小話 衣装選びに連れてって2
少し先に見えたオリーブ色の制服の男の人を避けるために、私は路地へと足を向けた。
手首のコインが見えないから、彼がどの騎士団の人間なのか分からないけれど、街に下りているとなると、蒼以外とは考えづらい。
もしかしたら、白の中の誰かが休憩中に用事を済ませるために出歩いているのかも知れないけれど、万に一つの可能性に賭けるようなことは出来なかった。
あれが白の人間であれば、私も寄って行きやすいのだけれど・・・。
ロウファが忠告してくれたすぐ後に、私は後ろからやって来た蒼の騎士に気がついた。
といっても、かなり遠くからオリーブ色の制服が近づいてくるのを目にして、慌てて大通りを走ったのだ。
けれどそこで、進行方向からも同じ色の制服が歩いてくるのが目に入ってきて、こうして路地に逃げ込むことになったわけだ。
「・・・ぁっ、はぁっ・・・」
乱れた呼吸が鼓動を速くする。
とりあえず路地に入って、避けている色が見える範囲にないと分かった私は、じんじんする足を止めて息を吐いた。
心臓が悲鳴を上げている。
それもそうだ。運動らしい運動なんて、もう何年していないことか・・・。
・・・これからは、たまには早足で散歩をするくらいのことは、した方がいいかも・・・。
そんなことを現実逃避気味に考えながらも、私は頭の隅で地図を広げて、衣装屋への道のりを思い描いてみた。
大通りからは逸れてしまったけれど、方角さえ間違えなければ衣装屋に辿り着けるはずだ。
ただ、難点なのは目指す場所が大通り沿いにある、ということ。
「・・・ほんとに、何考えてるの・・・」
私は誰もいないのをいいことに、ひとりごちる。
何をどう考えて、自分の部下に婚約者を探させているというのか。
実はこの世界の男性は、自分の伴侶や子を、彼らにつけた自分の匂いを頼りに探すことが出来る。
それならば、私と彼の距離はそれほど離れているわけではないのだから、彼は自分の力で私を探し出すことも出来るはずなのに・・・。
ロウファの忠告を受けて、騎士から逃げるようにして来てしまった私は、そんな自分にも呆れて息を吐く。
・・・後ろめたいことなんか、一切ないのに・・・。
そして、思い出した。
「とりあえず、衣装屋さんに行かないと・・・」
レイラさんの紹介もあってお世話になるのだから、約束した以上きちんと行くべきだ。
彼と話をするのは、その後でもいいだろう。
部下の皆さんには申し訳ないけれど・・・それに、その件について謝るのは、私ではなく彼であるべきだ・・・とも思う。
私は気を取り直して、まだ煩く鳴る鼓動を宥めながら歩き出した。
それから何事もなく歩いていた私は、ふいに感じた人の気配に振り返る。
路地はもうすぐお昼時だということもあってか、何かを調理する匂いが漂っていた。
たまに向かいから歩いて来る人とすれ違ったり、十字路で横から誰かが歩いて来ることに気づいて、ひやり、とするくらいだ。
そのくらいにしか、人影がない・・・いや、なかったのに。
「・・・」
振り返って目が合った背の高い人と、しばし無言で見つめ合う。
どうやら彼の方も、まさか私に遭遇するとは思いもしなかったのだろう。
まだ風は冷たいというのに、背中を汗が伝った感触に、私は息を詰めた。
避けてきた色。手首のコイン。
間違いなく、彼は、蒼の騎士。
「・・・あ」
見たこともない彼の口から、何かが漏れ出た瞬間、私は踵を返して走り出していた。
「あ、ちょっ・・・!」
何かを言いかける声が聞こえたけれど、私は構わずに全速力で彼から遠ざかろうと必死に足を動かすしかない。
やっと鼓動が落ち着いたというのに、また全力疾走をさせられるとは・・・。
「・・・ぁっ、はぁっ・・・」
どれくらい必死に走ったのだろうか、いつの間にか自分の足音しか聞こえないことに気づいて、私は足を止めて振り返った。
幸い、目が合った騎士はいない。
追いかけては来なかったようだ、と息をついて前を向いたところで、今度は前方から誰かが歩いて来る様子が視界に入って鼓動が跳ねた。
それは緊張や危機感からではなく、むしろ・・・。
「・・・ノルガ!」
「・・・げ」
気づけば嬉しさに任せて、赤毛の騎士のもとへと駆け出していた。
さっきまで鼓動が煩くて息も絶え絶えだったというのに、なんて現金な体なのだろうか。
そんな自分が可笑しくて頬が緩む。
