたら、雄二は今度こそ、あたしのことを見てくれる。
壁にかかったカレンダーを見ると、湯田月祭まであと三日に迫っていた。
湯田月高校特有の一大イベント。他の高校でいう文化祭のようなもので、毎年、各クラスの生徒が色々な店を出したり、劇やライブなど大規模な催しを行ったりする。都市部に近いこともあって、大勢の人が毎年来るらしい。
里菜がこのイベントに先生を誘えば、あたしは雄二と行動を共にできるかもしれない。
あたしはすぐに携帯で里菜に電話をかけた。里菜はすぐに出た。
『もしもし? 沙耶?』
少し戸惑ったような声が聞こえてくる。当然だよね、昨日と今日はあまり話をしていなかったから。
「あ、里菜。ごめんね、最近、あまり話ができなくて。あたし、ちょっと体調悪くて、元気がなかったの。ほんとにごめんね」
『そうだったんだ。こっちこそ、ごめんね。そんなことも知らずに話しかけたりして……』
「別にいいよ、気にしてないから」
なんだ、あたし、普通に里菜と話できてるじゃない。
思ったよりも簡単にできて少し驚いたが、すぐに本題に入ることにした。
「ねえ、里菜。明日さ、斎藤先生を誘ってみようか?」
『え、誘うって?』
「決まってるじゃない、湯田月祭によ」
『ええ!? そ、そんな明日に言うなんて!』
里菜が驚いた声を出す。その様子を頭の中でイメージして、思わず笑ってしまった。
「こういうことは明日でも明後日でも一緒なの。それに祭りも今週末でしょ。早く言わないと誰かに取られるかもしれないじゃない」
『そ、そうだけど、わたし……』
「大丈夫だよ、里菜ならできる。明日の昼休みにまた雄二と三人で集まって、どこで誘うか決めようよ」
『で、でも……』
「大丈夫だって、自信もって。里菜ならきっとオーケーしてくれるわよ」
あたしがそう言うと、しばらくして里菜が『わかった……』と小さく返事した。
「じゃ、また明日ね、里菜」
『う、うん、また明日』
そこで電話を終えて、あたしは再びベッドの上で横になった。
斎藤先生が里菜からの誘いを受け入れるのかどうか、あくまで予想だけど、あたしは受け入れると思っている。
はっきりとした理由があるわけではなかったけど、普段の先生の様子を見ていると、里菜と話している時が一番楽しそうにしていたからだ。
あの子と話をするのをとても楽しんでいる。少なくとも悪い感じではなかった。
絶対に里菜と斎藤先生がうまくようにする、そして、あたしは雄二に……。
あたしは自然と拳を握りしめていた。
2
2013年12月5日
今日は朝から雨が降り続けている。太陽が照って暑くなるのは嫌いだが、雨で濡れるのもあまり好きではない。中間の曇空が好きだった。
俺――中西雄二はいつものように、朝の七時三十分に自宅のマンションを出た。
俺には母親がいない。三年前に病気で死んだ。今は親父と二人で暮らしている。
ずっと前から俺は心に決めていることがある。高校を卒業したら、絶対に地方の大学に行く。少なくとも、この町から離れたかった。
理由は単純だ。俺はとにかく親父の元から離れたかった。いつまでも、親父と一緒に暮らすのは嫌だった。
俺の親父は母さんを見殺しにした。病弱だった母さんの容態が悪化しても、親父は自分の仕事を優先して、一度も見舞いに来なかった。結局、親父が見舞いに来ないまま、母さんは死んでしまった。
俺は親父のように情のない人間には絶対にならない。だから、一刻も早くここから出たかった。
まあ、沙耶には何か言われるかもしれないけどな。
「それにしても、あいつ、今日は来ているのか……」
一昨日から沙耶とはまともに話をしていない。あいつはいつもの待ち合わせの公園には行かずに、俺たちは別々で学校に通っていた。
何か理由があるのは間違いなかったが、あんな元気のない顔を見ていたら、気を使って何も言えなかった。
いつもは遠慮なく悪口言えるのに、ここ最近、あいつはあいつらしくない。それでも、俺がこの公園で待っているのは癖というか、心配しているというか……。
「雄二!」
公園のベンチで待っていると、久しぶりにあいつの元気な声が聞こえてきた。
入り口のほうを見ると、沙耶が息を切らしながら走ってくるのが見えた。
まだ八時を過ぎていないのに、こんなに早く来るなんて珍しい。
「雄二、ごめん……最近一緒に行けなくて」
「……」
俺は何も言わずに沙耶の前に立った。
「え、雄二?」
俺は無言で沙耶の額に……デコピンした。
「いたっ! 何するのよ!」
「今日は元気そうだな」
そう言うと、沙耶は額を押さえながら顔を下に向けた。
「ごめん、心配させて」
「別に。お前みたいに元気だけが取り柄の幼馴染のことなんか、心配してなかったよ」
「雄二……」
「最近、何があったのかは知らないけど、俺は何も聞かない。言いたくないんだろ? でも、今日のお前はいつもの沙耶だ。じゃあ、俺はそれでいい」
