小話 家族になるまでに2
「しゅーうー」
つんつん、と向こうを向いて横になっている彼の背を突付く。
月明かりが天窓から差し込む寝室で、私は彼のことを呼び続けていた。
彼の母親であり、この世界に渡って来た私を保護してくれた、しらゆり孤児院の院長がやって来たのは、1日の終わりを予感するような時間帯。
2人でリビングのソファで寛いでいる時間を、邪魔されたとでも思ったのだろう。思いのほか膝枕が気に入ったのか。
玄関先で顔を顰めた彼を宥めつつ、院長にお茶を淹れて寛いでもらっている間に、客間のベッドを整えて・・・リビングに戻ったら、2人が険悪な雰囲気の中睨み合っていた。
・・・一体どんな会話をしたら、あんなに険悪な雰囲気になれるというのか・・・。大方、彼が「今からでもホテルを探してそちらに泊まれ」とでも言ったのだろう。
そして院長を客間に案内して、バスルームもキッチンも自由に使ってもらって構わないことを伝えて、私は彼と休む準備をして・・・。
おもむろに彼が、私に背を向けて横になったわけだ。
「勝手なことして、ごめんね?」
背中に寄り添って囁けば、彼の鼓動の音が少し速くなったのが分かって頬が緩む。
・・・蒼鬼が拗ねるだなんて、こんな姿出会ったばかりの頃は思いもしなかったな・・・。
いけない。アンとノルガに中てられて、私まで頭の中が沸騰してるのかも知れない。
そう思って口元を引き締めたその時だ。
彼がこちらへ体を向けて、不機嫌そのものが目になったような瞳で私を見下ろした。
いつもの深い緑色の瞳が細められて、眉間にものすごいしわが寄っている。
「・・・あの、」
「面倒くさい」
「え?」
ご機嫌を取ろうと思った矢先に仏頂面で言い放たれた私は、思わず訊き返してしまった。
ごろん、と大きな獣が寝返りを打っているような動きで覆い被さってきた彼が、目を細めて私を見下ろしている。
「きっといろいろ、やらかしてくれると思うぞ。あの人は」
「あの人って、院長?」
「ああ」
こんなに間近に顔があるのに、圧迫感を感じないのは何故なんだろう。
そんなことをぼんやり考えていたら、いつの間にか彼が言葉を紡いでいた。
「本当に、面倒ごとばかりを連れて来る。いや、向こうからやって来るのか。
お前じゃ、とてもじゃないが太刀打ち出来ない程の面倒ごとだ」
「そ、そうなの・・・?
だって、孤児院にいた頃は全然・・・」
囁きに小首を傾げていると、彼が首筋に噛み付いてくる。
・・・口付けではなさそうだ。その証拠に、少し痛い。いや、甘噛みだろうけれど。
「・・・お、怒ってますよね。蒼鬼さま・・・」
初めてのことに驚きつつ囁いた私に、彼は何も言わずに噛んだ場所をべろん、と舐めた。
「ひゃぅっ?!
な、何してるの・・・!」
「躾」
「は・・・?!」
思わず尋ねた私が間違っていたのか、何か聞いてはいけない単語を聞いた気がする。
驚いて言葉を失った私を、彼の意地悪な光の灯る瞳が見下ろしている。
私は何と言えばいいものか決めかねて、結局その瞳をじっと見つめる以外に出来ることがなかった。
・・・月明かりの差し込む寝室で、一体何をしているんだろう、私達。
・・・いや、これはこれで、満更間違っているわけでもないような・・・。
つらつらと胸の内で呟いていると、ふいに彼が口角を上げた。
「やめておけ、と合図したのに無視しただろ」
「・・・う、ごめんね」
そっと手を伸ばして、その頬を撫でる。
もう表情が穏やかになって、眉間のしわも綺麗に消えていたのに気づいて、私はやっと笑みを浮かべることが出来た。・・・苦笑だけれど。
「だって、私達のお母さん・・・に、なるんでしょ?」
恥ずかしさを隠して囁けば、彼が目を細めた。溶けてしまうんじゃないかと思うほど、目じりに甘さを滲ませる。
「ミナのことだから、そう言うだろうと思っていた」
「・・・うん」
そんなふうに見つめないで欲しい。久しぶりに、背中がむず痒い。
曖昧に頷いて言葉を濁した私に、彼が話を続けた。
「実は、母が王都へやって来るという話は聞いていた。
・・・ああ違うんだ、耳にしたのは今日だ。しかもジェイドの口から聞いた」
「えー・・・」
「で、伝えておこうと思った矢先にこれだ。
お前も知ってるだろ、あの人が秘密も悪戯も隠し事も大好きなのを・・・」
「うん」
実は、彼の部屋で暮らすようになって間もなく催された「身内だけの晩餐会」と呼ばれる王族関係者の食事会に参加した時に、私は初めて院長と彼が親子関係であることを知ったのだ。
何食わぬ顔で私を王宮へ送り出した院長は、最後の最後、あの晩餐会の席に現れて、私の隣の席に腰掛けたかと思ったら、肩を竦めて舌を出したのだ。
・・・あの時の衝撃は、きっと忘れないだろう。
「ミナ・・・?」
気づけば、彼が目の前で訝しげな顔をしていた。
回想に耽って、ぼんやりしてしまった私を不思議に思っているのかも知れない。
「あの晩餐の時は、ほんとにびっくりしたんだから・・・」
言いながら、その時の自分の慌てようを思い出して肩を揺らしてしまう。
彼はくすくす笑いを漏らす私に苦笑して、眉を八の字に傾けた。
「そういえば、シュウも教えてくれなかったんだった」
ちくり、と言葉を投げれば彼が息を吐く。
