小話 私達の秘密5
遠のいた意識の中、自分の体がふわっと浮いて移動していくのが分かる。
陽炎が揺れるような視界の隅に映り込んでいるおじさんとアンは、お喋りに花が咲いていてきっと気づきもしないだろう。まして振り向くはずもない。
・・・気を失ってたまるか。
怒りに近い感情で、閉じそうになる瞼を必死に堪える。
そんなギリギリのところで意識を保っていると、力強い腕の力が緩んで、宙に浮いていたはずの足が床に着く感触がした。
私だって子どもを持ち上げて振り回して、メリーゴーラウンドのようにして遊んだり出来る。それなりの腕力や握力を備えている自負があるのだ。
けれどやはり男性の、特にこの世界の騎士なんかをしている男性の力には、絶対に絶対に敵わないことを私は身を持って知っていた。もう思い出すこともなくなったけれど、夏の終わりに元白の騎士に乱暴された経験がある。
だから、この両手両足が自由になったとしても抵抗などしない方が良いことも、きちんと分かっているのだ。
大きなごつごつした手が離されて、口と鼻が解放される。
酸素を求めた体が言うことを聞いてくれない。思い切り息を吸い込んだ私は、大きく咽た。
腰を抱く太い腕は、そんな私を放り出すこともせずに、ゆっくりを背を撫でて呼吸を楽にする手助けをしてくれている。
・・・拉致してくれたくせに、親切な・・・。
沸々と怒りが湧く中、私はこんなことをする人間の顔を見てやろう、と思い切り振り返って。
「ん、ぅぅっ?!」
・・・齧り付くような、乱暴な口付けを受けた。これはもう、避けるとかそういうレベルの話ではないと思う。
そして次の瞬間、私は彼の正体に気づいて力を抜いてしまった。
・・・それがいけなかった。
私が驚いて暴れたりしないと思ったのだろう、少し強引な動作で腰を引き寄せて、ぶつかる勢いをそのまま飲み込んだような口付けが続けられる。
・・・ここ、蒼の本部ですよ。
冷静な自分が警告するけれど、目の前の彼をどうしたらいいのかと途方に暮れてしまう。私は、自分が大抵のことは彼に敵わないと十分知っているのだ。
「・・・ん、はぁっ・・・ぅん・・・っ」
気もそぞろに口付けを受け続けた私は、いつの間にか息が上がって、頭の中に霞がかかってきたことに気づく。
けれど気づいた時にはもう遅い。足がかくん、と折れた。
全身から力が抜けた刹那、力強い腕が私の体を支える。
「・・・も・・・」
ぼんやりする頭をなんとか持ち上げた私は、目の前で壮絶な色気を振りまいている彼を、思い切り睨みつけてやった。
「シュウのばか・・・」
彼は口元を緩めて謝罪をくれた。
「悪い、調子に乗った」
・・・自覚があったのか。最悪だ。
「何してるの・・・?!
私、婚約者に気絶させられそうになったよね・・・?!」
大声を出すなと言うから、小声で思い切り非難した。
いいのだ、これを我慢してしまったら後々しこりになる。私の。
そんな私の胸の内を知る由もない彼は、気絶のひと言を聞いた瞬間目を見開いた。
私は彼が何か言う前にと、一気に言葉を並べる。
「シュウの手、大きいの。私の口と鼻、両方塞いじゃってたんだから・・・」
「だから咽たのか。すまない・・・」
彼は呟いて、静かに頷いてため息をついた私の頬に触れる。
その手が頬の上を滑り落ちていって、顎の下や首元を確かめるように動いた。
「喉、大丈夫か・・・?」
「大丈夫。びっくりしただけ」
彼の表情があまりに情けなくて、私は小さく噴出してしまった。
いつも思う。誰も知らないだけで、蒼鬼は本当は子犬なのだ。
「それにしても・・・」
これでも一応怒っているつもりの私は、目の前で申し訳なさそうにしている彼のことはとりあえず見て見ぬ振りをすることにして尋ねる。
「ここ、どこ?」
見上げた深い緑の瞳が、真っ直ぐに私を見返した。
「更衣室だ」
「蒼の?」
短い答えに訊き返せば、頷きが返ってくる。
ロッカーが並んでいて、奥のほうには衝立のような壁の向こうにシャワーヘッドが見える。
「・・・団長の執務室じゃないんだね?」
「あっちは、春の巡回の打ち合わせをしている」
「そっか・・・でも、どうして?」
自分がどこにいるのかは分かったけれど、まだ大事なことを聞いてはいない。
「巡回に向けて、訓練をしていたことは?」
「うん、おじさんに聞いた」