俺は鞄を背負いなおして歩き始めた。
「ほら行くぞ」
「雄二、今日の昼休みまた校舎裏に集合よ!」
「う、また集まるのかよ」
「もちろんよ。湯田月祭まであと僅かじゃない」
両手を腰にあてて、きっぱりと言い切った沙耶はもう完全にいつもの調子だった。
「はいはい、わかったよ」
俺もいつものように適当な態度でそう返事をした。
3
「やっぱり明日誘うの?」
その日の昼休み、俺たちは校舎裏に再び集合した。沙耶の提案を聞いた川崎は案の定、困った表情をした。
「そうよ、斎藤先生が湯田月祭に参加することはすでに調べておいたわ」
「そんなこといつの間に調べたんだ?」
「さっきの休み時間にクラスの女子に聞いてまわったの。斎藤先生のファンの子からきいた確定情報よ」
こいつ、そんなことしていたのか。えらく張り切ってるな。
「そして明日の放課後、斎藤先生は三限目の授業で担当が終わるから、それ以降はずっと職員室にいることもわかったわ。あとは里菜が先生を誘えばいいだけよ」
「さ、誘うっていっても、どう誘えばいいのかな。わたし、誘われたことは何度もあるけど、自分から誘ったことなんて一度もないよ」
「いい? よく聞いて里菜」
沙耶が川崎の両肩に手を乗せて真剣な顔つきになった。
「デートに誘うのなんて誰でも緊張するものよ。先生は立場があるからうかつに生徒を誘うことはできない。向こうから誘ってくる可能性はとても低いわ。ここで里菜が勇気を出さないと、もう斎藤先生に会えないのかもしれないのよ」
「うん、そうだね。いつまでもうじうじしていても仕方ないもんね」
川崎も表情を引き締めた。
「わかった。明日、先生を誘ってみる!」
これで明日の段取りを決まったようだ。俺は終始何も言わずに二人の会話を聞いていた。
沙耶は俺に気を使っているのか、何も意見を聞いてこなかった。あいつなりの配慮なのかもしれないが。
4
2013年12月6日
翌日の放課後。
わたし――川崎里菜はゆっくりと職員室に向かって歩いていた。
目的はもちろん斎藤先生に会い、彼を湯田月祭に誘うことだった。
どうしよう。どうやって誘ったらいいの?
さっきからずっとそのことしか考えていない。歩くたびに心臓が高鳴っているような気がした。
だけど、わたしは絶対に立ち止まろうとはしなかった。自分がここで先生を誘わなければ後悔すると思ったからだ。そんな気持ちでこれからを過ごしていくことはできない。それに、これから先、先生とまた会えるという可能性も低かった。
チャンスは今しかない。
四階にある教室から階段を下りて、わたしは職員室の近くまで来た。
そこで思わず足を止めた。職員室の前の廊下で斎藤先生が窓から外を見ていた。
斎藤先生……だよね?
一瞬そう思ってしまうほど、先生の雰囲気がいつもと違った。
いつもの穏やかな表情が真顔で、目が死んだ人のように虚ろになっている。
何を見ているんだろ?
そう思って先生の視線の先をたどると、校舎前の道路脇に白のワゴン車が停まっていた。
あの車には見覚えがある。雄二くんがずっと前から停まっていると気にしていた車だった。その車を先生が睨みつけているように見えた。
「斎藤先生?」
先生のそばで話しかけると、それまでの重い雰囲気が嘘のように消えた。表情がいつもの穏やかなものになり、わたしのほうを見た。
「ああ、川崎か。どうかしたのか?」
「先生……」
何を見ていたんですかと聞こうとしたが、直前で言葉が詰まった。
そんなことを聞いてどうするのかと考えたし、何より先生のところに来た目的はもっと別のことだったからだ。
さっきの先生の様子も気になるけど、そのことはひとまず頭の隅に置いといた。
「あの先生、少しお話があるんですけど、屋上までついてきてくれませんか?」
「ん? ああ、別にかまわないよ」
先生は笑顔で応じてくれた。
5
屋上に向かう階段を上がるたびに、それまでの心臓の鼓動がさらに加速し始めた。
すぐ後ろに斎藤先生がついてきていると思うと、頭の中が真っ白になる。でも、沙耶のいった言葉だけは絶対に忘れなかった。
『デートに誘うのなんて、誰でも緊張するものよ。でもね、里菜が勇気を出さないと後悔するかもしれないよ。ここで頑張らないと』
後悔だけはしたくない。
わたしは拳を握り締めて屋上に出た。
正面に町の背後にそびえる真馬流山が見えた。その山の裏へ大きな夕日が沈んでいく。
「どうした、川崎? また悩み事でもできたか?」
「あ、あの先生!」
わたしは後ろに振り向いて先生を見た。
「川崎?」
先生は少し驚いたような表情をした。
心臓の鼓動はもう絶え間なく鳴り響いていた。
「あ、あの先生……先生は明後日の湯田月祭、参加するんですよね」
「ああ、この学校の一大イベントだからな。とりあえず行くつもりだ」