彼の姿が視界に入って心が軽くなった私は、彼が頬を引き攣らせて私を見ていることなどお構いなしに、目の前で立ち止まって、その少し大人びた顔を覗き込んだ。
「よかった、ノルガに会えて・・・」
すると彼は、心底気まずそうに少しばかり体を引く。
「あ、あんまり近づかないでミイナちゃん」
「え・・・?」
思わぬ拒絶の言葉に、私は戸惑った声を出してしまう。
彼にこんな反応をされたのは初めてのことで、頭の中が真っ白になる。
・・・一体どうして、そんなことを言うのだろう。
状況が飲み込めない私は、ただただ呆然と彼を見上げるしかない。
そんな私を見て眉を八の字にした彼は、一瞬唸ったかと思えば、次の瞬間には大きくため息を吐いた。
「・・・団長が・・・」
「シュウが?」
歯切れの悪い彼が、もどかしい。
私は先を促すようにして、彼の言葉を反芻した。
言葉の続きを待っている間、視線が私の左右に振れたり、向こうに投げられたりするのを見て、何か言いにくいことなのだろうかと不安になる。
「団長が、ミイナちゃんのこと探してるのは、知ってる?」
やがて意を決したように私を見据えた彼は、そう言葉を紡いで、私はこくりと頷いた。
「うん、それはさっきロウファから聞いた・・・。
ごめんね、仕事と関係ないことさせちゃって」
いい迷惑だろうな、と胸の内で呟いた私は視線を落とす。
「いや、それはいいんだけどね。
もともと動かされてるのは、今日街に下りて巡回する予定だった面子だし・・・。
街の様子を見て回るついでに、子守の彼女を探してるだけだよ」
「・・・そっか、良かった・・・」
苦笑しながら言われれば、私の心も少しは軽くなる。
とはいえ、やはり私用で部下を動かすのはどうかとは思うけれど・・・。
少し気持ちに余裕が出来たからだろうか、私はノルガの様子をまじまじと観察してしまった。
これは性分で、私が勝手に弟扱いしている彼のことが、気になってしまうのだ。
夏と秋の間にしらゆり孤児院から出てきて、王宮の食堂で働いている私の友人と、いつの間にか仲良くしている彼は、最近特に大人びた顔つきをするようになったと思う。
いつだったか、お昼休憩の延長でそのまま仕事をサボっていた彼とは、何かが違う気がするのだ。
・・・アンとは、うまくいってるのかな・・・。
聞きたいけれど、感情表現が手の込んだ彼女のことだ。彼からしてみれば、いろいろと手を焼いている部分がありそうで聞くのに勇気が要る。
私が接している限りは、とても素直で優しい子だと思うのだけれど、きっと彼女も彼の前でしか見せない一面があるだろうと思うので、そっと見守っているわけだ。
そんなことを考えていると、ふいに彼が言いにくそうに口を開いた。
「・・・で、どうして団長が俺らに協力を求めたかと言うと・・・」
「うん」
硬くなった空気を感じて、私も自然と声が硬くなる。
「どうやら、ミイナちゃんの気配が探れなくなっちゃったみたいなんだよね」
「・・・それ、どういう・・・」
言われたことの意味が分からないのに、私はそれだけ呟いて絶句してしまった。
何か大事なことを言われている気がするのに、考えが上手く纏まらない。
すると彼が、押し黙ってしまった私を気遣わしげに見つめて、言葉を並べる。
「団長が、ミイナちゃんから自分の匂いがしないって・・・」
「・・・ごめん、よく分からないんだけど・・・?」
匂いがしないから、部下に声をかけたということなのか。
この世界の暗黙の了解に疎い私には、そんな浅い考えしか浮かばず、首を捻るばかりだ。
そんな私を見て、彼は頷いた。
「そっか、そうだよね。
えーと・・・とりあえず、歩きながら説明しようか。
どこに行くつもりで家を出たの?」
言われて仰ぎ見た彼の顔には、微笑みが浮かんでいた。
「一緒に過ごして、自分に団長の匂いが付いてたのは、知ってたよね?」
「うん、もちろん」
私に合わせた速さで歩いてくれる彼に感謝しながら、その言葉に相槌を打つ。
路地は静かで、大通りと繋がる十字路に差し掛かるたびに、賑やかな雰囲気が漂ってくる。
そっと様子を窺いながら歩いてみるけれど、隣の彼は特に気にしたふうもなく、そのまま路地を歩いていく。
「あ、そういえば。
ちらっと聞いたけど・・・」
私の返事を聞いてから、彼が苦笑した。
「団長、衣装合わせの約束忘れてたんだってね」
「・・・喋ったんだ」
意外過ぎる事実に、私は目を見開いてしまった。
「うん。相当参ってるみたいだよ?
