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黒刀  作者: かとぶ
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第二章 アゲハ

第二章 アゲハ


1


 十四年前 1999年


 俺の家の近くには公園があった。滑り台やブランコみたいな遊具があるだけで、たいした特徴もない、どこにでもあるような普通の公園だ。中学生の頃、学校から帰る時にその公園のそばを通るのが日課になっていた。

 中学一年の秋。裏山の背後に大きな夕日が沈んでいったあの時も、俺はその公園のそばを通っていた。

「ん?」

 視線を公園の中に向けて、俺はその場に立ち止まった。

 ブランコに座って泣いている中学生の男子が目に止まった。俺とは違う中学の制服を着ている。そいつはずっと泣いたまま、その場から動こうとしていなかった。

「……」

 少し迷ったが、俺はそいつに話しかけることにした。

「何泣いてるんだよ、お前?」

「う……」

 そいつは必死に泣き止もうとしていたが、両目から涙を流し続けていた。

「男がそんなに泣いてどうするんだよ」

「君にはわからないよ。僕の気持ちなんか……」

 小さな声だった。だけど、すぐに何があったのかわかったような気がした。

「何か嫌なことがあったのか?」

「学校でいじめられているんだよ。毎日、毎日……」

 そいつはまた小さな声で言った。

 いじめか……。

 そんな話は俺の学校でもよく耳にしているから、いじめがどれだけ辛いのか、だいたいわかる。実際にこの目で見た時は、いじめていた奴らをぼこぼこにしてやった。

 特に理由はない。腹が立っただけだ。

 その結果、なぜかいじめていた連中と一緒に教師に怒られてしまったけど。

「俺にはわかるぜ」

「えっ?」

「お前が辛い思いをしていることだよ」

 俺はそいつの隣のブランコに乗った。

「俺がなんとかしてやろうか?」

「ど、どうやって?」

「そうだなあ、まずはお前をいじめた奴の家に上がり込んで、そいつをぼこぼこにして部屋をむちゃくちゃにして、それから――」

「もういいよ……」

 そいつはなぜか呆れたようにため息をついた。

「なんだよ、ここからが本番なのに……」

「ごめん、でも僕のことを考えてくれてありがとう。学校にはそんな人、誰もいないよ」

「先生には相談しなかったのか?」

「無駄だったよ。僕の話をちゃんと聞いてくれるのは家族だけだから」

 そいつは寂しそうな顔をして言った。

 自分を助けてくれる人が家族だけか……。そりゃあ辛いよな。

だとしたら、俺がやるべきことは一つだけだった。

「じゃあ、これからは俺もお前の味方になってやるよ」

「え?」

「お前が困ってたら俺が助ける。俺はいつまでもお前の味方だ。絶対に見捨てたりしないし、辛いことがあったらいつでも言えよ。学校帰りにここは毎日通ってるし」

「ど、どうしてそこまで……」

 そいつが驚いた表情をして聞いてきた。俺は笑顔で言った。

「当たり前だろ。だって俺らもう友達になったんだからな」

「友達……」

「そうだよ。俺たちは友達だ。こんなに仲良く喋ってんのに友達じゃないほうがおかしいだろ」

「う、うん!」

「じゃあ決まりだな!」

 俺はブランコから飛び降りてそいつに手を差し出した。

「俺、糸井智彦(いといともひこ)。智彦って呼んでくれ」

 そう言うとそいつは嬉しそうに俺の手を握った。

「音坂……音坂稜(おとさかりょう)

「音坂稜か。いい名前だな。これからよろしくな、稜」

「こっちこそよろしく……糸井くん」

「智彦でいいよ。遠慮するな」

「う、うん。わかったよ、智彦」

 それが俺と稜の初めての出会いだった。

 俺たちはすぐに打ち解けた。他人から見ても仲の良い友達にしか見えなかったはずだ。本当に俺たちは仲が良い友達だった。でも、あの時の俺はまだ知らなかった。近い将来に、俺たちは全く別々の道へ歩んでいくことに気づくことができなかった。


2


 2013年11月11日 


 俺はMEP特捜課に所属し、刀人(かたなびと)の事件を捜査する刑事。

 そして(りょう)は刀人で、あげは蝶の刺青の刀人を次々と殺害する犯罪者。『黒刀(くろがたな)』の名を持つ指名手配犯。

 特捜課の刑事と刀人。俺たちがこうして再会したのは何かの運命だったのかもしれない。

 いや、運命だろうと何だろうと俺には関係ない。俺は何としてでも稜を止めなければならない。それが俺の使命だった。

「久しぶりだな、この町にいることはわかっていたぞ、稜」

「……」

 稜は何も答えずに俺を見ていた。あいつの足元には男が倒れている。月の明かりで首筋にアゲハ蝶の刺青が見えた。

「その男、お前が殺したのか?」

「それがどうした?」

「稜、お前……」

 当然のように聞き返してきた稜に対して、自然と拳銃を強く握り締めた。

「糸井さん!」

「糸井!」

 その時、俺のあとを追ってきた絢音と中西が工場の中に入ってきた。二人はすぐに稜の存在に気づき、拳銃を構えた。

「二人とも、離れてろ。こいつが黒刀だ」

「なっ、こいつが……」

 中西が驚いて言葉を失っていたが、それを無視して稜に言った。

「稜、いつまでこんなことを続けるつもりだ?」

「稜? なぜ、お前が黒刀の名前を知っているんだ?」

 中西は俺が稜の名前を口にしたことを聞き逃さなかった。俺の代わりに絢音がその答えを口にした。

「黒刀は……糸井さんの親友だった男です」

「なに!」

 いずれ中西にも話そうと思っていたが、今は気にかけている場合じゃなかった。

「答えろ、稜。いつまでこんなことを続けるつもりだ?」

「……」

「答えろ!」

 拳銃を構え直して怒鳴りつけると、稜は表情を変えずに答えた。

「何度も言ったはずだ。俺は奴らに俺が受けた苦しみを味あわせる。奴らが俺から全てを奪ったように、俺は奴らから全てを奪う。一人残らず殺してやる」

「そんなことをして何の意味がある? 奴らに復讐してもその先には何もない。もう歩実(あゆみ)たちは戻ってこないんだぞ!」

「お前に俺の何がわかる? 俺の苦しみがわかるのは、俺と同じ目にあった奴だけだ。だから、奴らに思い知らせてやる。その命を持って、奴らに歩実たちが受けた苦しみを味あわせてやる」

 言い終わると稜は後ろに振り向いた。

「行くな、稜!」

「智彦、俺の邪魔をすれば、お前であっても容赦はしない」

 稜はそのまま、闇の中へ歩いていく。俺は銃口を稜の背中に向けたが、引き金にかけた指を動かすことは出来なかった。

 そして、稜は姿を消した。

 撃てなかった。ずっと銃を構えていたが、俺は稜を撃つことが出来なかった。

「なんでだよ、稜……。どうして、お前は……」

 俺はまた稜を止めることが出来なかった。


3


 2013年11月12日 湯田月署


 昨夜、黒刀によって新たな犠牲者が現れた。

 犠牲者の名前は清水信一郎(しみずしんいちろう)外村公康(そとむらきみやす)と同じく、彼も刀人(かたなびと)であり、その首筋には例の刺青が確認された。また、別件で二人の警察官が殺害された事件に清水が関与している可能性が示唆されたが、本人が死亡してしまった今の状況では明確にするこができなかった。