「それであの、先生……もし良かったらわたしと湯田月祭のお店をまわってもらえませんか?」
「え?」
「っ!」
先生の驚いた顔を見て、思わず目を閉じてしまった。視界が真っ暗になり、心臓の音だけが鳴り響いてくる。
やっぱりわたしなんかじゃ……。
「いいよ」
「え……」
一瞬先生が何を言ったのかわからなかった。目を開けると、先生は笑顔になっていた。
「どうせ、適当に歩き回ろうと思っていただけだし、二人のほうが楽しいと思うからな」
「じゃ、じゃあ……」
「湯田月祭、一緒に楽しもうぜ」
「は、はい!」
夢じゃない。先生はわたしに応えてくれた。全てが夢のようで、嬉しくて仕方なかった。
6
2013年12月7日
次の日の夜。
『じゃあ、当日屋上で待ってるよ』
先生が帰り際に言ってくれたことがまだ頭の中に残っている。
いよいよ明日か……。
午前中は模擬店の店番をするので、先生と回るのは午後からになる。すでにわたしの中で先生とどんな時間を過ごすことになるのか、妄想が膨らんでいた。
「どうしたの、里菜?」
「え?」
気が付くとお母さんが心配そうな顔を浮かべてわたしを見ていた。
手元にご飯が並べられているところから、夕食の途中で明日のことを妄想していたようだ。
「何だ、彼氏でもできたのか?」
「ええ!?」
お母さんの隣にいたお父さんが冗談でいったことは遠からず、的を射ていた。
「あら、里菜いつの間にできたの!?」
「そ、そんな……ついに里菜にもできてしまったのか!?」
お母さんは手に持っていた箸を落とし、お父さんはなぜか泣き始めた。
「ちょっ、ちょっとまだ何も言ってないよ!」
それからしばらくのあいだ、わたしは戸惑う二人に事情を説明するのに時間がかかった。
『良かったね。里菜の思いがきっと伝わったんだよ!」
両親をなだめたあと、自分の部屋に戻ったわたしは沙耶に電話をかけていた。
学校にいる時に言ったほうがよかったのだが、あまりの嬉しさにぼうっとしていて、連絡するのを忘れていた。
「うん、本当にありがとう。沙耶のおかげだよ」
『何言ってるのよ。先生に直接言ったのは里菜でしょ。勇気を出して、自分の言葉で必死に伝えたのは里菜よ。あたしはちょっと背中を押しただけ』
「うん、それでも沙耶がいなきゃ、わたしずっと後悔していたかもしれないから、お礼だけは言わせて」
『わかった。でも、それはまだ早いわ。本番は明日よ、里菜』
沙耶の言葉ではっきりと自覚した。今日は斎藤先生を湯田月祭に誘っただけだ。まだ、自分の気持ちを先生に伝えたわけじゃない。
「うん、わかってる」
『応援してるよ。里菜のこと』
「うん、ありがとう」
『じゃあ、また明日ね。おやすみ』
わたしはおやすみ、と言って沙耶との電話を終えた。机に携帯を置いて、ベッドの上に寝転がった。
「斎藤先生……」
いつの間にわたしはこれほど先生のことを気にするようになったのだろう。
最初に先生と会った時は、良い先生だなあと思っていただけなのに。
これが好きな人をどんどん好きになることなのかもしれない。
「先生……」
わたしはそのまま眠りに入った。
7
2013年12月8日 湯田月祭当日。
『ご来場の皆さん、おはようございます。湯田月祭実行委員長の田中 風美子です。本日は雲一つない青空に恵まれて第五十四回湯田月祭を開くことができました。各クラスが模擬店、出し物などを行っているため、たくさん楽しんでください。それでは、湯田月祭を開催いたします!』
校舎から可愛い女の子の声が聞こえ、いよいよ祭りが始まった。校門が開いて並んでいた大勢の人間が校内へ足を踏み入れて行く。
もちろん、俺――五島昇も人ごみに紛れて中へ入った。
せっかくのお祭りだ。少しは楽しまなければ面白くない。普段のゲームとは違い、リアルで行われるこういう催しも悪くない。
仕事でなければ心底楽しかったのかもしれないけど。
「いらっしゃいませ! おいしいたこ焼きはいかがですか!」
校門のすぐそばで声が聞こえてきた。見ると、大きなタコの看板をつけた店があり、その前で女子高生二人が勧誘をしていた。
一人はポニーテールで明るく活発な印象を受ける。毎日スポーツをやってそうだ。
対照的にもう一人は黒髪のショートヘアーで内気に見える。しかし、容姿はとても綺麗で俺の好みだった。俺はその子に話しかけることにした。
「お嬢ちゃん、一つもらっていいかな?」
「は、はい、二百円になります!」
急に話しかけられたことに驚いたのか、その子は慌てて言った。うん、ますます好みだ。
「悪いね、いま五百円しかなくてね。お釣りもらっていいかい?」
「はい、わかりました」
その子は俺の渡したお金を受け取り、奥でたこ焼きを作っている男子生徒に渡した。
「雄二くん、一人前とお釣り三百円もらっていい?」
「おう」