私が頷いたのを見て、どういうわけか彼はその腕を回していた私の腰をさらに引き寄せた。
顔が近い。
「ちょっ・・・くっ付きすぎ・・・」
「今日は結構追い込んだから、怪我人も出てる。
腹も減ってるだろうし、飢えた獣みたいに気の立った若い奴らが一気に戻ってくる」
そう言われる間にも、私は彼の胸を押し返す。びくともしないことなど分かりきっているけれど、これは意思表示だ。
「それが、何か問題なの?」
「・・・そんな所に、お前がいることが問題だな」
どういうわけか、彼が額に手を当てて俯いた。
・・・なんか、失礼だ。
むっとした私は、その気持ちのまま軽く彼の胸を叩く。
ぺち、と響いたいい音に彼が、くっ、と喉を鳴らす。
「・・・どこで脱いで来たの?」
「体を動かしたら汗だくになって訓練場で脱いで・・・どこに置いたかは忘れた。悪い」
「もう・・・」
洗濯出来ないじゃない、という思いを込めて、もう一度彼の裸の胸をぺち、と叩いた。
けれど今度は喉を鳴らすような低い笑い声が返ってくることはなく、代わりに険しい目つきで視線を送られる。
何事かと息を詰めていると、彼が短く囁いた。
「向こうで・・・おそらくノルガとアンが口論してる」
「えっ?」
「・・・たぶん、こっちへ来るだろうな。
奴らも戻り始めたようだし・・・」
「え、どうしよ、隠れなくちゃ!」
突然告げられたことに動転していると、彼が私の手を引いた。
「ちょっと何?!」
「・・・いいから」
がちゃん
鍵を閉めたのだろうか、重く金属がぶつかる音が響く。
私は息を詰めて、片方の耳でその音を聞いていた。もう片方の耳は、彼の胸にくっ付いていて、その心音が規則正しく刻まれているのが分かる。
彼は落ち着き払っているようだけれど、私はこんな状況に身を置くのは初めてで、心臓が煩く騒ぎ立てているのを自覚していた。
きっと背中に回された大きな手は、彼に私の鼓動の速さを伝えているに違いない。
「本部には来るなって、言っただろ」
「だから、ミーナの付き添いだもん。別にあんたに会いに来たわけじゃ・・・!」
「そうじゃなくて。
あーもー・・・」
ダメだ。アンが完全に思っていることと真逆のことを口走っている。
隠れなくちゃ、と言った私の手を引いた彼は、狭いロッカーの中を選んだらしい。気づいた時には、むぎゅ、と密着していた。
体の表側の面積のほとんどが密着しているとなると、相手の息遣いも鼓動の音も、さっきは気づかなかったけれど実は髪が汗で少し濡れていることにも、嫌でも気づく。
そして、どうしようもない色気に降参したくなるものだ。
いや、彼の裸の胸は目にすることがあるのだけれど・・・嘘をついた。これに関しては、見慣れていると言っても良いかも知れないけれど。
「何よ?」
「いやだから、あー・・・今さ、」
「いいよ、もう帰る。もう来ない。
・・・そうして欲しいってことなんでしょ?」
「いやだから待て」
「離して。帰る」
「待て、聞けって」
「やだ。帰る」
頭上から、ため息が漏れるのを聞いた私は、そっと彼の表情を窺った。
眉間にしわを寄せるまでもなく、彼は呆れ返っているようだ。
そして、飽きたのだろう。私の耳たぶを触ってみたり、首筋を撫でてみたりと、暇つぶしをしているらしく、その手がさわさわと蠢き始めた。
てし、と腰の辺りで落ち着かなくなっている手を叩く。
「なんでそう、人の話を聞かないのアンは」
「・・・聞きたくないんだもん」
「なんなんだよ、わっかんねぇな・・・」
「それはこっちの台詞!」
「は?」
「あんたこそなんなの?!」
「何が」
「・・・なんなのよ、ほんとに・・・」
勢いよく言葉が飛び出している様子を聞いていたというのに、突然アンの声が涙声になって震えだしたことに驚いた。
あの子がそんな声を出したのを聞いたのは、久しぶりで。
暇そうにしていた彼を見上げれば、小首を傾げて肩を竦めている。
・・・それはまあ確かに、あなたのような男の人には茶番に見えるかも知れませんけどね、本人達は一生懸命なんですよ。
「おい、泣くなよ・・・」
「・・・ばかノルガ」
ひと言ふた言の会話が途切れて、沈黙が訪れる。いや、時折アンがすすり泣く声が聞こえてきて、私はなんとなく、2人が寄り添っているのだろうと想像していた。
残念ながら、彼の目線からは細かくメッシュのように開いた隙間から外が見えるらしい。その視線が一向に私に降ってこないところから、それが分かって悔しくなった。