 それらの内容をまとめた報告書を提出するために、私――吉丘絢音(よしおかあやね)は糸井さんと署に来ていた。

 あの夜、黒刀との会話について糸井さんには何も聞いていない。ずっと前から糸井さんが黒刀のことで悩んでいたのは知っていたし、今朝から顔色が悪い彼を見ていると、聞きたくても聞けなかった。

 その証拠に糸井さんは昨夜、一睡もしていないと聞いている。

「絢音、報告書をくれ。俺が渡してくる」

「わかりました」

 菅原部長の部屋の近くで、私は糸井さんに報告書を渡した。その直後、廊下の角から誰かが現れた。外村公康(そとむらきみやす)の事件から関わりのある中西さんだった。

「糸井!」

 中西さんは怒鳴り声をあげながら糸井さんに詰め寄ると、いきなり彼の服の襟を掴んだ。そのまま廊下の壁に叩きつける。

「どうしたんですか、中西さん!」

 状況が全く読み込めない私はかなり動揺した。周りにいた署員たちの視線も集まる。

「お前、黒刀の情報を隠していただろ。どうして奴のことを俺に教えなかった?」

「……」

 糸井さんは何も言わずに黙っている。

「もっと事前に奴の情報を知っていれば、新たな犠牲者が出るのを防げた可能性も高かった。なのに、お前は!」

「違います。糸井さんは――」

 激しい剣幕で詰め寄る中西さんを事情を説明しようとしたが、糸井さんに目で止められた。

 糸井さん、まさかこうなることをわかってて……。

「はーい、そこまでよ、中西刑事」

 その時、二人の間に菅原部長が割って入ってきた。

「あなたは確か特捜課の……」

 中西さんが驚いた様子で菅原さんを見た。

「ごめんなさい、糸井にも話せなかった事情があったのよ。だけど、今は私が糸井に用があるから、その話を聞くのはあとにしてくれないかしら?」

 菅原部長は視線を糸井さんに移した。

「糸井、部屋に来て」

「わかりました」

 糸井さんは中西さんの手を離して菅原部長と部屋に入っていった。

「くそ……」

 中西さんは込み上げてくる怒りをぶつけるように廊下の壁を叩いた。少し迷ったけど、私は彼に話しかけた。

「中西さん」

「……なんだ?」

「私からお話します。黒刀と糸井さんの関係を」

「なんだと?」

「場所を変えましょう。署の屋上に行きませんか?」


4


 空から白い雪が降ってくる。最近は一段と寒さが厳しくなってきたような気がした。

 中西さんを署の屋上に連れてきた私は何だか懐かしい感じがした。 

「どうしてここに連れてきたんだ?」

「ここは私が初めて糸井さんから黒刀の話を聞いた場所なんですよ」

「そうか……」

「中西さん、これからお話することはどうか他の人には内緒にしておいてもらえませんか? このことは私と糸井さんだけが知っている話なので」

「わかった、約束しよう」

 そう言った中西さんは先ほどよりも落ち着いているように見えた。私はほっと一息ついて口を開いた。

「黒刀。本当の名前は音坂稜(おとさかりょう)。糸井さんの親友だった男です」

「それはわかっている。俺が知りたいのはどうして奴が刀人(かたなびと)ばかりを殺しているかだ」

「音坂稜は十三年前に母親と妹を刀人に殺されたんです」

「なに?」

 中西さんの表情が一変したのは明らかだった。私自身、このことを糸井さんから聞いた時もほとんど同じ反応だったから、驚くのは当然だった。

「私も詳しいことはわかりませんが、音坂稜は家族を殺された恨みから刀人に覚醒し、家族を奪った刀人を追っているんです。その刀人には……」

「まさか例の刺青が彫られていたのか?」

「そうです。だから、音坂稜は何年も何年もあげは蝶の刺青をつけた刀人たちを追い続けているんです。そして、当時、彼の親友だった糸井さんは音坂稜の行方を探すために刑事になり、以来、ずっと彼のことを探し続けているんです」

「十三年もか?」

「はい、十三年です」

「そうだったのか……」

 中西さんは大きく息をついて屋上の手すりにもたれた。彼の考えていることは何となくわかる。

 糸井さんが十三年も必死に音坂稜のことを追いかけているのに、昨夜の二人の会話を聞いている限り、それは全く報われていなかった。

 長い年月を経た今でも音坂稜は復讐を続けている。

「どうしてだ?」

「はい?」

「どうして俺にそのことを話した? お前と糸井の二人だけが知っている重要なことなのに、どうして俺に話したんだ?」

「簡単ですよ。中西さんが私たちのことを嫌っていなかったからです。この一年、糸井さんと捜査をして同じ刑事として見てくれたのは中西さんが初めてでしたから」

 中西さんは首を傾げた。

 たぶん、糸井さんが彼に刀人のことを話したのは同じ理由だったと思う。

 捜査するものは違っても俺たちは同じ刑事だ。

 以前、中西さんがこう言ってくれて嬉しかったのは私も糸井さんも同じだったから。


5


「黒刀と遭遇したみたいね、糸井」

「はい、やはりこれまでの連続殺人事件は奴の仕業でした」

 俺は部長に提出した報告書の内容を説明していた。

 昨夜のことはまだ鮮明に覚えている。

 あいつは全身に返り血を浴びても、全く動揺していなかった。

 変わっていない。歩実(あゆみ)たちが殺されてから初めて会った時のあいつと全く変わっていない。人形のように冷たい瞳も、その奥に秘められていた深い悲しみと憎悪も。

 稜……。

「どうかしたの、糸井?」

 目の前の椅子に座る部長にそう言われて、俺ははっと我に返った。少し考え込みすぎたようだ。

「すいません、なんでもありません」

「それで黒刀についてわかったことは何かあった?」

 部長が真剣な表情で聞いてきた。今日は珍しくアプローチをしてこないのが逆にあやしいが、とりあえずそのことは頭の隅に置いといた。

「今のところは何も。ただわかっているのは奴がこの町で殺人を繰り返していることぐらいです」

「あげは蝶の刺青を持った刀人。彼らと黒刀の関係は把握しておきたいけど、そう簡単にはいかないわね」

 でもね、と言って部長は両手を組んで話を続けた。

「彼らの手がかりが全くないわけではないの」

「どういうことですか?」

 そう聞くと、部長はスーツから一枚の写真を取りだして俺に差し出した。

 手に取って見ると一人の男が写っていた。黒髪に目は細く、茶色の帽子を深く被り、たるんだ緑の上着を着た中年の男だった。

「この男は?」

藪内正明(やぶうちまさあき)、四十歳。表向きは駅前広場の近くに住んでいるホームレスなんだけど、裏では情報屋をしているらしいの」

「情報屋?」

「行政、経済、自治体、重要人物、警察の内部情報などあらゆる分野に精通していると聞いるわ。そしてこの男はある重大な秘密を握っている可能性もある」

 部長は少し目を鋭くして言った。

刀人(かたなびと)の情報をね」

「!」

 部長の言葉に俺は驚きを隠せなかった。

 世間で刀人のことは多少認知されているものの、基本的に警察内部でしか取り扱われていない存在だ。それなのに、この薮内という男はその情報を握っているらしい。

「藪内が刀人の情報を持っているとわかったのはなぜですか?」

「この写真を見てみて」

 部長はそう言ってまた一枚の写真を渡した。

「これは!」

 それを受け取った俺は言葉を失った。

 写っていたのは藪内が別の男と何かを話しているところだった。その藪内の首筋に印がついている。よく見ると、奴の首筋に例の刺青が彫り込まれていた。

「先に彼のことを調べさせた部下が撮影したものよ」

「その部下はどうしてますか?」

 俺は大体の見当をつかせて聞いてみた。案の定、部長は大きくため息をついて答えた。

「行方不明よ。数日前、湯田月駅のホームからの連絡を最後に失踪したわ。私の勘だと、捜査していることが向こうにばれて殺されたかもしれないわね」

「藪内があげは蝶の刺青を持った奴らの一員で、もし奴を捕まえることが出来れば、多くの情報が手に入る……」

「そうよ。もちろん、黒刀のことも何かわかるかもしれないわ」

 ここまで説明を受けると、やることは一つしかないだろう。

「藪内を尾行して捕まえるか、情報を聞き出せばいいんですか?」

「ええ、だけど藪内とつながっている奴はかなり危険よ。細心の注意を払っていた部下の存在すらも察知した。尾行をする時はより慎重に行動しないといけないわ。薮内自身も刀人である可能性も高い」