雄二と呼ばれたそいつは一瞬俺のほうに鋭い視線を向けてきた。どうやら、俺と同じでこの子に惚れているらしい。
「お待たせしました」
「どうもありがとう」
女の子が差し出したたこ焼きを受け取って礼を言った。
「おお、これはおいしい!」
試しに一つ口に入れると予想以上においしかった。関東でもたこ焼きを頂けるとは今日の俺はついているのかもしれない。
その時、携帯の着信音が鳴り響いた。
「はいはい。ああ、井毛内か、どうだ? 奴は見つかったか?」
『下関と前橋にも捜索させていますが、まだ見つかっていません。本当に奴はいるのでしょうか?』
「いるのは間違いない。俺たちにとっても奴にとっても、敵を潰すチャンスはこの祭りの時だけだ。それにやつはこの学校から離れられない理由を持っている」
『わかりました、五島さんの予想に賭けますよ。二人には捜索を継続させます』
言い終わると、井毛内は電話を切った。
俺はたこ焼きを口にしながら周囲を見回した。大勢の人が校舎内にどんどん入ってくる。
「いるんだろ、黒刀。もう俺たちは来ているぞ」
その人ごみの中にいるかもしれない敵に俺はそう語りかけた。
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時間はあっというまに過ぎ、お昼の休憩にはいった。店番を終えたわたしは学校の更衣室で身につけていたエプロンとバンダナを外した。
いよいよ、このあとだ。もう先生は屋上で待っているかもしれない。
「大丈夫だよ、里菜」
隣のロッカーで制服に着替えていた沙耶が言った。
「ん?」
「自信を持って。向こうはもうオーケーしてくれているんだから大丈夫だって」
「うん、わかってる」
「よし、じゃあ張り切って行ってこい!」
沙耶に後ろからぽんと叩かれてわたしは更衣室を出た。
屋上まで行くのにそれほど時間はかからなかった。でも、扉を開けるところでやはり立ち止まってしまった。
もう先生が待っている。気持ちを落ち着かせるためにわたしは目を閉じた。
『自信を持って。里菜なら出来るよ』
沙耶の言葉を思い出し、わたしは大きく深呼吸した。
「よし!」
気合いを入れて屋上の扉を開いた。
今日の天気は曇り空だったが、その合間から太陽が顔を出し始めて明るくなっていた。
先生はフェンス越しに学校の外を見ていた。服装はいつもの黒のスーツじゃない。フードのついた灰色の服に青のジーパンを履いた私服だった。
先生の私服姿に驚いたが、それよりも話しかけるのをためらうことがあった。先生の表情がまた暗くなっていた。一昨日、湯田月祭に誘った時と同じだ。そこにいる先生はまるで別人のようだった。
もしかして、と思って先生の視線の先を辿ったが、あの白のワゴン車は見当たらなかった。でも、このまま話しかけずに呆然と立っているわけにもいかない。
ぐっと拳を握って先生に話しかけた。
「先生」
「ん、ああ、川崎か?」
以前はすぐに明るい顔に戻ったが、わたしが話しかけても、今の先生は暗い表情のままだった。
「どうかしたんですか? なんだかとても暗い表情をされてましたけど」
「いや、もうすぐこの学校を離れる思うと寂しくなってな。最後にこの景色を見ておきたかったんだ」
先生はフェンスに手を触れて再び湯田月の町の景色を眺めた。
「もう失いたくない……」
「え?」
先生が何を言ったのか、聞き取れなかった。
「いや、何でもないよ」
先生はフェンスから離れてわたしに笑顔を向けた。
「さ、今日は思い切り楽しもうぜ」
「は、はい」
こうしてわたしは先生と校内の店を歩き回った。
他の生徒たちの視線が気になったけど、先生は全くそんなことにはお構いなしの様子だった。
わたしは先生と一緒に卓球をしたり、イカ焼き、フランクフルトやクレープを食べたり、一緒に色々なことを話したりした。屋上でのことはあまり考えないようにしたし、何より先生と遊ぶ時間がとても楽しかった。先生と一緒にいるだけで本当に幸せな気分だった。
「川崎、次はここに行かないか?」
「え、ここは……」
校内の店をある程度まわったあと、先生と私は南校舎一階に来ていた。そこにある教室の入り口に『おばけやしき』と書かれた看板が置かれている。
「もしかして川崎、怖いの苦手か?」
「は、はい……とても……」
「じゃあ特訓がてらに行ってみようぜ」
「あ、先生!」
先生はわたしの手を掴み、そのままお化け屋敷の中に入った。
9
「こちら下関、ターゲットを確認しました」
朝からずっと探していた黒刀を見つけ、携帯で五島さんに報告する。
一週間ほど前から学校に潜入していたにも関わらず、黒刀は俺たちの目をずっと欺いていた。そんな奴をようやく見つけたと思ったら、女子高生と楽しそうに店を歩き回ってる。
