小話 家族になるまでに5
見上げた先、緑色の瞳が不愉快そうに歪んでいる。
一度でも、身の危険を感じたことがあるからなのか、私は誘拐されたその時よりもずいぶん冷静だった。鼓動は速くて重い音を響かせているし、足もかすかに震えているけれど、頭の中だけは冷え切っているのだ。
緑色の瞳が、ゆっくりと近づいてくる。
口を塞がれたままだから、きっと私に触れるつもりはないのだろう。
・・・そう信じたい。
来るな来るな来るな・・・と祈っている間にも、緑が近づいて来る。顔を背けようとしても、口を塞ぐ手がそれを許してくれなかった。
「蒼鬼を呼んだか・・・」
吐息のかかる距離で唸るように囁かれる。その声には苛立ちが滲んでいるのに、どこか楽しんでいるような色が垣間見える。
距離感が不快だと伝えようと眉間にしわを寄せた私を一瞥して、彼が口角を上げた。
完全に、悪役顔だ。
緊迫した空気に息を潜めていると、ふいに口から手が離れていく。外気に晒されて初めて、その手に力が込められていたことを知った。
そして、首に何かが当てられる。温かい何かだ。
「次に呼んだら、喉を潰してみるか」
そっと圧迫されて、私は首に当てられたものが彼の手だということに気がついた。
く、と軽く力を入れられただけなのに、それだけでも私の呼吸を乱すには十分だった。
一瞬息が詰まったかと思えば、だんだんと頭に血が上ってくる。
苦しい。頭が痛い。
目の前に迫る緑色の瞳が細められたのを、歪み始めた視界の中で眺めて、私は目を閉じた。
・・・駄目だ。意識が・・・。
苦しさから意識が離れていきそうになっているのを感じて、何かを覚悟した瞬間、突然酸素が肺に流れ込んできた。
痛みと苦しさから解放された私は、体が勝手に再開した呼吸に意識を合わせることに意識を向けて、必死に息をする。
「・・・っ、はぁっ・・・」
不思議と咳き込んだりしない。マートン先生に首を絞められた時には、立っていられないくらいに咳き込んだ気がするのに・・・。
夏の出来事を思い出しながら目を開けると、そこには目を細めて、呼吸するのに必死な私を眺めている彼の姿があった。
「脆いな・・・」
低い声で囁かれて、体が引き攣ったように強張る。自分が殺されかけた自覚がある私は、彼の一挙一動に敏感になっているらしい。
「喉だけ潰すのは、無理そうだな。
殺してしまいそうだ」
・・・なんてことを。
恐ろしさに絶句していると、彼が体を起こして私の手首を掴む。
操り人形のように、されるがままに身を起こした私は、やっと脳に酸素が回ったばかりで頭をふらつかせて目元を押さえる。
「となると・・・また猿轡をするしかないか・・・」
やってみたけど上手く出来なかったから、猿轡でもしておこう・・・ということか。
この人は一体、何者なのだろう。蒼の騎士団が追うような連中とは違うようでもあるし、話し方にもどこか品がある。
・・・話す内容はこれ以上ないくらいに物騒だけれど。
コインが見当たらないから、きっと騎士ではない・・・ならば、元騎士だろうか。
私が死んでしまっては都合が悪い、というような言い方をしているから、きっと命を取られることはないのだろう。だから、首から手を離したのだろうし・・・。
そんなことを考えていると、彼の指先が私の口の端に触れた。
ちくり、と痛むのを堪えて歯を食いしばった私は、微動だにしないようにと体に力を入れる。
「痛むか」
気遣わしげな声で尋ねられて、私は素直に頷いた。
あんなことをした割に、気遣いを見せる。私にはそれが、均衡を欠いた危ういもののように思えて仕方なかった。
「・・・なるべく傷をつけるな、と言われてる。
でも、あんたが大人しくしてくれないと、話は別だ」
諭されるように言われて、私はもう一度頷いた。
彼がベッドから腰を上げて、ソファに腰掛ける。
それを目で追った私は、窓の外が真っ暗になっていることに気づく。慌てて天体盤を探せば、夜がやって来てから、しばらく経っていたことを知った。
・・・きっと、すごく心配して、すごく怒っているはずだ。
・・・院長は大丈夫なのだろうか。
大人しくしていろ、と言われては、ため息すら吐いていいものかと迷ってしまう。息をするにも、彼の神経を逆撫でしないかと気を遣うのだ。
溜め込んだ息を吐き出したくて天を仰ぐと、月明かりが差し込んでいることに気づく。
