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コンコンっ
静かな夕闇の中、小気味良いノックの音が廊下に響く。
子ども達は夕飯の後、片づけをして部屋に戻っていった。
今日は騎士団が帰還するということもあって、午後には孤児院の門のところまで皆で見送りに出たのだが、男の子達の興奮といったらなかった。
やはり騎士という職業は、この世界の将来なりたい職業ナンバー1候補のようだ。
女の子達は、というと、何歳でも女子は女子。端正な顔立ちや、頼りがいのありそうな大人の騎士達に、きゃあきゃあ大はしゃぎだった。
小さな子ども達は騎士の連れた馬に興味津々で、怖いもの知らずの彼らは、何の前触れもなく近づいては周りの大人達がヒヤヒヤさせられたものだ。
今回は、本団が副団長と先に帰還していたので、団長待ちの十数人が孤児院組と野営組に別れて待機していたらしい。
華々しさには欠けるけれど、子ども達にとっては憧れの騎士団なのだろう。普段見ることのない光景に、とにかく興奮していた。
最終的には休日のパパのごとく、腕にぶら下がらせてもらったり高い高いをしてもらったり。
彼らには、孤児院の家族はいるけど、本当の両親がいない。いや、いるのかも知れないけれど、顔を知っている子はほとんどいないだろう。
ひと時であっても体を使って遊ばせてもらって、それが楽しい思い出に残ったらいいな、と思う。
そしてアンはというと、朝2人で食事をした騎士と談笑していた。
遠巻きにしか見ていないけれど、なんとなく顔立ちの良い、年頃の女の子が好きになりそうな人だった。
結局どんな関係だったのか、まだちゃんと聞いてはいないけれど・・・彼女も結婚の話が出てもおかしくない年だから、結構本気なのかも知れない。
若いっていいなぁ、なんて、年寄りじみたことを考えてしまった自分が、なんだか悲しい。
そして私は。
私の首に光るきれいな青いコインをちらりと見て、顔を顰めたノルガくんから「王都に来たら、連絡ちょーだい」というこれまたどうでもいいようなチャラチャラした台詞をいただいた。
あろうことか、頬にキスという恥ずかしいことまでされた。
きっと二度と起きないだろうけれど、次はかわすことが出来るように、少し運動でもしようと思う。
団長はさすがに数日間孤児院にこもっていたからか、残っていた騎士のほとんどに声をかけていて、直接お別れを言えたのは、出発直前になってしまった。
内容は・・・たいしたことではない。こういう場面は、あまり得意ではないのだ。
そんな1日が終わりに近づいて、子ども達が部屋へ戻った後、院長室に来るようにとユタさんから伝言をいただいた私は、こうして院長室のドアをノックしている、というわけだ。
片手に持った籠の中には、料理長の焼いてくれたクッキーと、ユタさんの淹れてくれた温かいお茶が入っている。
院長は自分の分の食事は部屋で済ませたようだから、きっとゆっくり味わう時間は取れなかったのだろう。甘いものと温かいもので、少し気を休めてもらえたらいいなと思う。
ノックして、ほぅ、と息をついた。
初夏とはいえ、夜になると半袖のワンピースは少し冷える。
やがて、院長の声で「どうぞ」と返事があって、私はドアをそっと開けた。
「お疲れさまです」
中へ入って、よいしょ、と籠をローテーブルに下ろす。
「あら、何を持ってきてくれたの?」
仕事机で書き物をしていた院長が覗きにくる。
院長室は、来客の際の応接室にもなるため、家具や照明が少しだけ豪華だったり、絨毯がふかふかだったりするのだ。
私も頼まれてお客さんにお茶出しすることがあるけれど、絨毯がふかふかすぎて転ばないか、毎回ハラハラしてしまうのだ。
あちらの世界でも、少しお高いレストランなども足が竦んで入ることが出来ない性分だった。
そんなことを考えながら、私は問われたことに答えながら手を動かす。
「・・・料理長とユタさんから、差し入れです」
ちょっと立て込んでたみたいだから、と付け加えて、私はお茶の準備をした。
ちゃんとした作法は知らないから、本当は院長の口に合わないのかも知れないけれど。