色んな意味でむかつくことだが、五島さんから命令がない以上、うかつに行動することはできない。
これまでに奴が大勢の仲間の命を奪っているのは承知の上だった。しかし、黒刀はここに来て致命的なミスを犯した。お化け屋敷の中なら部屋が暗いため、襲撃できる。
「ターゲットはお化け屋敷の中に入りました。いいタイミングです。ここで仕留めます」
五島さんへ連絡を入れ終わると、俺は腰につけていたひょっとこの面を被った。
こうしておけば簡単に身元がばれることはない。黒刀を始末したあとでも疑いはかからないだろう。
黒刀のあとを追う形でお化け屋敷の中へ入った。
教室の内部は想像以上の暗さだった。所々から叫び声が聞こえ、不気味な怪物に変装した生徒が何人かいる。
「うおおおおおお!」
「きゃああ!」
「おお、よく出来てるなあ」
「せ、先生、怖いですよ!」
「ははは、だから楽しいんじゃないか」
「ちょっと先に行かないでくださいよお!」
聞こえてくる叫び声の中に黒刀とさっきの女子高生の声が聞こえてきた。
ここで仕留めるしかない。奴は女子高生との会話に夢中になっていて、隙を見せている。もうこんなチャンスは二度と来ないだろう。
息を潜めて刀人の力を使った。力を使った瞬間に自然と息が荒くなってきた。
やばい、あいつを殺したくてたまらない。興奮に似た高揚感が体中を刺激する。いつも、そうだ。
この力を使うと他の人間の命を奪いたくなる。そいつが死ぬところをこの目でじっくりと見届けるのを想像してしまう。
でも、それがいい。俺がこの世に生まれて一番喜びを感じる瞬間がそれだ。
心の奥底から湧き出る興奮を感じながら、ゆっくりと黒刀に近づいていく。そして、ついに奴の背中が見えるところまで来た。
刀人の力で出現させた短剣を構える。
死ね!
奴の背中に向かって突き刺そうとした瞬間だった。
「ぐおおおおお!」
突然、俺と黒刀の間に学生が変装した青い怪物が飛び出してきた。
「きゃああああ!」
さっきの女子高生の声が聞こえてきたが、奴の声はしなかった。
まずい、と思ってその場から離れようとしたが、その前に背中に鋭い痛みを感じた。
「!」
驚いて後ろを見ると、黒刀が鋭い目で俺を見ていた。その手に握りしめた刀は間違いなく俺の体を貫いている。
「てめえ……」
体中の力が抜け、倒れかけたが、黒刀は素早く刀を引き抜いて、俺の体を支えた。
そのまま俺を運び、教室の裏口を探し出して校舎裏に出た。近くにあるゴミ捨て場に放り込まれる。
「殺してやる……殺してやる……」
俺は睨みつけたが、奴の表情は変わらなかった。
「死ね」
奴の構えていた刀の先端が心臓をとらえ、そこで俺の意識が消えた。
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「あれ、先生?」
ふと気が付くと先生の姿が消えていた。暗い教室の中でわたしは一人ぼっちになってしまった。
「先生? 先生!」
周りを見回してみたが先生の姿はどこにもない。
「先生……」
だんだん不安になってきた時、不意に後ろから肩を叩かれた。
「ひゃっ!?」
びっくりして後ろに振り向くと先生が立っていた。
「せ、先生!?」
「何ぼうっと立ってたんだ? 先に行くところだったぞ」
「でも、先生急にいなくなったから……」
「川崎がついてきていると思って先のほうに進んでいたんだ。ほら、行くぞ」
そう言って先生はわたしの手を握って歩き始めた。
「あ、先生……」
わたしはそのまま先生に引っ張られて先を歩いた。
先生の手……暖かい……。
その温もりを感じていると、いつの間にか沸き起こっていた不安が消えていった。
それでもお化け屋敷の中で悲鳴をあげた回数は数え切れなかった。
「ふう、やっと終わった……」
お化け屋敷を抜け出してわたしはほっと一息ついて膝をついた。
「よく頑張ったな、川崎。あと五回ぐらい行けば、もう慣れるよ」
先生が笑顔を浮かべてわたしに手を差し伸べた。
「そんなに行ったら身体が持ちませんよ」
苦笑いしながら、わたしは先生の手を握って立ち上がった。
「先生、わたし、ちょっとトイレに行ってきますね」
「ああ、じゃあこれを使えよ」
そう言って先生はわたしに青色のハンカチを貸してくれた。
「あ、ありがとうございます!」
「あとでちゃんと返せよ」
正面から笑顔を向けられたので、わたしは恥ずかしくなって足早にトイレのほうに向かった。
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午後四時。
湯田月祭ももうすぐ終盤に差し掛かろうとしていた。校門をくぐり抜けて帰っていく人たちも現れ始めている。
トイレに行った後、わたしは先生と一緒に体育館のほうに向かっていた。
「先生、体育館のほうで劇をやってるみたいですよ」