匂いも感じ取れないし、ミイナちゃんに愛想尽かされた、って思ってるみたい」
きっと思い出し笑いだろう。彼がくすくす笑いながら教えてくれる。
「愛想尽かすって・・・まさか」
あり得ない、と両手を振ると、彼はすぐに真面目な顔をして私を見た。
「いや、そう思われても仕方ないと思うんだよね」
「え?」
思わず聞き返すと、彼が少し歩く速さを緩める。
「ミイナちゃん、渡り人だから匂いの付き方が甘いんじゃないかと・・・」
「甘い・・・」
「うーん、浅い、って言った方が分かりやすい?」
「ああ・・・うん」
会話をしながら、彼の言いたい事を理解しようと頭を回転させる。
緑の瞳をした彼のことを話しているのだ、当然真剣にもなる。
この時ばかりは、蒼の騎士達が私を探していることなどすっかり頭の中から抜け落ちてしまっていた。
「だから、匂いが離れやすいんじゃないかと思うんだよね」
「その匂いが離れるっていうのが、よく分からないんだけど・・・」
私は首を傾げながら呟く。
すると彼は、言葉を選んでいるのか、ゆっくりと噛んで含めるように言う。
「一般的には、絶望的なくらいに気持ちが離れると、匂いも離れるんだけど」
・・・気持ちが、離れる・・・?
唐突に告げられた内容に言葉を失っていると、彼が慌てて言葉を付け足す。
「もちろんミイナちゃんに限って、そんなことはないと思ってるけど!
・・・え、嘘でしょ、そのまさか・・・?」
赤い髪がさらりと揺れて、私の目の前で揺れる。
何も言わない私に、焦りを含んだ表情を向けた彼は、尋ねた後に息を詰めた。
頼むから否定して、と懇願するような彼に目を向けた私は、ふぅ、と息を吐く。
「大丈夫、絶望的には離れてない・・・」
「・・・ええと・・・ともかくさ、」
私の言葉に何か引っ掛かりを感じているのだろうけれど、いろいろ飲み込んだ様子の彼は、言おうとしていたことの続きを口にした。
「ミイナちゃんの場合は、匂いの定着が甘いんだと思う。
だから、ちょっとのことでも離れちゃうんじゃないかな・・・。
問題は、ミイナちゃんに付いた匂いを、団長が感じられなくなって、」
「それで、愛想を尽かされたとか、そういう解釈になるわけね」
彼の言葉を遮った私は、続けた。
「確かにちょっとだけ、シュウなんか嫌い、って思ったけど・・・」
・・・それだけで匂いが離れてしまうなんて、私達の関係は、なんて脆いのだろう。
「そういうことか。
衣装合わせすっぽかされて、シュウなんかもう知らない!・・・って?」
「うん・・・たぶん、そういうこと」
いつの間にか何かが絡まって解けなくなっている気がして、思わず天を仰ぐ。
これは、早くシュウに会って話をした方が良さそうだ。
・・・なんて迷惑な痴話喧嘩だろうか。
自覚した途端に、申し訳なさで心がいっぱいになってしまった。
路地から大通りに出る。
蒼の騎士がいるけれど、「あ」という反応をしたところでノルガが手を上げる。
するとその騎士は頭を下げてすれ違ったきり、私に声をかけようともしなかった。
思わず条件反射で踵を返そうとしてしまった私を一瞥して、彼がそっと囁く。
「うん、もう大丈夫。
俺と一緒に居れば、他の騎士はいつも通り、巡回に戻るから」
私はそれに頷いて、彼の隣を歩く。
「・・・でも、私達が向かってるのって衣装屋さんじゃ・・・?」
ロウファの言っていた通り、シュウが衣装屋を覚えているとは思えない私は、このまま歩いて大丈夫なのかと不安になってしまう。
「ああ、それも心配ないよ。
・・・ミイナちゃん、何人の蒼騎士に遭遇した?」
「え?・・・えっと・・・」
彼の言葉に、私は記憶を手繰り寄せる。
「2人、か3人・・・だったかな」
きっちり目が合った人数で言えば、また違うのだろうけれど・・・。
あやふやな答えしか返せない私を見て、彼がにやりと笑った。
「俺達、蒼の騎士だからねぇ。