天窓があるということは、ここは最上階なのだろう。2階なのか3階なのか・・・どちらにしろ、私の足では逃げたところで捕まってしまうだろうし、捕まったら今度は無事では済まないことくらい解り切っている。
本当に今さらだけれど、彼の忠告をちゃんと聞いておくべきだった。私では対処出来ないほどの面倒ごとが起きるだなんて、大げさだと真に受けずにいた自分が呪わしい。
「暇だな」
ぽつり、と零した彼が私を見た。
そのひと言が怖い。
暇だから、何なのだ。何をしようと思っていて、どうなったらいいと思っているのか。
その表情から何も拾えなかった私は、ただ黙ってその視線を受け止めていた。
すると、それすら気に食わなかったのか、彼が足を組み腕を組み、息を吐き出す。
「・・・あんた、渡り人なんだろ?」
「へ・・・?」
思わぬ台詞に、声が漏れてしまった。
そして、はっと我に返った私は、手で口を押さえる。彼の気に障ったら困るのだ。
一瞬にして血の気が引いた私を見て、彼が声を上げて笑った。
・・・笑えたのか。この人。
背中がひやりとしたのも忘れて、私は呆気に取られて彼が笑うのを見てしまう。
「大体のことは把握してる。
あんたが渡り人で、蒼鬼の後見の下で皇子の子守をして、もうすぐ結婚すること。
そして、しらゆり孤児院の院長は元皇女で、あんたを最初に保護した人物だ」
「王宮関係者・・・?」
並べられた言葉に呆然と呟くと、彼は目を細めた。
「・・・似たようなものだ。
ともかく、あんたのことは知ってる」
「はぁ・・・」
手品の種明かしをされたような気分で相槌を打った私を見て、彼がさらに続ける。
「暇だから、あんたの居た世界の話が聞きたい」
「いいですけど・・・」
括られていた手首がちりり、と痛む。
血の滲んでいた部分がかさぶたになってきて、動かすと引き攣れるようだ。
私はその痛みから意識を逸らすために、口を開いた。
「変な所から来たんだな」
「・・・変じゃ、ありません。
確かに、この世界にはない物がたくさんありましたけど・・・」
ひと通り話をしたところで、彼が素直に感想を述べた。
確かに何も知らない人が聞いたら、機械が空を飛ぶことや、この世界の建物よりもずっと高い建物が乱立しているような街など、奇想天外な景色を思い浮かべるだろうけれど。
「皆普通に生活してましたよ。
私だって、20年以上そこで暮らしてたんですから・・・」
そう、私にとっては唯一無二の故郷なのだ。鼻で笑って欲しくはない。
ほんの少しだけ、大人しくしていろと言われたことを忘れて反論すると、彼はまた目を細めて私を見つめた。
「初めて詳しい話を聞いた。
・・・やっぱり、面白いな」
「それはどうも。暇つぶしになりましたか?」
きっと私のことは、異世界からやって来た珍獣だとでも思っているのだろう。半ば投げやりに言い捨てると、今度は腕を組んだままソファに体を沈める。その瞳は宙を見据えていて、何か考え事をしているようにも見えて。
「連れて帰ってみるか」
「は・・・?!」
独り言のように呟いた彼を、私は凝視してしまった。
「連れて、帰る・・・?!」
何を、何処に、誰が。
耳に入った言葉が、頭の中で乱反射してしまって上手く理解出来ない。
目を見開いたまま硬直する私に、彼が言い放った。
「ああ。
あちらの話が纏まるかどうかによるが・・・それも面白そうだ」
・・・何を言っているのか、さっぱり解らない。
あちらというのは一体何のことで、話が纏まるというのは一体どういうことなのか。
そこはかとなく物騒な企ての予感がする。
「・・・何、言ってるの・・・?」
話についていけなくなって思わず言葉にしてしまった私は、慌てて口を噤んだ。
すると彼が、そんな私を見据える。
視線の強さに負けそうになりながらも、それを正面から受け止めた私の耳に、言葉が流れ込んできた。
「この国の北側に隣接する大国・・・は知ってるか」
言われたことに、ふるふると首を振る。
彼はそんな私に、大げさなほどの息を吐いた。
「・・・この国が平和だからか。
俺はその大国の軍人で、ここはその大国の大使館だ」
「大使館・・・」
突きつけられた言葉に、頭の中が真っ白になる。
治外法権、外交問題・・・ニュースで聞いただけで全く別世界のものだと思っていた単語が、次から次へと脳裏を掠めていって、言葉を失った。
すると彼が立ち上がって、未だにベッドの上に座り込んでいる私の元へとやって来る。
「それなら・・・」
私は考えを纏めて、言葉を紡いだ。
「拙いんじゃないですか?