ほかほか湯気を立てたお茶とお茶菓子を2人分、ローテーブルにセットしたところで、その様子をそばでずっと見ていた院長が言った。
「それじゃ、座って話しましょうか」
「はい」
促されて、応接用のソファに腰掛ける。
座り心地が良すぎて、体が沈む。
院長はそんなソファにも優雅に腰掛けて、優雅にお茶を啜っていた。
私もそれにならって、お茶を啜る。
そして、ひと息ついたところで院長が切り出した。
「その、青いコイン・・・蒼の団長からもらったのね?」
確認をするように、私の目をひた、と見つめる。
いや、見つめているのは、私の胸元で光る青いコインのことか。
私はゆっくり首を縦に振る。
なんだろうか、この、言い知れない緊張感のようなものは。
「・・・はい、もらったというか・・・一度は断ったんですけど・・・」
「・・・断ったの」
院長が目をまるくして言う。
「はぁ・・・でも押し切られちゃって」
「あらららら・・・」
そこまで聞いて、院長はため息をついた。額に手まで当てて、どういうことだろうか。
思っても口には出さずに、私はティーカップを持って、お茶をひと口含む。
「・・・団長は、そのコインについて何て?」
「えっと、信頼できる人間に持っていてもらう物だと・・・。
あとは、勝手にあげても備品の横流しにはならないから大丈夫、とか・・・。
ああ、後見の証だから、とも言ってました」
思い出しつつ伝えると、なぜか院長が肩を落としてがっくりしていた。
「本当にそんなことを・・・?」
「・・・?
・・・はぁ、そうですね・・・」
私が肯定すると、彼女はさらにため息を深くした。
その手元から、カチャン、と院長らしくもない音が。
そしてさらに院長らしくもない、若干低めの声が響いてくる。
「・・・間違っていないけど、それが全てでもないわ」
呪いの言葉でもぶつけられるのかと思わせる声色に、思わず体が竦んだ。
「えぇぇ・・・?!」
自分でも情けない声が出ているのが分かる。
やはり流されてはいけない場面だったのか。
今になってこのコインをもらったことの重大さを感じて、私は内心途方に暮れた。
「やっぱり、問題あるんですね・・・?!
連絡して、解いてもらわないと・・・って、あの、院長・・・?」
わずかに身を乗り出して尋ねれば、院長は微笑とも苦笑ともつかないような、微妙な表情で「そうねぇ」とだけ口にする。
「無理やりでなければいいのだけど・・・。
いきさつなんかも、私が口を挟む問題じゃないと思うのよね。
・・・でも、そうね。
そのコインがこれから先、あなたが生きていくうえで邪魔をするのなら、
私が2人の間に入ることを許してちょうだいね」
「・・・ええと、話が全く見えないんですけど・・・」
言葉の通りの気持ちで戸惑いながら首を傾げるしかない私に、彼女は困ったように微笑んだ。
「気にしなくていいわ。
こちらの世界の、古い習慣のようなものだから」
もうこの話は終わりにしましょ、と付け加えて微笑む院長。
何も言わせないオーラが出ていたので、私はただ頷くしかなかったけれど、コインについて驚いたのも眉をひそめたのも彼女なのに。
どこか腑に落ちないものを感じつつも、私はひと口お茶を含んでから尋ねた。
「・・・えっと、それで、私にご用があったんですよね?」
彼女はすっかり思考も話題も切り替えたのか、にっこり笑顔を浮かべて頷く。
「えぇ、団長から聞いたわ。
王宮での子守の仕事をあなたに勧めたら、良い返事をもらった、って」
コインの話をしている時よりも、ずいぶん穏やかに話をする院長に、私は沈黙することで続きを話してもらおうと口を閉じる。
「コインの件では、2人の言い分が食い違っていたけど・・・。
この件に関しては、あなたの認識も団長と同じなのかしら」
「はい、事後報告になってしまって、申し訳ないです」
「いいのよ。子どもの旅立ちは、親としては歓迎するべきだわ。
それじゃ、準備をしなくてはいけないわね!」
言い終わった院長の表情は、私が見てきた中で一番輝いていた。
ウキウキした様子でクッキーをつまんでいる。鼻唄すら聞こえてきそうだ。
「準備・・・ですか?