犯罪者と関わる機会が多いから、入団してからきっちり叩き込まれるんだよ。
・・・ぱっと見ただけの人間の特徴も、しっかり覚えとけって」
「・・・え・・・」
呆気に取られたように口が開いたまま、私が言葉を失って。
彼は、意地悪そうな笑みを浮かべたまま私を見て言った。
「うん。
ミイナちゃんがどこに行ったかは、たぶん筒抜けになってると思うよ。
黒髪をちらっと見ただけでも、ちゃんと報告がいってるんじゃないかな。
・・・俺の部下、俺より真面目だから。
きっともうすぐ、団長が追いかけてくるんじゃないかな。
いや、衣装屋の前で待ってるかも知れない・・・」
「どうしよう」
彼の台詞に、シュウとの対面が近いことを感じて内心焦ってしまった私は、咄嗟に彼の制服の裾を握り締めてしまう。
シュウに呼ばれて意図的に無視してしまったことなど、これが初めてなのだ。
約束を忘れていたのは彼の落ち度だとしても、無視して良かったとは思わない。
謝るべきだけれど、でも、私が先に謝るのは違う気もする・・・。
そんなことを、ぐるぐると頭の中で考えていた私は彼の声で我に返った。
「ミイナちゃん、その手、ダメ」
随分と硬い声を出した彼は、私を見てぷるぷると首を振っている。
私は不思議に思って小首を傾げて、ああ、と制服の裾から手を離した。
「・・・あ、ごめんね。つい。
伸びちゃったかな」
掴んでいた部分の皺を伸ばした私は、彼を仰ぎ見る。
そこには、困った顔をした赤髪の彼が。
「違うんだよ~。
今のミイナちゃんは、匂いがほぼ白紙に近いから・・・」
「ん?」
疲れた表情の彼に違和感を感じて、私が小首を傾げた時だ。
「・・・何をしている」
地を這うような、怒気を孕んだ声が響いた。
「・・・ちょっと気を許したら、匂いが付いちゃうかもって・・・」
ノルガの弱弱しい声が、隣から聞こえる。
けれど、私は彼の言葉など耳に入らないくらいに、全神経を視覚に集中させていた。
「ミナ」
私の背後から、迷いなく投げかけられた私の名と、その声の強さに、思わず目の前で揺れている深い緑色の瞳を見つめてしまう。
私は返事が喉元で引っかかったのを感じて、生唾をごくりと飲み込んだ。
そんな何も言えない私に痺れを切らせたのか、彼が一歩前に出る。
その気迫というか、纏った雰囲気に気圧された私は、無意識に一歩、後ろへとさがっていた。
彼が私を追って、もう一歩前へ。
私は押し出されるようにして、一歩後ろへ。
それが何度か繰り返されて、彼が再び口を開いた。
「・・・ノルガ」
「はいっ」
突然矛先を向けられて、ノルガが背筋を伸ばす。
シュウは、そんな彼をひと睨みしてから言った。
「ミナから、お前の匂いがするんだが」
首筋を嗅いでいないのに、分かるものなのだろうか。
浮かんだ疑問は横に置いて、私は息を吸った。
「制服の裾、掴んだだけだよ。
・・・そんな怖い顔、しないで・・・」
私の助け舟に、ノルガがこくこく頷く。
言われた通りにしていた彼に矛先が向くのも、おかしな話だ。
「・・・そうか。なら、」
シュウの言動に若干憮然としていた私は、その瞳を向けられて足が竦む。
何も悪いことはしていないのに、どうしてこんなに気持ちが縮こまってしまうのか。
久しぶりに、眉間にしわを寄せた彼と対峙しているからか。
それとも、ただ単に気まずいだけか。
また一歩、彼が私に近づいた。
「やはり、そうなのか」
反射的に一歩後ろにさがれば、彼の沈んだ声が飛んできて、私は思わず聞き返す。
「・・・え?」
「俺の匂いは、消えてしまったんだな・・・」
いつにない真剣な目に、言葉の意味がほとんど拾えないまま見入ってしまう。
いっそのこと、目隠しでもすれば会話が成り立つのだろうか。
「何・・・?」
「・・・だが・・・悪いが、もう逃がすつもりは毛頭ない」
一瞬弱くなった眼差しが、急に強く鋭くなって、私は心底怯んだ。
怖いとか、そういう感情ではない。これは、被捕食者の本能だと思う。
