小話 家族になるまでに4
真っ暗で何も見えない。だからなのか、他の感覚が研ぎ澄まされているような気がする。
顔を強張らせた院長のことを「ラエスラズリエル様」と本名で呼んだ男は、恭しくも否と言わせない威圧感を放っていた。
動転して言葉が出ない私の口を塞いだ男は、私ごと素早く車に乗り込んだ。
その後は目隠しされ猿轡を噛まされ、自分がどうして、どこに連れて行かれて、どうなってしまうのか分からないままだ。
どれくらい時間が経過しているのかすら、分からない。
院長の気配は、車の中にいた時には近くに感じられたけれど、頬を風が撫でていったのを感じてからは、全く気配を感じられなくなった。
「大丈夫よ、私が守るから」と囁いてくれた声は、一体どこに行ってしまったのだろう。
彼女のことを「様」付けで呼んでいたくらいだから、きっと手荒な真似はしないはずだ。そう、信じたい。
私の方こそ、おまけで誘拐されたのだろうに、かといって用済みだからと雑な扱いを受けているようにも思えない。
車から降ろされて、おそらく誰かに担がれたのだろう・・・お腹の辺りが苦しくて頭に血が上っていくのを感じた。そして、その人が歩くたびに衝撃が頭に響いて・・・解放された、と思ったら、どこかの上に放り出された。
たぶん、ここはベッドだろう。頬に当たる布の感触が、絨毯でもソファでもなさそうだ。柔らかくて暖かくて・・・ほのかに、お日様に当てた後のような匂いがする。
遠ざかっていく足音を片方の耳で聞きながら起き上がると、とりあえず今すぐ命を取られることはないような気がして、そっと息を吐き出した。
おまけとはいえ、床に転がすでもなく危害を加えるでもない。あの男達の目的は一体何なのだろう。いや、それ以前に彼らが首謀者だというのは、違うような気がする。
院長と離れ離れにされてしまったのを感じ取っていた私は、必死に考えていた。考えていないと、恐怖に飲まれてどうにかなってしまいそうだ。
彼の名を呼びたいのに、口に当てられた布がそれを邪魔する。たった一度でも呼ぶことが出来れば、彼は絶対に来てくれると思うのに・・・。
・・・心のどこかで、彼を呼べば大抵のことからは身を守ることが出来る、と高を括っていたのかも知れない。もちろん、自分から危険なことに近づかないようにはしてきたつもりだけれど。
括られた手首が痛む。目で確認することは出来ないけれど、相当きつく縛られてしまったらしい。手首を捻ろうとすると、ちりり、と何かの繊維が擦れて痛い。
思わず顔を顰めていると、ふいに何かが手首に触れた。何か、温度のあるもの。
「・・・っ」
反射的に体がびくついて、息を止める。驚いて力が入ったのか、手首に痛みが走る。
「ぅ、ぐ・・・っ」
ぎり、と何かが食い込むのを感じて、呻き声を抑えることが出来なかった。
すると今度は、はっきりと分かった。
誰かの手が、私の手首を掴んだ。
「う、あぁっ」
傷口を鷲掴みにされたような感覚と、痺れるような痛みが大波になって襲い掛かってくる。
痛いのに、痛いとすら訴えられないことが、こんなにも苦しいなんて思いもしなかった。
やめて欲しい。今すぐ、その手を離して欲しい。
言葉に出来ない代わりに、身を捩って手から逃れようとした私に、静かな声が降ってきた。
「力を抜け」
ともすれば囁きかと思えるほどの小さな声で、端的な物言いをされた私は、その言葉を頭の中で反芻して動きを止める。あまりに小さな声だったから、意識を集中してしまったらしい。
次の瞬間、声の主がその隙に私の手首を引き寄せたのが分かった直後、ふわり、と両手に自由が戻ってきた。
「あ・・・」
思わず声を上げた私をよそに、その人は猿轡を外してくれる。
それほどの長い間自由が利かなかったわけではないはずなのに、顎に力が入らない。自由になった両手で感触を確かめるようにして触れれば、ぬるりとした何かがあることに気がついた。
「これで押さえているといい」
言われて手に握らされた物を指先で確かめて、口に当てる。うっすら鉄の錆びたような匂いがしたから、きっと血が滲んでいるのだろう。
自分の皮膚が意外と薄かったことに驚きながら、私は素直に口の端に布を当てて口を開いた。
「あの・・・」
返事がない。