 部長はそう言うと目を細めて俺を見た。

「この男のことをあなたにまかせていいかしら、糸井?」

「やるしかないでしょ」

「ありがとう、その返事を期待していたわ」

「では、失礼します」

「あ、ちょっと待って!」

 写真をポケットに入れて、部屋を出ようとした瞬間、部長に呼び止められた。

「この件に関しては中西刑事にも加わってもらいたいの」

「なぜ中西を?」

 不思議に思ってそう聞き返すと部長は椅子から立ち上がった。

「第一課のお偉いさんが殺人事件として我々にも知る権利があるって言って、この連続殺人事件の捜査に加えてほしいと言ってきたのよ。刀人が絡んでいても、殺人は殺人。第一課にも調べる権利があるってわけ。だけど、知っての通り、第一課は特捜課に対してそれほど良い印象を持っていない」

「だから、特捜課と関わりを持った中西を?」

「そういうことね。中西刑事と協力してもらいたいの。できる?」

「わかりました」

「じゃあ、無事に戻ってきたら二人で飲みに行きましょ」

「それは遠慮しておきます」

 やっぱり、部長は部長だな。

 俺は呆れながら部屋を出た。

「話は済んだのか?」

 廊下に出ると中西が話しかけてきた。さっきほどとは違い、怒った様子はない。

 絢音のやつ、どうやら喋ったみたいだな。

 案の定、中西の後ろにいる彼女を見ると、申し訳なさそうに目を伏せた。今更、そのことを咎めてもどうしようもない。俺はさっそく本題に入ることにした。

「絢音、中西、話がある。重大な仕事だ」


6


 2013年11月15日 バー『STACHE(スタッチ)

 

 湯田月市の路地裏にあるこのバーはいつも夕方頃に開店して、夜遅くまで営業している。でも、残念なことに場所がわかりにくいから客の数はいつも少なかった。

 私――菅原井織(すがはらいおり)はいつもこのバーで彼と待ち合わせをしている。ここなら他の警察の目には届かないし、何より彼と話をする場所としては最適だった。

 彼と会う日は特に決めていない。

 私たちが会う時は必ず彼から連絡がくる。彼はいつも公衆電話から連絡してくるため、私からは電話することが出来ないようになっていた。

 テーブルに置かれたワインを眺めながら、しばらく待っていると店の扉が開き、一人の男が入ってきた。

 黒のジャンパーに紺色の髪。間違いなく彼だった。

 彼はゆっくりとした足取りで店内を歩き、私の隣の席に座った。店のマスターが彼に話しかける。

「何にしますか?」

「ウイスキーのストレート」

 彼がそう言うと、マスターは頷いてグラスにウイスキーを注いだ。どうぞ、と言って彼に差し出す。

「いつも同じものを注文するのね」

 私が話しかけると彼は目だけを一瞬こちらに向けた。すぐに視線を前にむけたまま、口を開く。

「奴らの情報を掴んだのか?」

「この男を追って」

 そう言って彼に一枚の写真を渡した。

藪内正明(やぶうちまさあき)。普段は湯田月の駅周辺に住んでいるホームレスで、毎週金曜日にあるホームレスたちの集会で、目撃されたという情報がいくつかあるわ。その男が情報を持っている。薮内自身が例の組織の構成員であることも判明している。今の情報も含めて、詳細は写真の裏にあるSDカードに入っているわ」

「わかった」

 彼は写真をジャンパーのポケットに入れて、グラスに入った酒を口につけた。

「それと、藪内のことは特捜課の刑事たちにも指示を出しておいたから気を付けてね」

 私の忠告を無視して、彼は口を開いた。

「俺の掴んだ情報だ。あいつもこの町に来ている」

「本当なの!?」

「……また来る」

 彼はグラスに入った残りの酒を飲み干し、お金をテーブルに置いて席から立ちあがった。そのまま店を出ようとしたので、私は思わず彼の手を掴んだ。

「お願い、稜。あの子は……あの子だけは殺さないで」

 稜は少しじっとしていたが、すぐに私の手をはらって店を出て行った。

「稜……」

 私の手にはまだ彼の温もりが残っていた。


7


 2013年11月22日 午前七時 湯田月駅前広場


 今日は雪があまり降っていなかったが、肌寒いのは今までと変わりなかった。

 前にも言ったと思うが、俺は冬が嫌いだ。こんな寒い時に外を出歩くなんてどうかしている。

 しかも、こんな広場のベンチでわざわざ新聞を読んでいるおっさんがどこにいる?

 少なくとも俺の知り合いにはいなかった。

 俺たちが藪内正明(やぶうちまさあき)の調査を始めてから一週間が経過していた。町のホームレスたちが毎週金曜日にこの広場に集まるという情報を掴んで、先週の金曜日に張り込みをしたが、薮内が姿を現すことがなかった。そこで張り込みを継続することにし、1週間目を迎えてしまったのである。

 俺は『毎日広場の中央で新聞を読んでいる中年男性』という設定で張り込みをしているが、ベンチに座ったままだと身体が痛くなるし、あまり新聞を読まない俺にはかなり苦痛だった。

『糸井、奴は現れたか?』

 耳につけた通信機から『ハローワークに通いつめている男』という設定になっている中西の声が聞こえてきた。

「まだだ。さっきも言ったが見つけたらこっちから連絡するよ」

 若干苛立ちを含みながら俺はそう言った。

 七時を回ってから十分毎にこいつから連絡がきているからだ。出会った時から真面目な奴だとは思っていたが、 まさかここまでとは……。

『この件は絶対に成功させないといけない。このままでは刺青を持った刀人たちも黒刀の情報も手に入らなくなるぞ』

「そんなことはわかってるよ」

 言われなくてもわかっている。俺はずっとあいつを追いかけてきたんだ。あいつが復讐を続けていても、俺にはあいつを救わなければならない使命がある。

 じゃないと俺は……。

『糸井さん』

「どうした、絢音?」

 通信機から『最近疲れているOL』という設定の絢音から連絡がきた。

『広場の東口からホームレスの人が数名入ってきます』

 絢音からの報告を聞いて、俺は新聞を読むふりをしながら東のほうを見た。

 引き車に大量の空き缶を乗せたホームレスの男とその周りにいるホームレス数人が話をしながら歩いてくる。

 あの連中は先週も見たことがある。ホームレスたちの顔を一人ずつ確認してみたが、藪内の姿はなかった。

 ホームレスたちは広場の中央に集まってがやがやと会話を始めた。しばらくその様子を見守る。

 彼らがいつも話しているのは仕事に関する話だった。彼らがこの広場の近くで住んでいる理由も、広場のすぐそばに仕事を紹介するハローワークがあるからだ。

 金曜日に定期的に集まって仕事の情報の交換や愚痴などを言っているが、会話を盗み聞きした限りでは、今の状況に満足していないようだった。

「なあ、中西」

『なんだ?』

「お前、この仕事やりたくて刑事になったのか?」

『どうしたんだ、急に?』

 中西は怪しんで尋ねた。

「仕事って言ってもその種類はいくらでもあるだろ。その中から自分の本当にやりたい仕事を探すのって難しくないか?」

『なんだ、お前はこの刑事の仕事をやりたくなかったのか?』 

「俺はさ、仕事と趣味を一緒に考えるのはやめておいたほうが良いと思っている。趣味は遊びだから、自分がやめたくなったら、いつでもやめることができるが、仕事はお金をもらっている以上、決まった時間まで与えられた仕事をこなさないといけない。自分の好きなことをある程度の制限時間でこなすことができて、初めて仕事と趣味を繋ぐことができる。でも、それができるようになるのは難しい話だろ」