「へえ、劇か。そういえば二年生が中心になってやるとか言ってたなあ」
「来年の湯田月祭ではわたしたちがやるんですよね」
でも、その時にはもう先生が……。
「行ってやろうか?」
「え?」
「またこの町に戻ってきたついでにこの学校に寄るよ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、覚えていたらだけどな」
先生は苦笑いを浮かべた。
「早く観に行こうぜ」
「は、はい」
先生のあとにしたがってわたしは体育館の中に入った。
既に体育館の中はたくさんの人でいっぱいになっていて。色々なところからざわめきが聞こえてきた。
電気は消されていて、奥にあるステージだけがスポットライトで照らされている。
「もうすぐ開演みたいだな」
「最初は『未来から来た少年』って劇みたいですね」
ステージの脇に立て掛けられた看板を見ながら言った。
「どこかのアニメのタイトルみたいだな」
「勝手に決めつけないでくださいよ」
「はは、悪い悪い」
先生はそう言うと口を閉じて周囲を見回した。その目が若干細まった。
あ、またあの目だ……。
わたしは先生の顔を見ながらそう思った。屋上に来た時も先生は同じ目をしていた。とても冷たく、寂しそうな目。どうしてだろう。
いつもわたしが見ている先生より今の寂しそうな目をしているのが、本来の斎藤先生のような気がした。
ただの勘違いかな……。
「川崎、もうちょっと前のほうにいこうぜ。ここからじゃよく見えない」
「え、あ、はい」
わたしと先生は人混みをくぐり抜けながら体育館の奥へ進んだ。
『まもなく二年C組による『未来から来た少年』が開演いたします。今日のためにC組のみんなは毎日頑張って練習してきました。どうか最後までご鑑賞のほうをよろしくお願いします。それではC組の皆さんお願いします』
アナウンスが聞こえ、体育館の照明が消えて、部屋全体が暗くなった。
舞台の幕がゆっくりとあがり『未来から来た少年』が始まった。
劇の内容は未来から来た少年が高校生たちに未来の危機を伝え、今の世界にいる人たちが何をしなければならないのかを考えさせるものだった。
二年C組の先輩たちが、それぞれの役割を持った生徒を演じている。
最近、深刻な問題になっている地球温暖化の話が学校内で広がった影響もあって、今日公演される劇も環境問題に関連したものが多かった。
「へぇ、湯田月祭の劇は色々と考えさせられるなあ」
「そうですね」
「地球の未来は川崎たちにかかっているからな。頼むぞ」
「先生もまだまだこれからじゃないですか」
「俺か?」
先生はそう聞き返すとステージのほうに視線を向けた。
「俺は無理だ……」
「え、何か言いました?」
「いや、なんでもないよ。そうだな、俺もまだまだ若いし、これからだな」
先生は笑いながらそう言った。
その笑顔を見ているとなぜか心が落ち着いてしまう。先生は本当に優しい人なんだ。
だからわたしは先生のことが……あれ?
気のせいなのか、急に寒気がきて体が震えた。背後から誰かがじっと見ているような感じがした。
ゆっくりと目だけを後ろに向けると、視界の端のほうにお面を顔につけた男の人が立っていた。どんな表情をしているのか、わからないがさっきからずっとわたしのほうを見ていたらしい。
誰だろう、あの人……。
少し気味が悪かった。お面の男性が歩き始めた瞬間に、前に向き直った
「……っ!」
「どうかしたのか?」
「い、いえ何でもないです」
先生が心配そうに顔を覗き込んだが、また劇のほうに視線を向けた。先生はお面の男性に見られていることに気づいていないようだ。
だんだん男性の視線を強く感じるようになった。ゆっくりとこっちに近づいているようだ。
「はあ……はあ……」
男性の荒い息がかすかに聞こえてきた。反射的にわたしは先生の腕をつかもうとした。
しかし、そこに先生はいなかった。先ほどまで感じていた男性の視線も突然なくなった。
「どこか具合が悪いんですか?」
背後から声が聞こえ、後ろに振り返ると先生がさっきの男の人を支えていた。
「どうかしたんですか?」
「この人が急に苦しんで倒れてきたんだ。どこか具合が悪いらしい。ちょっと保健室に連れていくよ。川崎はここにいろ」
「あ、先生」
「あとで劇の続き教えてくれよ」
言い終わると先生は男の腕を自分の肩にまわして体育館の外へ歩き去っていった。
気のせいかな……その時かすかに血の匂いがしたような気がした。
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後夜祭。
湯田月祭の全てのイベントが終了し、学校に来た人たちが帰っていく中、校庭の中央に巨大なキャンプファイアーが置かれた。その炎が周囲を照らし、空高くまで煙を立ち上らせている。
「暖かいですねえ」