両手が自由になったのだから目隠しも取ってしまえ、と布を咥えたまま両手を後頭部に回して・・・そして、硬直した。
手に、力が入らないのだ。痺れているような感じがする。
「やめておけ」
再び囁きが降ってきて、私の両手首を掴む。
大きな手だ。声も低い。
「まだ力が入らないはずだ。
無理をすると、治りが遅くなる」
大きな手の力加減も、言葉の紡ぎ方も似ている。彼に。
ただそれだけだ。そう感じただけなのに、勝手に鼓動が跳ねた。
それを隠すつもりで素直に頷いた私の両手首から、その手が離れていく。
口が自由になったのだから、すぐにでも彼の名前を呼べばいいと思うのに、私はそれを頭の隅の方に寄せた。
その大きな手の感触と、声色が気になって仕方ないのだ。どうしても、この人がどんな顔をしているのかが知りたくなってしまったのだ。
「あなたは誘拐犯、ですか」
「ああ」
私の投げた、直球の質問をあっさり肯定する。
それに面食らった私は、次に何を問えばいいのか分からなくなってしまった。
いっそのこと詰ればいいのか。それとも、喚いてみせればいいのだろうか。
そのどれもが違う気がして、結局言葉が出てくることはなかった。
「あんたは、そのうち家に帰す」
そして、唐突に投げ返された言葉に絶句した。
・・・私は家に帰ることが出来る・・・。
「院長に、会わせて」
自分でも、声が険しくなっているのが分かる。目隠しがあって良かったかも知れない。でなければ、ものすごい表情を晒してしまっていただろうから。
圧倒的に相手に分があるのだ。逆上でもさせては、元も子もない。
声のした方へと顔を向ける。
「院長は、無事なの」
良くない想像が、体を小刻みに震わせる。
守ると言ってくれた、私の家族になってくれる人。茶目っ気があって、悪戯も秘密も大好きで、私を本当の娘のように可愛がってくれる優しい人。
車の中でお互い目隠しと猿轡をされていたけれど、その直前にひと言囁いてくれた声の力強さが、今でも耳の奥に残っている。
「教えて。院長は・・・」
「無事だ。別の部屋にいる」
何も聞こえてこないことに苛立って、もう一度尋ねかけたのを遮って、声が答える。
そのすぐ後から、追いかけるようにして息をついたのが分かった。
ため息の意味が分からずに内心で首を捻っていると、視界が急に明るくなる。
「あっ・・・!」
目隠しが解かれたのだと分かったけれど、眩しくて目が開けられない。
それでもだんだんと明るさに目が慣れてきて、そっと瞼を開ける。すると今度は、視界がぼやけていてしまって、なかなか焦点が定まらなかった。
手で目頭を揉みたいけれど、力が入らないからそれも出来ない。私はただ、瞬きをして軽く頭を振って、時間が経つのを待つしかなかった。
とりあえず声が、院長は無事だと言っていたのだから、まずは私が落ち着かなくては。
私は視界がしっかりしてくるのを待ちながら、深呼吸を繰り返す。
そうしているうちに、声の主の顔の輪郭が次第にはっきり見えるようになってきているのが分かって、私は何度も瞬きしながらその顔を覗きこんだ。
「・・・見えないのか」
声の主が、声を落として呟くのを聞いた私は、ふるふると首を振る。
「ぼやけてるだけです。
・・・いいんですか、私、人質・・・」
自分から、自分の扱いについて疑問を投げかける必要はない。それに気づいて口を噤むと、声の主が鼻で笑ったのが分かった。
ことごとく、彼によく似ているところが多い人だ。
「人質じゃない。
少し手荒だったことは認めるが・・・あの方をここへお連れすることが目的だった。
誘拐紛いの方法で申し訳ないとは思うが、それも命令に含まれていた」
「・・・命令・・・」
誰からの、と尋ねようとした私の手を、声の主が掴む。絶妙な位置で、痛みの残る箇所を避けているのが分かって、なんとなく振りほどくのが躊躇われてしまう。もしかして、この人は優しい人なんじゃないか・・・だなんて、吊り橋効果のようなものが働いてしまっているのだろうか。
そんな可笑しなことを考えていた私は、戻りつつある視界の真ん中に、その瞳の色を捉えた瞬間絶句した。
緑色をしていたのだ。私と院長を誘拐した人の目は、緑色だった。
「あんた、名前は」