あ、応募書類とかの?」
履歴書のようなものが、この世界にもあるのかも知れないな、などと思っていたら、小首を傾げた彼女が不思議そうに私を見ていた。
「書類?・・・あぁ、推薦状ならもう渡しておいたわよ?」
「・・・え?」
・・・推薦状。そういえば、団長がそんなことを言っていたような・・・。
記憶を手繰り寄せている間にも、彼女が言葉を並べていく。
「今日の午前中に、王宮の関係者が来たでしょう?
その時に話をしておいたの。推薦状もその時に渡しておいたのよ。
彼も、後見の申請書を渡していたみたいよ」
事態が飲み込めずにぽかんとしていると、彼女がふふっと笑う。
そしてお茶を含んでから、それはそれは綺麗に、まるで女王様かのように微笑んだ。
「もう引き下がれないわよ。
あなたに決定してしまったもの」
・・・開いた口が塞がらないとは、このことだったのか。
どうしてこう、私を台風の目にするかのように、周りが慌しく動いていくのだろう。
文句なのか愚痴なのかよく分からない感情を上手く表現する方法が見当たらない私は、間抜けにも餌を強請る鯉のように、ただひたすら口をぱくぱくさせるしかない。
そんな私を見た彼女は、心底楽しそうにしていた。
その表情を見てしまっては、一気に膨らんだこの気持ちも、萎めてしまってもいいかと思えてしまうから、本当に不思議だ。
「でも、いいんですか?
私、渡り人ですよ・・・?
自分で言うのも悲しいくらい、どこの馬の骨かも分からないんですけど・・・」
当然の疑問を口にすると、彼女は一瞬眉間にしわを寄せてから言った。
「そんなこと気にする必要はないわ。大丈夫。
私が推薦して、彼が後見をするのなら、全くもって問題ないわ」
そこまでキッパリと言われては、私も頷くしかない。
「そういうものですか・・・?」
「そういうものです」
複雑に絡まった事情が渦巻くのが王宮ではないのか、と思いつつもクッキーを摘む。
齧るとほんのり甘くて、バターの香りが口の中に広がった。
「古い友人の中に、王宮の中で働いている人がいるの。
もしかしたら、働いている間に会うこともあるかも知れないわねぇ・・・」
何気なく話を続けていた彼女が「ちょっと待って」と、仕事机に何かを取りに行った。
そしてすぐに戻ってくると、テーブルに1枚の紙を広げて見せてくれる。
「・・・日程表、ですか」
「ええ。勤務が始まる前に、担当の事務官に会って話を聞いて欲しいんですって。
それが、ええと・・・」
院長が指で、つつつ、と文字をなぞる。
私はそれを目で追いながら、あることに気づいた。
「これ、明後日、って書いてありますよね・・・?!」
本気ですか、と身を乗り出してしまう。
「本気です。
明後日の朝に王都行きのエルゴン列車に乗ってもらって・・・」
「列車・・・」
この国には、列車が走っている。
といっても結構な値段がするので、庶民は乗り合い馬車で移動することが多い。
やはり列車は移動時間も短く、ゆったり座ることが出来るところが魅力ではあるけれど、いかんせん高価すぎるのだ。余程の急ぎでない限り、利用する庶民はいないだろう。
それに乗り合い馬車は、意外と便利なのだ。
停留所以外でも手を上げたら停めてくれるし、お願いすればどこでも降りられる。
乗り心地と動物臭さに敬遠する人も少なくないようだけれど、私はガタゴト揺れながら、のんびり外の景色を眺めるのは楽しくて贅沢なことだと思う。
「ええ、もう切符も取ってあるの」
その言葉に、考えを巡らせていた私は、はた、と我に返って彼女の言葉に耳を傾けた。
「私は行けないけれど、リュケル先生が一緒に行ってくれるそうよ。
王立病院から、ちょうど呼び出しがかかっていたんですって・・・。
しばらくの間無視してしまっていたけれど、さすがにもう怒られるから、ですって」
ふふ、と笑い声を我慢することなく、彼女が肩を揺らすのを一瞥して、私はかの医師を思い浮かべる。
「・・・リュケル先生が一緒、ですか」
あのセクハラ大王か。
言動は色気に満ち溢れているけれど、一応大人ではあるし、一緒に行ってくれる人がいるだけでも十分心強いので良しとするしか・・・。
「この用紙は持って行っていいわよ。
王都に着いてからの予定が書かれているから、よく読んでおいてね」