『じゃあ、お前にとってこの刑事の仕事は何なんだ?』

「うまくは言えないが、人殺しの事件を調べるのは趣味じゃねえよ。でも、俺にはこの仕事しかなかった。そうしなければならない理由があるんだ」

『糸井、それはお前……』

『糸井さん、中西さん!』

 俺と中西の会話に絢音が割って入ってきた。とても動揺しているように聞こえる。

「どうした、絢音?」

藪内(やぶうち)です。東側の入り口から来ました』

「なに!?」

『そのまま広場の中央に歩いていきます』

 俺はすぐに東のほうを見た。一人の男が歩いてくる。深緑の帽子を被り、ぼろぼろの茶色のコートを着ていたが、その顔は部長から渡された写真と同じ、藪内に間違いなかった。手には茶色の包みを持っている。

「あいつが薮内か……」

 藪内はそのまま中央に集まっていたホームレスたちの輪の中に入っていった。

「おお、藪内さん、おはようございます!」

 ホームレスの一人が藪内に親しげに挨拶した。

「おはよう、おはよう。ほら、いいもん買ってきたで」

 藪内も笑顔になって、手にした包みから豚まんを取り出し、ホームレスたちに配り始めた。関東地方に来て一年になるから、関西弁を聞くのは何だか懐かしいような気がした。

「すいません、いつもありがとうございます」

「気にすんな、気にすんな。今度はもっといいもん手に入れてくるわ」

「俺たちが生きていけるのは藪内さんのおかげですよ。本当にありがとうございます」

「これだけ多くの仲間がいるんだ。みんな頑張るんやで!」

「はい!」

 藪内の呼び掛けにホームレスたちが一斉に返事をした。

 あいつ、みんなに慕われているのか。

 すごく良い奴に見える。だが、奴の本当の正体は情報屋。そして、あげは蝶の刺青をつけた刀人(かたなびと)だ。騙されはしない。

「おっとそろそろ時間やな。ちょっと人を待たせてるから行ってくるわ。お前ら元気でやれよ」

 藪内はホームレスたちに別れを言って、輪の中から出た。

「中西、絢音、あとを追うぞ」

『わかった』

『わかりました』

 俺はベンチから立ち上がって藪内のあとを追った。


8


 薮内(やぶうち)は駅前広場を抜け、湯田月の駅のほうに向かって歩き始めた。その歩みに迷いはない。こちらの尾行にはまだ気づいていないようだった。

「中西、絢音、そっちはどうだ?」

『ちゃんとあとをつけている』

『私も大丈夫です』

 二人からすぐ返事がきた。周囲を見回しても二人の姿は確認できないが、薮内の見える範囲にいるのは間違いないだろう。

「駅に向かっているみたいだが、奴は電車に乗るつもりなのか?」

『連中はこの町に拠点を置いてるはずだ。何か他に理由があるのかもしれない』

『このままだと、駅の中に入っていきますよ』

「とにかくあとを追うんだ」

 しばらく尾行を続けると、藪内は駅の近くにある自動販売機の前で立ち止まった。俺は怪しまれないように、そばにある本屋の前で雑誌の立ち読みをするふりをした。

 藪内はしばらく自動販売機を見つめていたが、硬貨を入れようとする気配はない。

 何を買うのか迷っているのか?

 俺自身、本を買うかどうか一時間以上悩む時はあるが、あの男はもっと別の目的があるような気がした。

 やがて薮内は硬貨を入れてコーヒーのボタンを押した。下の取り出し口にコーヒーが落ちてくる。

 本当に迷っていただけなのか……。

 一瞬そう思ったが、俺は藪内の不審な行動を見逃さなかった。奴は落ちてきたコーヒーと別の場所の取り出し口に手を伸ばしたのだ。何を取り出しているのか確認することは出来ないが、コーヒーでないことは確かだった。藪内は立ち上がって自動販売機から離れていく。

「絢音、中西、今の見たか?」

『はい、コーヒーを取らなかったですね』

『じゃあ、何を取ったんだ?』

「あいつ、何かを握りしめてるぞ」

 俺は藪内が右手に何かを握っているのが見えた。そして包みにそれを入れて駅の構内に歩いていく。

『自動販売機の中に何かを隠していたみたいだな』

『なんでしょうか?』

「さあな、とにかく尾行を続けるぞ」

 二人に指示を出し、俺は藪内を追って湯田月駅の中に入った。

 駅の構内はまだ朝の8時を過ぎたばかりのため、仕事に出かける人々でいっぱいになっていた。

 藪内は人通りの合間をくぐりながら、どんどんと奥へ進んでいく。俺は奴を見失わないように尾行を続けた。絢音と中西の姿は見えないが、たぶん別の場所で藪内のあとを追っているだろう。再び藪内に視線を戻すと、公衆トイレの中に入っていった。俺はそばの壁にもたれた。

『糸井、奴はどうした?』

「トイレの中に入った。出てきたら合図する」

『わかった』

 中西との会話を止め、俺は奴が出てくるのを待った。だが、しばらくしても薮内はトイレから姿を現さなかった。

『おい、糸井、薮内は出てきたのか?』

「おかしいな……ん?」

 不審に思った直後に、俺はある人物が目に止まった。

 トイレから一人の男が出てくる。茶髪の短髪に灰色のフードのついたトレーナーを着て、黒いズボンを履いている。

 男は手にした黒い帽子を被って電車の券売機のほうに歩いていった。

 あの男……見ていない。

 藪内がトイレに入った時からずっと出入りした奴を確認していたが、あの男がトイレに入ったところを見た記憶がなかった。間違いない。

『中西、絢音、奴は変装して券売機のほうに向かった』

『え?』

『本当か!?』

「追うぞ、あの茶髪の男だ」

 通信を切り、俺は変装した藪内のあとを追った。藪内は券売機で切符を買って、周囲を見回している。さっきよりも警戒を強めているのは明らかだった。こっちの尾行に気づいているのかもしれない。

『地下鉄に乗りますね』

『あとを追うぞ』

 通信機から絢音と中西の声が聞こえた。前方を見ると、俺よりも先に薮内のあとを尾行している二人の姿が初めて見えた。藪内は改札を通り過ぎて、駅のホームに向かった。

『まずいな、ホームが人で埋め尽くされている……』

 中西の渋ったような声が聞こえてきた。あいつの言うとおり、ホームは大勢の人で埋めつくされていた。

「こんな時に……!」

 思わず舌打ちをしてしまったが、薮内の尾行をやめるわけにはいかない。一週間も張り込みした意味がなくなってしまう。

 藪内も、そのあとを追っていた中西と絢音も人ごみの中に入っていったので、俺も人ごみのなかに入った。四方八方から人の圧力をかけられながらも、藪内を見失わないようにした。

『まもなく、○○行きの電車が参ります。お乗りのお客様は黄色い線の内側で二列に並んでお待ちください。電車が参ります。ご注意ください』

 ホームにアナウンスの声が鳴り響いた。そのあとに地下鉄の電車が近づいてくる。

 あいつ、本当に電車に乗る気か。

 やがて電車がホームに到着し、乗っていた客たちが降りてきた。藪内は乗車する客たちの列に並んでいる。

『糸井、聞こえるか?』

「ああ、聞いてる」

『奴が電車に乗るぞ。俺と吉丘は奴の前の車両に乗る』

「わかった。俺は後ろの車両に乗る」

 乗客が降りていくと、他の人たちと共に藪内が電車に乗った。それを見て、俺は奴の後ろの車両に乗ろうとした。

「う……」

 だが、その時、びりっと電撃のようなものが頭を流れた。

「なんだ?」

 ふと隣の車両を見ると一人の男が電車から降りてくる。

 一瞬俺は見間違えたと思った。なぜならその男は俺たちが追っていた奴と全く同じ格好をしていたからだ。

 藪内!