低い声と、表情筋が全く働かない頬。眉間のしわはないけれど、声の色も全然違うのだけれど、その姿は私の婚約者にそっくりで。
私は掴まれたままの手と、彼の顔を見比べる。世界には、自分の生き写しのような人間が何人かいる、という話は聞いたことがある。けれどそれは、向こうの世界の都市伝説的な話で、この世界ではどうなのだろうか。
まさか、親類というわけではないだろう。親類に誘拐されるだなんて、笑えない。
「聞いているのか」
ほんの少し手首に力が加えられて、はっと我に返る。
「それは、命令されて・・・?」
尋ねるということは、私のことを知らなかったということに違いない。この人に命令を下した人間も、私を知らなかったのだとすれば、彼らは私と蒼鬼が繋がっている、ということを知らないことになる。
「いや、俺の興味だ」
「興味・・・」
・・・興味か。王都に暮らす人々の中で、私の外見が限りなく少数派に含まれるという自覚がある。だから、関心を引いてしまうことも分かってはいるつもりだ。
誘拐犯に興味を持たれるということは、たぶん、あまり良くないのではないか。
彼の言葉を反芻しながら、いっそのこと偽名でも口にしてみるか、と考えを巡らせる。
「俺が知りたいのは、あんたの名前だ。
偽名を名乗ってもいいが、それがあんたを守るとは考えない方がいい」
適当な名前が喉元まで出かかったところで言われて、息を止めた。危ない。
「ミナ、です」
結局正直に自分の名を口にした私は、悔し紛れに尋ねてみることにした。
「・・・私が誰なのか、知ってるんですね?」
未だに掴まれたままの手首が気になって仕方ない。
視線を投げれば、目の前で緑色の瞳が細められた。
「ゼナワイト家の跡取りの婚約者、だろう?」
「ぜ・・・?」
聞き覚えのない単語に戸惑ってしまう。跡取りも婚約者も、とりあえずは意味が分かるし身に覚えもあるのだけれど。
きょとん、と小首を傾げてしまった私を見て、彼が絶句した。
「・・・いや、人違いなわけがない。
あんたは蒼鬼の婚約者だ。違うか?」
「そうですが」
「まさか、知らないのか」
彼が目を見開く。そんな仕草まで似ているだなんて、卑怯だ。和んでしまいそうになる。
・・・しっかりしろ、私。
緊張感が欠け始めた自分を叱咤して、彼の少し大きくなったままの瞳を見据えた。
「何をですか」
気を許してはいけない。大きな手に込められた力が優しくても、そんなところまでが彼に似ていようとも、この人は、違う。
この人は誘拐犯。私と、院長を誘拐した。
「婚約者の家名を知らないのか。信じられん・・・」
頭の芯が冷えていくのを感じながら、私はそっと息を吐く。
「なんだ・・・家名か」
そういえば、私は彼らの家の名前を尋ねたこともなかったのか。
「あんた、面白いな」
苦笑が聞こえて視線を上げると、緑色の瞳が私を待ち構えていた。
「院長に会わせて。もう帰らなくちゃ彼が心配・・・」
何かを言われる前に、と早口で言いたいことを告げていた私に、彼が舌打ちする。
やけに耳障りな音だ。こんな音、初めて聞いた。手首を掴まれてさえいなければ、耳を押さえてしまいたいくらいだ。
「何言ってる」
苛立ちを含んだ声色が飛んできたかと思えば、とん、と肩を押されて、仰向けに倒されて頭がバウンドする。
掴まれていた手首が、少し痺れているような気がして擦ってみる。こういう時、相手を逆上させてはいけないことを身を持って学んでいた私は、冷静さを失わないように考えを巡らせた。
そして、勝手な希望的観測のもとに彼を呼ばずにいた自分を、詰って、息を吸う。口を開く刹那、脳裏をよぎったのは深い緑色をした瞳だった。
「シュバリエルガ」
目を閉じて、もう一度。
「シュバリ、んぅっ」
言い切る前に、大きな手に口を塞がれた。緑色の瞳が、苛立ちを隠さずに私を射抜いている。
大丈夫だ。一度でじゅうぶん。彼には届く。
もう外は暗いはずだ。夜の出歩きに厳しい彼は、すでに私達に何かがあったことくらいは想像がついているだろう。そうなれば、当然私の気配を探ってくれているはずで、私の声にも聞き耳を立てていると思うのだ。
下から緑色の瞳を覗き込んだ私は今になって、シュウに全く似ていないと気がついた。