思わず数歩後ろへさがった私は、レンガが敷き詰められた足元の、何かの突起に躓いた。
「・・・ひゃぁ・・・っ」
可愛げのない声に、空へと昇りそうになる視界。
そして、頭が下へと引っ張られる感覚に、何かを掴もうと手を宙へと伸ばす。
けれど当然のごとく何も掴めない私は、受け身をとることもなく、そのまま下へと頭を打ちつける・・・そんな光景を想像して、ぎゅ、と目を瞑った。
すると、ぐい、と体が浮上するのを感じて思わず息を飲む。
続いて腰ごと何かに引き寄せられた。
耳元で、大きく息を吐くのを聞いた。
「・・・気をつけてくれ。
頭を打ちでもしたら、取り返しがつかない」
表情の窺えない声色で言われて、私はそっと目を開ける。
目の前に、深い緑色の瞳があって、体を仰け反らせそうになった。
ところが私が咄嗟に手をついたところは彼の胸板で、離れようとしたら逆に力を込めて引き寄せられてしまった。
「ノルガは仕事に戻れ。
・・・助かった。
・・・ありがとう」
そんなことを言う彼の視線を追って、呆然と佇むノルガを見つけた私は、何か言おうと口を開くけれど、ノルガが先にゆるゆると首を振った。
それがどういう意味なのか分からないけれど、とりあえず黙っておいた方が良さそうだと、私は開いた口を閉じたのだった。
「・・・行くぞ」
「え?
・・・え?」
戸惑って、やっと気がついた。
私は転ぶ寸前で、彼に横抱きにされたらしいことに。
さらに言えば、その彼が何か決意に満ちた目で、前を見据えていることに。
慌てて足を動かすけれど、2つあるはずの私の足は、どちらも空回りした。
「・・・ほんとに、匂い、しなくなっちゃったの?」
「ああ」
横抱きにされて恥ずかしいながらも、私は何食わぬ顔で歩く彼に向かって尋ねた。
大通りには、それなりに人が出歩いているけれど、私は彼らの視線が集まることなど気づかない振りで彼の腕に身を任せている。
「あの、私シュウに話が・・・」
「断る」
「え、ええ?」
もう交代が決まっているとはいえ、蒼の団長たる者が、人の話を聞かないなどということが許されるのか。
早いところ謝って、仕切り直したいと思っていたのに。
私は思わず不満を声色に反映させてしまって、慌てて口を塞いだ。
「俺は、ミナがいないと駄目だ。
駄目だという自信がある。
お前が側にいなくては、息も上手く出来ないくらいだ」
「・・・え、と・・・」
唐突にそんな台詞を聞いて、まともに言葉を返せるわけがない。
恥ずかしくてどうしようもない気持ちが、口元をぼやけさせる。
「悪かった。本当に反省しているんだ。許してくれ・・・」
私にしか聞こえないような囁きに、否応なしに鼓動が速くなった。
懇願されるような響きが、私の心臓を揺さぶったけれど、それでもどんな言葉を返せばいいのか分からずに、途方に暮れたように絶句してしまう。
本当は言いたいことがたくさんあるのに、彼の腕が時折揺れるから、私の心まで揺れてしまって考えが纏まらなかった。
そうこうしているうちに、彼が再び口を開く。
「・・・だから、ミナの衣装を選ばせて欲しい。
・・・今さらやめるなんて、言わないでくれないか・・・」
「シュウ・・・」
逃がすつもりは毛頭ない、なんて言っておきながら、その表情はノルガの言う通りに「参って」いるように見えた。
こんな彼は初めて見る。
それほどに、匂いが消えるということは、この世界の男の人にとって重大事件なのだろう。
その感覚を理解出来ないことが心苦しくて、私は彼に、せめて正直な気持ちを話そうと口を開いたのだった。
「あのね、私・・・」
「ん・・・?」
「最近ずっと、いろいろ不安みたい」
「・・・どういう意味だ」
「急に、向こうの世界に帰りたくなったり。
結婚したら、自分の何が変わるんだろう、とか・・・想像して不安になるの」
「・・・取りやめにしたいのか・・・?」
「ううん、そうじゃないの。