 間違いない。藪内が電車に乗ってすぐに降りてきた。しかも、藪内に似た格好をした男は電車に乗ったままだ。もうすぐ電車の扉が閉まってしまう。絢音たちに連絡をしている暇はなかった。

 俺は乗り込んでくる乗客たちをなんとか押し退けて電車から降りた。人ごみから抜けると、藪内は駅の改札口のほうに向かって歩いていった。

「逃がさないぞ」

 俺は単独で藪内のあとを追った。


9


 午前九時。

 珍しく雲の間から太陽が顔を出した。ここのところ、ずっと曇空だったため、その光が余計に強く感じた。

 だが、そんなことを気にしている余裕はない。俺はただ一人、町中を歩く藪内のあとをつけていた。

 ここまで奴は尾行を欺くために色々な手を使ってきた。ホームレスたちの集会の利用、変装、そして別人へ入れ替わる。その手口でいったいどれだけの尾行を巻いてきたのか想像できないが、絢音と中西は見事にはめられてしまった。

 ついさっき二人から連絡が来たが、車両に乗った薮内は全くの別人だったようだ。念のため、俺はその男に事情聴取をするように指示を出した。

 あとは俺がやるしかない。奴らの正体を突き止めるために、あの男から情報を聞き出さなければならない。

 藪内は歩き進んで、どんどんと都市部から離れていった。

 もう尾行を完全に巻いたと思っているのか、周囲を警戒している様子は見られなかった。だが、油断することはできない。俺は慎重に奴のあとを追いかけた。

 藪内が通りの角を曲がる。あとを追うと、そこは無人のマンションが建ち並んでいる道だった。ずいぶん前に放置されたのか、元は真っ白だったと思われる壁が灰色に染まり、住人たちが使っていたような物干し竿やハンガーがベランダにぶら下がったままだった。

 その道の先を見ると、ブルーシートに覆われた工事中のビルが建っていた。

「あそこか……」

 俺は藪内と一定の間隔をあけながら尾行を続けた。工事現場まで来ると藪内は周囲を見回した。誰もいないことを確認すると、工事現場を覆うフェンスをよじ登って向こう側に降り立ち、素早くビルの中へ入った。

「よし……」

 やはりあのビルの中に入ったか。この辺りなら人通りも少ないし、警察に気付かれる可能性も低い。奴らが接触する場所としては都合が良いというわけだ。

 薮内の姿が消えたのを確認すると、俺は物陰から身を出してビルの中へ入ろうとした。その時、背中に鋭い視線を感じた。全てを見透かしたような冷たい視線。だが、どこかで同じような視線を感じた気がする。

「ま、まさか……!」

 俺は素早く後ろに振り向いた。

 そこに人影はない。自分が歩いてきた道も、道の両端に建ち並ぶマンションにもやはり誰もいなかった。

「気のせいか……」

 もうさっきの視線は感じなかった。本当に見られていたのかどうかわからなかった。

 俺は気を取り直してフェンスを飛び越えた。

「よし」

 ついに奴らと接触することができるかもしれない。

 俺は気を引き締めて、銃を取り出し、ビルの中へ侵入した。


10


 ビルの内部を照らしているのは、ビルを覆うブルーシートの隙間からわずかにもれている太陽の光だけで、とても薄暗かった。部屋の中には何も置かれておらず、四方の壁がコンクリートに覆われている。

 俺は慎重にビルの階段を上っていった。上の階に行くにつれて、工事が進んでいないため、鉄骨が剥き出しになっている。内部を照らす太陽の光も多くなった。さらに上がって、ようやく俺はビルの屋上にたどり着いた。

 ビルの屋上にはフェンスらしきものはなく、天井に入り組んだ鉄骨があるだけだった。それを支えるために何本もの柱がある。

「おい、時間通りに来たで」

 薮内(やぶうち)の声が奥のほうから聞こえて、俺は柱に背中をつけて様子を見た。

 薮内が周囲を見回しながら誰かに呼びかけている。

「遅かったなあ、藪内」

 突然、上のほうから声が聞こえてきた。見ると、入り組んだ鉄骨の上に一人の男が座っていた。青色の短い髪をした若い男が薮内を見下ろしている。口を動かしているのはおそらく風船ガムを噛んでいるからだろう。今時の若者という印象だ。そう言うと、俺がまるでおっさんのようだが。

 突然、その男に話しかけられて薮内を驚いていた。

「驚かすなや、春樹(はるき)。時間は守ったんや。お前の時計が間違っているんじゃないのか」

「あー、そうかもしれないけど、待つのが面倒くさかったんだよ。まあ俺の性格が悪いのかもしれないけどさ……」

 春樹と呼ばれた男が床に降り立った。

「ここにおるのはお前だけか?」

「いや、野梨子(のりこ)も来ているはずだぜ。でも、どこに行ったっけなあ」

「ここにいるわ」

 もうひとり春樹の背後から女の声が聞こえてきた。奥の暗い陰の中から一人の女性が現れた。黒い髪を耳の下で斬り揃え、目は小さい。灰色のコートを身につけ、白いマフラーを首に巻いていた。

 あいつらが幹部なのか……。

 だとすれば想像していたよりも若い連中だった。こいつらが十年以上前から(りょう)に追われ続けているとは思えなかった。

「なんだ、いたのかよ、野梨子」

 春樹が残念そうな表情をしてそう言った。

「さっきからずっといたわ。気づいていなかったの?」

「全然気付かなかった」

「やっぱりばかね……」

「ん、何か言ったか?」

「別に。それより薮内」

 野梨子と呼ばれた女が薮内に視線を向けた。

「例の刀人の情報は掴んだのかしら?」

「まだ何とも言えん。この町にいるのは確かだが、奴も馬鹿やない。たった一人で俺たちをずっとおいかけてきた男や。そう簡単には見つからん」

 薮内がそう言いながら、握りしめていた包みの中からあるものを取り出した。よく見えないが、USBメモリのようだ。おそらく自動販売機から取り出したものだろう。

「調べたデータはここにある」

 そう言って薮内が野梨子にメモリを手渡した。なるほど、奴はこうやって連中と密会して、情報が入ったあれを渡していたのか。

「無理して探す必要はないんやないか」

 そのUSBメモリを見ながら春樹が言った。

「どうせ奴は俺たちを狙っているんだ。探さなくても向こうから来てくれるだろ」

 さっきからあいつらが言っている『奴』というのはおそらく稜のことで間違いないだろう。やはり、奴らも稜の存在に気づいていたということか。

「その通りね」

「だろ、珍しく意見が合ったな、野梨子」

「でも、私たちを追っているのは彼だけじゃない」

「どうゆうことだ?」

 藪内が不審に思って聞くと野梨子が俺の隠れている柱のほうに目を向けた。

「隠れてないで出てきたらどう、刑事さん?」

 背筋に一気に冷や汗が浮かんできた。

 気付かれていたのか!?