「そうだな」
劇を見終わったわたしたちは手をかざしながら、燃え上がる炎を見つめていた。
すぐそばにあるステージではダンス部の女の子たちが踊り、まわりにいるたくさんの生徒たちがそれを盛り上げている。
「ありがとな、川崎」
わたしのそばにいた先生が言った。
「今日は久しぶりに楽しむことができたよ」
「いえ、わたしこそ……」
生まれてから十六年間、今の時間ほど楽しいことはあっただろうか。
好きな人と一緒に一日を過ごすことが出来て、これほど幸せだと思えたことはあっただろうか。
今のわたしはとても幸せだった。
でも、あとひとつ。わたしにはやることがある。
先生にわたしの想いを伝える。これから先に後悔だけはしないように、自分の想いを先生にぶつけようと心に決めた。
それからほどなくして、後夜祭は終わりを告げた。学校のみんなが帰り始めるなか、先生が言った。
「川崎、良かったら駅のほうまで送るよ」
「え、いいんですか!」
「ああ、せっかく川崎に誘ってもらったんだ。男としてちゃんと送らせてくれ」
「あ、ありがとうございます」
わたしがお礼を言うと、先生は優しく笑って歩き出した。
「じゃあ行こうぜ」
「はい」
夢を見ているような気分だった。これから先、どれだけ時が経っても、今日のことは忘れられないと思う。
駅までの道のりで、先生とわたしは今日の祭りの感想を話し合った。
「しかし、どのクラスも結構準備をしていたんだな。さすが湯田月高校特有のイベントだけのことはあるよ」
「そうですね」
「たこ焼き屋も良かったぞ。川崎たちが一生懸命頑張っているのが見えてたからな」
「あ、ありがとうございます」
「クラスのみんなはどうしてその努力を勉強にまわさないんだろうな」
「そ、それは……」
「ははは、まあ勉強と祭りは別物だから気にしなくていいか」
先生につられてわたしも笑った。すっかり暗くなった湯田月の町に真っ白な雪が降り始めた。その白い雪が頬にあたり、冷たい感覚を感じる。
でも、今のわたしの心はとても暖かった。
それからしばらく歩いて湯田月駅に着いた。先を歩いていたわたしは先生のほうに振り返った。
「ここで大丈夫です。一人で帰れます」
「そうか」
「今日は本当にありがとうございました」
「こっちこそ。とても楽しかったよ。ありがとな、川崎」
先生にそう言われてわたしの胸が高鳴った。
今しかない。わたしの想いを先生に伝えるのは今しかない。
「あ、あの、先生……わたし、わたし……」
心臓の鼓動が高まって言葉がなかなか出てこない。でも、あたしは勇気を振り絞って口を開いた。
「わたし……先生のことが――」
「川崎」
でも、わたしが言い終わる前に先生が手で制止した。
「先生?」
「悪い、その先の言葉は言わないでくれ。今、その言葉を聞いたら辛くなる。俺はもうすぐこの町から離れるからな」
先生が真剣な表情で話を続ける。
「でも、川崎が学校を卒業する時に俺はまたここに来るよ。必ず川崎に会いに行く。その時に改めて聞かせてくれ」
「斎藤先生……」
先生は手を伸ばしてわたしの頭を撫でた。その感触はとても心地よかった。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
先生はそう言うと、歩いてきた道を戻っていった。その後ろ姿が見えなくなるまで、わたしはずっと彼を見送り続けた。
自分の想いを伝えることが出来なかった。でも、先生はわたしのことを待ってくれると言ってくれた。また会いに来てくれると言ってくれた。
だから、わたしは待ち続けようと思う。
先生がわたしの想いに応えてくれるまで。
13
ぽつりと降っていた雪がまた段々と降り始めた。
寒さのせいで体が震えてしまう。ずっと建物の角で待っていたから仕方がないかもしれない。
湯田月の駅前で、黒刀は女子高生と別れて来た道を引き返した。奴が単独行動になったほうがいい。あまり騒ぎを大きくして、警察に気づかれてしまったら元も子もない。
既に下関と前橋からの連絡が途絶えて二時間は経過している。下関はお化け屋敷で黒刀を追うと言ったの最後に、前橋は体育館で行われていた劇で黒刀を発見したという報告を最後に連絡が来ていない。
間違いなく、二人はもうこの世に存在しないだろう。死体もしばらく見つからない。黒刀はあの大勢の群衆の中で二人を見つけ出して殺したのだ。その辺りの処理もぬかりない。
五島さんから連絡が来ない以上、あとは自分でやるしかなかった。
もし、ここで奴を倒せば、それなりの報酬がもらえる。何より、下関と前橋の仇を討たなければ気が収まらなかった。
黒刀はしばらく町の通りを歩き進むと、建物の角を曲がった。すぐにあとを追いかける。
こそこそと隠れるのはもう無駄だということもわかっていた。おそらく、奴は自分の存在に気づいている。だから、女子高生を逃がして単独行動に変えたのだ。