他所の国で、末端ですけど・・・王族に連なる人間を誘拐をした上に、監禁・・・。
きっと問題に・・・」
「ならない」
上手く働かない頭を駆使して紡いだ言葉を否定されて、私は絶句する。
「問題にならない・・・というより、問題に出来ないだろうな。
この国は小さいし、侵略戦争から立ち直ったばかりだ。
大国と渡り合えるだけのものはない。せいぜい、学問と医療が少し進んでいるくらいか。
・・・まあ今回のことが失敗すれば、大使は痛い目に合うだろうけどな」
「・・・どういうことですか?」
理不尽さを感じるものの、国同士の問題について、私が考えても反論しても仕方ない。
とにかく今は、引き出せる情報は引き出しておこう、と頭を切り替えることにして、私は口を開いたのだった。
・・・何かあっても問題にならないのは怖いけれど・・・。
「この間の夏だったか・・・夜会が開かれたのは」
「そう、ですけど・・・」
突然話の内容が身近になって、戸惑ってしまう。
彼が隣に腰掛け足を組んで、私を見下ろした。
その目は案外穏やかで、普通にしていれば威圧感はないようだ。軍人だと言っていたから、スイッチが入る瞬間があるのだろうか。
「あの夏の夜会に、大使も俺も招かれていて・・・ひと目惚れしたらしい」
「ええと・・・これは何の話でしょうか」
「大使が元皇女様に惚れたらしい」
丁寧に説明されて、私は開いた口が閉じられなかった。
曰く。
夏の夜会で、大国の大使が院長にひと目惚れをしてしまったらしい。その大使は院長と同じくらいの年で、妻に先立たれて数年経っているのだという。そして、院長が同じような境遇にあることを知って猛アタックを始めたそうだ。
院長は、それをやんわりと断り続けているらしい。孤児院のこともあるし、まだこれから息子が結婚するところだから、そういうことは考えられない、と。
それに納得出来ないのか何なのか、大使は院長が王都にやって来ることを小耳に挟んで、招待状を送ったそうなのだ。是非、お食事でも、と。
やはりというか、それも断られた大使は、今日の誘拐紛いのご招待に踏み切ったという。
傷をつけないなら、多少手荒でも構わない。
付き人がいれば、それも一緒くたで構わない。
そちらには多少の傷が付いても、構わない。
・・・本当に、本当に本当に迷惑な話だ。
「じゃあ、あれですか。
私はそのひと目惚れを諦めない大使のせいで、誘拐されて殺されかけたわけですか」
「否定はしない」
彼の言葉に、頭を抱える。
「も、やだ・・・」
「まぁ・・・」
やるせない怒りのようなものを胸に抱えて息を吐くと、彼が呟いた。
「悪かった。力を加減するのは得意じゃないんだ。
・・・先に事情を話すべきだったな。そうすれば、もう少しマシだったか」
「事情?
・・・今の、ひと目惚れの件ですか?」
一応の謝罪は無視して、話の先を促す。
すると彼は、視線を彷徨わせてから口を開いた。
「ああ、でもそれだけじゃなくて・・・実は、」
そこまで言った彼が突然口を閉じ、目つきを鋭くしてドアの向こう側を睨みつける。
私もそれに倣って視線を投げて、しばらくして何かの音が近づいてきていることに気がついた。
「何・・・?!」
にわかに、ドアの向こうが騒がしくなる。
ばたん、という乱暴な音が響いて、続いてそれに対して何かを言う誰かの声。そしてまた、ばたん、という乱暴な音。それを繰り返すごとに、だんだんと近づいて来ているのが分かる。
「あれで特定出来るとは、たいしたものだな」
目を細めた彼が、楽しそうに囁いた。
同意を求められているようにも思えるけれど、何に対してなのかが分からない私は、曖昧に頷いて相槌を打つよりほかない。
言葉の少ない人の相手は、時々私を混乱させる。
彼の言葉に気を取られていた私は、ばたん、という音で我に返った。
「だからっ、大佐は今・・・っ」
誰か、若い男性の声が響いているけれど、私の視線は言葉を発することなく立ち尽くしている彼に釘付けになる。
息を止められた時のように、呼吸が上手く出来ない。視界がぼやける。鼻の奥が痛い。
咄嗟にベッドから飛び降りて、駆け出した。
それほどの距離ではないはずなのに、足がもつれて進まない。空気すら邪魔だ。
駆け出した私の方へと、彼も大股で近寄ってくる。
そして、ただ駆けることだけに必死になっていた私は、彼の前で止まることも忘れて、その胸にぼすん、と顔を埋めた。衝撃ごと受け止めた彼の腕に力が込められたのを感じて、体から力を抜く。
「すまない。遅くなった」
心地良く響くバリトンの声音に、私は思い切り首を振る。
やっと呼吸が楽になった私は、肺の奥の方まで息を吸い込む。嗅ぎなれた彼の匂いに満たされた私は、溜め込んでいたものを吐き出して、その背に腕を回した。