 思わず口をふさいだ。なぜ、気づかれたのかわからない。尾行には細心の注意を払っていたはずだし、奴らの会話を聞いている時もなるべく息を潜めていた。それなのに気づかれていたのか……。

「刑事やと!?」

「藪内、失態ね」

 野梨子という女がそう言うと、藪内は慌てた様子で言い訳をした。

「ばかな。俺はいつもあの手で尾行を避けていたんだぞ」

「あーあ、残念だったな、藪内」

 春樹という男も深くため息をついた。

「ち、違う! 俺は!」

「いいから出てきなさいよ、刑事さん」

 野梨子という女が挑発的な笑みを浮かべて言った。

 ばれているなら仕方ないか。

 今さら逃げても奴らの身体能力のほうが上だろう。すぐに追いつかれるのが落ちだ。俺は三人の前に現れた。

「よく気付いたな」

「人間は完全に気配を消すことはできない。私たち刀人(かたなびと)も同じだけどね」

 野梨子という女がまた笑った。それが妙に(しゃく)にさわって俺は素早く銃を構えた。

「なぜ俺が刑事だとわかった?」

「思い当たるところがあったのよ。私たち刀人のことを調べている特捜課のこととか」

 そこまで気付かれていたのか。俺は奥歯を噛みしめて野梨子に銃口を向けた。

「お前たちは何者だ?」

 そう聞くと、意外にも野梨子はあっさりと答えた。

「私たちは『アゲハ』のメンバー。ある目的を果たすために集まった組織よ」

「ある目的?」

 そう聞き返すと、野梨子は俺に向かって指を差してきた。

「あなたたち、警察の歪んだ正義を潰すことよ」

「なに?」

「刑事さん、あなたも知らないわけではないでしょ? 警察がこれまでどれだけの過ちを繰り返してきたのか」

 野梨子は光のない目で外の景色を見つめた。

「警察は十分に事件の捜査をしないまま、罪のない人に濡れ衣をきせて、その人間を犯罪者に仕立てようとしてきた。証拠を隠し、権力で人を押しつけて、挙げ句の果てには死刑にまで追い込む。そんな歪んだ正義に巻き込まれて大勢の人たちが犠牲になった。私の両親も含めてね。彼らは何もしていないのに、あなた達は彼らを死に追いやった。そんな過ちを何年も何年も繰り返していて、刑事さんは何も感じないの?」

「感じるさ。警察も一人の人間だ。間違いを犯すことはある」

「だけど間違っていいものと間違ってはいけないものもある。警察はその間違いでどれだけの人間を殺してきたのか、わからないの?」

「わかっているさ。少なくとも、俺はそんな間違いをしないように心がけてきた。だが、お前たちも人を殺している。人間の命を奪うことはな、その人間が送るはずだった人生を断ち切ることだ。その人が出会うべきだった幸せを、喜びを、楽しみを奪うことだ。そんなことは絶対にやってはならない。お前らのやり方は間違っている!」

「じゃあ、刑事さん、他にどんな手段があるというの? 話し合いなんて無駄に決まっている。言葉で解決しないのなら、力で解決するしかない。警察によってつくられた理不尽なこの世界を変えるには『アゲハ』の力が必要なのよ。あなた一人でどうこう言える問題ではないわ」

 俺は奥歯を噛み締めた。

 アゲハ。それが連中の正体。刀人たちを集めて警察を潰すことが目的。この野梨子のように濡れ衣を着せられた奴らが集まっているというのか。

 確かに警察は歪んだ機関だ。その機関を潰そうと動いている彼らの行動には正しい部分があるし、その目的に賛同している自分がいる。

 でも、だからと言ってやはりこいつらのやり方が許されるわけではない。警察として、刑事としてこいつらを捕まえなければならない。

 俺は再び拳銃を強く握りしめた。

「それでもお前たちのやっていることは許されない。特捜課として俺はお前らを逮捕する」

「じゃあ彼も例外ではないの?」

「彼?」

 聞き返すと春樹がめんどくさそうに言った。

「黒刀のことだよ」

「やはりお前らも知っていたんだな」

「本当の名前は音坂稜(おとさかりょう)って言うんでしょ?」

 野梨子の言葉に一瞬、頭の中が真っ白になった。

「どうして私たちが彼のことをそこまで知っているのかって顔をしてるわね」

 野梨子に心を読まれて、俺はかなり動揺した。

「藪内正明。彼からの情報のおかげよ」

 野梨子が藪内のほうに視線を送った。藪内は俺が尾行していたのに気付けなかったことで衝撃を受けているのか、ほとんど口を開いていない。

「彼からの情報のおかげで、警察のことや黒刀のことが簡単にわかったのよ」

「まあ、さすがのこいつでも黒刀の居場所は分からなかったんだけどな」

 春樹が呆れたようにため息をついた。 

「なぜだ? 黒刀のことをそこまで知っているのになぜお前たちは奴を殺そうとしない? 奴がずっとお前たちを追い続け、何人も仲間を殺しているはずなのに……なぜだ?」

「刑事さんの言うとおり、彼は何人もの仲間を殺している。でも、あの人はそれだけ彼のことを評価している。彼のような優秀な刀人の力を私たちは求めているのよ」

 俺は言葉を失った。

 自分たちの仲間が殺されているのに何を考えているんだ、こいつら……。

 警察を潰すという目的を達成させるには、あいつの力は確かに戦力になるだろう。だが、自分の復讐のために、十数年も追い続けてきた敵の仲間にあいつがなるはずがない。

 とにかくこいつらを野放しにするわけにはいかなかった。

「あいつがお前らを潰す前に俺がお前たちの陰謀を止めてやる!」

「無理よ」

 野梨子は目を閉じて言った。

「どういう意味だ?」

「私たちが彼を探さなくても彼から私たちの前にやってくる。刑事さんが何をしようと、彼は復讐をやめないわ」

 復讐。その言葉が脳を刺激した。

「どうしてそんなことまで……」

「彼のことは知っていると言ったはずよ。だから、彼のことはよくわかっている。どんな状況にあろうと彼はやってくる。私たちと戦うために」

 その直後、俺は背中に異様な雰囲気を感じた。背筋が震え、全身から冷や汗が流れ落ちていく。

 この感じ、まさか本当に……。

 俺は後ろに振り返った。


11


 どうやらあの刑事のおっさんはずっとつけられていたことに気づかなったらしい。

 おっさんの背後に一人の男が立っていた。紺色の髪に暗い目をしている。手には例の黒の刀。間違いない。こいつが今まで『アゲハ』を追いかけていた黒刀(くろがたな)だろう。

 俺――井ノ坂春樹(いのさかはるき)は思わずため息をついてしまった。

 面倒だ。この場所をこいつに知られたということは、もうここで密会することができなくなる。つまり、今後は他の場所を探さないといけない。刑事のおっさんにも目をつけられたからもう駄目だろうな。この場所、結構使っていたのに。