黒刀は上に線路が敷かれているトンネルの中に入り、その中央で立ち止まった。
「奴らの仲間か」
横目で後ろに振り返る。
「やっぱり気付いていたのか。あの大勢の人ごみのいる中で、下関と前橋をよく殺したな。それで何人目だ。十三年前のあの日からお前はいったい何人の命を奪ってきた? 人を殺すために生きて、虚しくならないのか?」
「……」
嫌味で言ったつもりだが、黒刀は全く表情を変えなかった。話すつもりはないらしい。
「じゃあ、黒刀、お前には死んでもらう」
腰につけていたひょっとこの面を被って、刀人の力を発動させた。
両手に鋭い三本の鉤爪が現れる。
負けるはずがない。下関と前橋はただ油断しただけだ。それに今日一日で奴は刀人の力を何度も使って、体力を消耗している。
こんな有利な状況で負けるはずがなかった。
「死んでしまえよ、黒刀」
「……」
黒刀は無表情のまま、右手に真っ黒な刀を出現させた。その表情が段々と暗くなっていく。
まだ力を使う力を残していたのか。だが、それも限界に近いはずだ。この力で十分に倒せる。
「くたばれ!」
鉤爪を振りかざして、黒刀に向けて突進し、奴に向かって振り下ろした。
黒刀はその場からほとんど動かずに俺の攻撃を防いだ。全身の力を込めたが、奴は全く動かない。
ありえない。いくら黒刀といっても、こんな奴に俺が……。
考えているうちに、黒刀は俺の攻撃を遠ざけて、刀を突き出してきた。
俺は空中に跳び上がって、それを避け、体を回転させながら鉤爪で黒刀を斬りつけた。
血がトンネルの壁に飛び散る。確かに手応えがあった。だが、その攻撃で黒刀に傷をつけたのは顔の頬だけだった。
黒刀は攻撃の隙を見せた俺に向かって再び刀を突き出した。空中にいるため、よけられるはずがない。
「ぐっ!」
奴の刀の先端が腹部に突き刺さり、そのまま壁に叩きつけられた。
「お前……!」
こんな奴に。こんなゴミみたいな奴に俺が。俺が負けるはずがない。
この俺が!
「黒刀ぁ!」
「黙れ」
黒刀はただ一言そう言うと、手にした刀を振り上げた。
14
空から降る雪がだんだんと増えてきた。
斎藤先生と別れた後、わたしは一人で自分の家に向かって歩いていた。
先生……。
まだ嬉しさが残っている。
もしかしたら今日の夜は眠れないかも。
良い気分で歩いていると、ふと自分のポケットに何かが入っていることに気づいた。
「あ!」
それは湯田月祭でトイレに行った時、先生に借りたハンカチだった。
「いけない、返すの忘れてた」
わたしは慌ててもと来た道を引き返した。
今、思えば、あの時なんでわたしは引き返してしまったんだろう。
明日になっても先生に会うことが出来たのに……。
その時のわたしは先生にハンカチを返すことで頭がいっぱいだった。
駅まで引き返してみたが、斎藤先生の姿はなかった。辺りを見回してもどこにもいない。
やっぱり帰っちゃったのかな。
わたしはあきらめて自分の家に向かって再び歩こうとした。
だけど、その前にびりっと電撃のようなものが頭に流れてた。
「な、なに、今の?」
その場に立ち止まり、頭を押さえる。
何かを感じる。
なんだろう。妙な感覚だった。寒いとか冷たいとかそういったものではなく、何かがわたしを惹きよせているような気がした。
いつの間にか、わたしはその気配の感じるほうへ歩き始めた。
どうして……体が勝手に……。
流されるまま、わたしは町の通りを歩き、しばらくして通りの角を曲がった。その通りは街灯が少なく、建物の明かりもほとんどなかったため、かなり薄暗かった。通りの脇にある狭い道に向かってさらに歩き進む。その道の先には駅の線路が上に敷かれた小さなトンネルがあった。
「!」
わたしは無意識のうちに立ち止まった。
トンネルの中に人がいる。その人はわたしのよく知っている人で。湯田月高校の教師で。わたしの好きな人だった。
「斎藤先生?」
先生は全身に赤い血を浴びていた。右手には真っ黒な刀を握りしめている。先生の目は祭りの最初に見た時と同じ虚ろな目だった。
先生の前には若い男の人が倒れている。身体中が赤い血に染まっていて苦しそうな表情を浮かべているその男の人に先生は刀を向けていた。
ま、まさか、先生が……そんな……。
これから見るであろう光景を勝手に想像して、それを必死に否定しようとしたが、見ているものは紛れもなく現実だった。
次の瞬間、先生は何の躊躇いもなく男の人に真っ黒な刀を振り下ろした。赤い血がさらに飛び散り、男の人はもう動かなくなった。
う、うそ……。
全身から力が抜け、わたしの手の中から先生のハンカチが滑り落ちていった。
第三章 後編 終
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