言って、彼女がテーブルの紙を私にくれる。
それにお礼を言って息をつくと、彼女はそのまま言葉を続けた。
「それから、王都に行ったらそのまま宿舎に入ると思うの。
だから必要最低限の物をそろえておきましょうね」
楽しみだわ、と手を合わせてウキウキしている院長に、私は適当な相槌を打って、孤児院の人達のことを考える。
明後日が出発だとして、子ども達やアン、料理長やユタさんにもお別れしなくちゃ・・・。
あとは・・・と考えて、大事なことを思い出した。
「あ、私今月の分の採血まだでした」
「あら。じゃあ明日の早いうちに済ませてしまった方がいいわねぇ。
来月からは、そうね、王宮の指示を仰いだらいいと思うわ」
「はい」
頷いて、頭の中で明日の予定を考える。
・・・初めて採血について聞かされた時は、驚いたものだ。
この世界には、列車や冷蔵庫などといった、多種多様な機械が存在する。
もう昔話として語り継がれるような時代のことだ。
今と同じように、渡り人と呼ばれる異世界の人間が迷い込むことは「聞いたことがある」程度には、広く認知されていた。
まだその頃は蛇口や上下水道などがなく、人々は川や泉、井戸などから水を汲み、先人の発明してきた物を使った生活を営んでいたそうだ。
そのほとんどが、人力、もしくは馬や牛の力を使ったものだったという。
そうして時が経ち、1人の渡り人がこの世界にやってきた。
彼は自分の世界の文明との差に、愕然としたらしい。
そして、もっと生活を楽にしようと考えたのだそうだ。
紆余曲折はあったようだけれど、そういう話は本屋さんにでも行けば、ざくざく出てくるだろう。確か子ども用の絵本にもなっていたはずだ。
どこかには、銅像すら建っているとかいないとか・・・。
結局彼が発明、普及させたものは多岐にわたった。
私はあまり興味が湧かなかったので、彼の名前などは全く覚えていないけれど、彼の発明したもののいくつかは分かる。例えば、上下水道。そして列車、印刷技術、調理器具など。
その中でもなくてはならない発見、発明がエネルギーだった。
エルゴンと名づけたそうだけど、私はたぶんエネルギーという発音を、誰かが聞き間違えたか何かで、違う言葉になったのだろうと思っている。
エルゴンは、人の血液の中に混じった「魔力」のようなものを結晶化して作るらしい。
その結晶、エルゴン石と呼ばれているものは、電池のようにして、いろいろな機械を動かす動力として重宝されて、あっという間に各家庭にまで普及するようになった。
これは私の実感だけど、エルゴンは電気みたいなものなのだろう。
そしてさらに、エルゴンを人の血液から作ることから、この国ではエルゴン税というものがある。成人すると、ひと月にスプーン1杯程度の血液を納めることになっているのだ。
病院で採血をすると、それをエルゴン石に変えてくれて、自動で役所に納めるたことになる。
自分達の血がエネルギーとして使われるのだから、当然無駄遣いも減るし、過剰な設備も敬遠される。
そういう理由から、エルゴンを大量に必要とする列車の料金が、高価なのだ。
そして今月分の採血を済ませていない私は、リュケル先生を訪ねなければならない。
白状してしまえば、ここまで伸ばしに伸ばしていたのは、ひとえに私が注射嫌いだからだ・・・。
あの凶悪に光る先端を思い出して、背中に寒気が走った。
「ミーナ?」
院長の声がかかったところで私は、はっ、と慌てて何の話をしていたのか思い出した。
「はい」
「それじゃ、明日は午後から洋服や小物を買いに行くから、準備しておいて。
午前中は、子ども達を中庭に出して遊ばせてる間に、医務室に行ってね」
院長はそこまで言って、「お金のことは気にしないで。私からの餞別だと思って、いろいろ買わせてね」と微笑んだ。
そうして、やけに手回しの良い院長と団長のおかげで、私は晴れて王宮勤務が決定したのだった。
いや、まだ担当事務官との面接が残っているのだけれど、それはもう形式上のものだというので、きっとこれで子守の仕事をいただいたのと同然だろう。
本来なら何日か考えて、たくさん悩んで一歩を踏み出すのが私だというのに、決まる時はあっけなく決まるものなのか、なんて、これからのことに思いを馳せながら、手を伸ばしてもうひとつ、クッキーを摘んだのだった・・・。