(りょう)、どうしてお前がここに……」

 刑事のおっさんが驚いたように黒刀の野郎に言った。だからずっとお前のあとを尾行していたからに決まってるだろ。そう言ってやりたかったが、面倒だから今はやめておこう。

 そんなことよりも黒刀は殺気を出しまくってる。もうやる気満々になってるな。

 その直後、黒刀の姿が一瞬で消えた。

 俺と野梨子は反射的にその場から離れた。

「ぎゃああああ!」

 薮内(やぶうち)の声が聞こえたかと思うと、あいつの体から大量の血が噴き出していた。どうやら黒刀に一瞬で斬られたらしい。せっかくの情報屋だったのに、少しもったいない気がした。

 俺は刀人の力を使った。俺の刀人としての武器は槍のように柄がない特別な形をしている。他の刀人よりもリーチが長いから戦うのはかなり楽だ。

「だるいけど、相手になってやるよ、黒刀!」

 黒刀にそう言うと、あいつは薮内の血で赤く濡れた顔で俺のほうを見た。本当に暗い顔をしてやがる。心がないみたいだ。

 俺は手にした槍を黒刀に向けて振り下ろした。

 もちろん、それは簡単に防がれてしまう。面倒だ。さっさと死んでくれたらいいんだが、残念ながら俺がこの力を使うと、どうもやる気がなくなってしまう。普段からやる気はないんだが、それ以上にやる気がなくなる。

 刀人の力の代償というのは本当に面倒だ。

「どうして……どうして、あなたがあの方に気に入られるの?」

 その代償は野梨子も同じか。

 黒刀が俺の攻撃を防いでいる隙に、野梨子は奴の背後についた。手にした細長い剣で突き刺そうとする。しかし、黒刀は素早く俺の攻撃を弾いて後方に跳び上がり、野梨子の攻撃を避けた。とんでもない身体能力だ。

「どうして、私じゃなくてあなたなのよ!」

 野梨子が黒刀に向かって突進した。ありゃあ、普段の性格が台無しだ。野梨子は刀人の力で嫉妬深い性格になってしまう。確かに普段からあの人は黒刀の話をしているから、かなり根に持っているんだろうな。女の嫉妬は恐ろしい。俺は面倒だから勘弁してくれ。

 でも、野梨子を死なせたらあの人にめちゃくちゃ怒られるのは目に見えている。面倒だが、手伝うしかないな。

 野梨子が黒刀に突進するのと同時に、今度は俺が奴の背後についた。だが、そのあとの黒刀の動きはかなり予想外だった。

 野梨子が突き出した剣を避けて、黒刀はその腕を掴み、そのまま背後にいた俺に向かって野梨子を投げ飛ばしたのだ。俺はすぐに防御の構えをとったが、それが仇になった。

 黒刀は手にした刀を俺と野梨子へ同時に突き刺そうとしてきた。一瞬で危機感を感じた。だが、野梨子がその場で回転して、黒刀の手を蹴り上げて、刀の軌道をずらしてくれたので何とか助かった。

「危ねえ、なんてやろうだ」

「油断するなって何度も言ってるでしょ、春樹!」

「仕方ないだろ、面倒なんだからよ」

「もうやめろ、稜!」

 黒刀の背後で刑事のおっさんが叫んでいた。しかし、黒刀は全くそのことを聞かずに俺たちを殺そうとしている。

 まったく面倒だ。野梨子と二人がかりで戦っても黒刀は全く焦りを見せていない。

 すぐに死んでくれたら面倒なことが早く終わるのだが、あの人からは黒刀を『殺害しろ』ではなく、『捕縛しろ』と言われている。

 ただ殺すのではなく、生きたまま連れて帰らなければならないのだから、これ以上に面倒なことはない。俺にはあの人が何を企んでいるのか理解出来なかった。

 こいつは強い。今まで何人もの仲間が殺されているのにも納得がいく。どうして、そんな奴を仲間にしたいなんて考えるんだろう?

 わからない、あの人が考えていることはいつも謎だらけだった。

 あーもう、考えるのはやめだ、やめ。さっさと終わらせてしまおう。

 俺は槍を構え直して、黒刀に向かって振り下ろした。

 その瞬間、奴の姿が目の前から消えた。さすがに驚いたが、すぐに空中に跳び上がった奴をとらえた。その場で回転して手にした刀を縦に振ってくる。すんでのところでそれを避けようとしたが、刀の先が頬にかすって傷を負ってしまった。

 その隙に野梨子が黒刀に剣を突き刺そうとしたが、黒刀の反応は異常に早く、すぐに刀を横に振って野梨子を体ごと後方へ吹き飛ばした。俺と野梨子は黒刀と再び距離を取った。

「こいつ……」

 本当に強いな。これは捕縛するつもりじゃなくて、本気で殺しにかからないとこっちがやられてしまう。面倒だが、やるしかねえ。

「春樹」

 本気を出そうと思った手前、野梨子が話しかけてきた。

「なんだ?」

 いつの間にか、野梨子は刀人の力を消していた。

「そろそろ時間だわ」

「なんだよ、これからって時に」

「準備が出来たらしいわ」

「ちっ、なら仕方ないな」

 俺も刀人の力の解放をやめた。黒刀は表情を変えずに俺たちを睨みつけている。野梨子は黒刀と刑事のおっさんを交互に見て言った。

「黒刀、刑事さん。また近いうちに会いましょう」

 野梨子はビルの端に向かって走り出した。

「ま、待て!」

 刑事のおっさんの声を無視して、俺もすぐに野梨子のあとを追いかけた。その瞬間、黒刀と刑事の周囲の地面が白く光り始めた。

「これは!?」

「爆弾だよ。黒刀と仲良く死ねよ、おっさん」

 驚く刑事にそう言うと、野梨子とともにビルから飛び降りた。

 直後、ビルの屋上が轟音と共に大きな爆発を起こした。大量の煙と炎を巻き上げ、ビルが上から崩れ落ちていく。煙を出しながら、ビルは瞬く間に倒壊してしまった。

「へへ、さすがに死んだかな」

 そばに建つビルの屋上に降り立って、俺は倒壊していく建物を眺めた。

「ごくろうだったわね、千秋(ちあき)

 野梨子が背後にいた仲間の千秋に言った。万が一、警察か黒刀にここを突き止められた時のために爆弾を準備させていた。俺と野梨子が黒刀と戦っている間に、千秋がビルのあちこちに爆弾を仕掛けていたのだ。

 野梨子の注意深さには呆れるぜ。

「黒刀はあの爆弾で死んだかもしれない。大丈夫なのか?」

 千秋は手にした爆弾のスイッチを野梨子に差し出して言った。

「大丈夫よ。彼はこの程度では死なないわ」

 野梨子はそう言って、爆弾のスイッチを受け取り、その代わりに薮内から手に入れたUSBメモリを千秋に渡した。

「このメモリ、あの人に渡しておいて」

「わかった」

 千秋はそう言って、建物の中へ戻っていった。

 しばらくしてパトカーのサイレンが鳴り響いてきた。さっきの爆発を聞きつけてきたのだろう。

「でも残念だったな。薮内のやつ、結構使えると思っていたけど」

「そうでもないわ」

「なんだって?」

「あの男の情報収集は以前から限界が来ていた。あの人は近いうちに処分しようとしていたのよ。黒刀のおかげで手間が省けたわ」

 野梨子の言い方から、俺はあることに気付いた。

「お前もしかして手加減してたのか?」

「ええ、感情を抑えるのはどうしようもなかったけど」

「相変わらず怖い女だなあ」

「早く行くわよ」

「はいはい」

 俺は野梨子とともに崩壊したビルをあとにした。


12


 何も見えない。目を開けても煙が充満していて何も見えなかった。

 俺は何とかあの爆発から生き延びていた。思い返してみても自分が生きていることが信じられない。

 野梨子と春樹の二人が飛び降りた直後、目の前が真っ白になった。視界の中心から赤い炎が広がり、そのあと、何が起こったのかは全く覚えていない。

 どうやら俺は爆発の衝撃で意識を失っていたようだ。気絶してからどれだけの時間が過ぎているのかはわからなかった。

「うぐっ」

 腹部に痛みを感じる。右手で押さえると赤い血に染まった。見ると、瓦礫の破片が腹部に突き刺さっている。他の部分に触れてみたが、全身を強く打っているだけで腹部以外に傷は負っていないようだった。