ただ、不安になるだけ。
・・・だから、ごめんなさい。
苛々しちゃって、シュウに呼ばれたのに聞こえない振りしちゃった・・・」
「そんなことはいい。
悪かったのは俺だから、お前は気にする必要はない。
・・・でも・・・」
「でも?」
「不安は、すぐに話してもらえると助かる」
「うん、そうする・・・」
「俺が知っておきたいのもあるが・・・。
お前は渡り人なんだ。
少し心に負担がかかっただけで、大事になることもあるだろう」
「ん、そうだね。
気をつける・・・」
「あ、下ろして」
「何故」
往来の真ん中で立ち止まった彼は、腕の中で身じろぎする私を一瞥して言葉を放った。
・・・別に、私が我侭を言っているわけではないと思うのだ。
「歩いて行きたいの」
素直な気持ちを伝えれば、彼が渋々といったふうに私の足を地につけてくれる。
そのまま立ち上がれば、それまで近くにあった彼の顔が、ほんの少し遠くなった。
「ありがと。
・・・こうやって、」
その代わり、手の届く距離になった大きなゴツゴツした手をとって、私は言う。
「手を繋いで、隣を歩いてる方が気分がいいから」
そんな台詞に何を思ったのだろう、彼はそっと繋いだ手を握り返してくれる。
「ほんとに、ごめんね。
匂い、消しちゃったみたいで・・・わざとじゃないの。無意識。
今度は、苛々したらその場でぶつけてみるから・・・」
「・・・あ、ああ・・・」
思ったままを言葉にしたら、彼が妙に口ごもった。
特に気にすることもなく、私はそんな彼の横顔を見つめる。
整った顔が翳ったかと思えば、私に向けられた。
「すまなかった・・・」
駄目押し、とばかりに再び飛び出た謝罪の言葉を聞いて、私は苦笑してしまう。
きっと、彼は自分の気の済むまで繰り返すのだろうと思って。
「いいの、気にしないで。
・・・もうすぐ衣装屋さんだから、そしたら、一緒に選んでね。
きっと、シュウに見てもらった方が、似合うものが見つかると思うから」
私の言葉に、彼がほっとしたように頷いてくれたのを見ていると、目指していた場所の入り口が見えてきた。
・・・やっと着いた。
長い道のりになってしまったけれど、これはこれで、良い思い出になるのかも知れない。
ふいに視線を感じて、隣の彼を仰ぎ見る。
その向こうに広がる青空に、彼の深い緑色の瞳がよく映えていた。
どちらからともなく立ち止まって、思わず微笑んだ私の頬を、彼はその長い指先でひと撫でしてから、前髪をそっとよける。
そして、ゆっくりと私の額に唇を落としてくれた。
・・・一瞬忘れていたけれど、ここは王都の真ん中だ。
それから数日後、王宮では蒼鬼についての新しい噂が尾ひれをつけて、人から人へと渡り歩くようになる。
婚約者に逃げられそうになった蒼鬼が、蒼の騎士団を総動員して婚約者を確保したらしい。
参加した蒼の騎士達は、のちに金銭以外の報酬を、婚約者から受け取ったらしい。
婚約者は、本当は蒼鬼の元を去りたいらしい。
実は、婚約していたと蒼鬼が勘違いしているらしい。
・・・噂というものは、本当にどこまでも信憑性が疑わしいものだ。
最後の方は、もうよく分からない悪意の塊と化しているのだから、本当に・・・。
ちなみに、2番目の「蒼の騎士は報酬を・・・」というのは翌日、私が蒼の本部へ、焼き菓子の差し入れを持って行ったから、ではないかと思っている。
そして、蒼鬼と子守殿の痴話喧嘩に巻き込まれると寿命が縮む、という噂も聞いた。
実はこれは、散々な目に遭った、ノルガの仕業なのではないかと思っている。
彼が選んでくれた衣装はもうすぐ、私達の家にやって来る。
雪が完全に融けて、暖かい春の風が吹き抜ける頃になれば、お日様の下でそれを着るのだ。
今は不安も寂しさもあるけれど、あれを着たら、何もかもが真っ白になって、私は白くなったそこに新しく何かを描くのだろう。
きっと私1人では描ききれないから、彼と一緒に。