・・・この場合、私を見て欲しいわけではなく、私も外を見たいという意味だ。
やがてアンが落ち着いたのか、会話が再会されるようだ。
「ああもう、真っ赤な目で出て行かれたら困るから、もうちょっと待機」
「・・・うん」
「泣くと素直になるのか」
「知らない」
「・・・そっか。泣くと素直になるけど、要らんこと言うと元に戻るのか」
「・・・嫌い」
「うん、ごめん。
でも、泣き顔もなかなか」
「は・・・?」
「そそるよね」
「・・・だいっきらい」
「おー・・・」
「なに」
「いや、今のは結構くるなぁ・・・」
「・・・ごめん」
「あ、また素直になった」
「なんなの、何がしたいの」
「話がしたい」
「・・・してるでしょ」
「そうじゃなくてー」
鼻声と、何かを避けながら言葉を放っているような声が交互に聞こえてきて、やきもきする。
どうしてこう、もっと直球な言葉をぶつけないのだろうか。
だんだんと2人の曖昧な会話に苛々してきた私は、彼を見上げて絶句した。欠伸をしているではないか。
呆れてしまいつつも、私はそんな彼を放っておいて、2人の会話に耳を傾けた。
「俺さ、春の巡回行って来る」
「あ、そう。いってらっしゃい」
「それでさ、戻って来たら、ララノ行かない?」
「え?」
「日帰りになるだろうけどさ、遠出したいと思ってたんだ。
今まで食事くらいしか、デートらしいことしてないし・・・」
「・・・」
「・・・っていう、話をしたかったわけだけど・・・。
いいや、返事は戻ってから聞くことにする。
断られたら集中出来なくて、何かあった時に怪我しそうだ。
俺まだ死にたくない」
「・・・今聞けばいいのに」
「いやー・・・」
「何よ」
「だって、キスもさせてくれないじゃん」
「・・・な、なななななに言って・・・?!」
「そういう相手が、頷いてくれるとも思えないし」
「・・・それはっ」
「ん?」
「何でそんな平然とそういうこと言えるわけ?!
あのね、そういうのはっ」
「そういうのは?」
「好きな人同士がっ」
「・・・いやだから、そういう人達なんじゃないの、俺たち?」
「は?!」
「あー・・・恥ずかしい。やだやだ。
・・・俺たち、お互いに好きなんだと思ってたわけ。俺は」
「はい?!」
「だからさー、キスとか避けられちゃうともうどうしたらいいか分からんわけだ。
だから、ララノにも誘ってみたけど返事はいい」
「・・・はぁ?」
「・・・で、巡回に備えて訓練漬けの本部に来られると苛々しちゃうんだ。
その、気が立ってもぶつける相手がいない連中の目に晒すのは嫌だからさ・・・」
ノルガの台詞に思わず彼を見上げると、彼は目を細めて私の額に口付けを落とした。
・・・そういうことだったのか。
「・・・ええと・・・」
「とりあえず、今話したことはほとんど忘れてもらって、食堂で待ってて。
不審者見つかってないし、もう暗いし送ってく。
ああ、大丈夫、もうあんなことしないから」
「え、あの、」
「ほら・・・って、アン・・・?」
「ちがっ、あの、その、だからっ・・・」
「うん?」
「・・・うん、ごめんなさい」
「改めて言われると、何かが抉られるんですけどー」
「違うの、あの・・・」
「ん?」
「あたし達、好き同士だったんだ?」
「・・・と、思ってました」
「知らなかった」
「・・・うーん、それも傷つくよ、結構・・・」
「だから、違うんだってば!
・・・好き同士なんだね、って話です・・・」
「うん?」
「教えてくれればよかったのに。好きだって」
「・・・へ?」
「あ、あたしも好き・・・」
「・・・そうなの?」
「・・・ん」
「じゃあ何でキス避けたわけ」
「だって、何も言わなかったじゃない。怖かったよ、ノルガのカオ」
「・・・あー・・・そっか、そういうことか」
「何?」
「言ったでしょ、俺、こういうの初めてなの」
「ん?うん」
「今までは、いろいろ飛ばしてベッドに・・・って、」
「さいってい」
「・・・すんません」
「ほんと、さいてー・・・やっぱり嫌い」
「嫌だ、俺は好きだ」
「・・・なんだろ、なんか、安売りっぽいなぁ・・・」
「アン?」
「何ですか」
「もうキスしてもいい?」
・・・するんですか、ここで。今。
いや、確かに2人が上手くいけば私も幸せな気持ちになるし、いいな、と思ってはいたけれど。