「悪かった」
「うん」
彼のご機嫌は、もうすっかり元に戻ったらしい。
真上にある深い緑色の瞳が柔らかく細められたのにつられた私も、そっと笑みを浮かべて内心で息を吐いた。
「ともかくだ。
何かあったら、すぐに俺を呼べ」
「・・・何かあるの・・・?」
なんとはなしに嫌な予感がしてしまう。院長は、彼を呼ばなくてはいけないようなことを引き連れてくるかも知れない、ということなのか。
彼は、思わず尋ねた私の頬を、そっと撫でて首を振る。
「そうじゃない・・・念のためだ。
可愛い我侭くらいなら、お前も慣れてるだろうから心配してないが・・・。
1人じゃ対処出来ないようなことが起きたら、迷わず呼べ。
しっかり匂いも付けておいたし、もうそろそろ定着もするだろ」
「だから噛んだの?」
噛まれた辺りに手を伸ばして、子どもの喧嘩じゃあるまいし・・・などと、呆れてしまう。「噛んじゃダメよ、痛いんだから」なんて、子どもに教える時のようにしたらいいんだろうか。いっそのこと、私も噛み返すとか。
・・・彼のことだからきっと、痕が残らないようにしただろうけれど。
内心でいろいろな感想を抱いていた私を見ていたんだろう、苦笑いした彼が囁いた。
「旨そうだったから、つい・・・」
「全くもう・・・」
「悪い」
言いながら、大きな手が動き出す。シーツの上の漂っている髪に指を絡めたかと思えば、肩を撫でて自分が噛んだ首の辺りを擦る。
「駄目だな・・・」
言葉と一緒にため息が落ちてきて、私は内心で首を捻った。彼は時折、言葉が足りないのだ。
窺うように彼の目を覗き込むと、困ったように微笑まれる。
「・・・どこもかしこも、旨そうな匂いがする」
「だからっ・・・だから言ったのに・・・!」
ぎっしぎしになった体を叱咤してベッドから這い出した私は、シャワーを浴びながら恨み言を吐き出していた。
どこもかしこも痛い。ぎしぎしする。
普段子守をして使う筋肉とは別の箇所が筋肉痛になっているようで、思うように動かない自分の体と、ひと言お願いしておいたのに聞いてくれなかった彼が恨めしい。
院長がお泊り中だというのに、朝寝坊してしまった。いや、いつも通りの生活ならば問題ない時間帯なのだけれど、朝食の準備が1人分増えたし、今日の予定なども話す必要があっただろうし・・・ともかく、初日から大失敗だ。
・・・1つだけ言い訳させてもらうならば、いつ如何なる時も俊敏に動ける彼が、起き抜けに言い残して行ったのだ。朝食作りも今日の予定も、俺に任せておけ・・・と。
それはありがたいのだけれど、そこに私がいないのは、あからさま過ぎやしないだろうか。
彼のひと言が目覚まし代わりになったのか、突然意識が覚醒した私は、こうして慌てて身だしなみを整えているわけだ。
「ああもういや・・・!」
私にとって、院長は母親みたいなものなのだ。この世界にやって来て、孤独や不安が自分の中でごちゃ混ぜになっていた私を、大事に大事に温めてくれた人。彼女がいたから、私は彼に出会うまでの間に前を向けるようになったのだと思っている。
だから母親代わりの彼女に、生々しい場面を想像されたらと思うと、居たたまれないのだ。
恥ずかしさに耐えられなくなった私が、髪を乾かしながら半ば悲鳴じみた言葉を吐いていると、横に人の気配を感じて勢い良く振り返る。
「まだ寝ていろと言っただろ」
半ば呆れたような表情を浮かべた彼だった。
・・・どうしていつもこう、彼の表情は余裕で満ちているんだろうか。
腹立たしさが一周して、まじまじと見つめてしまう。もしかして、表情筋が私と違う造りになっていたりするんだろうか。
「・・・どうした?
体の具合でも悪いのか」
何も言わない私に違和感を感じたのか、彼が私の背に手を添える。
「体はぎっしぎしです、おかげさまで」
ちくり、と針を刺すつもりで言葉を放てば、彼が鼻で笑う。
「もう・・・院長がお泊りしてる間は控えてね」
私は鏡に目を向けながら、8割乾いた髪を軽く纏める。自分の顔を覗きこむと、嫌味なほどに肌の色艶が良い気がした。不幸中の幸い、というやつか。
ちら、と視線を投げると、彼が満足そうに目を細めて、口角を上げているのに気づく。
・・・どうやら私のひと言は、耳に入っていなかったらしい。
「いい仕事をした」
ぽつりと零したひと言に、私はもう一度言い放ってバスルームを出る。
「もう1回言っておきます。
・・・院長が我が家に滞在している間は、控えましょうっ」
廊下に出ると、すぐに後ろについてきたらしい彼が低い声で唸った。
「冗談だろ・・・?」
キッチンから漂う、食欲をそそる匂いにつられて、早足になってリビングに向かう。
いつだったか、まだ別々の部屋で暮らしていた頃、私の体調を心配した彼が合鍵を使って部屋に入り、私が目を覚ます前に朝食を作っていたことがあった。
ふいに思い出した光景に頬を緩めた私は、一転して不機嫌そうな表情を浮かべる彼を振り返る。
院長が滞在するようになるまでの私達の日常は、こんなものだった。
たまに暴走する彼に私が言葉をぶつけて、じゃれ合って。
それが大きく覆されようとは、思いもしなかった。
たとえ彼に、事前に言われていたとしても、だ。