「く……」

 俺は歯を食いしばって破片を引き抜いた。腹部から血がどくどくと流れていく。

 傷口を押さえてゆっくり立ち上がった。視界を覆っていた煙が少しずつ晴れて、周囲の景色がみえてきた。

 周囲はほとんど瓦礫で埋め尽くされていた。壊れたビルの残骸であることは間違いないだろう。

「どうして俺は……!」

 俺ははっとして目を見開いた。少し先の瓦礫の山に男が立っていた。全身が薄汚れていたが見間違うはずがなかった。

「稜」

 稜がゆっくりと俺のほうに振り向いた。

 口から血を流していたが、痛がっている様子はない。その目は虚ろで人形のようだった。

 あいつの目……。

 すっかり見慣れているため、あの目が稜の目だと思っていたが、本当のあいつはもっと純粋で優しい目をしていた。

 どうしてあいつは変わってしまったんだろう。

 家族を大切にして、明るく笑っていたあいつはどこにいってしまったんだ。

 稜は手に握りしめていた黒の刀を消した。そのまま、あいつは歩き去っていく。

「ま、待て、稜!」

 追いかけようとしたが、傷口が痛んで思うように体を動かすことが出来なかった。

「くそ……」

 出血のせいで視界がぼやけていく。稜の姿もだんだんと薄らいでいった。

 だめだ、行くな……。

 ここで稜を止めないと、またあいつは闇の中に向かっていく。

 動け。動いてくれ俺の体。明日から動けなくてもいい。

 それでもいいから、今は動いてくれ。今ならあいつを救えるかもしれない。

 頼む。

 動いてくれ。

 だが、俺の意思に反して全身の力が抜けていった。そのまま、地面の上に倒れた。

「行くな、稜……」

 去っていくあいつに向かって手を伸ばしたところで俺の意識は再び途絶えた。


13


 2013年11月24日 午後八時 


「糸井さん、本当に大丈夫なんですか?」

「医者の話によれば命に別状はないと聞いているけどな……」

「結局、あのビルの倒壊は事故で処理されましたね」

「だが、あそこからは藪内(やぶうち)の遺体が発見されている。他にもビルから脱出する人影も目撃されているんだ。事故とは到底思えない」

「そうですけど、上層部の人たちは一度決めたことをそう簡単には変えてくれませんよ」

 聞き慣れた会話が聞こえてきた。毎日のように聞いていたような気がする。

 誰だっけ?

 この声、この声は確か……。

 俺はゆっくりと目を開けた。

 ぼやけた視界の端に絢音と中西が話しているのが見えた。気がつくと、自分の顔にガーゼが貼られ、腹部には何重も包帯が巻かれていた。

 辺りを見回すと、ここは病院の一室で、自分はベッドの上で横になっているようだった。

「糸井さん、目が覚めたんですか!?」

 絢音が俺の意識が戻ったことに気づいて、表情が明るくなった。

「絢音……」

「良かった、本当に良かった……」

 絢音は両目から涙を流しながら言った。

「俺はいったいどうなったんだ?」

 中西に聞くと、ほっと息をついて言った。

「ビルが倒壊したと無線で連絡が入って駆けつけたんだ。お前が全く通信に出ないから吉丘が心配していたぞ」

「でも良かったです。糸井さん、丸一日、目を覚まさなかったから、てっきり死んでしまったのかと思いましたよ」

「悪い、絢音」

「そ、そんな、わたしは何も……」

「心配してくれてありがとな、絢音」

「は、はい……」

 なぜか、絢音は頬を赤く染めて俺から目をそらしてしまった。

「糸井、教えてくれ。何があったんだ?」

 中西が表情を堅くして尋ねてきた。

「まあ、そうなるよな……」

 俺はため息をついて目を閉じた。

 奇跡的に生き残った俺は連中のことを知った。

 野梨子が話した『アゲハ』の存在。そして奴らの目的。

「絢音、中西、二人に聞いてほしいことがある」

 俺は半身を起こしてそう言った。二人とも真剣な表情で俺を見つめた。

「実はな――」

 だが俺が話そうとする前に病室の扉が開かれた。それと同時に黒いスーツの男が何人も入ってくる。

「な、なんだ」

「ごめんなさい、急に入るつもりはなかったの」

 驚く中西に、女の声が応えた。男たちの中から一人の女が現れた。サングラスをかけていたが、その女が誰なのかすぐにわかった。

「また会ったわね、中西刑事」

「あ、あなたは確か特捜課の……」

「ええ。特捜課課長の菅原よ」

 やっぱりか……。いくら何でもタイミングが良すぎるだろ。

「部長! どうしてここに?」

 絢音も驚いた様子で尋ねた。

「悪いけど説明は省かせてもらうわ。私は糸井に用があるの。二人とも、席を外してくれないかしら?」

 部長は鋭い視線を向けて言った。絢音は俺のほうを見た。

 心配するな。

 そういう意味を込めて俺が頷くと、彼女も小さく首を縦に動かして、中西と一緒に部屋を出ていった。俺は何も言わずに部長を見つめた。

「気分はどう、糸井?」

「部長が来るまでは良かったですよ」

「そう、それは気の毒なことをしたわ」

 嫌味を言ったつもりだが、部長は特に不快な表情をせずに、ベッドのそばにある椅子に座った。黒いスーツの男たちは一例に並んで部屋の壁に立っている。

「わざわざ部下を連れて病院まで来るなんて珍しいですね」

「あら、いつも署の部屋にこもっていると思ったの? でも、外れではないわ。余程の理由がないとこうやって外に出かけることはないから」

「じゃあ、今回は余程の理由があって俺のところに来たんですか?」

 俺の質問に対し、部長は目を細めて睨みつけてきた。

 俺が部長のことを苦手にしているのは彼女が身体的なアプローチをかけてくるからだけじゃない。彼女は時折、俺の前に現れ、場を重苦しい雰囲気に変えてしまう。そして、俺が調べた情報を全て抜き出そうとしてくるのだ。

「あなたに聞きたいことがあってきたのよ」

 部長はサングラスをスーツの内ポケットに入れて質問してきた。

「連中と接触したの?」

「ええ」

「詳しく教えてもらえないかしら?」

「教えたあとに俺をどうするつもりなんです? その男たちに何かさせるんですか?」

「何もしないわ。約束する。彼らはただのボディーガードよ」

 きっぱりと言ったので、逆に不安になってしまった。だが、遅かれ早かれこの女には今回の詳細は報告することになっている。それに『あげは』と繋がりがある藪内正明(やぶうちまさあき)のことを教えたのも彼女だ。

 なぜ、そこまで早く今回の件の情報を聞きたいのか気になったが、とりあえず今は頭の隅に置いておくことにした。

「わかりました。今回の捜査についてお話しします」

「ありがとう、じゃあ聞かせて」

 こうして俺は部長に全てを話した。

 なぜだ。何か嫌な予感がする。

 近いうちに何かとてつもないことが起こるような気がする……。今までとは違う何かが。

 その日の夜、俺の心の隅にある不安が完全に消えることはなかった。


 第二章 終



次回 第三章 学園

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